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秋川雅史 エピソード&プロフィール

秋川 雅史(あきかわ まさふみ、1967年10月11日 - )は、日本の声楽家、テノール歌手。愛媛県西条市出身。血液型はA型。2006年4月頃から母校である国立音楽大学客員准教授を務めている。


【来歴・人物】
4歳よりヴァイオリン、ピアノを始める。西条市立西条南中学校3年生の時に父の指導のもと声楽家へ転向。愛媛県立小松高等学校を経て、国立音楽大学卒業、同大学大学院修了。その後4年間、イタリアのパルマにて修行。帰国後、ベートーヴェン作曲の交響曲第9番(合唱付き)のソロなど、数々のコンサートに出演。1998年にカンツォーネコンクール第1位、日本クラシック音楽コンクール声楽部門最高位をそれぞれ受賞した。

2001年に、日本コロムビアより最年少テノール歌手としてCDデビュー。

2006年12月31日の第57回NHK紅白歌合戦に「千の風になって」にて出場。

紅白歌合戦出場後、「千の風になって」が2007年1月15日付のオリコンシングルチャート第4位にランクイン。テノール歌手として史上初のトップ5ランクインを果たし、1月22日付のオリコンチャートにて1位となる(2006年6月12日付オリコンシングルチャート初登場168位だったので、100位以下の初登場から1位になったのはオリコン史上初)。

代表作「千の風になって」は、著名な詩「Do not stand at my grave and weep」(作者不明であるが、メアリー・エリザベス・フライの作とする説が有力)を、新井満が日本語に訳し同氏自らが作曲・歌唱したものがオリジナルで、秋川の歌唱はカバー曲にあたる。

コンサートは、ピアノ伴奏のみによる形式と、前半をピアノ伴奏、後半をバンド(ピアノ・バイオリン・ギター・ベース)をバックに行う形式をとる。

実家の西条祭りには毎年スケジュールをやりくりして帰省するほどの祭り好きである。


【エピソード】
■高校ではその声を見込まれて応援団にも臨時に所属していた。高校野球地方予選の応援では、相手チームの観客席までひときわ声が響いた。

■ちなみに兄も大学時代に応援団の吹奏部に所属していた。

■西条祭りにはイタリア留学時も含めて全て帰省して担き夫として参加している。また平成18年11月のだんじり32台が伊勢神宮に遷宮記念奉祝奉納を行った際にも、所属だんじりが遠征したため参加している。「この祭りで歌に悪いこと(酒や大声など)を全てやり尽くすことで、それ以外の日は歌に専念することができる」と述べている。

■声の為に毎日フィジカルトレーニングを行っている。25mプールを息継ぎなしで泳ぎ、それを計600m。その後2kmのランニング、腹筋、背筋、懸垂をし、その後に発声練習をすることが日課となっている。

■イタリア留学中に舌根扁桃(舌の付け根の扁桃腺)の病気で声に雑音が入るようになってしまい、絶望の時期を経験。日本へ帰国し手術を受け、従来の声を取り戻した。手術は合計3回受けている。

■甘いマスクが女性の人気を呼び「秋様」「テノールの貴公子」と呼ばれることもある。歌いやすさを確保すべく、白いシャツを第2または第3ボタンまで開く姿を自らのスタイルとしている。

■大学時代は6年間引越屋でアルバイトをするなど、肉体や体力を使うことが好きであるとテレビ番組にて述べている。

■ラテン系の性格のためイタリア留学時もすぐに馴染んだ。また明るいことを好み、部屋の灯りも一番明るい蛍光灯を使っている。その一方、馴染めなかったこともあったようで、そういった時にアイルトン・セナを心の支えにしていた。皮肉なことに1994年のサンマリノGPを見に行ったときに目の前でセナの事故死を目撃してしまう。

■仕事場には、今でも電車で行くという。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070829-00000017-oric-ent

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坂田亘 エピソード&プロフィール

坂田 亘(さかた わたる、1973年3月11日 - )は、日本の男子プロレスラー、総合格闘家。愛知県中島郡祖父江町(現在の稲沢市)出身。妻はタレントの小池栄子。


【経歴】
高校時代に極真空手を経験、卒業後にアニマル浜口道場に入門。

1993年にリングスに入団。1994年11月19日に鶴巻伸洋相手にデビュー戦を行った。デビューからしばらくは同期の高阪剛の陰に隠れて目立たない存在であり、1995年の鹿児島大会のバックステージで「不甲斐ない試合をした」と前田日明から制裁を受けたエピソードがある。

1996年にUWFインターナショナルより移籍してきた田村潔司に師事してからは見違えたように技術の向上を見せ、以前は苦杯を舐めたウイリー・ピータースを問題にせず一蹴するなど成長の跡を見せた。リングスとパンクラスのトラブル時には「俺が前田さんを守る」と発言。1999年にはバーリトゥードにチャレンジ(ジアン・アルバレスに敗退)。

リングスには2001年6月10日まで所属。同団体に在籍中はネットワーク所属選手以外にヘンゾ・グレイシー、ブランドン・リー・ヒンクル、デイブ・メネーらと対戦経験がある。

同年7月に坂田道場設立とともにEVOLUTIONを結成。総合格闘技へ本格的に進出を開始し、DEEP、LEGEND、U-STYLE、PRIDEへ登場した。DEEP初参戦時にはパンクラス所属の窪田幸生をTKOで下し、リングス-パンクラス間のトラブルを招いた鈴木みのるを挑発。この時期にはマリオ・スペーヒー、ダニエル・グレイシーなどとの対戦経験がある。

プロレスラーとしての活動は、ZERO-ONE、ZERO1-MAXを経てハッスルを活動の中心としている。ハッスルでは当初「ハッスル王子(プリンス)」のニックネームでハッスル軍に属していたが、ハッスル・ハウス4を直前に控えた2005年1月末にハッスル軍を離脱しヒールターンを果たす。それと同時に高田モンスター軍への入団を企てるが、ハッスル7(2005年2月11日 愛知県体育館)での入団査定試合に敗れ失敗。

その後ハッスル・ハウス6(2005年3月19日 グランシップ静岡)でハッスル軍、モンスター軍のどちらにも属さずにやっていくと宣言、結果独自行動の坂田軍として活動することとなった。

まずハッスル9(2005年5月10日 新潟市体育館)で村浜武洋と兄弟の杯を交わし、続いてモンスター軍を追放されていたマーク・コールマンと合流。ハッスル・ハウス クリスマスSP(2005年12月24日 後楽園ホール)からは、同じくハッスル軍を離脱した崔領二も傘下に加え、一勢力としての地位を築きつつある。

またハッスル・ハウス11では鈴木浩子GM(当時)に叱責された青木裕子を救出、坂田軍のマネージャーに登用。ハッスル15(2006年3月12日 愛知県体育館)ではシングルマッチの激闘の末に互いを認め合った天龍源一郎に対し、坂田軍の叔父貴(おじき)となる事を要請。天龍も「そんな話は大きなオッパイのおねえちゃんのいる酒の席で話せ」とまんざらでもない様子であった。しかし、ハッスルハウスvol.17で開かれたハッスル・キングメモリアル6人タッグトーナメントでの敗戦後、急速にその関係は悪化、ハッスルハウスvol.19で天龍がモンスター軍に付いた事で完全に絶縁することになった。 その後ハッスルハウスvol.20において行われたGM総選挙において、RGを破り当選し、新しいGMとなった。ちなみにこの後RGも坂田軍に加入している。

ハッスルマニア2006を機に坂田軍は「世界一性格の悪い男」で有名な鈴木みのるとNOSAWA論外、MAZADAの東京愚連隊という鈴木軍との新たな因縁関係が勃発した。 2007年には小川や大谷などの主力を欠いた新生ハッスル軍に助太刀する形で再び加入、現在はHGと共に新生ハッスル軍の中心人物として活躍している。

2007年8月29日にタレントの小池栄子と入籍した。小池栄子との出会いのきっかけは今は亡き橋本真也の紹介だといわれている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070830-00000002-ykf-ent

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郷ひろみ エピソード&プロフィール

郷 ひろみ(ごう ひろみ、1955年10月18日 - )は福岡県糟屋郡須恵町生まれの歌手・俳優で、新御三家の一人として、1970年代に日本を代表する程の絶大な人気を誇った男性アイドルである。本名:原武 裕美(はらたけ ひろみ)。所属事務所はバーニングプロダクション、所属レコード会社はソニー・ミュージックエンタテインメント(旧・CBSソニー)。公表身長は178cm。血液型はA型。日本大学法学部二部中退。


【略歴】
■1972年1月にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で俳優として芸能界デビュー後、同年8月1日に『男の子女の子』で歌手デビューを果たす。ジャニーズ事務所に所属し、当時人気絶頂だったフォーリーブスの後継者としての活躍が期待された。芸名の「郷」は、「5人目のフォーリーブス」という意味もかけていると言われる。女の子に間違えられる位に甘美で可愛らしいルックスと、鼻にかかった独特の歌声が、若い女性に絶大なる人気を博し、一躍トップアイドルになる。野口五郎、西城秀樹とともに新御三家と呼ばれ、音楽番組以外に日本テレビ系『カックラキン大放送』などのバラエティ番組でも共演した。またテレビドラマにも多数出演し、まさに男性アイドルの典型でかつ象徴的な存在として、1973年、1977年の「ブロマイド」の年間売上実績でNo.1に輝いた。

■『小さな体験』、『愛への出発』、『裸のビーナス』(1973年)、『花とみつばち』、『よろしく哀愁』(1974年)、『誘われてフラメンコ』(1975年)、『マイレディー』(1979年)、『How many いい顔』(1980年)、『お嫁サンバ』(1981年)などがアイドル時代の代表的なヒット曲。また、TBS系ドラマの挿入歌で、共演の樹木希林とのデュエット曲『お化けのロック』(ムー・1977年)、『林檎殺人事件』(ムー一族・1978年)が大ヒットした。

■1976年、ジャニーズ事務所からバーニングに移籍。ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川はこの騒動で体調を崩すほどショックを受けたと言われている。この間の経緯については郷の著書『たったひとり』(1980年)に記述がある。

■1978年には、ベストドレッサー賞の特別賞を受賞している。

■1980年代には、『素敵にシンデレラ・コンプレックス』(1983年)、『2億4千万の瞳』(1984年)などのヒットもさることながら、西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』の大ヒットに刺激されて『哀愁のカサブランカ』、『哀しみの黒い瞳』(1982年)、『ケアレス・ウィスパー』(1984年)などの洋楽でバラード曲のカヴァーを次々と発売し、アイドル歌手から大人の魅力を持った本格派歌手への脱皮を図る。またこの頃ボイストレーニングに渡米し、ブレス使いを学んで力まずに声を出す手法を会得し、スローバラードも聴かせられるほど歌唱力がアップした。この事は1990年代のバラード3部作のヒットにも大きな影響力をもたらしたと言えるだろう。

■1982年に音楽番組「ザ・ベストテン」への出演を拒否して話題となった。「僕にとっては僕の歌は全部1番、他人に僕の歌のランク付けされるのは嫌だ!」という理由からと説明されたが、絶大な人気を誇っていたテレビ番組への出演拒否は人気の面に悪影響も及ぼしたとされる。

■1984年、初代ベストジーニスト賞に輝く。

■1985年、交際を公にしていた歌手・松田聖子と破局。1987年、女優の二谷友里恵と結婚(二谷は引退)。以来、生活の拠点を主にニューヨークに置く。

■1986年、主演した映画「鑓の権三」(篠田正浩監督)がベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞する。

■1990年代に入るとTBS系ドラマ『お見合いの達人』の主題歌『言えないよ』などのバラードがヒット。

■1998年、二谷と離婚。告白本『ダディ』を出版し、ミリオンセラーとなり出版元の幻冬舎の躍進に大きく貢献したとされる。

■1999年、リッキー・マーティンの世界的ヒット曲『Livin' La Vida Loca』の日本語版『GOLDFINGER '99』のプロモーションとして渋谷でゲリラライブを行い、警察の許可を取っていなかったため交通渋滞を引き起こし渋滞に巻き込まれた都バスが数本運休する騒動になり、レコード会社社員が書類送検される事件に発展し話題となった。デビューの年にレコード大賞の新人賞、さらに1976年『あなたがいたから僕がいた』で同賞の大衆賞を受賞して以来、賞には余り縁がなかったが、この年同賞の最優秀歌唱賞を受賞している。

■2000年、再婚。2001年の紅白歌合戦を最後に活動を休止し、新妻と共に再びアメリカに移住。日本では「高須クリニック」のCMでのみ姿が見られる状態に。院長の高須克弥とは30年来の付き合い。

■2005年3月、久々の活動再開を宣言。しかし同年4月、二度目の離婚。

■2006年5月、埼玉スタジアムで行われたキリンカップ2006「日本VSスコットランド」戦において国歌独唱。全身ブルーのスーツで登場し歌い終わった後には、JFAのフラッグを縫い付けたお得意のジャケットプレイでパフォーマンス。スタジアムをどよめきで沸かせた。

■2006年9月、デビュー35周年記念ライブとして、東京・日比谷野外音楽堂など全国6カ所で8公演を開催。

■2007年5月、『Come On Baby』を国土交通省の「ビジット・ジャパン」のキャンペーンソングとして楽曲提供したことにより表彰された。

■2007年5月30日、藤原紀香と陣内智則の結婚披露宴でスペシャルゲストとして「お嫁サンバ」を披露した。同披露宴は日本テレビで中継され、熱唱場面は高視聴率をたたき出した。

■15年以上前から「ボランティア」「チャリティ」活動に従事する。これまでにフィリピンに学校を4つ設立した。そして日本テレビ「トシガイ」という自分の年齢の数だけ(51歳×1万円)好きなものに使えるという番組で、初めてフィリピンを訪問し子供たちから熱烈な歓迎を受ける。51万円で子供たちに文房具、Tシャツなどをプレゼントした。これからもライフワークにしていきたいと熱く語った。


【エピソード】
■高校を5年かけて卒業した後、日大法学部夜間部に入学したが、授業料を払わなかったので、除籍になった。

■フォーリーブスの一員だった江木俊夫は、自著の中で「ジャニーズ事務所に最大の利益を与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想のアイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう」と述べている。

■デビュー当時、週刊誌に自分はマザコンで童貞であることを明らさまに告白して話題となった。

■20代の頃、山口百恵に密かな恋心を抱いていたが、無視され続けたという苦い経験を持っている。

■アイドル水泳大会では競泳など多くの競技に出場し「ミスター水泳大会」と呼ばれた。しかし、若い女学生ファンの間では、スポーツ部の西城秀樹、文化部の野口五郎に対して、帰宅部の郷ひろみと評されることがあった。

■『2億4千万の瞳』は当時の国鉄のキャンペーンに使われたが、これは郷の父親が国鉄職員であった縁によるとされる。その後、郷の父親は昇進試験を受け、東京駅の助役を勤めあげた。

■KINCHOの「キンチョール」のCMで横山やすし・柄本明らと共演。中でも「ムシムシコロコロ キンチョール」「ハエハエカカカ キンチョール」のセリフは流行語になった。

■2005年フジテレビFNS歌謡祭に出演、アメリカでの休養後、久々のテレビ出演。ヒットメドレー数曲歌った。彼独特のパワフルなステージパフォーマンス「高速でジャケットを脱いだり着たり」「櫛で髪をとく」「首を左右に動かす」なども健在で、メドレー中盤『2億4千万の瞳』『Livin' La Vida Loca』を歌い出だしたころには会場に居るジャニーズの後輩たちが立ち上がって彼に声援を送る程、会場が一体となって盛り上がった。

■2007年5月21日放送の『SMAP×SMAP』のエンディングでSMAPと競演、5月23日放送の『めざましテレビ』で生ライブを行い、5月25日放送の『僕らの音楽-OUR MUSIC-』では話題のDJ OZMAと対談するなど、フジテレビの各番組で新曲の『Boom Boom Boom』の発売をアピールした。

■NHKの「英語でしゃべらナイト」に出演し、流暢なニューヨーク仕込みの英語を披露した。司会のパックンには「大学生レベルの英語」と絶賛される。 日本語の質問にも英語で答え「考える、行動する、継続する」という人生の哲学を語った。NHKの要望もあり同番組内で『Come On Baby』の英語バージョンを披露した。


《夜のヒットスタジオ》
郷ひろみの芸能活動の足跡を語る上で外せない音楽番組にフジテレビ系の『夜のヒットスタジオ』がある(フジテレビはこれ以外にも様々な番組で郷ひろみをメインに取り上げ、支援し続けている)。

■番組への初出演は1972年の末、デビュー作の『男の子女の子』ではなく、2作目の『小さな体験』での出演であった。ジャニーズ事務所の「アイドルを夜の番組にはあまり出演させたくない」という方針から、同じ新御三家でライバルの西城秀樹・野口五郎と比べて出演機会が少なかったが、1976年のバーニングプロ移籍を機に、原則として月1回のペースで出演するようになった。1982年にランキング番組への出演辞退を表明した後も、夜ヒットに限っては、大抵は本編・オープニングメドレーでトリをつとめたり、派手な演出を用意されるなどの厚遇を受け、1970年代後半〜1980年代にかけて、出演回数の多さ、番組への寄与度の大きさなどから布施明・五木ひろし・沢田研二・田原俊彦・西城秀樹と肩を並べ、その中でも「ミスター夜ヒット」として最も重要視される存在であった。そのため、番組内では数多くのエピソードを残している。

■ジャニーズ所属時代、オープニングメドレーの際に、次にバトンを渡す橋幸夫を「舟木一夫さん」と間違って紹介してしまい、放送終了後、橋サイトから相当にクレームが付いた。

■雨に打たれながらの歌唱や、副調整室からスタジオに繋がる階段の上から飛び降りるなどの過激かつ派手な演出が多かったことから、当時の週刊誌に、「郷ひろみは夜ヒットに虐げられている」との記事が書かれたこともある。

■1981年2月16日、司会の井上順が休みのため、代打司会者として芳村真理の相手役を務める。この際、郷は歌を披露せず、司会役に徹した。

■「哀愁のカサブランカ」を披露する際には必ず後姿の女性の肩を抱きながら歌を披露する演出が行われていた。特に1982年8月2日放送では郷の大ファンであることを公言して憚らない古手川祐子とテレビドラマさながらのワンシーンを演じた。

■1981年から1984年にかけて、当時交際中であった松田聖子とセットで出演することも多く、お互いに歌の際には、あえて、歌っている姿を後ろで見ている時のそれぞれの表情がアップで映し出されるという演出が取られたり、1コーナーを使って二人の曲をつなげて披露させる(1982年の「野ばらのエチュード」(聖子)→「哀愁のカサブランカ」(郷)など)といった演出が行われることもしばしばあった。特に1984年10月8日の特別版の際に聖子が小坂明子の名作「あなた」を披露していた最中で感極まり号泣した際には、二人の交際の進展具合と併せて様々な憶測を呼んだ(結果として、1985年初頭に二人は破局を迎えてしまう)。

■松田聖子が神田正輝と結婚して間もなくの頃、海外から衛星中継で出演。その際、司会の芳村真理から「結婚式での聖子ちゃん、綺麗だったわよ」と呼びかけられると、郷は「そうですか…」と一言だけ残して、そのまま中継先から「哀愁のカサブランカ」を披露した。このシーンは現在も郷、聖子それぞれのファンの間でも「伝説のシーン」として語り草となっている。

■女優・二谷友里恵との結婚を控えた1987年5月には自身2度目となるマンスリーゲストとして出演。基本的には出演期間は1ヶ月間のみとの原則を打ち破り、郷は結婚式2日前の1987年6月10日放送まで6回連続で出演。特にマンスリー最終日の6月10日放送では二谷が特別出演し、結婚記念の特別企画として彼女に捧げる歌として製作された『REE』を披露している。

■1988年2月3日、番組放送999回を記念してロンドンから全編衛星生中継を行った際、その翌週に番組を勇退する「恩人」芳村真理へ感謝の意を込めて、(当時たまたまロンドンに滞在中であったこともあり)夫婦そろって特別出演、『千年の孤独』を披露した。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070830-00000007-oric-ent

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矢部太郎(カラテカ)エピソード&プロフィール

矢部 太郎(やべ たろう、1977年6月30日 - )とは東京都東村山市出身の吉本興業所属のお笑いタレント、俳優。相方である入江慎也とともにカラテカを結成した。血液型はAB型。タロウちゃんとも言われている。先輩に同じ苗字であるナインティナインの矢部浩之がいるため、「カラテカ矢部」と紹介されている。最終学歴は東京学芸大学教育学部国際理解教育課程欧米研究専攻中退。父は絵本作家のやべみつのり。


【来歴・エピソード】
■身長・体重 158cm・39kg。

■立ち位置は右で担当はボケ。

■趣味は読書と音楽鑑賞。

■『決定!これが日本のベスト100全国一斉○○テスト』では伊集院光らを抑え雑学王に輝いた。

■英語、フランス語、スワヒリ語、韓国語をはじめ、11ヶ国語もの外国語が話せる。その語学力は、自身初の全国区番組レギュラーとなった進ぬ!電波少年の企画「●●人(●●には国籍や人種が入る)を笑わ
しに行こう」などから垣間見える。

■緊張すると手で睾丸を押さえる癖がある。

■TM NETWORKの『CASTLE IN THE CLOUDS (YABE VERSION)』は、バラエティ番組内での彼の応援歌として作られた。

■『クイズ!ヘキサゴンII』の予選ペーパーテストでの街角予想順位は9位であったが、41点を取り江守徹らを抑え1位になった(ちなみにここでも睾丸を抑えていた。2006年9月6日放送分)。その後も、出演した全ての回で3位以内という好成績を残している。

■2005年より気象予報士の資格を得るために試験を三度受け、2007年3月に気象予報士の資格を取得した。

■2007年3月13日放送のTBS『はなまるマーケット』にて、気象予報士として第1歩を踏みだした。

■ちなみに2003年9月15日放送の『内村プロデュース』の未来年表には2004年に気象予報士の資格を取ると記している。

■また、2007年3月30日放送のフジテレビ『アパッチナイトフジ』にて2度目の天気予報を行った。

■気象予報士になりたいというきっかけは、福井敏雄の後を継ぎたいからである。

■相方の入江がナンパの達人であるのに対し、矢部は異性と接するのが大の苦手。『やりすぎコージー』にてAV女優に誘惑された際には、失神するほどの狼狽振りを見せた。なお、童貞であることを公言している。

■ナインティナインの矢部浩之からは「太郎くん」と呼ばれている。

(出典:Wikipedia)

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上戸彩 エピソード&プロフィール

上戸 彩(うえと あや、1985年9月14日 - )は、東京都練馬区出身の歌手、女優、アイドル、タレント。オスカープロモーション所属。本名同じ。血液型O型。堀越高等学校中退。


【人物】
■3人兄妹の末っ子で、2歳年上と16歳年上の兄がいる。幼稚園の頃に長兄の子供が誕生しており、幼くして叔母となった。父親は北海道出身、母親は沖縄県石垣市出身。両親は上戸デビュー後に離婚し、現在は母と2つ上の兄と暮らしている。ただし多忙ななかでも父とも定期的に会うことを欠かさないという。

■上戸の母方の祖母は琉球民謡の歌手であり、上戸の母親も跡を継ぎたかったが断念した。そんななか、友人がエキストラをやったと嬉しがっていたのを聞いた上戸は「私もテレビに出てみたい」と上戸の母親に話す。それを聞き、ポストのチラシに入っていた「全日本国民的美少女コンテスト」に上戸に内緒で応募した。自分が断念した夢を上戸に託したのである。上戸の母は、今でもドラマのセリフ覚えの手助けをしたり、スケジュール管理を行うなど、陰のマネージャー的存在である。

■愛称はマシュー南からは「ウエッティ」と呼ばれている。また、デビュー前は「あやや」と呼ばれていた(本人談)が、これは松浦亜弥の愛称である。一部の女性ファンからは「あやと」と呼ばれているが、それほど世間に浸透してる愛称は無い。

■タレントのベッキーとは大の仲良しで、お互い認める親友である。また、俳優の石垣佑磨とも、映画「あずみ」の共演を期に親交がある。歌手の諫山実生とも仲が良く、自身の2ndシングルのリリースの際、音楽雑誌で友人の曲として諌山のデビューシングル「恋花火」をお気に入りの1曲に挙げていたことがある。ただし2006年1月の「空飛ぶグータン」で公私共々友人が少ないことを悩みとしてあげていた。

■好きなアーティストに、ケツメイシや宇多田ヒカルやTHE BLUE HEARTSなどを挙げている。

■好きな食べ物は納豆。何にでもかけて食べるという。料理はお世辞にも上手いとは言えなかったが、2005年、スケジュールに余裕があったのを活かして、料理上手な母から本格的に習い始め、メキメキ上達している。3年B組金八先生で共演した高畑淳子にも教えてもらっている。

■食べることが好きで、担当するラジオ番組では「○○と○○を食べて」と話すことが多く、大食いであると自覚している様子。

■毎日の睡眠時間は3時間も取れればいいほうだという。

■ストレス解消法は「泣くこと」。真夜中、誰もいない近所の公園でひとりで大声で泣いていると言われている。

■役に感情移入しやすく、普段も演じているドラマの役柄そのものになってしまう。「3年B組金八先生」の時は、鶴本直になりきってしまい、女子トイレに入れなくなってしまったほど。あまりの熱演振りに金八先生役の武田鉄矢が「金八先生シリーズで唯一本気で惚れてしまった生徒」としてあげている(2007年3月『メントレG』での発言。「実際に卒業式のロケの中で『あなたが好きでした』と言ったが本放送ではカットされてた」そうだ)。また、「アテンションプリーズ」で男勝りな美咲洋子を演じたときは、「何だよ、女臭え部屋だな!」などと口にし、共演者やスタッフを驚かせたという。唯一、母親は「またか」と慣れっこになっているという。


【略歴】
■1997年8月に第7回全日本国民的美少女コンテストの審査員特別賞を受賞。

■1999年7月に4人組アイドルユニットZ-1の一員としてデビュー。

■2000年にはテレビドラマ『涙をふいて』で女優としての活動を開始し、以降数々のドラマや映画に登場。2001年に出演した『3年B組金八先生』(TBS)第6シリーズで性同一性障害という問題を抱えた、影のある中学生「鶴本直」を演じ、一躍有名になった。

■2002年2月、第40回ゴールデン・アロー賞の最優秀新人賞を受賞。8月、Z-1としての活動を休止し、ソロデビューシングル『Pureness』を皮切りに歌手としての活動を行っている。

■2004年3月、第41回ゴールデン・アロー賞の映画新人賞を受賞。同年10月に第71回NHK全国学校音楽コンクール全国コンクール 小学校の部にて司会を務めた。同年末第55回NHK紅白歌合戦にトップバッターで初出場を果たした。

■2005年に国勢調査2005のCMキャラクターをダニエル・カール及び北村総一朗とともに務めた。同年にFIFA Club World Championship TOYOTA Cup JAPAN 2005では、日本テレビの番組マスコットガールを務めた。この大会で上戸は南米代表の「サンパウロ」のキーパー「ロジェリオ・セーニ」を応援していた。

■2005年にはベストヘアー賞、ベスト・スマイル・オブ・ザ・イヤー賞(武豊騎手と共に)、ネイルクイーン(親友のベッキーと共に)を受賞。

■2006年に『名探偵コナン』10周年企画として、スペシャル・サポーターに就任。10週にわたって番組内でクイズやコナンとCMに共演したり、情報番組でPRするなどコナンを全面的に支援していく。同年に小学館の12歳の文学賞の特別審査員に。理由は、上戸が小学生に絶大な人気があるからである。また、5月8日放送では「女優・上戸彩」としてアニメに登場。同年2月に日本テレビのトリノ冬季五輪番組でキャスターに初挑戦した。同年6月、法務省の第56回社会を明るくする運動のイメージキャラクターに起用。


【エピソード・特徴】
■バラエティ番組『さんまのまんま』にゲストで出演した時に明石家さんまから「胸薄いやん? ブラジャーしてるん?」と言われ、「彩だって、ブラジャーしてますぅ!」と半ば怒り気味に説得している。本人は、「身体のラインが強調されるようなファッションは嫌い」と言う。そのためか、着痩せするタイプのようだ。かつてはビキニなどのグラビアにも登場し、女優デビュー作の『涙をふいて』では中学3年生ながら上半身裸のセミヌードまで披露していたが、ブレイクしてからは一転して露出を封印。20歳の誕生日に発売された写真集は水着写真集と報じられたが、ふたを開けてみれば水着はほぼ皆無で、従来路線の継続が確認された。

■ソロデビュー当初はボーイッシュなショートヘアがトレードマーク(それ以前はロングヘアで、一度もショートヘアにしたことは無かった)だったが、2005年放映の『義経』(うつぼ役)、『アタックNo.1』(鮎原こずえ役 主演)出演にあたりロングヘアに変えた。またこの年にベストヘアー賞を受賞しているが、「本当はショートカットの方が好きです。できるなら、刈り上げにしたい」と仰天発言をした。2006年にはショートヘアに再び戻し、シングルCD「笑顔のままで」のプロモーションビデオには散髪シーンが収められている。またこれと同時に「アテンションプリーズ」(美咲洋子役)の役作りとして茶髪にしている。「下北サンデーズ」ではまた黒髪のおかっぱ頭になったが、おかっぱは上戸自身のアイデアという(週刊プレイボーイより)

■2000年、まだZ-1としての活動をしているときに、厚生労働省の「LQ(エルキュー、ロング休暇=長期休暇の意味)キャンペーン」ポスターが全国に貼られた。当時15歳でまだ全国的な認知度も低く、ポスターには「上戸彩(Z-1)」とキャプションがつけられていた。ちなみに厚生労働省のHPではポスターではないが、ポスターと同じ写真を表紙に使った報告書を閲覧することができる[1](PDFファイルにつき注意)。他にも国土交通省・消防庁等、官公庁のイメージキャラクターになることが多い。

■2005年3月26日にプロ野球パシフィック・リーグ開幕戦福岡ソフトバンクホークス対北海道日本ハムファイターズで始球式を務めた。Yahoo! BBのCMに出演している縁からであるが、始球式で対決したのはオロナミンCのCMで共演した新庄剛志外野手だった。一方でロッテのCMに出演(2005年末から2006年初頭までは担当しているラジオ番組の提供を受けた)している縁から、2005年シーズンを制した千葉ロッテマリーンズの「ファンフェスト」にゲスト出演し、ロッテリアの優勝記念キャンペーンのイメージガールを務めた。しかし、上戸自身は阪神タイガースのファンで、2004年のゴールデンスピリット賞受賞式で赤星憲広選手のヒッティングマーチを独唱するほど。さんまのまんまでは趣味は野球観戦と言っている。

■CM NOWの読者が選ぶ女性タレント部門で2004年〜2006年、3年連続第1位に選ばれた。

■2006年、「バレンタインチョコレートを貰いたい女性有名人」調査で1位になる。このアンケートはロッテがインターネットを通じて行ったもので、それによると彼女の支持世代層は10代から50代と幅広く、特に30代〜50代の世代にとっては、彼女が未だに「彩」と自分の事を三人称で呼ぶことから子供っぽいイメージが重なり、妹や娘にしたい女性有名人としても知名度は高いという。

■小学館の12歳の文学賞の特別審査員を努めた時上戸は「ノンフィクションものを書いてみたい。暴露モノとか。事務所は許してくれないでしょうけど」と発言。

■雑誌・SPAの女性による「許せるロリータ系有名人」の項目で堂々の1位に選ばれる。

■愛読書は意外にも週刊プレイボーイ。インタビューで「お兄ちゃんが買っているから、彩も自然と毎週読むようになった」との事。なお、週刊プレイボーイで「水着グラビアは、腹筋の跡が見えるようになったら公開します」と公言した。

■寝る間を惜しんで働いていた18歳の頃に「事務所の社長から(20歳までは)彼氏を作るなと言われている」と公言(これは上戸に限らずオスカープロモーションの規則でもある)。その反動か反発か先輩の米倉涼子や石川亜沙美らに「20歳になったら私は好き勝手に生きますよ」と発言した。それが何を意味するか不明だったが、それまで多忙だったが19歳の2005年はスケジュールに余裕があり、露出も控えめとなった。肝心の20歳を迎えた2006年、年頭に「今年は寝る間もないほど忙しいよ」とマネージャーに脅されたといわれる。連続ドラマが2クールも続き、音楽活動もアルバム2枚リリース、イベントも多数こなすなど、20歳の1年は忙しい年となった。このように稀にこう言った発言をするが、事務所の社長にはとても可愛がられており、いろいろなプレゼントをもらっている。

■初主演ドラマ「ひと夏のパパへ」(TBS)の平均視聴率が5.6%、最低時が3.6%という散々なものだったため、全11話の予定が10話に削減され、余りの数字に各メディアで大きな波紋を呼んだ。また「下北サンデーズ」(テレビ朝日)も低視聴率で1話削減で終了。上戸出演の連ドラは事務所の持ち込み企画が多くなっている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070826-00000000-oric-ent

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中島美嘉 エピソード&プロフィール

中島 美嘉(なかしま みか、本名同じ、1983年2月19日 - )は、日本の女性歌手、女優。鹿児島県日置郡伊集院町(現:日置市)出身。身長160cm・体重40kg、血液型はA型。


所属事務所はケイダッシュ、所属レコード会社はソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ。2000年代の日本を代表する歌姫の一人として知名度は高い。女優としても活躍し、数々の賞を受賞している。

ファルセットを多用する歌唱スタイルでロック、ジャズ、レゲエなど様々な曲調を取り入れた独特の世界観を築き、2003年以降は大半の楽曲で作詞も手がけている。バラードの評価が特に高く『STARS』『WILL』『雪の華』『桜色舞うころ』などの多数のヒット曲をもち、日本のみならず東アジアでの人気も高い。


【来歴】
■1996年
 ・中学2年生の時に鹿児島市内に転校。転校先ではイジメを受けたという。

■1998年
 ・鹿児島市立天保山中学校卒業後、高校には進学せず約1年間地元のファーストフード店などを中心にアルバイトをした。

■1999年
 ・福岡県福岡市に出てアパートの一室で集団生活。福岡と鹿児島を行き来することが多かった。
 ・この間、多くのオーディションを受ける。当初は歌手ではなくモデルをしていたという。

■2001年
 ・レコード会社に送ったデモテープがきっかけとなり“ソニーオーディション”に合格。そのオーディションの結果、フジ系ドラマ「傷だらけのラブソング」のヒロインに抜擢され、主題歌『STARS』でCDデビューも果たし大ヒットを記録した。

■2002年
 ・フジ系ドラマ「天体観測」の主題歌として歌った『WILL』がヒット。これが1stアルバム『TRUE』の大ヒットに繋がり、オリコン初登場1位・ミリオンセラーを記録した。また、女優として、同時期に放送されていた日テレ系ドラマ「私立探偵 濱マイク」に準主演としてレギュラー出演したことも話題に。
 ・11月、初回限定生産ミニアルバム『RESISTANCE』を発売。オリコン2週連続1位。
 ・輝く!日本レコード大賞最優秀新人賞など、数々の音楽新人賞を総なめにし、「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たした。

■2003年
 ・9月公開の映画「偶然にも最悪な少年」に出演。
 ・11月、『雪の華』『FIND THE WAY』『愛してる』など数々のヒットシングルを含んだ2ndアルバム『LØVE』をリリース。オリコン初登場1位。発売から1ヶ月経たずにミリオンセラーを記録、累計150万枚以上を売り上げたこのアルバムは、日本だけではなく韓国でも大ヒットし、日本人で初めてミリオン級セールスを突破している。第45回 日本レコード大賞 にて、ベストアルバム賞・金賞・作詞賞を受賞した。

■2004年
 ・8月、「爽健美茶限定 中島美嘉ビューティフルライブ2004」と題した完全招待制プレミアム·ライヴで葉加瀬太郎とコラボレーション。伴ってリリースされた、コラボレート限定ミニアルバム『朧月夜〜祈り』は即日完売した。この二人は後にNHK紅白歌合戦でも共演した。

■2005年
 ・3月、シングル『桜色舞うころ』『SEVEN』などを含む3rdアルバム『MUSIC』をリリース。オリコンウィークリーアルバムチャートで2週連続1位を獲得し、大ヒットを記録した。
 ・矢沢あいの人気漫画を原作にした東宝系映画「NANA」に主演。映画は記録的大ヒットで、2005年邦画第1位になり社会現象も起こした。それと共に、自身が歌った主題歌『GLAMOROUS SKY』も大ヒット。自身初のオリコンシングルチャート1位を記録し、2週連続で首位をキープした。プラネットシングルチャートでは3週連続1位。また、この映画での演技が認められ、第29回日本アカデミー賞・優秀主演女優賞・新人俳優賞など数々の賞を受賞した。GLAMOROUS SKYはNANA starring MIKA NAKASHIMAの名義でリリースした。
 ・『GLAMOROUS SKY』で年間オリコンシングルチャートに女性で唯一のトップ10入りを果たす。『MUSIC』もトップ20入りした。第47回 日本レコード大賞 にて「特別賞」を受賞。
 ・12月、初のベストアルバム『BEST』をリリース。発売1ヶ月でミリオンセラーを達成した。綾戸智絵のプロデュースにより新録音した『AMAZING GRACE』が収録されている。

■2006年
 ・2月22日、17thシングル『CRY NO MORE』リリース。PV撮影などのためにアメリカ合衆国メンフィス市へ渡米し、そこでメンフィス名誉市民の称号を得る。この曲のプロモーションでは束ねたドレッドヘア(ブレイズ)や黒紫色の口紅など米国南部を意識した奇抜なファッションを取り入れていた。その後6月7日には、前年のハリケーンによって大きな被害を受けたニューオーリンズ(ルイジアナ州)へのチャリティー・シングル『ALL HANDS TOGETHER』をリリース。このシングルの売り上げの一部は、ニューオーリンズへ復興支援の為に寄付をする。
 ・8月、尾崎豊の名曲「I LOVE YOU」をカバー。尾崎のプロデューサーであった須藤晃の指名により実現した。ダイハツ・タントのCM曲に起用され音楽配信限定で発売されていたが、シングル「見えない星」にカップリングとして収録。次回アルバムにも収録される模様。
 ・12月9日、主演映画「NANA2」が公開。前作に引き続き、主題歌『一色』も手がける。またこのシングルもNANA starring MIKA NAKASHIMA名義。


【人物】
髪型を頻繁に変えることで有名。歌番組などで過去の映像が順々に流れるとはっきりと確認できる。またうたばんで以前中島がバイトしていた店の店長が当時の印象を聞かれ、「会うたびに髪の色が違った。」と答えている。

デビュー当時はどちらかというとギャルのような垢抜けないファッションであったが、次第に現在のような個性的なファッションへと変化していった。歌番組でデビュー当時の映像が出ると、中島は必ずと言っていいほど顔を伏せて見ないようにしている。またヴィヴィアン・ウエストウッドを好むという旨の発言をたびたび行っており、このブランドの何らかのアイテムを私品として身に着けている場面が公的な場でも確認されている。

チョウやクモの標本を集めるのが趣味である他、黒魔術に興味を示したり蛇を平然と首に巻いたりと一風変わった個性が注目を集めている。

デビューして間もない頃は、一部で苗字の「中島」を「なかじま」ではなく、「なかしま」と読む読み方を珍しがる声もあったが、中島自身の出身地である鹿児島も含め九州ではよくある苗字である(ちなみに、カンニングの故・中島忠幸(福岡県出身)も「なかしま」である)。

称号はアメリカ合衆国テネシー州メンフィス市名誉市民(日本人としては忌野清志郎に続き2人目の授与)。

仲の良い芸能人は持田香織、加藤あい。また、モーニング娘。の藤本美貴や、松浦亜弥はメル友だという。(番組における発言による)

ドラえもんの大ファンでもある。


【余話】
■彼女をこよなく敬愛するという若槻千夏は、NANAでの主演が決まる前から大崎ナナ役は彼女以外にありえないと確信していたとのことで、配役の決定が告知されたときには含み笑いを浮かべたという。

■年々痩せていっており、ファンの間では健康面を心配する声もある。(しかし、本人曰く体重は変わってないとのこと)

■「きらきらアフロ」(テレビ東京系列)の番組のファンで、2007年3月放送分で番組の収録を変装して一般客に混じって観覧席で観ていたことがある。そのとき、笑福亭鶴瓶はそのことを知っていたが、松嶋尚美は鶴瓶に言われるまで全く気がつかなかった。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070826-00000024-dal-ent

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白鵬 エピソード&プロフィール

白鵬 翔(はくほう しょう、1985年3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士。本名は Мөнхбатын Даваажаргал(Mönkhbatyn Davaajargal;ムンフバト・ダヴァジャルガル、Davaajargalは月曜日の幸福という意味)。得意技は右四つ、寄り、出し投げによる崩しも強烈。身長192cm、体重154kg。第69代横綱。星座は魚座、血液型はA型。


【来歴】
父ジグジドゥ・ムンフバトはブフ(モンゴル相撲)で、5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(モンゴル相撲の横綱に相当)。メキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダルリスト)となる。モンゴル国の国民的英雄。母タミルは元外科医。義父は実業家で元朝青龍全国後援会長の和田友良。来日前にブフは10〜12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。

大相撲で活躍していた同じモンゴル出身の旭鷲山をつてに、2000年10月25日に6人のモンゴル人と共に来日。大阪の摂津倉庫で相撲を習っていた。共に来日した猛虎浪(立浪部屋)、大想源(式秀部屋)、大河(式秀部屋)らの入門が決まるなか、小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋は最後までなかった。失意の帰国前日12月24日、彼を哀れんだ旭鷲山が師匠である大島(元大関・旭國)と会食中に相談し、大島親方は友人であった当時の宮城野(元幕内・竹葉山、現・熊ヶ谷)に受け入れを申し入れた。こうした経緯から現在の師匠は宮城野(元十両・金親)だが、もともと熊ヶ谷親方の内弟子であり、故に専ら熊ヶ谷親方の指導を受けている。

こうして角界入りとなるものの、部屋の元幕下訪竜に「若くてすらっとしている子」という条件で連れてこさせた少年を見た宮城野は、父親の実績を知る由もなく、その小柄な体から大きな期待はしていなかったという。しかし一方で、大きな手足と腰、柔らかい筋肉などから、もしかしたら化けるかもしれないと思い、入門してからの2カ月間は稽古をさせず、毎日吐く程に食べさせ、牛乳を飲ませた。

四股名は、横綱大鵬と柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(十両・千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり、後の横綱としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。しかし、入門当時は身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように、番付を駆け上がっていく。


『十両』
2003年11月場所では、東幕下9枚目で6勝1敗の好成績を上げ、関取の定員増もあり翌2004年1月場所に新十両に昇進し、翌場所、十両2場所目で追風海との優勝決定戦を制し優勝。十両はわずか2場所で通過。


『新入幕』
2004年5月場所で新入幕となる。19歳1カ月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立ち合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田(後の横綱・貴乃花)の18歳 7ヶ月に次ぐ19歳 2ヶ月の若さで初三賞、敢闘賞を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから歴代3位タイ。


『幕内』
入幕1年目にして横綱最有力候補と目され、2005年3月場所には関脇に昇進し、直近の2場所で12勝・11勝を上げていた事から大関獲りの場所と目された。達成すれば貴乃花を上回る史上最年少での昇進となったものの、睡眠時無呼吸症候群による稽古不足に悩まされ序盤からまさかの3連敗で、終盤追い上げて8勝7敗と勝ち越しはしたものの、大関昇進を逃がした。

同年7月場所では7日目まで6勝1敗と優勝争いをしていたが、中日の普天王戦で左足関節靭帯損傷及び内反捻挫の怪我を負い、初土俵以来初めて休場し翌9月場所では、平幕落ちした。翌11月場所は、2場所ぶりに小結に復帰し9勝6敗。


『大関獲り』
関脇に復帰した2006年1月場所では、12日目に朝青龍を小手投げで破る。千秋楽では大関昇進で先を越された琴欧州に寄り倒しで圧勝し、栃東との優勝決定戦を待ったが、栃東が朝青龍に勝ち優勝決定戦にはならなかった。この時初めて千秋楽まで優勝に絡んだ。

翌3月場所は、自身2度目の大関獲りの場所であった。11日目に全勝の横綱朝青龍との相星決戦で、左四つに組み合った後、左手で朝青龍の左ももを払いながらの上手出し投げで完勝し、大関昇進の基準といわれる33勝目をあげた。千秋楽では魁皇に敗れたが、優勝を争っていた朝青龍も栃東に敗れたため優勝決定戦で再び朝青龍と対戦。朝青龍に得意の右四つからの下手投げで敗れ優勝は逃したが、技能賞と殊勲賞を獲得するなど高く評価された。この一番はモンゴル国内において、瞬間視聴率は驚異の93パーセントを記録したとされる。

場所終了後の3月29日、日本相撲協会は大阪市内で番付編成会議を開き、白鵬の大関昇進を満場一致で決め、理事会で承認された。正使として友綱理事(元関脇・魁輝薫秀)、副使に春日山審判委員(元幕内・春日富士晃大)が、大阪府堺市の西本願寺堺別院に派遣された。師匠の宮城野(元十両・金親)夫妻とともに紋付き袴姿で出迎え、「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬように、全身全霊をかけて努力します。本日は誠にありがとうございます。」と昇進口上を述べた。


『大関』
2006年5月場所の新大関で14勝1敗、本割で唯一負けた雅山との同点優勝決定戦で勝ち、新大関の勝ち星記録更新という快挙も成し遂げて初優勝を果たした。優勝パレードの旗手は、兄弟子の光法が務めた。


『綱獲り』
2006年7月場所、初の綱獲り場所初日、朝赤龍、9日目に雅山に敗れたが、その後順調に勝ち星を積み重ね、千秋楽ではここまで全勝の朝青龍に気迫の寄り倒しで土をつけ13勝2敗で場所を終えた。

横綱昇進が有力視されたが、日本相撲協会の放駒審判部長(元大関魁傑)は、朝青龍の独走を許したという理由で、理事会の召集も横綱審議委員会への諮問も行わず、横綱推挙は見送られた。千秋楽後の朝青龍の優勝インタビューの際、NHKのアナウンサーが白鵬の横綱推挙が見送られたことを朝青龍に伝えると、会場は失望ともブーイングともつかぬ大きなため息に包まれた。番付上、東横綱・朝青龍と東大関・白鵬との対戦が組まれるのは千秋楽であるため、そこまで優勝争いがもつれなかったという意味で「独走を許した」という表現となった(14日目の時点では横綱が14勝0敗で優勝決定、白鵬が12勝2敗)。横綱昇進を見送られた白鵬は、モンゴルの温泉で疲れを取るため帰国した。

翌9月場所で再び綱獲りを目指したものの、初日に稀勢の里に敗れ、その際右膝を負傷。12日目でようやく勝ち越すが、その後千秋楽まで連敗。8勝7敗で横綱への挑戦は白紙に戻った。

翌11月場所は、場所直前の11月1日稽古場のある公園内の階段でトレーニング中つまずき、左足親指を怪我、翌日、左母趾基節骨遠位端骨折と診断され福岡市内の病院で手術(ボルトを入れ4針縫う)し入院。9日に抜糸し退院したが、同日宮城野親方が会見を開き、怪我の回復を優先させる事から休場を発表、初の全休となった。次の2007年1月場所は、自身初の角番であったが、12日目で8勝目を挙げ、角番を脱した。

3月場所は千秋楽の優勝決定戦で立合い変化で朝青龍を下し優勝。変化ということで内容が十分でないとの意見もあったが、翌5月場所は全勝優勝で満場一致の横綱推薦となり、横綱に昇進した。横綱土俵入りでは不知火型を選択(土俵入りの指導は元横綱・旭富士の安治川親方)。


『横綱』
7月場所は初の横綱としての土俵。16連勝でスタートしたが、10日目に琴光喜に敗れ25で連勝はストップ。また、13日目の琴欧洲と14日目の千代大海に敗れ、横綱として初の連敗を喫し、この時点で3敗に後退して3連覇の可能性が断たれた。そして千秋楽には実に4年10か月振りとなる両横綱の対戦(2002年9月場所武蔵丸−貴乃花以来)で朝青龍に敗れ、3連敗を喫して11勝4敗に終わった。


【略歴】
■2001年3月場所 - 初土俵(一番出世)
■2004年1月場所 - 新十両
■2004年5月場所 - 新入幕
■2005年1月場所 - 新小結
■2005年3月場所 - 新関脇
■2006年5月場所 - 新大関
■2007年7月場所 - 新横綱


【エピソード】
■あまりにもよく寝るため、部屋の兄弟子が「死んでいるのではないか」と心配したことがある。

■今でも一日16時間以上の睡眠は欠かさない。場所中以外は朝稽古の後、6時間も昼寝をする。夜も多い時には10時間寝る。

■幕下時代に朝帰りをし、宮城野親方(現熊ヶ谷親方)が激怒し破門寸前。土下座し謝り許しを得る。

■入幕前、幕内で3場所33勝以上なら大関になれると思っており、相撲記者に「三役で33勝」と教わる。

■2006年5月場所十二日目、帰りの車の中で「君が代」を教わり以後練習し、初優勝を果たした千秋楽では、君が代を歌った。

■初の綱獲り挑戦の2006年7月場所後、16時間眠り続けた。

■大相撲中継で藤井康生アナウンサーが誤って熊ヶ谷親方の事を「白鵬の師匠の宮城野親方」と言い間違えた事がある。これは熊ヶ谷親方が以前宮城野を名乗っていたための間違い。

■父のムンフバト氏によるとモンゴルの新聞では毎場所の様に、結婚の話題が出て既に20人近くと結婚した事になっている。

■小さい頃、兄とプレーリードッグを獲りに行った時に、兄が獲物を鉄砲で撃つ事に夢中で遠くに行ってしまい、羊の群れと一緒に草原に置き去りにされた。そこで羊を狙う狼とコンドルと遭遇したが奇跡的に助かった。

■初土俵からわずか3年、18場所で入幕を果たした時に、「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と約束した。その年の九州場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って熊ケ谷親方の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は熊ケ谷親方の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。

■週刊現代が現宮城野親方(元力士・金親和行)が朝青龍に2006年7月場所の八百長依頼をした疑惑を取り上げたが、そもそも記事内容自体白鵬が直接関与したようなものではない。この件は一連の報道の4件目の民事訴訟の告訴となった。また、協会は週刊現代の刑事告訴も行っている。

(出典:Wikipedia)

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渥美清 エピソード&プロフィール

渥美 清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。

東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身


【来歴・人物】
『生涯』
1928年3月10日に上野の車坂に生まれる。父は新聞記者、母は教員であった。

1934年、上野の尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代は所謂欠食児童であったという。加えて、病弱でもあり小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為、学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごした。戦争の色濃くなる1940年に巣鴨中学校に入学。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一には、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。 その後、中央大学経済学部へ進学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」と読み違えたものをそのまま使用したといわれている。芸名の"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。

1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。

1954年、肺結核で右肺を摘出手術しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。

1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。

1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。

1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。

1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で、愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト・バルボンが連合国兵士役で出演した)。

1965年公開の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(1967年〜1968年)なども有名である。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到。「罪滅ぼしの意味も含めて」同1969年、松竹で映画を製作。これが予想に反して大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。

1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。

1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事( 時間(とき)よとまれ)』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事(旅路の果て)』が、1979年には『田舎刑事(まぼろしの特攻隊)』がいずれも渥美主演で製作放送されている。

映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。

1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。

1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。

その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった(映画出演自体での遺作は亡くなる直前まで出演した男はつらいよ 寅次郎紅の花になる)。

後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこのことを知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを一本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんどうごかなくなるなど痛々しい演技である。

病気については1991年に肝臓癌が見つかり,1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演した。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けるが癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば病院で癌の手術が遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。そして1996年8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂医院にて死去。享年69(68歳没)。「死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい。」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が弔辞を読み上げた。世間は、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

又、妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事も明らかになっている。


『経歴についての異説』
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。

中央大学への進学に関しても無かったとの説もある。


『実像』
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や黒柳徹子、渥美とは親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、プライバシーを徹底的に秘匿し、「渥美清=”寅さん”」のイメージを壊さないためであった。

長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。結婚式は家族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。結婚まで秘密にしていたため、他界の数年前も渥美が独身と思っていた人が多かったようである。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで競演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。

2006年9月4日にNHKで放送されたプレミアム10『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。

また、永六輔とは少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったいう。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗み、それを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は、個性が強すぎて一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。

長男の田所健太郎はニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった。

また晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。

(出典:Wikipedia)

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山田花子 エピソード&プロフィール

山田 花子(やまだ はなこ、1975年3月10日- )は、大阪府堺市西区出身のお笑いタレント、自称・女優。吉本興業東京本社所属。本名は渡邉京子(わたなべ きょうこ)。愛称は花子、花ちゃん。大阪府立福泉高等学校卒業。


【来歴】
「4時ですよーだ」に素人として出演した事をきっかけに、中学在学中からタレント活動をはじめる。デビュー時のエピソードとして、舞台に出るための「鼻水メイク」を自宅で行い、手で鼻と口を覆ったまま電車で会場(NGK)へ来たらしい。

その後、吉田ヒロに代わって「ダウンタウンのごっつええ感じ」レギュラーに抜擢されるなど活躍したが、高校卒業後、一時はプロレスラーを目指してJWP女子プロレスの練習生となった。しかし受け身ができず、練習中に頭蓋骨を骨折する重傷を負い断念、その後は再びお笑いの世界に戻り、吉本新喜劇にて人気を得る。

ずんぐりとしたユーモラスな外見と、テレビや舞台などの活動では「カモ〜ン」「汗ばむわぁ〜」などのセクシーな口調のギャグで有名に。

しかし、舞台が終わると吉本興業所属のタレントからよく可愛がられる。

酒癖が非常に悪いため、テレビ等でそのことをからかわれる事が多い。 ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!内の罰ゲーム「絶対に笑ってはいけない」シリーズ内で、酒に酔った花子が出演者に絡んでくるなど、実際テレビで何度もその姿を放送されている。

ナインティナインやロンドンブーツ1号2号よりも年下ではあるが、花子の方が先に事務所に在籍していたため、花子ねーさんと呼ばれている。だが、力一杯どつかれたり、基本的にはタメ口で「花子ねーさん、お前ええ加減にせぇよ」などとツッコまれるなど、実際は完全に後輩扱いである。

ファーストキスの相手は事務所の先輩・今田耕司。ただし吉本新喜劇の舞台上での話である。将来の結婚に備えて、現在もバージン(処女)を守っている(真偽は不明/森田一義アワー 笑っていいとも!でレギュラーとして初登場の際に、今年の出来事で「女になれた」とフリップに書いており、当時は処女ではないということを言っていた)。石田靖を先輩として尊敬しているものの、石田に関係を迫られた時は拒否したという。

テレビ東京系アニメ「とっとこハム太郎」のハナちゃんの声を務めたことがある。

2002年公開の映画「劇場版ポケットモンスター・ピカピカ星空キャンプ」では事務所仲間であるDonDokoDon、雨上がり決死隊と共に「ボケモン5」を結成、主題歌を担当した。 翌年2003年公開の「おどるポケモンひみつ基地」ではナレーションを担当した。

身長148cmと池乃めだかよりも身長が低いらしい。また、猫背の為に目立たないが、実はDカップの持ち主である。

非常に音痴なことでも知られる。過去何度も歌声を披露したことがあるが、音程やリズムを取ることに四苦八苦している。デビュー曲「虹色橋」(原曲はつんくが歌っていた)は大阪有線放送で放送禁止になった程である。

ロンドンハーツの「格付けしあう女たち」で、放送作家から上野樹里に似ているといわれた。

正月にある笑点の「振袖大喜利」では、三遊亭楽太郎の愛人または笑点のイメージガールと言って登場している。

30代なのだが、肌はかなりきれい。

敬虔なる創価学会信者である久本雅美に熱心に折伏されて入信したと言われている。

(出典:Wikipedia)

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長井秀和 エピソード&プロフィール

長井 秀和(ながい ひでかず、1970年1月3日 - )は、お笑いタレント、漫談家である。所属事務所はタイタン。血液型はO型。創価大学文学部卒業。既婚。


【来歴】
■東京都武蔵村山市出身。父は元武蔵村山市議(公明党)。新興宗教団体「創価学会」信者。

■創価大学文学部卒業後、親とは教師になる約束をしていたが、「東洋のチャップリンになる」と宣言して芸人の道を歩む。当初はパントマイム(同じ動きなのに違うもの)を持ち芸にしており、路上パフォーマンスなども行っていた。後に風刺漫談へシフト、現在に至る。しかし登龍門F(生放送)において放送日は他局の生放送を何件か抱えていた為、「喋るのが面倒だから」という理由で全身オレンジ色のつなぎで自身の持ち時間全てパントマイムを行った。

■M2カンパニー(現・ホリプロコム)等、何度か事務所の移籍を繰り返す。やがてフリーの身である所をタイタンに拾われ、現在の基盤を作り上げた。1999年からユリオカ超特Qと二人で定期的に都内でライブ「同行二人」を開催( - 2004年)。

■伊藤かずえの大ファンであることも有名。好みのタイプは元モーニング娘。の加護亜依らしい。

■運動神経はなかなかのもので、バック転も出来る。エアロビクスを愛好している。以前スポーツマンNo.1決定戦に出たこともあり、そのときの記録は総合13位であった。

■1999年に結婚。無名時代は自活することなく妻に食べさせて貰っていたと自認。2005年3月22日には長男が誕生した。

■結婚披露宴会場にうまなりクンの収録で井崎脩五郎がやってきた。井崎は、VTRはじめに「永井美奈子さんの結婚式会場にやってきました。」と言って視聴者を驚かせたが、CM明けに「結婚してナガイ(長井)美奈子さんになる人の結婚式です。」と言うオチになった。

■爆笑オンエアバトルでは第6回チャンピオン大会に出場。セミファイナルでは1006KB(オンバト史上初)と1位で通過し、かつ史上3位の記録を持つ。セミファイナル後のインタビューで「必ず優勝します!間違いない!」とかっこよくしめくくった。しかし期待されたファイナルでは途中で台詞を間違え、その影響かネタの語りが早くなるなど露骨に動揺してしまい、最下位を喫してしまった。以来、漫談のネタをやる時、間違えたりかんだりして自分で笑うことも多い。

■近頃は桜塚やっくんと顔つきや声質が似ているせいか、間違われるケースもある。


【持ちネタについて】
■地道な活動が花を咲かせ、2003年には決まり文句「間違いないっ!」で一躍時の人となり、以降はバラエティで精力的に活躍。尚、「間違いないっ!」は、劇団ひとりが長井の真似をする時に使っていたフレーズを逆に利用したものである。この言葉は一時期流行したが、前年のノミネートだった為流行語大賞に選ばれることはなかった。

■この他に、「○○だから気を付けろ!」「知るかっ!」「続けます」等の決め台詞がある。

■スタイルを青木さやかから、ネタをだいたひかるからよくパクッていると公言しており、時々自身のネタにもする。

■『エンタの神様』でほしのあきのネタを披露するときに最後に「エイ、エイ、オッパ〜イ!!」と言い、観客にも言わせている(この台詞は、ほしの公認のようで、安全剃刀の販促イベントで共演した際、一緒に「エイ、エイ、オッパ〜イ!!」と言っていた)。最近は「エロオヤジキャラ」を定着させつつある。ほしのあきの話は2006年5月27日で完結させ、6月3日は「女医の西川史子先生の話」に変更したが、最初の1週で終了した。7月8日の放送では、完結させた筈の「エイ、エイ、オッパ〜イ!!」のネタを突然持ち出して数回続けた後に封印し、2006年9月9日の放送で再び披露した。

■時折、さとう珠緒についてネタにしている為、天敵としても話題となっていたが、険悪な仲というわけではない。むしろ、さとうは長井のギャグの為にメディア露出が増える等相互に良好な関係を築いている。

■アーティスト関係ではよく「GLAYのTERU」ネタが多く見られる。このネタはバラエティでネタ披露する時や、ネタふりされたときに言うことが多い。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070823-00000008-oric-ent

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奥田民生 エピソード&プロフィール

奥田 民生(おくだ たみお、1965年5月12日 - )は、日本のロックミュージシャン。作詞・作曲家、ヴォーカリスト、ギタリスト、音楽プロデューサー。広島市東区尾長出身。血液型B型。


【人物紹介】
広島市立二葉中学校、県立広島皆実高校を経て、広島電子専門学校中退。同じ広島県出身で同年生まれに、吉川晃司、元T-BOLANの森友嵐士、高校の先輩には吉田拓郎、後輩には磯部正文(元HUSKING BEE)がいる。 メロディックハードコア、エモーショナルハードコア、ミクスチャーロック、ラップコアが台頭した現在でも、なおロックンロールにこだわり続ける。 また、ロッキング・オンからは、「ロックの大将」なる称号も授与されている(本人は若大将・加山雄三の大ファン)。

郷土愛が強く、広島東洋カープの大ファン。タワーレコードのポスターで元カープの達川光男と共演した程である。また、カープのロゴにある「カープ坊や」のイラストを変えて、「民生坊や」にした事もあった。

ソロデビュー時に芸能界からズレたキャラが面白かったのか、井上陽水やタモリが売り出しに貢献してくれた。

ギターコレクターでかなりのギターを持っている。レスポールの使い手で有名。

音質に対するこだわりは相当なもので、CDの音質に満足できず、カーオーディオにDATタイプがない事を嘆いていたほど。雑誌のCD評などでも「相変わらず音が良い」、「洋楽のようだ」と書かれる事が多々ある。

趣味は釣りと車。本人曰く「釣りをやる時間がないのでバンドを止めてソロになった」。バスプロの今江克隆、河辺裕和とはかねてから親交がある。また4歳で、車のエンジン音を聞いただけで「ありゃルーチェじゃろ。ありゃぁシルビアじゃろ。」と言い当てた、という逸話を持つ車好きである。

高校時代アーチェリー部に所属し、県大会で優勝した経験がある。


【来歴】
■父親が日本共産党員で広島市議会議員(引退後は飲食店経営)だったため、子供時代は『赤旗(現『しんぶん赤旗』)』配達などを手伝っていた。「民生(たみお)」の名も「民青(みんせい)」から来ている。風変わりな名前であるため、未だに雑誌媒体に「民夫」と誤表記されることがある。ナレーターの奥田民義と混同される事もある。選挙の応援時にミニライブなどもやったが、聴衆に年配者が多かったため反応は今一つだった。

■中学生の頃に初めてバンドを結成する。広島電子専門学校進学後も音楽活動を継続。当初は端でベースを弾いてたが、女の子がキャーキャー言い始めたため、引っぱり出されてフロントマンに。曲作りも始める。

■1986年 - ユニコーンを結成し、ボーカルを担当する。ソニーミュージックのオーディションに合格。

■1987年 - 広島から上京、アルバム「BOOM」でメジャーデビューを果たす。以後、疾走感溢れる「Maybe Blue」、サラリーマンの悲哀を唄った「大迷惑」や「働く男」、そして「ヒゲとボイン」、今や年末の定番曲となった冬のバラード「雪が降る町」と名曲を次々世に送り出す。のちにユニコーンはブルーハーツ、ジュンスカイウォーカーズと並ぶ、バンドブーム時代を代表するロックバンドと位置づけられる。

■ユニコーンは当時のロック誌・PATI-PATIなどに毎回巻頭で扱われる程、バンドブームの寵児となった。また何でもありの一筋縄ではいかない豊かな音楽性は、一般のファンのみならず、松任谷由実、氷室京介など同業のミュージシャンや音楽評論家など玄人筋のファンが多かった。

■1993年 - 9月21日 この日に放送された「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)で、ユニコーンの解散を電撃発表。美しくも切ない「すばらしい日々」で有終の美を飾った。これ以後奥田は、充電期間と称して釣りに没頭する。「すばらしい日々」は2006年春のソニービデオのCMソングに使われている。

■1994年 - シングル「愛のために」でソロ活動を開始。ソロデビューシングルにして自身初のミリオンセラーを達成。我が事ながら戸惑う。

■1996年 - 女性デュオ・Puffyをプロデュース。彼女たちの特異な脱力感、無気力感、気だるそうな立ち振る舞いが話題になり大ヒット。「プロデューサー奥田民生」としても各方面でフィーチャーされる。

■1997年 - 井上陽水とのコラボレーションユニット「井上陽水奥田民生」として活動する。

■1998年 - ギター一本の弾き語りライブ「ひとり股旅」ツアーを行い話題となる。

■2000年 - 「鈴井の巣」(HTB)にて、大泉洋率いる「大泉バンド」のデビュー曲負け戦を作曲。

■2001年 - 「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ」に出演。

■2002年 - 東京スカパラダイスオーケストラの楽曲「美しく燃える森」に、ゲストボーカルとして参加する。艶のある唱法で新たな魅力を引き出した。

■2003年 - 真心ブラザーズのYO-KINGらと4人組バンド「O.P.KING」を結成し、ミニアルバム『O.P.KING』をリリース。「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ」に2回目の出演。

■2004年 - ソロ10周年を記念した、広島市民球場での「ひとり股旅」をはじめ、精力的に活動。ギター一本のアコースティックライブとして、初めて広島市民球場でのコンサートを実現させた歌手となった。また、自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組「OH! MY RADIO」(J-WAVE、奥田は月曜日担当)も12月に復帰。惜しまれつつ3月で卒業。

■2005年 - 「ひとり股旅スペシャル@広島市民球場」のドキュメンタリーにドラマを加えた映画『カスタムメイド10.30』が完成。秋に公開。また、同じ事務所の「SPARKS GO GO」のメンバーとのバンド「THE BAND HAS NO NAME」が15年ぶりの活動を再開。なお、このバンド名は「名前のないバンド」の意味のため、新バンド名を募集中。「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ」3回目の出演。

■2006年 - 前年に引き続き広島市民球場でカープ球団とタイアップした奥田民生観戦セット「OT Rock Seat」を販売。7月と8月の計14試合で入場券+奥田民生オリジナルキャラクター人形+弁当。

■2006年 - Char、山崎まさよしとの3人によるユニット、「三人の侍」の全国ツアーを4月から神戸を皮切りに敢行。ステージにはユニットの家紋が飾られ、侍語のアピールに歌詞以外は外来語を禁止、ビートルズの歌を歌う時は「次はかぶとむしの歌でござる」などと紹介する。

■元ユニコーンの阿部義晴の40歳記念ツアーに参加。ジェット機もゲスト参加(このバンドに川西がいる)。

■9年振りに井上陽水奥田民生を再結成。12月にシングル「パラレル・ラブ」をリリース。初のツアーと2ndアルバムを発表。

■2007年 - 2月26日にフジテレビ笑っていいとものテレフォンショッキングに出演。タモリに内緒で井上陽水が一緒に登場するというドッキリ企画を決行。


【エピソード】
■奥田のファンと言う木村拓哉とテレビで競演した時、木村が一番好きな曲と言うPuffyに書いた「海へと」を演奏した。この時、木村が「こんないい曲、何で自分で歌わないんですか」と聞くと「いやぁ時間が無くて」と締め切りに間に合わず、やむなくPuffyに渡したことを明かした。後に「海へと」自体はライブ盤で民生バージョンがCD化された。

■Puffyへのアドバイスとして奥田に「おまえらは鵜飼いの鵜だ。飲み込まずに全部吐き出せ」と言われたことを、Puffy自身がTVで明かしている。

■Puffyプロデュースの動機は、小室哲哉や小林武史らが活躍し始めた時期で、ああいうこと、売れる音楽が自分に出来るかどうか、挑戦してみたかったと著書で述べている。

■ユニコーン時代の初期の頃の口癖は「そそそそ」であった。

■デビュー前、アルバイト先の喫茶店で「民生スペシャル」というから揚げ中心の定食メニューを考案した。

■そのアルバイト先の喫茶店の店長が後年当時のエピソードを綴った、アイドルやミュージシャンにありがちな暴露本を奥田に無断で出版、それに激怒した奥田は店長と絶縁したとされており、それを証明するかのように「悩んで学んで」のPVでは一瞬だけその本が燃えているシーンがある。

■鷲尾いさ子が好きだった。

■さとう珠緒がグラビアを中心に活動していた頃、大ファンで自身のライブ用の機材にグラビアの切抜きを片っ端から貼り付けていた時期があった。

■小泉今日子の大ファンであり、HEY!HEY!HEY!で共に出演した際にはまともに彼女を見ることも出来ず、ダウンタウンの2人に冷やかされるほどガチガチに緊張してしまった。

■上記のように非常にミーハーな一面があり、2004年にパーソナリティーを担当したOH! MY RADIOにおいても「ブリトニー可愛い」、「ブリトニーも可愛いがビヨンセはもっと可愛い、ポスターも買った」、「伊東美咲超可愛い」などミーハーぶりを発揮していた。が、「アヴリルはそうでもない」らしい。

■Jリーグ・ディビジョン2において、サンフレッチェ広島とアルビレックス新潟が激しい昇格争いを繰り広げていた2003年、新潟サポーターが、応援歌として使用しているユニコーン時代の曲「I'M A LOSER」の替え歌をCDに収録するために許可を取ろうとしたところ、奥田は「広島の敵に曲を提供することは出来ない」とにべもなく断った。カープのみに留まらない、奥田の郷土愛を示すエピソードである。

■大のテレビゲーム好きでユニコーン時代に阿部と二人で雑誌に連載を持つほどであった。ダウンタウンのごっつええ感じにおいて、松本人志とテトリスで対決し勝利したこともある。シンプルなゲームが好きなようで最近はWindowsのピンボールにハマっており、毎日2時間はプレイしている。

■奥田の楽曲のタイトルは、有名な書籍や楽曲などのタイトルのパロディとなっているものが多数ある。例:「ワインのばか」(元ネタはロシアの民話『イワンのばか』)、「AND I LOVE CAR」(ビートルズの「AND I LOVE HER」)、「怒りの別件」(ブルース・リーのドラゴン怒りの鉄拳)等。「マシマロ」はタイトルを考えてから歌詞を作ったため、曲の最後でその旨を律儀に説明している。

■漫画家のいくえみ綾は彼のファンであり、週刊ヤングサンデーにて楽曲を漫画化した作品を発表。

■「歌詞を覚えられない」とよく口にする。そのため、彼の楽曲には歌詞を少なくする工夫がされている。洋楽を愛好してきたせいか、歌詞にこだわりがないようだが、詞世界はファンなどの間で高く評価されている。

■楽曲「息子」は子どもが生まれる前に作った曲。


【関連人物】
■井上陽水‐陽水の息子がユニコーンのファンであり、雪が降る町の歌詞に感動した陽水がその歌詞を奥田に送ったことから交友が始まる。レコーディングについて「陽水さんは寝ていても平気」と語っている。

■吉井和哉‐吉井は奥田の書く詩を絶賛している。ツアーメンや釣りなど共通の面がある。吉井は年下だが、民生君と呼んでいる。

■スティーヴ・ジョーダン - 奥田と親交の深いニューヨークのドラマー。スティーヴのユニット、ザ・ヴァーブスのアルバム『アンド・ナウ...』の日本盤スペシャル・エディションには、奥田が参加した「ニューヨーク/東京」が追加収録されている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070826-00000001-lisn-musi

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マギー審司 エピソード&プロフィール

マギー 審司(まぎー しんじ、本名:三浦 審(みうら しん)、1973年11月11日 - )は、お笑いタレント・手品師。4人兄弟の次男。
宮城県気仙沼市出身。血液型:RH-B型。宮城県気仙沼高等学校卒。


【概要】
■実家は気仙沼市で電器店を営む。審司ブレイク後は店頭に電気製品と共に、奇術の小道具も扱うようになった。

■小学生の時は一年中(真冬でも)半袖半ズボンで学校に通っていた。

■手品師のマギー司郎の三番弟子である。

■しゃべり方や奇術師としてのスタイルがどことなく師匠の司郎に似ており、芸風はマギー一門を正当に継承。

■2004年頃より奇術師として本格的なテレビ出演などをするようになるが、それ以前から奇術師として活動している。マギー司郎のアシスタントとして出演し、2人という点を生かしたネタで笑いを取る芸を披露していたこともある。

■主に赤い背広を着用して人前に出るが、マギー司郎のアシスタント出演が多かった頃には背広でなく薄緑色のベストを着用してステージに出ていた。

■「手品師」という職業名に拘り、「マジシャン」と自称することは稀である。本人曰く「本当はお笑い芸人になりたかった」と言う通り、お笑い芸人の一人として分類されることが多い。(オンエアバトルにも参戦したり笑いの金メダルにも出演)

■意外にもオンエアバトルでは10戦10勝の無敗である。

■マギー司郎に入門したのは「楽そうだから」という理由(弟子入り希望の際、マギー司郎宛てに手紙ではなくハガキを送ったらしい)。実際に入ってみると本当に楽だったという。

■意図的に下手糞なマジックや、誰もが知っているネタをやって笑いを取ることに特徴がある。得意なネタは、大きくなる耳。最近は小さくなる耳をやる。その後親指の小さな耳を突き出し、大木こだまの「チッチキチー」をやることも。

■マギー司郎に弟子入りしてから、逆に手品の技術が落ちたと公言している。

■相棒はぬいぐるみのラッキーとその妹のアンラッキー。巧みな指使いで、あたかも本当に生きているかのように動かすことができる。
2005年から玩具メーカーの増田屋と契約し、ラッキーの友達としてモーラーが新たにペットに加わった。

■松浦亜弥とともに「マギマギ先生」役で、日本テレビの「ティンティンTOWN!」のプリンセス☆アヤヤのハッピーマジックコーナーに出演した。

■柔道の有段者(二段)であり、最近は正月のテレビ番組で芸能人柔道対決のような場面でも活躍。

■マジックだけでなくものまねもやる(ゆーとぴあのピース、伊東四朗など ピースのものまねは明石家さんまも絶賛するほどの腕前)。

■マギー一門の所属事務所はオフィス樹木だが、審司は一人で舞台などを任せられるためマセキ芸能社に所属している。

■ふじいあきらとはネタを交換しあう程仲が良く、たまに共演もする。

■奇術道具の一部を東急ハンズより調達しているらしい。その道具の中で、紙幣を発生させる道具もある。

■その紙幣を発行したのは通貨偽造に当たるとしてめちゃ×2イケてるッ!の番組内でフジテレビ警察に逮捕されている。(その後護送中に護送車の鍵を入手するも鍵を大きくしてしまい、脱出不可になった)

■2006年8月25日にモデルの吉田有希(よしだ ゆき)と結婚。一部スポーツ誌で字が同じであるアイドルの吉田有希(よしだ ゆうき)と間違って報道された(アッコにおまかせ!より)

■2005年6月頃、交際が発覚。取材にも「付き合っています」と堂々と答え、更にはお互いのblogでは同じ日付に同じ場所で遊んでいる等共通点も多く、特に交際を隠してはいなかった。

■2006年9月2日、テレビ朝日系放送の「アメトークお笑い祭り1クールのレギュラーより1回の伝説SP!!」にて、本人曰く「19歳の頃はアメリカで寿司屋をやっていた」とのこと。その寿司修行中にTIMというマジシャンからマジックを習ったと言い、ショーの最後では「ちゃんとした」マジックを披露する。(ただ、英語が出来なかった事で、コミュニケーションが困難だったらしく、それが3か月トピック英会話の出演理由と思われる)

■近視であるため視力が悪くマギー司郎のアシスタント出演が多かった頃には眼鏡をかけることも多かったが1人で出演を行うようになった近年はコンタクトレンズを使用している。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070826-00000049-spn-ent

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Gackt エピソード&プロフィール

Gackt(がくと、神威 楽斗(かむい がくと、Gackt Camui)、公称1540年7月4日 - )は日本の男性歌手である。沖縄県生まれ。血液型はA型。所属レコード会社は日本クラウン。彼のファンを「Dears」という。


【来歴】
■1994年以前 - ピアノと声楽を学び「CAINS:FEEL」にてドラムスとして活動。後にボーカルに転身。

■1995年10月〜1999年1月 - 「MALICE MIZER」のボーカルとして活動。

■1999年1月 - 『Gackt Job』を立ち上げ、ソロ活動を始める。

■2000年2月 - 個人事務所を設立。同時にファンクラブ「Dears」を設立。

■2001年から4回連続でNHKの紅白歌合戦に出場する。

■2005年12月24日 - 自身初の東京ドームライブを決行。

■2006年1月14日 - 韓国ソウルにおいて、日本と全く同じ規模と内容のコンサートを行う。

■2006年2月28日 - 兵庫県立舞子高等学校の卒業式来校を依頼され、卒業生・在校生の前で未発表曲『野に咲く花のように』を披露。同曲は翌年にCD音源化され、その年には長崎県立長崎北陽台高等学校の卒業式においてライブを行った。

■2007年5月25日 - YOSHIKIらと新バンド「S.K.I.N.」を結成し、翌月より音楽活動を開始することを発表。


【人物】
『趣味・特技・家族』
■B'zのボーカル稲葉浩志を「最高のボーカル」とラジオで発言[要出典]。自身もB'zの楽曲『いつかのメリークリスマス』を聴き感動したと語る。またテレビ番組などでもB'zの楽曲を取り上げたり、歌ったりしている。

■家族構成では、姉と弟を持つ長男。姉のことは「姉さん」や「姉貴」と呼んでいる(姉、スタッフ等はGackt邸の合鍵を持ち、管理をしている)。

■『機動戦士ガンダム』のマニアとしても知られているが、その出会いは、20歳頃友人にTV版ガンダムのビデオを借りた事から。「宇宙で一番ガンダムを見た人間」と自負、音声の全てをパソコンに取り込み、延々と流し続けたりといった行動をとる。また、自身がDJを務めていたラジオでアムロ・レイ演じる古谷徹やシャア・アズナブル演じる池田秀一を招いた。ガンダムを取り上げたTV番組において、スタッフから受け取ったヒートホークの形をしたエレキギターから出た効果音を「これニュータイプの音だよね」と瞬時に答えている。また友人関係にあった富野由悠季総監督から直々に、2005年に劇場公開された映画『機動戦士Ζガンダム』三部作の主題歌を打診され快諾。 一作目放映前後であらゆる音楽番組に出演し、その度に『Ζガンダム』の宣伝を繰り返していた。その一作目放映後の打ち上げでは「今まで出た打ち上げで最も幸せな打ち上げだった」と語った。 2006年9月25日に出演したHEY!HEY!HEY!では登場人物のシャア・アズナブルのセリフ、10月16日に出演した同番組ではアニメの1シーンのアフレコを完璧にこなしてみせる程、モノマネが上手く現在レパートリーはアムロ・レイ、シャア・アズナブル、カイ・シデン、ギレン・ザビなどがある。


『生活』
■言葉遣いを気にしており、特に女性の言葉遣いが汚かったりすると、一瞬で「女性として見なくなる」。言葉フェチ・声フェチと自称するほどであり、女言葉を大切にしてほしいとのこと。

■両利きである事と、見事な書道の腕前を披露し、浜田雅功、木村祐一を驚かせた。木村祐一曰く「書家みたいな字」とのこと。またあまりに欠点がないので浜田に「どっか一個ぐらいかっこわるいとこ見せぇ」と突っ込まれている。バツゲームでは普段着用のサングラスを外し、ガソリンスタンドで真面目に働く姿も披露した[7]。

■L'Arc〜en〜Cielのボーカルhydeと非常に親しく、Gackt邸に招かれた。Gackt初の映画『MOON CHILD』では、台本を書く段階からhydeの出演を願っていたらしく、また、収録の合間、寝ているhydeにキスをしようとしていたというのは有名な話。hyde本人も「次々とアイデアが出てすごい」と、Gacktを敬愛しており「相思相愛」の仲である。また、理想の女性はhydeで、なぜ女性ではないのだと嘆いたことがある。

■愛車はポンティアック・ファイヤーバード・トランザム ラムエアリミテッド(2000年)である。外装、内装を問わず大幅な改造を施していて、インパネ類はセンターに移動させる、シフトレバーを外す等、普通の車の概念を超えたものになっている。内装の一部は雑誌で公開したことがある。座席はすべてフラット、倒せるようになっている。これまでに乗りつぶした車は、10台以上にも上る。

■小銭を持ち歩くのを極度に嫌い、現金での支払いに伴い発生したお釣りの小銭は全て家の玄関に置いてある壷に投げ入れている。ただ500円硬貨や100円硬貨は姉が掃除等に来た際に壷から拾い上げて持っていってしまうため、実際には10円以下の小銭しか貯まっていない。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070826-00000055-sph-ent

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IKKO エピソード&プロフィール

IKKO(いっこー、1962年1月20日 - )は日本のメイクアップアーティスト・ヘアメイクアップアーティスト。豊田一幸(とよだ いっこう)名義でも活動している(本名は「とよだかずゆき」と読む)。福岡県田川郡方城町(現在の福智町)出身。


【人物】
美容師を経て、1992年に「アトリエIKKO」を設立、主宰。女性誌の表紙・ファッションページや、テレビ・CM・舞台などで、数多くのファッションモデル・女優・女性タレントのヘアメイクを手がける。

最近ではバラエティに出演したり、トークショー等で自らの体験談を披露することも多い。裏方(ヘアメイク)ではなく、自分が表舞台に出るときのメイクはもちろん自分で行うが、それだけでなく衣装のスタイリングも自身が手がけ、最近はほとんどグッチ(GUCCI)で揃えているという。

年に1回ディナーショーを開催しており、メイクのデモンストレーションとトークショーに加え、最近では歌(山本リンダの名曲「どうにもとまらない」をスローにアレンジしたもの)を披露している。

メイクアップアーティストとしての腕は確かであり、司会者の逸見政孝の専属ヘアメイクとして全幅の信頼を受けていた。また、逸見が亡くなった際の死化粧も行った(2006年6月11日放送日本テレビ系『いつみても波瀾万丈』より)。
『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)の「MONEY WARS ギャラ High&Low」に出演した際、席を移動するたびに石橋貴明から「背中広っ!」と言われていた。

2006年7月、初エッセイ『超オンナ磨き〜美のカリスマIKKOの幸せを呼ぶゴールデンルール』を出版。「コンプレックスこそオンナ磨きの原点」として、自分の体験から得た誰でもすぐできる実践的なノウハウを伝授。新・美のカリスマとして評判を呼び、テレビや雑誌でブレイクしている。

口癖は「どんだけ〜」である。流行語となっており、若者の間でも使われることがある。 また、「どんだけ〜」ブームを巻き起こしたのはIKKOと言われているが、芸能人で最初に使い始めたのはFUJIWARAの藤本敏史で、藤本がバラエティ番組の仕事で行ったオカマバーでその店の店員の一人が使っていた口癖にまず藤本が食いつき面白がって使っていたのをIKKOも使い始めたものである事をナインティナインの岡村隆史がナインティナインのオールナイトニッポンで語っている。(どんだけ〜の項に詳しく記載)

一時期島田紳助と共演した際、「玉 IKKO」といじられていたが、のちに使われなくなった。


【ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!での発言】
■美しいと思う国はモルジブ

■自分を女としては120点であると思っている

■生まれ変わってもIKKOでありたい

■初恋相手は『いずみ せいじろう君』

■大切なものは家族。

■「やっぱり」のつけかたがおかしい

■去年のクリスマスにどこにいたか覚えていない

■一番押すスイッチはセコムのスイッチ

■裸とすっぴんでは裸の方が恥ずかしい

■ヌード写真集はお金じゃなくて、最高の環境が整えば『絶対にやる』

■下着泥棒にあったら「どんだけ〜」ではなく「ふざけるなっ!!」と言う。

■ガキの使いやあらへんでのレギュラーメンバーの中で一番不潔だと思っているのは田中。

■何事も3回目が肝心らしい。(キスを許すのは3回目のデート。)

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070826-00000024-nks-ent

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オリエンタルラジオ エピソード&プロフィール

オリエンタルラジオは、吉本興業に所属する日本のお笑いコンビ。略称は「オリラジ」や「オリエンタル」、初期は「オリタル」とも呼ばれ、新聞には「Oラジオ」と書かれていたこともある。


【メンバー】
■中田敦彦(なかた あつひこ、1982年9月27日 - 大阪府高槻市・山口県山口市・東京都育ち)
■藤森慎吾(ふじもり しんご、1983年3月17日 - 長野県諏訪市出身)


【概要】
コンビ名は、お互いに好きな単語をくっつけたもの(オリエンタルが中田、ラジオが藤森)。結成当時のコンビ名は「中田藤森」であり、その後「アンディーシンディー」と名乗ったこともあった。コンビ名をオリエンタルラジオに決定した理由のひとつは、この単語がネット検索に1件もひっかからなかったからである。その後検索で5件ヒットしたときは、非常に嬉しかったと述べている(2007年4月現在では、Googleで877,000件のヒット数を叩き出している)。 東京NSC10期で、同期には大好物やオバアチャンなどがいる。NSC生の中でも出世が飛びぬけて早かった。


【来歴】
■自動車事故の受付のオペレーターのアルバイト(三井住友海上)で知り合う。初対面の時、中田はぼさぼさ頭に上下ペイズリー柄の服を着て室内にも拘らずサングラスをかけており、藤森は「すごいセンスのやつがいるなぁ」「暗そう」と思ったらしい。逆に中田は藤森の目を見て「なんてキラキラした宝石のような美少年なんだろう。」と感服した。互いを知り合う内に、元々お笑い好きだった中田の影響を多大に受けた藤森から逆に中田を誘う形で、大学に通いながらNSCへ入学することとなる。結成日は2003年8月1日。毎年、記念日を2人で祝っている。

■初めての会話は「好きなAV女優」の話だった(男子と仲良くなるには下ネタしかないという中田の思い込み)。

■M-1グランプリ2004では、NSC在籍中にもかかわらず武勇伝で準決勝まで勝ち進み一躍注目を浴びるようになった。

■『武勇伝』ネタの知名度が圧倒的だが、喋くり漫才もこなす。その時もボケは中田で、ツッコミは藤森が担当する。漫才の方がブラックなネタをする傾向が強いようである。「M-1~2005」には『武勇伝』ネタを封印して漫才で挑み、M-1グランプリ2005でも準決勝まで残った。

■2005年12月31日放送の「輝け!2005年お笑いネタグランプリ」ではブレイク賞を受賞。副賞として100万円を貰った。

■ニッポン放送の2006年度春のイメージキャラクター「だったらラジオ ニッポン放送」に任命され、その縁で「オリエンタルラジオのオールナイトニッポンR」(金曜27:00-29:00)のパーソナリティに抜擢されたが、「めちゃ²イケてるッ!」に出演した際、「オールナイトニッポンR」を担当しているといったが、ナインティナイン(「ナインティナインのオールナイトニッポン」(木曜25:00-27:00)を担当)は金曜と土曜のみ「オールナイトニッポンR」があることを知らなかったらしい。

■2006年10月より、『笑っていいとも!』のレギュラー出演が決定した。

■「オリキュン」(フジテレビ)が2007年1月17日より水10!枠の22:30〜22:54に放送時間が変更になった。デビュー数年でゴールデンタイムのレギュラー番組を持つという、異例の早出世に「ダウンタウンの再来」と伝えるスポーツ新聞もあったほど。

■お笑い芸人史上最速でゴールデンタイムの冠番組を持つことになった。(つまり芸人の中で一番早く売れたことになる。)ちなみにお笑い第5世代でこの時間帯の冠番組を持っているのは彼らのみである。

■2007年4月からは「週刊オリラジ経済白書」、「ドッカ〜ン!」の2
本のゴールデンでのレギュラー番組開始が決定している。


【武勇伝】
■代表的なネタは「武勇伝」というショートコント。もともとは「中田伝説」というネタでやっていた。武勇伝ネタを考えているのは中田である。「武勇伝 武勇伝 武勇デンデンデデンデン レッツゴー」という早口なリズム(これはただの早口でありヒップホップ風ともラップ風とも言えない。)(オリエンタルリズム)にのせて、色々な事に挑戦しているという“あっちゃん”(中田)が「伝説」を語り、その結果を“しんご”(藤森)が言ってオチにする。たまにあるあるネタ的なことを言うこともある。ネタの間に、日常のことをコントのようにして、しんごが日常的な行動をとり、あっちゃんがそこにツッコミを入れ名言的な言葉でまとめる、もしくはしんごが常識的なことをしてあっちゃんが呆れるといったコントが入る。最後に「意味はな〜い〜けれ〜ど〜ム〜シャクシャしたから〜」のフレーズで始まる歌を歌い、「ペケポン!」と言って出番が終わる。

■テンポがいいので観客からは手拍子されることがあるが、自分のリズムでやりたいため「手拍子はありがたいのですが、みなさんの心の中でお願いします」と中田がお詫びをする。

■「意味はな〜いけれ〜ど」のフレーズは中田が作曲したもの。

■このネタはかなり運動量が多く、藤森は「エンタの神様」でのネタ中に両肩が脱臼したことがあるという。また、このネタは通常は約2分30秒位なのだが、ある日中田はこのネタを4分間やり、泡を吹いて酸欠で倒れたという。そしてそこが一番観客にうけて爆笑がおこった。

■最初は「中田伝説」という普通の漫才だったが、スベる事を恐れてどんどん間を詰めていった結果、最終的に間がなくなり、ネタとネタをつなぐブリッジとして「武勇伝 武勇伝」のフレーズを挟んだ。

■芸に厳しいことで知られるオール巨人から、「あれは相当な稽古を積んでいるはず」と絶賛された。実際、部屋にこもって何時間、何百回と練習しているという。

■噛んだ時用の武勇伝がある。具体的には、しんごが「あっちゃん、カッコ悪いよ〜」中田が「しゃらくせえー」と怒るものである。

■ちなみに「武勇伝」は元々中田が、NSCのピンのネタ見せの授業でやっていたものである。ちょっとした悪ふざけのつもりで踊りを入れたり歌を歌ったりしていたらしい。それが講師陣の木村祐一や夜鯉利光等に好評で、色々とアドバイスを受け今の形になった。

■藤森は「笑い飯」の哲夫に飲み会に呼び出されてその場のノリで四時間全裸で「武勇伝」をやらされた。しかしその後哲夫の耳に「あっちゃん(中田)が「うちの相方になにしてくれてんだ」と凄く怒っている、という噂が届き、これはヤバイと思った哲夫が仲直りの為に二人を飲み会に誘ったがまたその場で今度は二人に全裸武勇伝をさせた。哲夫は武勇伝に対抗し、「奈良県立歴史民俗博物館(注・笑い飯のネタの一つ。)」の「パパ〜パ〜」というBGMっぽいのを口で言いながら奈良県立歴史民族博物館にある人形の物まねを裸で全力でやっていた。その後、哲夫は吉本興業からこっぴどくしかられたという。

■「学園祭などで漫才をしても、会場からは『武勇伝はまだか』という空気が出ているためやりづらいときがある」と語ったことがある。

■最近エンタの神様では中田が「俺の伝説ベスト10」と言っているが実は1回のオンエアで9つしか言っていない(初期を除く)。(実際には3つ+小ネタ+3つ+小ネタ+3つ+エンディング+一番最後に1つ、計10回言っている。オープニングの叫びはカウントしていない)


【漫才】
■一般にはあまり知られていないが、漫才ネタもいくつか持っている。

■10カラットなどで披露したネタの他にもいくつか持ちネタがある。

■基本的にネタは中田が作っている。少々ぶっ飛んでいる芸風の内容が多い。

■最近では「年を取ったら武勇伝はできない」と、漫才のネタ作りで深夜まで及ぶこともあるらしい。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070825-00000000-oric-ent

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内田恭子 エピソード&プロフィール

内田 恭子(うちだ きょうこ、本名:木本恭子(旧姓:内田)1976年6月9日 - )は、元フジテレビアナウンサー。現フリーアナウンサー、タレント。愛称は「ウッチー」。ドイツ・デュッセルドルフ生まれ、神奈川県横浜市出身、慶應義塾大学商学部卒。身長163cm。血液型A型。2007年4月からは夫とともに個人事務所を設立。


【来歴・人物】
1976年6月9日、父親の赴任先であった当時の西ドイツ・デュッセルドルフに生まれる。2才で日本に帰国したのち、小学校5年から高校2年生まではアメリカのシカゴで生活。イリノイ州デアーフィールド高等学校(Deerfield High School)から神奈川県立外語短期大学付属高等学校へ編入。このような生い立ちから英語は得意であり、英語検定準1級を所持するが、ドイツ語は乳幼児の頃にしかドイツに在住していなかったため、まったく話せない。生まれたとき、名前は当初「杏子」(読みは一緒)にする予定だったが、「杏」が当時人名用漢字の中に入っていなかったため「恭子」となった。1999年にフジテレビ入社。同局の看板アナウンサーとして活躍したが、2006年3月に結婚しフジテレビを退社。フリーアナウンサー・タレントとなり現在にいたる。


【エピソード】
■1999年フジテレビ入社。同期入社の大橋マキが注目を浴びる裏で報道記者として全国を駆け回る。「プロ野球ニュース」の終了および荒瀬詩織、宇田麻衣子、大橋マキの退社にともない2001年4月から5年間「感動ファクトリー・すぽると!」のキャスターを務めた。

■フジテレビの入社試験の際、カメラテストとして自己紹介をしなければならないが、内田は「人の心を読み取る力、観察する力は誰にも負けません」と自己分析している。

■ケタはずれの音痴である。そのレベルは同じく音痴として有名なSMAPの中居正広以上ともいわれ、真剣に歌ったにもかかわらず、「すぽると!」のパートナーで、先輩アナの三宅正治から「ウッチー(内田の愛称)、真剣に歌え!」と言われるほどだった。

■2005年2月、巨人の宮崎キャンプに先輩の三宅アナと取材に訪れた折、ブルペンにいた工藤公康投手の投球練習を妨害して退去させられている。詳しくは工藤・三宅の記事を参照。

■2006年1月10日、2003年春から交際中のダウンタウン・浜田雅功の元マネージャーで吉本興業社員の木本公敏と婚約、同年3月31日で寿退社をし、退社後はフリーアナウンサー、タレントとして活動している。2006年7月23日、都内にて挙式をあげた。

■「NNNきょうの出来事」の後番組、「NEWS ZERO」のキャスターを打診されたが、2007年3月まではCMを除いてテレビはフジテレビ系列の番組しか出演しない約束をフジテレビとしていることと、「NEWS ZERO」と放送時間が重なる「タモリのジャポニカロゴス」と「グータンヌーボ」に2006年10月以降も出演しているため断ったとされる。2007年4月からフジテレビ系列以外のテレビ出演が可能になったが、2007年7月現在フジ系以外のテレビ番組には出演していない(ラジオは2007年春からTOKYO FMでレギュラー番組を持っている)。

■金子さやかと似ていると言われることがある。

(出典:Wikipedia)

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たむらけんじ エピソード&プロフィール

たむらけんじ(本名:田村 憲司、1973年5月4日 - )は大阪府阪南市出身のお笑い芸人。吉本興業大阪本社所属。吉本総合芸能学院(NSC)大阪校11期生。大阪府立和泉高等学校卒業。愛称「たむけん」。A型。

【略歴】
■同期にはココリコ、陣内智則、ケンドーコバヤシ、中川家、ハリガネロック、烏川耕一などがいる。

■既婚。1998年生まれの長男と2002年生まれの長女がいる。

■高校時代の同級生(大北貴洋)とLaLaLa(ラララ)というコンビを組んでいたが、1999年8月に解散。以降はピン芸人として活動している。劇場アンケートネタなどが代表作。

■以前は心斎橋筋2丁目劇場やbaseよしもとの中心人物で、同期や後輩を集めたライブをプロデュースするような立場であったが、2001年頃よりヘタレキャラに転身。

■2001年9月にbaseよしもとを卒業後、東京に進出。主にルミネtheよしもとの舞台でピン芸をやったり、新喜劇に参加していた。また、『いきなり!黄金伝説。』(テレビ朝日系列)の人気企画「1ヶ月1万円節約生活」や、同番組の「夫婦で節約生活」に妻とともに挑戦した。2003年大阪に本拠を戻し、以降はうめだ花月を拠点に活動中。

■2002〜2004年放送の「オールザッツ漫才」での、獅子舞を片手にふんどし姿で他の芸人を罵倒するネタで注目を浴びる。特に同期の中でも売れっ子である陣内智則を標的とし、「陣内死ね!」を連発(見ていた陣内は大爆笑)。2005年放送の「オールザッツ漫才」ではキョンシーの格好をしてネタを披露した(内容は過去の年とほぼ同じ)。ある意味究極の「スベリ芸」である。また、2006年のオールザッツ漫才では陣内と藤原紀香との結婚について毎度ながら激しくツッコんでいた。

■また「めちゃ×2イケてるッ!」の笑わず嫌い王決定戦に出演。「東京で売れてる芸人、全員死ね!」というオールザッツとほとんど変わらないネタを披露した(ただしこの回の大阪吉本芸人のネタは、たむらと同じくほぼ前年のオールザッツのコピーであった)。同番組内では紹介時、堂本剛に『かわいそうさん』と言われた。「笑わず嫌い王決定戦」に出場した若手芸人はその後ブレイクすることが多いが、たむらは出演後半年以上経ってもなぜか全くブレイクの兆しがなかった。

■その後、同番組の「めちゃイケファンド」(めちゃイケ参照)で「投資対象芸人」となり、雛形あきこにネタをコピーされた挙句、本人よりも笑いを取った。

■「笑いの金メダル」のワンミニッツショーなどで徐々に東京での露出も増え、全国区の階段を昇りつつある。ただ、地元関西の番組では特にキャラクターを作らず素顔で出演するのに対し、東京の番組では「獅子舞」「ふんどし」「サングラス」の色物キャラが定着してしまったため、この扮装で出演することが圧倒的に多い。関西と関東でキャラクターを巧みに使い分けている。そのため「関西では手ぇ抜いてんねやろ」と陣内に言われる(なるトモ!より)。本人曰く、関ヶ原を境に関東モードに切り替わるという。

■ギャグは「○○ちゃ〜。」が一般的。

■最近ではヘタレキャラに加え、嫌われキャラも。また、白いふんどしにサングラスがいわば彼の芸人としての「正装」であり、リアクション芸人顔負けのスタンスでテレビ番組への露出も多くなってきている。

■視力が悪い。コンタクトレンズを装用した上にサングラスをかけている。まれにめがねをかけてTV番組に出演することもある。

■2007年年明けにテレビ東京系で放送された「2007年最も売れる吉本NO.1伝説」にて、占い芸人小笠原まさやによる占いで「2007年最も売れる芸人1位」に選ばれた。(ちなみに最下位は山下しげのり)

■2006年末に発売されたPS2ソフト「桃太郎電鉄16 北海道大移動の巻!」では、たむけんのパロディ「たむらぎんじ」(スリの銀次の変装パターン)が登場した。

■大阪の城東区(蒲生四丁目)に焼肉の店『炭火焼肉たむら』をオープン(元々は妻の親が焼き肉屋をやっており、田村名義に変更)。なお、開業資金の一部を妻の親に援助してもらった。

■自宅は大阪市東成区深江南。愛車はメルセデスベンツ(7年ローンのML350)の白。

■2006年末に放送されたガキの使いの罰ゲームでは変質者として出演した。建物の屋上に上がり、しゃくれ署の警官達から「早く降りて来い!」と促されるものの、たむらは「お前らが俺のことおもんない言うからこんなことしとるんやないか〜!分かった、じゃあこうしよう。俺がおもんなかったら降りたる」。とネタをいくつか披露した。

■ジャイケルマクソンの「芸人だらけの水泳大会」において、楽屋での休憩中、たむらは一輪車の練習中に、食事中だったブラックマヨネーズ小杉竜一に激突してしまい、「ごめん、ごめん」と謝った。小杉はたむらに「たむらさん、みんな何て言ってるか知ったはりますか?高島屋の前にいる若者と、い、一緒やって言ってますよ。」と突っ込んだものの肝心な箇所をかんでしまい、たむらは「かむなよ、大事なとこ」と逆に突っ込んだ。

■2007年2月17日の陣内智則と藤原紀香の結婚式に、吉本の芸人仲間として出席(他にはなるみ、海原やすよ・ともこ、ケンドーコバヤシ、シャンプーハット小出水)。結婚式会場でのカメラ撮影は禁じられていたにも関わらず、陣内の親戚達がカメラで写真を撮り始めたので、たむらも写真を撮った。

■藤原紀香の弟に電話番号を一方的に渡したらしい。また結婚式終了後に藤原紀香がたむらのネタ「ちゃ〜。」を演じてくれるハプニング?があった。

■陣内家から「うちに野菜を採りにこーへんか?」と招待され、楽しみにしている子供たちを連れて出かけていくと、案内されたのは果樹園ではなく何と裏庭の家庭菜園だった(NGKでの末成由美還暦記念イベント中での発言)。


【人物】
■「陣内死ね!」というたむらお得意のネタについて、ケンドーコバヤシに「お前も俺のこと見捨てた。東京行く前は一緒に陣内いじっとったのに、帰ってきたらやっとらんし」と言ったところ、コバヤシに「あれは俺がやってウケてるの見て、あんたが乗ってきたんですやん。だから俺やらなくなったんですよ」とバラされた。

■プライベートではたむけんファミリー・通称TKFの主宰者。TKFのTシャツを貰った人は自動的にファミリー加入となり、加入した芸人らはTKFのイベントに強制参加となっている。

■間寛平・$10・サバンナと共にユニットコントライブ『宇宙ターザン』を不定期に開催している。DVDも発売された。

■『M-1グランプリ2005』予選のために結成された山崎邦正とカンニング・竹山隆範の「竹山崎」に、2006年度は新たにたむらが加入、「たむらけんじと竹山崎」として参戦した。結果は予選三回戦敗退。

■身体能力はそれなりにあり、中学・高校とソフトテニス部に在籍。中学時代には大阪のインドア大会で1位になった。またTKFでスポーツ大会を頻繁に開催している。

■笑福亭鶴瓶と初対面した時、いきなり本人が大便するところを見せられた。

■ケンドーコバヤシ曰く、雨上がり決死隊・宮迫博之、宮川大輔に並ぶドSキャラである。若い時、後輩芸人を道頓堀に投げ落としたことがあるらしい。しかし、後輩に対してしているSな行動は、「俺等のパクリや!」と宮迫に言われる(芸人が集まる居酒屋 たこしげより)。

■ヨシモトファンダンゴTVのM-1優勝特番で、優勝者のチュートリアルの福田の声を聞いたとたんに、感極まって泣いてしまう気の優しい一面も垣間見せた。

■クイズ!ヘキサゴンIIの予選ペーパーテストでは、初登場で3位と意外と好成績を残している。しかし、他のゲストから「納得がいかない」「バカのイメージが強いくせに」と批判されてしまった。その後の2007年2月21日の放送分では35点で1位を記録したため、その時もカンニングしたのではないかと評判は散々なものであった。

■妻との仲は一時期相当ギクシャクしていたらしいが、現在は修復しているとのこと。

■バッファロー吾郎主催のダイナマイト関西2003で、スペシャルマッチに登場。次長課長の河本準一としょっきり形式で大喜利を行なう。スベりに行ったときと、本気で笑いを取りにいったときの客の反応が両方とも同じだった。

■プライベートでは破天荒なところは一切なく、礼儀正しくコツコツとした性格である。家での姿はスウェットに眼鏡で、テンションはかなり低い。

■炭火焼肉たむらのオーナーとして、平均年齢20歳の店長・店員をまとめている。店の清潔に常に気を配っており、店の掃除が行き届いていないことを楽屋から店長に電話で注意するほど。店員のたむらへの評価は「真面目」「厳しい」「テンションが低い」。店に来た客へサービスで「ちゃ〜」を披露することも。店で使う野菜は、後輩の土肥ポン太が経営する八百屋から仕入れている。2007年1月の売り上げはM-1グランプリの優勝賞金額1千万円を超えた。

■2007年3月に行なわれた末成由美還暦記念イベントの休憩中、炭火焼肉たむらの従業員を電話で説教した。

■長男に、「パパ〜、今日学校で『お前ん家のお父さんおもんない』って言われた〜。」と後輩もいる席で突然言われ、「そいつに『お父さんと大喜利で勝負させ!』って言うとけ!」と返したらしい。

■かなりの綺麗好きで、洋式トイレでは男でも必ず便座に座って小用を足すよう勧めている。立って小用を足すと、尿が飛び散って掃除しなければならないから。


【たむけん語録】
「東京で売れてる芸人全員死ね!」
「放り込め!放り込め!かーねーもとっ!」(←金本知憲)
「放り込め!放り込め!はーまーちゃん!」
「放り込め!放り込め!なかむらゆたかっ!」
「何やー!?家で飼うてるウーパールーパー死んだんか?」
「アホか東京!」
「東京で売れてる芸人の妹、売れてないバンドのドラマーと付き合え!」
「東京で売れてる芸人の肌荒れろ!ブツブツになれ!」
「東京で売れてる芸人の近所のコンビニ潰れろ!」
「東京で売れてる芸人の親の浮気ばれろ!些細なことでばれろ!」
「東京で売れてる芸人のおかんパーマ失敗しろ!」
「東京で売れてる芸人の飼うてる犬死ね! 知らんトリマーの腕の中で死ね!」
「東京で売れてる芸人のマネージャー風邪ひけ!そして長引け!」
「東京で売れてる芸人 この時期 鍋食うな!」(冬季限定ネタ)
「東京で売れてる芸人死ぬ前にこれだけは食うとくんやて決めとる大好物食えられへんで死ね!」
「東京で売れてる芸人 犬に噛まれろ!ホステスが寂しさを紛らわすために飼うてる犬に噛まれろ!」
「東京で売れてる芸人が乗ったタクシーの運転手 芸人にめっちゃ話し掛けろ!」
「東京で売れてる芸人 漆でかぶれろ!」
「東京で売れてる芸人 刀狩りされろ!」
「東京で売れてる芸人 今どきセガサターン貰え!」
「東京で売れてる芸人 逆剥けヒジまで行け!」
「陣内のことおもろいと思てるプロデューサー浮気ばれろ!」
「最後ネタしまーす」
「ダメ押しでネタしまーす」
「もう疲れたんでネタしまーす」
「よし売れた!!」
「あんなもんおかしいやろ」
「あんなもんいらん、いらん」
「あそこのひな壇、ボカーンなれ!」
「しいたけは洗うな」
などがある。

【ネタ】
・「同期の嫁は金持ちや〜」(同期であるココリコの遠藤章造の妻、千秋の事を言っている)
・「嫁の実家が金持ちや〜」
・「同期が紀香と結婚や〜」(同期である陣内智則のこと)
・「いきますかー!? イーチ、ニー、サーよいしょ、チャ〜」
・「ごめんチャ〜」
・「アドベンチャ〜」(アニメ「ドラゴンボール」の主題歌をフルコーラスで歌い、最後に言うパターンもある)
・「ピッチャ〜」
・「うわっ 俺って器小っチャ〜」
・「ビッグモッコリ」(稀)
・「誰が王JAPANや!!」(笑いの金メダルでスピードワゴンとコラボを組んだ際、井戸田潤の「世界一絡みづらいですね」という言葉に対し)
・「誰がボブ・デービッドソンや!!」(上記の行動でミスったとき)
・「誰がジーコJAPANや!!」(笑いの金メダルでスピードワゴンと組めなくて、井戸田潤からの言葉に対し)
・「イナバウチャ〜」
・「母チャ〜」
・「かぼチャ〜」
・「また俺のギャグ取られチャ〜」
・「緑チャ〜」
・デッカチャン口調になり「たむらけんじだよ」
・「今からここで、面白いネタしま〜す」
ネタが無くなったときはパソコンを取り出し「大抵の人にウケる事」などと検索するギャグもある。
なお、「チャ〜」という一発芸はたむらけんじの息子が考案したものである。実際にたむらけんじの息子が、テレビで「チャー」をしたことがある。
基本的に自虐的なネタが多いと言われている。

【出で立ち】
獅子舞・サングラス・ふんどし姿(なおかつ髪がカールしている)で登場し、上半身に旬な文字を書いている。東京のUHF放送局のTOKYO MXでやっている「水野キングダム」ではスーツ姿で、獅子舞・サングラス・ふんどし姿は一切していない。(サングラスも外している為、デッカちゃんに似ている。)

下記は上半身に書いている旬な文字集
「話芸の神」
「楽屋でおもろい!」
「愉快な人」
「ネッシーは いてる」
「ブリには大根」
「マムシに注意」
「海からの恵み」
「よそはよそ うちはうち」
「かな縛りは夢なのか」
「やっぱり家が一番」
「子どもは国の宝」
「夢は(サッカーボールのマーク)四年後に」
「ちかん あかん」
「ツンドラ気候」
「今日はざっくばらんに」
「風力発電が一番」
「美空の前に美空なし 美空の後に美空なし」
「海の幸VS山の幸」
「M-1獲るぞ」
「年賀状はお早めに」
「炭火焼肉 たむら」
「おもち何個入れる?」
「笑いのシンデレラボーイ」
「金魚は意外とデカくなる」
「おもち食べすぎた」
「軽い気持ちでチョモランマ」
「寝起きの口は誰でも臭い」
「自費で春季キャンプ」
「犬やったら六才」
「リズムアンドブルース」
「ボールはともだち」
「薬局界のスギ様」 (スギ薬局プレゼンツ、「元気∞!よしもと笑いスギLIVE」のみ)
「しいたけは洗うな」
「百円玉で買えるぬくもり」
「シンクロ王国ロシア」
「メガネのマーチ」
などと書いている。ちなみにこれ等はたむらが「お前字が上手いか?」と聞き、上手いと言った芸人に書かせている。(ミサイルマンのウラモン!より)

・登場時に出てくる獅子舞は自前だったが、2006年に吉本興業から50万円の獅子舞を買ってもらった。
・芸を見せるときの風貌については「髪型で笑いを取るな」と若手芸人たちに言われたことがある。笑いの金メダルでスタッフが家を訪れたときはカメラが回っているのを見て、10分ほど家にこもり髪をセットして褌姿で玄関に出てきた。

【その他の事柄】
■HGと同様、サングラスを掛けているため、『HGの様にサングラスを外す事を事務所から禁止されている』等と思っている人も多いが、実際にはその様な事は無く、サングラスは外しても良いという事になっている。そのため、東京の番組「笑金」等ではサングラスを掛けふんどし姿で出ているが、関西圏ローカル局の番組(なるとも!等)では、サングラスを取り素顔で出演している場合が非常に多い。関西でサングラスにふんどし姿のたむらを見ることは稀である。

■ネタでキツイ事をかなり言うため、子供にも容赦無いと思われがちだが、なるトモ!の企画で幼稚園に行った時、幼稚園児に優しく振舞っていた。(しかし、子供を使い、陣内の悪口をネタで言っていたが)。

■最近の若手芸人の中では珍しく、エンタ派生からの芸人(エンタ芸人)ではなく、笑金の活躍で一気にテレビへの露出がアップした芸人である。(その為最近の芸人としては珍しくエンタには一回も出た事が無い)。

■最初に笑金の「ワンミニッツショー」に出演した際、ちょうどその頃HGが旬の頃であったため、奇声で喋るネタやサングラス姿であることから、「HGのパクリ」等と批判されたが、実際には彼の方が芸歴は上であるため、ファンからは「それはおかしい」等と逆に批判されることもある。

■たいがー:りーやですよ。等が大手の芸能人に「体を張らない」、「何も面白くない」などとマスメディアやネット上で酷評されバッシングされる中、彼は笑いの面では批判されたことは少ないが、それでもやはりおかしな姿で番組に出演している為か女性ファンは少ないようである。

■移動には必ず獅子舞を持参するため空港では搭乗前の手荷物検査を受けると言う。

■「タムケン」と言う放送作家がいるが、全くの別人である。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070825-00000045-spn-ent

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なだぎ武 エピソード&プロフィール

なだぎ 武(- たけし、本名:灘儀 武(読みは同じ)、1970年10月9日 - )は、日本のコメディアン、漫談家である。実際にはピン芸人ではなく、お笑いユニット「ザ・プラン9」のメンバーの1人。大阪府堺市出身。血液型A型。身長170cm。桃山学院大学文学部卒業。


【来歴・人物】
学生時代に自分のネタで唯一笑ってくれた女の子から、自分が視力が落ちてしまう病気であることを告白される。手術を恐がる彼女を勇気づけるために、以前その子に言われた「灘儀が芸人になったら、私みたいに冷めてる人を笑かすんやろな」という言葉を受け「絶対に芸人になるから、手術して治った目で俺を見て欲しい」と約束したのが芸人を目指すきっかけになった。

1989年に大阪NSCに8期生として加入し、同年8月に同期の松村博司と「スミス夫人」結成。当時の芸名はナギナギオ。コンビ当時は「自分の顔をプリントしたTシャツを着て現れる」などといった変人キャラを演じる松村に対してなだぎが容赦なくツッコミを入れるが、松村はそれ無視するかのように延々とボケ続けるというスタイルのコントが多かった。シュールで奇天烈なキャラの松村とマシンガンのようなツッコミを繰り出すなだぎのコントラストが受け、一部のファンから絶賛されていたが、2001年に解散。翌2002年に活動名を本名の「灘儀武」とし、ザ・プラン9にヤナギブソンと共に追加メンバーとして加入した。

2005年6月に芸名をなだぎ武に改名している。最近ではザ・プラン9以外に、後述のディランというキャラクターを持ちネタとした活動も増えている。藤岡弘、のモノマネも現在イチオシである。

また、演技力にも高いものがあるため、プラン9本公演では主役や物語を大きく動かす役が多い。


【エピソード】
■ザ・ブラン9のメンバーである浅越ゴエとは1997年12月のオールザッツ漫才の一回戦で、お互いが当時組んでいたコンビの「スミス夫人」(なだぎ)と「デモしかし」(浅越)として対戦したことがある。

■メンバーの中で最年長かつ最も芸歴が長い。

■ナギナギオからなだぎ武に改名した理由は同メンバーのヤナギブソンと芸名がカタカナでややこしいからである。しかし初めはヤナギブソンが改名する予定だったがヤナギブソンが断ったため仕方なくなだぎが改名した。

■今でこそガタイが良いが、前コンビ時代は痩せていた。

■BON JOVIのファンで、PVを撮ったことがある。

■2005年には関西テレビの金曜深夜の番宣枠にて「カンテーレ〜真夜中のエンターテイナーなだぎ武〜」なる約10分のミニ番組を担当していた。好評につき翌年にも「帰ってきた真夜中のエンターテイナーなだぎ武」として復活している。番組宣伝の合間に1人で様々なネタを披露するというものである。それまでは水谷豊の物まねをよくしていた。

■中之島演劇祭2006で共演した島木譲二に、なぎさ武や柳田武、なぎなた武など、散々名前を間違えられた。

■2006年12月19日に友近との熱愛が週刊誌に報じられた。交際は両人とも認め合っていて、よくバラエティー番組で共演する。更に、後述のディランの相棒「キャサリン」に友近が扮したコント芸まで開発し、2007年2月10日に「ディラン&キャサリン〜難問続出!?恋の数式大パニック〜」というイベントを開催した。

■イメージカラーはオレンジ。

■平山昌雄、南海キャンディーズ、レイザーラモンなど多くの芸人に慕われている。

■PLANETはSaturn(土星)

■ディラン・マッケイのキャラで、腕時計を必要以上に目に近づけて「もうこんな時間だぁ!」というネタがあるが、これは「スミス夫人」の時に使っていたネタである。

■2007年6月、大阪府泉南郡岬町にある「みさき公園」の「ぷ〜るらんどRiO」イメージキャラクターに起用される。

■軽い潔癖症らしく、ポテトチップを食べる時、服や口の周りが汚れないようにチップを二本の指でつまみ、顔を上に向けてそっと口に落とし込むらしい。


【ディラン】
ディラン(ディラン・マッケイ)は、なだぎが演じるキャラクター。元ネタはビバリーヒルズ高校白書シリーズの同名の登場人物。2005年のオールザッツ漫才でテレビ初登場。

必ず自転車に乗って登場し、不必要に脚をピンと伸ばして「今自転車を降りているぞ…間違いなく今自転車から降りている…よぉし降りた。」といって降りる。さらに「自転車を置きに行っている…今自転車置きに行ってるぞ…よぉし置いた。」といって自転車を停める。このひとくだりがあった後、舞台のセンターに立つのがお約束。また自己紹介の際に「ビバリーヒルズ青春白書でお馴染みのディラン…マッケイだ」または「ビバリーヒルズからやってきたディラン…マッケイだ」と、必要以上のタメ(短くても3秒以上)を作るのも定番である。

当初は自転車には乗らず、「ブレンダ」「ケリー」「ピーチピットのナットさん」など元ネタに纏わる小ネタでマニアックな笑いを誘っていた。その後自転車は欠かせない小道具の1つとなり、アメリカンジョーク等の決め言葉を言った後は自転車のベルを鳴らすなどという行動もお約束になっている。そのため自転車特集を組んだ雑誌『ターザン』にディランのキャラでいつも使っている自転車と共に登場したこともある。

たまに人の話を聞く際、「にゃ…にゃ…」と あいづち をうつ。また、異常に体を後ろにそらす事がある(ネタ中で「これは日本の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の空条承太郎の真似だ」と話している。ちなみに、ディランの吹替えもアニメの承太郎も同じ小杉十郎太が演じている)。

ヘアスタイルは変化しており、当初はパーマがかった黒髪のリーゼント、2代目は茶髪のリーゼントであった。現在(3代目)は金髪のリーゼントである。

ディランのキャラは、もともと「ビバリーヒルズ青春白書」の日本語吹き替え版でディランの声を担当している小杉十郎太の真似がなだぎの持ちネタであったことと、当時の彼女が「ビバリーヒルズ青春白書」を見ていた事から発想された。さらには、ホフディランのシングル「キミのカオ」において、「ビバリーヒルズ青春白書」をパロディにした小杉のナレーションにも感銘を受けたと語っている。当初は楽屋で「ビバリーヒルズ青春白書」を知る芸人仲間等へ観せていたという。海外ドラマ特有の「大げさなセリフ回し」や「アメリカンジョーク」、「アテレコによる独特の空気感」をデフォルメした芸風だが、ビバヒルファンの今田耕司も認める激似ぶりである(最近では今田も言い回しを真似する事がある)。前述の2005年「オールザッツ漫才」において、レイザーラモンHGに続くキャラを探せという企画で披露された際、元ネタを知らない層にも好評を得る。これがこのネタのブレイクの最初の切っ掛けとなった。

2006年からは本家「ビバリーヒルズ青春白書」には登場していない新キャラとして相棒のキャサリンが登場している。

なだぎは「R-1ぐらんぷり」でもディランネタで参加。2006年は準決勝で敗退したが、2007年は徳井義実(チュートリアル)と共に最高得点を記録し、審査員5人による決選投票で勝利し優勝を果たし、ザ・プラン9からは浅越ゴエに続き2人目のチャンピオンを輩出した。

2007年、ドラマで本物のディランを演じたルーク・ペリーや、日本語吹替えを担当した小杉十郎太との共演がそれぞれ実現している。


【関連項目】
■友近-ディラン&キャサリンのキャサリンの方を演じる芸人。なだぎと交際している。

■小杉十郎太-ディラン役の吹き替え声優。紙面には載らなかったが2007年7月5日に行われたイベントの記者会見で声優の三石琴乃と一緒に来訪して対面した。その後、なだぎがレギュラー出演中の番組「フジヤマ☆スタア」にゲスト出演。なだぎディランに小杉がアフレコするなど、夢のWディラン共演が実現した。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070825-00000009-sph-ent

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中居正広 エピソード&プロフィール

中居 正広(なかい まさひろ、1972年8月18日 - )は、日本のタレント、歌手、司会者、俳優。男性アイドルグループSMAPのリーダー。所属事務所はジャニーズ事務所。血液型A型。愛称は「なかいくん」、「マーくん」、「マー坊」、「広ちゃん」など。「中井正広」、「中居政広」ではない(「中井正広のブラックバラエティ」ではわざと「中井」としている)。身長168cm?、足のサイズ24.5cm。(身長は笑っていいとも!で計測。)イメージカラーは青。


【来歴】
神奈川県藤沢市出身。男3人兄弟の末っ子(三男)。藤沢市辻堂二葉幼稚園、藤沢市立鵠沼小学校、5年生の時に藤沢市立明治小学校に転入、藤沢市立明治中学校、私立平塚学園高等学校中退、東京都立代々木高等学校定時制卒業。この高校で木村拓哉とは同じクラスで、同じバスケットボール部に所属する。

中居曰く、高校時代の中居は「ヤンキー派」で、木村拓哉は「チーマー派」。中ラン・ボンタン、潰した学生カバンなどのエピソードは、テレビやラジオなどでたびたび紹介される。

1987年3月にジャニーズ事務所へ入所。

ソロの仕事のメインは司会業で、1997年、1998年とNHK紅白歌合戦の白組司会を2年連続で務め、2004年には、フジテレビ系27時間テレビでナインティナインとともに司会は4年ぶりに務めたほか、TBSテレビ系アテネオリンピック中継の司会進行を久保純子とともに務めた。また1996年と1997年にもニッポン放送のラジオ・チャリティー・ミュージックソンを担当している。

1997年、1998年、2006年のNHK紅白歌合戦の司会を務め、男性の司会者ではNHKのアナウンサーを除くと加山雄三、堺正章、古舘伊知郎と並び最多タイの3回となった。

その他、紅白もそうだが、フジテレビFNSの日も1998年〜2000年、2004年、2006年と5年も司会を務めた。


【人物】
■小さい頃、ハンガーが下まぶたにひっかかったことがある(金スマより)。

■少年隊の東山紀之の家にTOKIOの城島茂と一緒に3人で住んでいた時期がある。

■ジャニーズ史上初のバラドル男と称される。堂々とTV(SMAPのがんばりましょうにて)でパンツ姿を披露したのも、ジャニーズアイドルでは中居が初めて。

■ライブではN・マッピーの名で作詞作曲の曲を披露する。全員で歌うために作詞作曲したものもある。

■ロック (ダンス)が得意である。

■熱狂的な巨人ファンとして知られ、特に原辰徳のファンとされる(「原監督に抱かれてもいい」などと笑いをとっている)。(SMAP×SMAPのコント「マー坊」の中などで見せた)野球選手のモノマネはミヤーン(元大洋)、八重樫(元ヤクルト)など。また、足首だけで野球選手を言い当てることができる。また、正岡子規が「ファースト」、「セカンド」などの野球用語を日本語にした(「一塁」、「二塁」)ことを知っている。

■1992年デビュー当初、プロ野球aiに「巨人原辰徳や、阪神掛布雅之に憧れた世代」をアピール。しかしわずか3週間前に阪神ファンの機関紙月刊タイガースで「湘南出身なのに熱烈なタイガースファンの中居です」「SMAPもよろしくお願いします」とコメントを寄せていたことがことが阪神ファンに発覚、雑誌の投稿コーナー(「VOW」)に投稿される。

■自分が出演したドラマの台本は、とっておいている(笑っていいとも!の発言より)。

■めちゃ2イケてるッ!の総監督などで知られている片岡飛鳥とは、半年に一回飲みに行く仲である。そこでの会話はほとんどが仕事についてである(雑誌より)。

■木村拓哉とともに3年B組金八先生第3シリーズの生徒役のオーディションを受けたが、落選している(その際、ジャニーズ事務所から合格したのは森且行、長野博)。

■たばこは普段プライベートなどでは吸っているがヘビースモーカーではない。毎年恒例のフジテレビジョン FNSの日深夜企画「さんま・中居の今夜も眠れない」のセットのテーブルには自分のたばこ・ライターは一応は置いているものの、2000年のコーナースタート以来一度も吸ったことがない。

■人と物(洋服や靴など)がかぶるのが嫌い。SMAPメンバー内でもよくかぶってしまうことが多く、有名なのはMUSIC STATIONのときに、木村拓哉と私服で全く同じブランドのGジャン・ジーパンがかぶってしまったという話。本人は誰かとかぶってしまったものは、それから一切着たり履いたりしない。


【特徴】
■愛車は、1996年6月から2000年12月まで販売されていたFY33型・日産シーマ。時々、自ら出演するTV番組で披露する事もある。

■スポーツ歴は野球とバスケットボール。

■RIP SLYMEのSUの姉と、DJ FUMIYAの兄(EAST ENDのバックダンサーTAKE)は小学校・中学校時代の同級生でその時よくTAKEの家に遊びに行っていた。また、うたばんではその当時の事をSUとDJ FUMIYAに暴露されていた。

■神奈川県(特に、茅ヶ崎方面)の人にみられる方言(語尾に「〜だべ」をつける。

■単語の語尾に「〜っち」や「〜っぴー」をつけることが多い(例:子供っち、彼女っち、地元っぴー(じもっぴー)など)。

■「オリコン・モニターサーチアンケート」の「司会をしてほしいタレント」、「帽子が似合うタレント」の男性部門で首位を獲得した。

■最新の家電製品が苦手。家では未だにVHSのビデオデッキを使っている。携帯電話も2006年4月に壊れて修理不能となるまで、12年間同じ機種(NTTドコモのPシリーズ。購入時期からデジタルムーバPと思われる)を使い続けていたほど。ただし、並行して使用していた2台目の携帯電話は当時の最新機種であった。

■主演映画「模倣犯」の宣伝で2002年6月14日放送のぐるナイゴチ3にゲスト出演した時、値段予想で矢部浩之から「お前アホやろ」、後輩の国分太一から「だから先輩だと思えないんです」と酷評される。しかし最終的にはピタリ賞100万円をゲット、最下位となった国分から「やっぱSMAPってすげーなぁ」と言わしめた。ちなみにこの出演以降は、日本テレビでのゲスト出演はない(ただし、日テレでのレギュラー番組はもっている)。

■フジテレビアナウンサーの中野美奈子と葛西臨海公園で撮影したプリクラ写真が雑誌に掲載されたことがある。その後、様々な憶測が飛び交い、事態を重く見たジャニーズ事務所は、中居との連名で、「不確かな情報を鵜呑みにしないように」とのコメントをHPで発表し、交際報道を否定した。中野の名前は一度も使われていない。中居自身の口からメディアで直接のコメントは、2007年2月24日の中居のラジオ(中居正広のsome girl' SMAP)のオープニングトークで結婚式を挙げたという噂を、ネタっぽく話して否定した。在京キー局を始め、スポーツ新聞などの大手メディアは全く報道していない。地方局では休暇日程の一致や同時期の日焼けなど、詳細な取材が進められている。

■かつて、交際の噂が報道された中澤裕子については、「うたばん」の中で、中居自らが中澤本人の目の前で、「オレたち付き合ってるんだって?」と、熱愛報道されたことがあることをジョークのネタにしている。

■帽子(癖毛が嫌なこと、無意識に前髪を息で「ふーふー」してしまうこと、セットするのが面倒臭いという理由でほとんどと言っていいほど被っている。冬はニット多め)・アクセサリー・リストバンド・時計等が好きで数多く所有している。

■普段からアンクレットを2つ身に着けている。テレビ出演の際も基本的に外すことは無い。片方は親戚の子供から貰ったと番組内で公言しているが、もう片方については一切語ろうとせずに、なぜかこの話題が終息に向かってしまう。

■視力が悪い(右目が0.1〜0.2、左目が0.09)。車を運転する時と家にいるときなどは、いつもメガネをかけている。仕事などではコンタクトはしていない。

■家には、鶏のから揚げと生姜焼きの食品サンプルがある。

■2003年に草野球中に右手の中指の先を骨折してしまい、右手の中指の先が曲がってしまう。ドラマ「砂の器」でピアニスト役を演じる予定で、撮影直前でのアクシデントとなっている。

■帽子は家に60個ほどある。

■「おっぱい」「チュー」などはよく言うが、本人は下ネタは嫌いである。(本人談)

■「びっくり」などの「っ」を「つ」にしたりする。(びつくり など)

■公称身長165cmとしているが、それより低いのではないのか、という身長詐称疑惑がよく流れている。しかし、2007年8月5日放送の笑っていいとも!増刊号で身長測定をしてみたところ、170cmあったことが判明。だが、ニット帽を被っていたので正確には170cmより低い。タモリによると「168cmはあるよ」ということで、165cmより低いどころか少し高いことが判明した。

(出典:Wikipedia)

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ギャル曽根 エピソード&プロフィール

ギャル曽根(ギャルそね、1985年12月4日 - )は、日本の女性タレント。ギャルソネと表記されることもある。

本名:曽根 菜津子(そね なつこ)。京都府舞鶴市出身、兵庫県姫路市在住。大食いタレント・フードファイターとして注目を集めている。

東京が主な仕事場であるため、姫路にはあまり帰らず、実家や東京に住む友人宅、インターネットカフェにいることが多い。よく出歩く場所は京都の河原町界隈。所属事務所はワタナベエンターテインメント。身長162cm、体重45kg。京都府立西舞鶴高等学校卒業。調理師免許取得。


【来歴】
大食いは中学生時代から始めた(自分が大食いであると自覚したのは高校生時代)が、日常生活において、大食いというわけではない。おにぎりか菓子パン一個で一日を過ごしてしまう事もあるという。このように大食いだが体は細く太っていない。

地元でアパレル関連の仕事をしていたが、2005年から大食いのテレビ番組に出演するようになり、2006年の『元祖!大食い王決定戦 新爆食女王誕生戦』、2007年の『元祖!大食い王決定戦 新爆食女王限界死闘編』(テレビ東京)などで優勝。『ラジかるッ』、『大笑点』(日本テレビ)では、同じく大食いのジャイアント白田(白田信幸)と大食い対決している。

当初は素人としての番組出演だったが、2006年に大手芸能事務所のワタナベエンターテインメントと契約してタレント活動を始めた。2007年4月に、辻希美(妊娠脱退により安倍麻美が参加)、時東ぁみと共に藤田志穂のプロデュースによるパラパラギャルユニット・ギャルル結成を発表。曽根は「そねね」として登場した。初代リーダー辻の脱退により、二代目リーダーとなる。


【人物・エピソード】
憧れの芸能人は浜崎あゆみで、中村有志が命名した芸名の通り、ギャル系メイクが特徴。大食い対決の途中でメイクを直したことがある。他の大食い選手が必死の形相で手当たり次第に食物を口に詰め込むことが多いのに対し、好きなものばかりをよく噛みながらマイペースで美味しそうに口に運ぶ異色の行動が目を引き、人気を誇る。大食いを売りにしながらも全体的に小柄で、スタイルもいたって普通の女性そのものである。大会以外の食事も幸せそうに食べる。マヨネーズを常に携帯しているという「マヨラー」でもあることからギャルマヨとも呼ばれている。

大食いタレントとしては珍しく食べ物の好き嫌いが多いのが特徴。好物は、大トロ・特上カルビ・ウニ・卵料理・ピンクレモネード・爽健美茶・アクエリアスなど。不得手は、蕎麦・エビ・イカ・タコ・貝類・数の子・レバー ・豆腐・こんにゃく・メロン・ココナッツなど。

蕎麦大食い対決の際、競技の終盤で蕎麦に飽きてしまい、おかずの天ぷらのみを食べ、勝負に負けてしまった事がある(競技としては蕎麦のザルの枚数のみがカウントされ、天ぷらは対象外だった)。競技終了後も隣の選手の天ぷらを食べていたため、余力を残して負けると言う、大食いでは珍しい負け方を自ら選択したことになる。パン対決では、ジャムを大量に使い、ジャムだけで1kgを食した(バター、ジャムなどは好きに付けて良いルールとなっていたが、その重量は天ぷら同様カウントされなかった)。勝ち負けよりも「自分の食べたいように食べる」ことにこだわるようである。回転寿司の大食いの際、スタッフがタイムアップを告げたが、まだ残っている寿司を指し「これだけ食べちゃってもいいですか?」と言って、テーブル上の寿司を完食した。タイの大食い大会でも優勝した事がある。

2007年5月8日放映の踊る!さんま御殿!!では、大食いが家族や母から受け継がれたものであるというエピソードを披露した。それによると、高校生時代3年間付き合っていた彼氏を度々自宅に招き、家族と食事を共にした際、母は「男の子は沢山食べるでしょう!」と、ハンバーグ合計8枚などの大量の食事でもてなした。母の料理は普段から量が多く、家族も皆沢山食べていた。

2007年6月9日放映(関東地区など)のメレンゲの気持ちで、東京での活動の際はインターネットカフェに寝泊りし、着替えの衣類は友人宅に置かせてもらっていることを告白した。

「フジ銀行 芸能人のサイフの中身秘(秘)徹底チェック!」では、普段の食費を節約しつつも大食いしたいため、もやしを大量に買い込んで料理を7品目近く作りすべて完食していた。また、寿司屋で事務所関係者による打ち合わせがあった際、おしげもなくトロやうになど高級ネタを大量に注文し完食した。

2007年7月17日放映のラジかるッにて内臓(胃)のレントゲン写真が本人不在ながら公開されていた。通常時は普通の人とさほど変わらない胃の大きさであるが(同年7月22日行列のできる法律相談所でも同様の本人談有)、大食い時はほぼ全面胃しか写っていない状態に見えるほどかなり大きく膨れ上がり、外見はまるで妊婦の様である(なお、他の内臓は背中方面に押し寄せられてしまうと西川史子が説明していた)。

2007年7月24日放映のカスペにおいてセロと大食い対決。ラーメン8人前を先に食べきった者の勝ちというルールのもとで、曽根が勝利を収めた。一本一本ゆっくりと麺を食べるセロを横目に順調に食べ続けた曽根であったが、セロが驚異的なラストスパートをみせて、引き分けかと思われたが、僅差で曽根が勝っていた。このとき、自分が負けたのではないか、と恐れた曽根はセロに「私の仕事、取らないで下さい!」と言っていた。ちなみにセロの敗因は苦手だったという理由でチャーシューを一枚残していたからである。

2007年7月27日放映のドリーム・プレス社でも安田大サーカスのクロちゃんとの大食い対決をしたが、安住紳一郎も大竹まこともあきれて大竹も「予算もないし、時間もないから帰る」と言い残して立ち去った。その為、対決結果は視聴者の御想像に任せる形になってしまった。


ギャル曽根 BLOG(公式ブログ)

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070814-00000011-oric-ent

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塚地武雅 エピソード&プロフィール

塚地 武雅(つかじ むが、1971年11月25日 - )は、お笑いタレント・俳優。お笑いコンビ「ドランクドラゴン」のボケ担当である。
相方は、鈴木拓。大阪府阪南市(当時は泉南郡南海町)出身。桃山学院大学卒業。血液型はA型。プロダクション人力舎所属。愛称は塚っちゃん。『はねるのトびら』で共演している同じ事務所の北陽は1年先輩にあたる。いのしし年。


【経歴】
大学時代は痩せていてモテたと言い張っている。大学卒業後は、仏壇メーカー(八木研)に就職し営業を担当していた。家族の猛反対を受けながら24歳でお笑いを志し、事務所の養成所(スクールJCA)に入学。そこで相方の鈴木拓と出会い1996年コンビを結成する。

2003年頃から俳優としても注目を集め、2006年公開の『間宮兄弟』(江國香織原作)では佐々木蔵之介とのW主演に抜擢された。なお、共演した佐々木は塚地の演技を「味のある演技が本当に良い」と絶賛している。その後、フジテレビ系の特別ドラマ『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』で山本圭一(杉本春男役)の代役(撮り直し)を務めている。更に、芦屋雁之助亡き後途絶えていたテレビドラマ版裸の大将放浪記の山下清役に大抜擢される。

『はねるのトびら』で日産自動車とタイアップしたのをきっかけに、番組の企画で無理矢理エルグランド(それも最高級グレード)を購入させられ、さらにお台場冒険王において試乗車にされてしまった。


【特徴】
丸顔が特徴。ブサイクと言われるが、愛嬌のあるルックスで一部からは人気がある。
女子プロゴルファーの不動裕理に似ていると、よくネタにされている。2007年5月9日放送のはねるのトびらで鈴木が丸坊主にしたのを対抗して、特徴である太い眉毛を剃ってしまった結果、顔つきが変わってしまい、本人は結構後悔していた。

ネタにおいてはボケ担当だが、トーク番組では鈴木が天然ボケな為ツッコミ的な役割になっている。
コントでは数々の個性的なキャラクターを演じ分け、また引き出しの多さから一発ギャグの宝庫を思わせる多彩な才能の持ち主。
『はねるのトびら』内で行われた「はねトリノ2006 お笑いフィギュア選手権」でも、付けられたキャッチコピーは「最後の喜劇王」となっていた。結果は予選ショートプログラム1位、決勝フリー3位。予選ではつかみに漫談を取り入れた。

また、『笑いの金メダル』では2004年頃よく有田哲平などに「実家が貧乏」「砂を食べている」などといじられていた(一部視聴者から不評だった事と事実無根であった事、更には現在では麒麟の田村裕のエピソードが際立ったため現在は一切言われていない)。

幼少時代から現在に至るまで特撮ヒーローものの大ファンで、フィギュアの収集が趣味。また、大学の先輩には『ウルトラマンエース』でお馴染みの俳優・高峰圭二がいる。


【逸話】
■就職説明会の際のパンフレット写真で、仏壇にインコがとまっていたので「なんでインコがとまっているんですか」と質問したことが気に入られ、仏壇メーカーに就職。

■会社を辞めてから上京するまでの間はろくに家を出してもらえず、近所には「公務員になるための勉強をしている」という事にされていた。食事も他の家族がステーキにも関わらず、塚地はチキンラーメンだったなど家族から猛反対されていた。特に、父親には未だに完全には認めてられていないらしく、テレビを見て「男が女の格好(ネタでの女装)をするな」、「鈴木君の失敗話じゃなくいい話をしなさい」などと言われた事もある。

■スクールJCAでは一度は違う相方とコンビを組んだが、行き詰まり解散。その後、授業中に先生が話していた時、鈴木だけは他の生徒と違う反応をしていた為、期待してコンビを組む。しかし、鈴木はただ単に聞き流していただけだった事がわかり後悔した。

■一日タバコ5箱を吸う病的なヘビースモーカーを自認している。貧乏だった下積み時代は、タバコが吸いたくて公園に拾いに行き、しけもくをしていた。タバコを見つけたときは100円見つけるより嬉しかったと述懐している。一方で、タバコを吸わない鈴木が健康診断を受けた際、塚地の副流煙が原因で肺が真っ黒になっている事が発覚した。

■はねるのトびらにて芸人魂を忘れてドラマ(裸の大将)に力を入れる塚地に対して、芸人魂を思い出させる為に相方鈴木が自ら坊主になる。その後、塚地が落とし前をつける為(ドラマ出演を考えず)勢いだけで眉毛を剃った。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070811-00000006-sanspo-ent

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ダルビッシュ有 エピソード&プロフィール

ダルビッシュ 有(だるびっしゅ ゆう、ペルシア語 یو درویش ローマ字転写[Yū Darvīsh]、正式氏名:ダルビッシュセファット・ファリード・有、1986年8月16日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)である。背番号は11。通称はダル。大阪府羽曳野市出身。東北高等学校卒業。


【人物】
母親は日本人、父親はイラン人で元サッカー選手。イラン・日本の二重国籍。「有」は、イスラム教のカリフ「アリー・イブン=アビー=ターリブ」に因む。弟が二人いる。エイベックスとマネジメント契約をしている。

好きな言葉と決め台詞は「いつか必ず道は開ける。俺は、やるぜ!」である。

2005年までは変化球主体のピッチングだったが、WBC日本代表壮行試合で肩を痛めたのをきっかけに、試行錯誤を繰り返しながら新しいピッチングスタイルを模索する事になる。2006年シーズン後半からスライダーを筆頭に、ツーシーム(解説者などからはシュートと言われることもある)、カーブ、フォーク、カットボールなどの多彩な変化球を使ってカウントを稼ぎ、MAX153kmのストレートを決め球とするピッチングに切り替えた。するとそれが功を奏し、好成績を残した。ダルビッシュ自身、「あれをきっかけに今季は肩に負担のかかるシンカーを封印し、その代わりにカットボールを増やした。これが効果的だった。肩のケアに気を使うようにもなったし、肩のトレーニングを増やしたのも、投球に良い影響を与えていると思う」と話している。

プロ入り後はフルスタ宮城、千葉マリン等の野外球場が苦手で、ドーム球場を得意としている特徴が露になった。


【プロフィール】
■身長・体重:196cm・84kg
■投打:右投右打
■血液型:A型
■出身地:大阪府羽曳野市
■球歴:羽曳野ブラックイーグルス-オール羽曳野-東北高等学校−北海道日本ハムファイターズ(2004年ドラフト1巡)


【来歴】
《ドラフト指名前・生い立ち〜高校野球まで》
小学校2年生から野球を始め、羽曳野ボーイズで全国大会ベスト8、世界大会3位という成績を収め、50以上の高校からスカウトがあったが、環境面等を理由に東北高等学校に入学する。強気な発言とクールな顔立ちから、甲子園では既に女性ファンの注目を集めていた。

1年生の時から高井雄平(東京ヤクルトスワローズ)の後をついでエースに。195cmの長身から繰り出す直球は当時から150km/h近くを計測。2年春夏、3年春夏と4度甲子園に出場。2年夏は準優勝、3年春の熊本県立熊本工業高等学校戦では史上12度目・10年ぶりとなるノーヒットノーランを達成する。最後の夏の甲子園では、3回戦では千葉経済大学附属高等学校に敗れたものの、高校生No.1ピッチャーとの呼び声もあった。

2004年ドラフト高校生では、涌井秀章(西武ライオンズ)・佐藤剛士(広島東洋カープ)と並ぶ目玉投手。メジャーリーグの球団も獲得の意思を示す(父親の意向が強かった)が、本人は日本球界を希望していた。

2004年11月17日、ドラフト会議において日本ハムがダルビッシュを単独1位指名。12月17日、父親同席のもと、2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ。


《プロ入り後》
■2005年(1年目)
キャンプ開幕当初は、自主トレーニング中に痛めた右ひざの関節炎の影響もあり、2軍でのスタートとなったが、キャンプ会場の東風平町(現・八重瀬町)には多くのファンが集まった。

しかし、写真週刊誌で未成年にもかかわらず喫煙していたことが報道されると、「ワルビッシュ」と揶揄され、各種メディアに取り扱われた。球団は同日、本人に対して、2月21日に鎌ケ谷市の球団寮へ送還・無期限謹慎と謹慎中の社会貢献活動を命じる処分を言い渡した(2月28日の12チーム合同新人研修会は出席)。また、これを受けて東北高校は2月22日に本人を停学処分とした(3月1日の卒業式は停学処分期間中でまだ十分でないとして参加させず。3月8日、停学解除を以って他の生徒より1週間遅れで卒業)。ダルビッシュはそれ以前(2004年9月)にも喫煙している写真が週刊誌に掲載され、高野連より厳重注意処分を受けたことがあった。

2005年6月15日、広島東洋カープ戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)でプロ初登板初先発し、9回途中まで2失点の好投で高卒ルーキーとしては松坂大輔(西武)以来6年振り12人目の初登板初勝利を挙げる。

9月18日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦で2安打プロ初完封勝利。高卒ルーキーの完封勝利は1999年の松坂大輔(西武)以来、6年ぶり。


■2006年(2年目)
5月18日、阪神タイガース戦(甲子園)でレフト前にプロ初安打を放った。試合前に先輩の新庄剛志からバッティンググローブをもらい、試合後に「読み勝ちです。新庄さんのおかげで打てました」と話した。

6月6日、阪神タイガース戦(札幌ドーム)では毎回三振を奪い、プロ入り初となる二桁奪三振(計12奪三振)で完封勝利する。また7回1死までノーヒットピッチングであった。10代投手の毎回奪三振は1999年9月2日の松坂大輔(18歳11ヶ月)(西武)以来7年ぶり8人、9度目の記録。

中日ドラゴンズとの日本シリーズで第1戦と第5戦に登板した。10月21日の第1戦では敗戦投手となったが、10月26日の第5戦では7回1/3を失点1に抑え、勝利投手となり、この勝利で北海道日本ハムは前身の東映以来44年ぶり2度目の日本一を決めた。1956年の稲尾和久(西鉄)が19歳4ヶ月で勝利投手になったのに次ぐ、日本一決定勝利投手となった。

11月12日、アジアシリーズ決勝・台湾代表La Newベアーズ戦(東京ドーム)に先発し、8回途中まで、無失点と好投し、勝利投手となった。またシリーズのMVPも獲得し、2年目は飛躍の年となった。


■2007年(3年目)
2007年3月24日、千葉ロッテ戦(千葉マリン)でプロ入り初の開幕投手を務めた。

また監督推薦によりオールスターゲームに初出場し、7月20日の第1戦に先発登板し、2回を無安打無失点に抑え、優秀選手賞に輝いた。元チームメイトの小笠原道大との対戦では、全て直球を投げ、セカンドゴロに打ち取った。


【エピソード】
■父ファルサは有に何をさせようかと迷っていた。3歳のころ枕元に野球とバスケットとサッカーのボールを並べた。有が最初に手に取ったのが野球のボールだった。ファルサはサッカー選手であったため、サッカーのボールも蹴って渡したがそれも投げてしまった。それが野球人生の始まりだった。

■ファルサの実家は事業を手広く扱っている名家であり、ファルサ本人は野球人口が1,000人未満とされるイラン野球連盟の顧問に就任、現職。ファルサが共同経営するジャイレックス(兵庫県・芦屋市)が「ダルビッシュ」の名称の商標登録を出願、2004年8月に特許庁に受理されている。

■2005年1月30日、地元大阪のホテルで行われた「励ます会」に出席。その席で中学時代に所属したボーイズリーグ「オール羽曳野」にマイクロバス購入のため200万円を寄付した。

■2006年7月7日の西武ライオンズ戦(インボイスドーム)では先発を任されたが、ビジター用のユニフォームを札幌ドームのロッカーに置き忘れ、八木智哉のユニフォームを借りて登板した。ダルビッシュはこの失態に動じることなく、7回1失点の好投でチームを勝利に導いた。この日の日本ハムは前身の東映フライヤーズが1961年9月に達成して以来のチーム11連勝(球団タイ記録、当時)がかかった試合だった。ちなみにそのとき本人は「これで負けたら最悪です」とコメントしている。

■同期入団の涌井秀章(西武)とは、一緒に食事をする、携帯メールを送るなど仲が良い。また、1期下の炭谷銀仁朗や涌井と帯同し、3人で行動していることも多い。ダルビッシュは涌井に強いライバル心をもち、シーズン中も勝ち数がどちらが上かなどを気にする。

■2006年3月23日に、公式戦で1勝するごとに10万円を寄付し、発展途上国の井戸掘りやポンプ設置などの資金に充てる「ダルビッシュ有 水基金」の設立を発表。

■「オール羽曳野」時代の先輩である金森敬之が初勝利した際は、金森の部屋に枕を持って訪れ、そのまま語り明かしたという一面も持つ。

■多彩な変化球は彼の器用さが生んでいる。本人が「コツさえ掴めば何でも投げられる」と言うほどで、佐藤義則投手コーチが現役時代に考案し、他の投手では習得が難しいと言われるヨシボールさえ数日でマスターしてしまった。

■少年時代はアイスホッケーもやっていた。

■2007年8月7日現在では女優のサエコと熱愛が発覚、翌日8日には、サエコが妊娠3ヶ月であるとスポニチが報道した。シーズンオフに入籍予定。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070808-00000004-ykf-ent

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木村多江 エピソード&プロフィール

木村 多江(きむら たえ、1971年3月16日 - )は、東京都出身の女優。身長162cm、血液型はA型。所属事務所は融合事務所。白百合学園高校、昭和音楽芸術学院ミュージカル科卒業。特技はバレエ、日舞。21歳のときに父親を亡くしている。


【略歴】
■元々は舞台女優としてデビューしたが、『リング〜最終章〜』、『らせん』の両作品や『救命病棟24時』への出演で存在が一躍世間に知れ渡ることとなった。その後は『白い巨塔』、『大奥』へも出演(因みに、事務所の先輩である柳葉敏郎が出演した『踊る大捜査線 THE MOVIE』にも出演)。

■河野圭太と三谷幸喜が「彼女は業界にファンが多いんですよね」と語っている(『テレフォンショッキング』に出演した際、撮影のために練習した京都ことばでタモリはデレデレになり、「メモを渡しますから今度電話してその通りに言って欲しい」とも言った)。

■顔や目つきに影があることから「日本一不幸が板に付く女優」と称されている。杉田かおるが「多江ちゃんの不幸そうな顔がスタッフには好評なんですよね」と発言した(本人は「日本一死体役が似合う女優になりたい」とも語っている)。

■2005年6月26日には電通の社員と結婚した。

■2007年8月には妊娠を発表し、大奥を降板した。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070808-00000036-nks-ent

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中川翔子 エピソード&プロフィール

中川 翔子(なかがわ しょうこ、1985年5月5日 - )は日本の女性アイドル、マルチタレント(女優、声優、イラストレーター、歌手、ブロガー)。父はミュージシャン・俳優の中川勝彦。東京都出身。血液型A型。

ワタナベエンターテインメント所属。愛称は「しょこたん」(「王様のブランチ」で共演した金田美香にはブログ上で「ショコタス」と呼ばれている)。戸籍上の本名は中川しようこ(「しょうこ」ではない。経緯は後述。通名:薔子)。左利きである。

憧れの人はブルース・リー。アイドルとしては松田聖子、二次元ではベジータ、トランクス、セフィロス等をあげている。

漫画・アニメ好きで有名であるほか、プロボクシング観戦が趣味という。


【来歴】
■1994年、9歳の時に父親の中川勝彦が白血病にかかり死別。母親によって育てられる。

■2001年、ポポロガールオーディションでグランプリを受賞、デビュー。

■デビュー当初は、ジャッキー・チェン事務所に所属。

■後にMUSIC ON! TVの『夢ヶ丘レジデンス』では、ゲストのミドリカワ書房にジャッキー・チェンの写真集を渡されたが、「ブルース・リーの敵と思っていた」など(『燃えよドラゴン』での事と思われるが、上記の事務所に所属していたことがあり、後述の通り本人とも面識があるので意味深ともとれる)と発言した。

■2002年にミス週刊少年マガジン2002に選ばれる。

■2004年にフジテレビ系『考えるヒト』にスポット出演した際に卓越したイラスト力を見せつけ、2005年の序盤に番組をマイナーチェンジしたフジテレビ系『考えるヒトコマ』にレギュラー扱いで出演して出番を勝ち取った形となった。

■2005年5月から1年弱にわたって、TBS系『王様のブランチ』にレギュラー出演、これが一般的に知名度を上げるきっかけとなる。

■2006年7月にシングル「Brilliant Dream」でCDデビュー。オリコン初登場29位、初動6313枚。


【人物】
女優・漫画・歌・ブログなど多方面での活躍を見せていることから、単なるアイドルやタレントではなくマルチタレントと分類される。

アイドルにしては珍しくオタク方面に関する知識が深い。これは中川によると父の影響だという。中川勝彦は、当時5歳の翔子に「これを読まないと大人になれない」と言い、『ゲゲゲの鬼太郎』と楳図かずおの『赤んぼ少女』をいきなり全巻買って与えたりするような人物だったというエピソードもある。父親の教育の賜物からか、昔のアニメ、1980年代アイドルソング、及びレトロゲームなどに詳しい。ただし、自身の価値基準が非常に明快であるため評価する作品としない作品もはっきりしている。爆笑問題の番組に出た際、「『シティーハンター』って、面白いんですか?」などと発言したこともあり、ある情報番組で、松本零士の話題になったところ、「『ヤマト』なんて観たことないし、今さら、観たくも無い。」と発言した。

自身のブログであるしょこたん☆ぶろぐは圧倒的な人気を誇る。このブログでは普段の生活を報告している形になっている。圧倒的な人気を誇る理由としてはテレビやラジオでの親しみやすいキャラクターなども起因しているようである。

特撮ではスーパー戦隊シリーズに好きな作品が多く、中でも『未来戦隊タイムレンジャー』のタイムピンクことユウリをネ申と崇めており、当時後楽園ゆうえんちで行われていた戦隊ショーに徹夜で並んで最前列で見ていた過去を持つ。そして自身も2004年の『特捜戦隊デカレンジャー』第38話で念願のゲスト出演を果たした(なお、『地球戦隊ファイブマン』に子役で出演した事もある)。自身は、自分が芸能界に目を向けたきっかけは、父よりもむしろユウリを演じた勝村美香への憧れであり、グラビアの仕事をする際のお手本も勝村の写真集やDVDだと語っている。その憧れの人・勝村とは後に『メンB』で共演を果たし、今では妹分のように可愛がられている。

芸能方面では、ブルース・リーのファンでありカンフー映画に関する造詣も深い。広東語を習い覚えたり、母親と共に何度も香港を訪れたりもしている(広東語については実はすぐにやめてしまい、ほとんど分からないがハッタリでプロフィールに書き続けていると番組内で告白している)。ジャッキー・チェンとは香港旅行の際、チェンの経営するレストランで偶然出会って知り合いになった。本人の描いたイラストは香港のジャッキー・チェンの事務所に飾られている。また自分用のトラックスーツ(13歳の頃に祖父にねだって購入してもらい、現在は4着所持している)や自作のヌンチャク(ピンクのファー付き)まで所有する。また、松田聖子の大ファンである。このほかSOUL'd OUTやモーニング娘。やカントリー娘。のファンとしても知られ、ライブの観覧経験もある。

特技は漫画とイラスト。楳図かずおを崇拝し、漫画家を目指していた。準レギュラー出演の『考えるヒトコマ』(フジテレビ)では楳図かずお風の絵を描きその片鱗を見せている。また、2006年5月11日放送の日本テレビ系『ダウンタウンDX』でも一部が公開され、高く評価された。

2007年現在、オフィシャルサイトで漫画『SHOCOTAN☆QUEST』を連載中。また芸能界入りした後も諦めずにイラストを描いていることを買われて、集英社『週刊少年ジャンプ』2006年13号から読者投稿コーナー「ジャンプ魂」のメンバー(投稿選考者)になっている。

料理は苦手であり、2005年8月に出演した『恋のエプロン』(テレビ朝日)のスペシャル版で、10年ぶりに立つキッチンで作ったロールキャベツは審査員を絶望させる出来であった。それがきっかけとなり、11月には引き続いて『愛のエプロン』にも出演したが、ここで作った「シュークリーム & コーヒーゼリー」もやはり散々な出来で、ランキングもこの日のエプロンガールズの中で最下位となった。

2006年6月頃には胃腸虚弱を告白しており、その件の際には深刻そうな表情やギャグめいた流れに本人自体が持っていくこともあった。

2006年11月25日の自身のブログにおいて、Wikipediaに関する話題にふれ、Wikipediaめぐりを楽しんでいることを明らかにし、特にオタク系の記事の充実ぶりを高く評価した。また、Wikipedia・Wikiと称されるシステムは、個々の文書が高度に連携した文書群を作成しやすいという特徴があるが、この点に対しても関連人物から飛ぶとキリがないと発言し一定の理解を示している。なお、「自分の項を無茶苦茶にしたい」とも冗談めかして語っている。

蝉の抜け殻の収集が趣味(集めた抜け殻は髪の毛にくっ付けて遊ぶという)であるとブログで公言したことから全国のファンより多くの蝉の抜け殻が送られてきたという。2007年2月24日放送の「未来創造堂」ではそのコレクションの一部をスタジオに持ち込んだ。

2007年3月14日に関西地方で放送されたマルコポロリ!という番組での占いコーナーで、中川翔子は将来は恵まれた人と結婚して幸せになれると予言されていた。

2007年7月14日放送の『ドッカ〜ン!』(TBS系)の「リヤカー先生」のコーナーで、不法投棄されたある雑誌の「小悪魔度チェック」というコーナーでは、小悪魔度が100%となった。


【コスプレ】
また、大のコスプレ好きとしても知られ、オークションを利用し服を買い込んでいる(主に『新世紀エヴァンゲリオン』・『ファイナルファンタジー』・『美少女戦士セーラームーン』など)。この趣味はグラビアアイドルとしての彼女の活動にも役立っている。

コスプレは1人ですることが多いが、自宅に友人の伊藤彩華や喜屋武ちあきが来たときには一緒にしている事が確認されている。その際、中川が長髪、伊藤または喜屋武が短髪のキャラクターを担当する事が多い(例えば『セーラームーン』の場合、中川:うさぎ、伊藤:亜美、『エヴァンゲリオン』なら中川:アスカ、伊藤:レイ、『プリキュア』なら中川:ほのか、伊藤:なぎさ…となる)。コスプレした日のブログの更新数は決まって普段より多い。また、ブログでは母と共にコスプレしている姿も披露されている。

2006年5月30日放送の『カスペ!』の『フジ銀行 芸能人査定係』で、『課長島耕作』も好きである事が判明し、司会をしていた青木さやかに「渋いねぇ」と言われていた。また同番組内で「趣味に関してはお金に糸目は付けない」と言っていた為、漫画やコスプレ衣装購入にかなりのお金を使っていると思われる。しかし、TVゲームを購入するかどうかは少し迷うようである。

2006年10月4日放送の『個人授業(プライベートレッスン)〜正しい和田アキ子の作り方〜』に講師役で出演した際は、冒頭から『涼宮ハルヒ』のコスプレでアニメのエンディングを踊りながら登場。ハルヒになりきった不遜な態度で「ヲタク学」を熱く語り続け、生徒役の和田アキ子を終始たじろがせていた(中川の「そんなのも知らないの?あんたバカ?」という発言に、和田は小声で「しばいたろか」とつぶやいている)。中川は更に『エヴァ』のミサト(本人が撮影したというビデオ映像)、『おジャ魔女』のどれみ、『ドラゴンボール』のベジータのコスプレを披露し、最後は和田にもコスプレをさせて中川:アスカ、和田:レイのツーショットをやってのけ、演技指導まで行った。

2007年2月26日放送の『浜ちゃんと!』にゲスト出演した際は、自前のトラックスーツを着用してブルース・リーのコスプレを披露。浜田雅功をカメラマン役にして「死亡遊戯」の名シーンを再現した。

また2007年の「世界コスプレサミット」では世界コスプレ親善大使を務め、外務省を表敬訪問している。


【ブログ】
2004年より公式ブログ『しょこたん☆ぶろぐ』の運営を開始し、2006年4月には総アクセス数が1億ヒットを突破するほどの人気を博している。凝り性の性格と、自身でもインタビューで認めているようにメモ帳代わりの感覚で書き込むことから更新頻度が極めて高く、また上記の各項目からも想像できるように、文中にオタク的な記述も非常に多い。2005年4月には1ヶ月600更新を記録し、自身の2ndシングル「ストロベリmelody」の発売日である2007年2月14日には1日の最多更新記録を87にまで伸ばした。おそらくアイドルのブログとしては更新回数の日本記録であろう。眞鍋かをりが“ブログの女王”と呼ばれていたのにちなみ“新・ブログの女王”と呼ばれるようになった。好評を博し、2005年9月にはブログの内容をまとめた同名の書籍『しょこたん☆ぶろぐ』がゴマブックスより刊行された。

過去にゲームの画面が掲載されたりなど著作権や個人情報保護法にに抵触する可能性のある記事も目立ったが、現在それらは削除されていて、最近は他のアイドルの写真集やゲームのパッケージなどもちゃんと肖像権に配慮して顔や絵が写らないようにして画像を貼っている(なお、更新数の多さや本人のオタク度、ブログの書籍化などから目立っているが、これらは通常のブロガーにも、まま見受けられる行為である。なお歌詞の著作権問題に関しては日本音楽著作権協会の項参照)。

2004年9月頃より、まだ開設間もないニュース速報(VIP)板で彼女のオタクな趣味やアイドルとは思えないイラストなどが注目を集め板のアイドルとされ女神的存在に祭り上げられた。そのため、ブログの文にVIP語の使用や、写真に内藤ホライゾンのマネ「⊂二二二( ^ω^)二⊃」が見られるようになった(但し、これらの語をメディアなどではVIP語ではなく「しょこたん語」として紹介されている)。

24時間テレビ出演後、アクセス数が増加したのに伴い、アダルトサイト、業者系、芸能ネタ関係のトラックバックスパムが相継ぎ、更新もままならない状態(題名が「non title」になる、送ったのに反映されないなど)になったためか、トラックバックが閉鎖され、ブログではなく公開日記帳形式になった。現在、ファンからリアルタイムにメッセージを伝えるには、携帯のゲストブック(有料)のみとなっている。

2007年2月、ブログの総アクセス数が5億件を突破した。


【猫】
撮影中に見つけた捨て猫を拾ってしまう程の猫好き。現在3匹の猫をペットとして飼っている。

■ちび太(オス、ブチ)
『きょうの猫村さん』に出てくる猫村ねこに似ていることから「猫村」とも呼ぶ。
■マミ(メス、キジトラ)
『魔法の天使クリィミーマミ』から命名、「マミタス」「マミトシ」「mmts」「マミたん」とも呼ぶ。
■ルナ(オス、黒)
『ドットシティ Presents 中川翔子 しょこたうん』内にて『美少女戦士セーラームーン』の黒ネコより命名。

このうち特にマミタスを溺愛しており、ブログにも頻繁に登場する。その愛らしい姿に「マミタスファン」も多い。テレビ番組や雑誌への出演経験もあり、2006年8月には写真集『ギザ☆マミタス!!』も発売。ブログ内で度々行われる「グッドスメル」(飼猫の大事な部分に鼻を当ててかぐ)という行為も、その溺愛ぶりとして有名である。また、マミタスに関しては飼い主のコスプレに付き合わされているが(特に『美少女戦士セーラームーン』のルナ役として)、最近黒ネコの「ルナ」にその座を奪われている。


【本名】
自身の著書の『しょこ☆まにゅ』によると、母親が彼女を出産したときは母子ともに危険な状態であったために入院し続ける必要があり、区役所に名前を届けにいくことができず伯母に代わりに区役所に行ってもらったという。本名の「中川しようこ」は、伯母が妹の娘の名前を「薔子」として区役所に提出しようとしたが、「薔」の字が常用漢字及び人名用漢字でなかったため受理されず憤慨、怒りのあまりその場でひらがなで「しょうこ」と書き殴って提出した事による。本来の意図としては「しょうこ」だったが、当時のミスで「ょ」と「よ」の区別が付かず戸籍上「しようこ」と登録された。この事を彼女が知ったのは、成人になってからである。手書きでは「しよ」が融合してしまい「はうこ」と書かれることがある。

ネット上では『はうこ』と呼ばれることもあるが、本人も悪くは思っていないようである。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070807-00000023-dal-ent

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中川翔子/cutie attack

中川翔子/cutie attack

サエコ エピソード&プロフィール

サエコ(1986年11月16日 - )は、平成期の女優・女性タレント。 宮崎県宮崎市出身。トップコート所属。 血液型O。身長157cm、体重43kg。2003年、日本テレビ主催の女性アイドル応援企画「日テレジェニック」に最年少で選ばれる。同期生は井上和香、山本彩乃ら。特技は陸上、バレエ、ジャズダンス。趣味はネイルアート、詩を書くこと。左利きである。本名は公式サイトに表示されていない。「道休サエコ」名義での活動歴がある。


【人物】
■特技は陸上、バレエ、ジャズダンス。

■趣味はネイルアート、詩を書くこと。

■中学時代は、宮崎県の日向学院に通っていた。日テレジェニックに選ばれる前、「道休サエコ」(どうきゅうさえこ)の名で活動していた時期がある。高校は、堀越高等学校卒である。

■2006年4月、早稲田大学人間科学部人間情報科学科通信教育課程に入学している。ソニンや松浦亜弥・大沢あかねなどと親しい間柄。

■家族とも仲が良く、母の作ってくれる料理が大好物(ただし料理は大の苦手であり、ガスコンロの使い方さえわからない程である)。愛犬Dollを溺愛しており、毎日一緒に寝ているらしい。

■個人ブログ「サエコ栽培」では、近況などを自身撮影の画像と共に載せている。本人はブログで「人前で歌うことは嫌い」と述べており、事実メディアで歌声を披露した数少ない機会がフジテレビ「新堂本兄弟」に平山あや・ソニン・hiroと出演した回であるが、4人で安室奈美恵の「TRY ME」を歌ったものの、それは『お世辞にも上手い』とは言いがたい音程であった。しかし、それを堂々と歌いきった事から、ネット上では「サエコ師匠(由来はサッカー元日本代表の鈴木隆行から)』などと呼ばれ、大きな話題となった。

■毎日様々な服装をその日の気分でテーマを決めてコーディネートしている。

■特有のアニメ声は有名。たまにヘリウム声と言われる事も。

■単身赴任していた堂本光一の父の家が近いため、ピンポンダッシュしたことがある。

■子供のころダンゴムシを食べたことがあると衝撃発言をしている。また、蟻もよく食べていたとの噂もある。

■映画「バックダンサーズ」にてソニンから殴られたとき、一瞬あごが外れたらしい。

■のだめカンタービレの役(佐久桜)を演じるために、茶髪から黒髪にした。

■2005年に「クイズ!ヘキサゴンII」に1度出演した際、事前のペーパーテストで何と最下位を記録した。本人は「誰かの陰謀ですよ!」と反論したが、この後は全く活躍を見せられなかった(最後のクイズリレーも出番が回る前に終了し、1時間で全く出番が無かったと言っても過言では無かった)。それ以降、彼女の出演は一切無い。

■2007年8月、ダルビッシュ有との交際が発覚。同時に妊娠していることも発覚した。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070808-00000000-spn-spo

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叶姉妹 エピソード&プロフィール

叶姉妹(かのうしまい)は、叶恭子(かのう きょうこ、1962年10月7日 - )と叶美香(かのう みか、1967年9月23日 - )の2人からなるユニット。実の姉妹ではない。「トータルビューティーアドバイザー」「トータルライフアドバイザー」を自称するが、その実態は本人たち以外には窺い知ることはできない。


【メンバー】
■叶恭子
本名小山恭子。大阪市城東区出身。帝国女子高等学校(現・大阪国際滝井高等学校)中退。身長168cm、B96cm、W56p、H90cm。血液型O型。

・叶姉妹では姉(長女)の設定。「美香には少し厳しいが、全ての世話を美香にやらせており美香がいなくなると困ってしまう」というように、奔放で世間知らずな姉の役。

・高校中退後、様々な職種を経て、本名の小山恭子の名でファッションモデルとして活動。

・モデル名鑑によるとオスカープロモーションに杉本エルザという芸名で所属していた(本人は否定)。当時の活動は、エキストラとして以外は特に経歴に残るものはない。

・1984年頃から叶恭子と名乗り始め、グラビアやカラオケビデオなど、肌を露出した仕事を始める。
 

■叶美香
本名玉井 美香。愛媛県西条市(旧:東予市)出身大阪府松原市育ち。樟蔭東高等学校、夙川学院短期大学児童教育学科卒業。身長170p、B98cm、W58cm、H91cm。

・第20回1988年ミス日本グランプリ。

・小学校教諭二種免許を所持している。

・高校時代、本名である玉井 美香の名で阪神タイガースを応援する番組「週刊トラトラタイガース」に番組アシスタントとして出演。

・1988年、日本テレビ系の深夜番組「11PM」のカバーガールとして月曜日にレギュラー出演。

・その後、某プロデューサーの肝煎りで玉乃ヒカリと改名、グラビアアイドルとして活動していた。当時もテレビ出演などの経験があり、新人としてはそこそこ売れていた(叶恭子に比べれば、芸歴では圧倒している)。

・叶姉妹では奔放な姉のフォローをするしっかりものの妹(三女)の役。恭子と一緒に出演するだけでなく、単独でのテレビ番組出演も多い。傍若無人ともとれる姉の行動に振り回されることもしばしばだが、それをよくテレビでネタにするなど、したたかな性格でもある。

・2000年、映画「サルサ」の主題歌を日本語でカバーしたシングル「サルサ!アマイエクスタシー」をインディーズよりリリース(製造元は東芝EMI)。恭子が作詞を担当。オリコン初登場152位、2週目176位。

・2004年、スーパービューティーミカリン+K with キューティーモンすたーズ名義で「O・SU・SO・WA・KE〜プルプルンのキュッのボン!〜」をリリース。自身が出演していた教育番組『モンすたージオ』テーマソングの他、DHCのCMソングとしてもオンエアされた。恭子が振り付けを行った。

・2006年4月3日、美香を被写体に恭子が撮影したという触れ込み(実際に撮影したのは素人の恭子ではなく、写真集やDVDのパッケージなど叶姉妹関連の仕事の多いカメラマンの大川直人によるもの)のヘアヌード写真集「Sweet Goddess」が発売された。男性はもとより女性にも広く支持され、20万部を突破するベストセラーとなる。


《過去のメンバー》   
■叶晴栄(かのう はるえ)
・本名小山晴栄。「はるゑ」の表記もあり。

・次女(の設定)。恭子の実の妹。 

・デビュー当初からしばらく3人で活動していたが、結婚を理由に脱退。2000年に離婚後は、姉妹のマネージャー役を務めている。恭子らが「3人での活動もあるかも知れない」と発言し、復帰も噂されたが、現在までにそうした活動はない。

・2007年1月に行方不明となり、話題となる。


【特徴】
もともとは個別にそれなりに芸能活動をしていたが(後述)、注目を浴びるようになったのは雑誌『25ans』のスーパー読者として登場した事から。2人は設定上は異父姉妹だが、実際は姉妹でも異父姉妹でもない。まれに誤解されるが、叶姉妹は芸能ユニットであり、メディアでの行動や発言は、あくまで商業上の設定に基づく職務として行っているものである。ユニット結成当初は「三人姉妹」であった。恭子と美香の間に次女 ・晴栄(はるゑ)がおり「叶三姉妹」として取りあげられていた。結婚を理由に脱退したが2000年に離婚。現在は2人のマネージャーをしている(晴栄は恭子の実の妹)。近年は“姉妹”である事を強調するが、テレビに出始めの頃は恭子が「姉妹でも異父姉妹でもありません、それっていけない事ですか?」と笑いを取っていた。

テレビ番組などに出演を始めた当初は「親が大変なお金持ちであるため、自分達もお金持ち。」という設定を使っていた。これはアメリカで注目されているヒルトン姉妹の日本版ということで叶姉妹を売りたかったためと思われるが、この設定を本気にした多数の人間が二人の実家におしかけ、寄付を求めたりセールスをしたりと大変な騒ぎになったため、この設定は封印された。実際の二人の両親は、普通の生活水準である。恭子は2007年8月号「婦人公論」のインタビューで「私たちはある事情で家族、親類と過ごした時間が少ない。」と明かしている。

ゴージャスな衣服を身にまとい、豪遊しているが芸能活動以外の収入源が謎だということを宣伝することにより、「個人スポンサーが付いているのではないか」「海外セレブ相手の高級娼婦ではないか」という設定が、バブル崩壊後のデフレや質素倹約が叫ばれる世情の中で非常に目立ち、よく受け入れられた。「お金持ちの芸能人」という分かりやすいキャラクターを提示したことが、成功の秘訣だったと言われる。またそれに尾ひれがつき「セレブを1回相手するだけで200万円前後貰っている」「石油王がパトロンだ」など詳細な事が囁かれ始め、イメージダウンするどころか、今までに無い不思議さに一気にブレークした。余談であるが、本人達に「収入源は?」と聞く事は芸能界におけるタブー(野暮な事)となっている(と言うよりは執拗に問おうとする芸能人がいない)。アメリカでは、日本で芸能活動をする前にコールガールであり、ドナルド・トランプとも関係を持ったと言われている。 

男性のみならずライフスタイル自体を崇拝する女性からも支持される。ただその人気の一方で極端なゴージャス指向に批判的な意見を持つ人も少なくはない。また完璧すぎるスタイルは「豊胸サイボーグ」と言われる。2002年7月に青山で開催されたファッションブランド「プレイボーイ」のパーティーに参加。その際フローラン・ダバディーが「どんな姿勢になっても、動かない胸を持つ、叶姉妹。大和にもロボット(ここでは「人工的に作られた美しさを持つ女性」の意味)がいた。」と評している。常々、整形疑惑は絶えず、ネット上で過去と現在の写真を比較するサイトまである。

極端なゴージャス指向を批判されながらも、彼女達のトークは日常生活のことをネタにしていたり、特に美香は姉とのエピソードを自虐的に語っており、近年、人を毒舌でネタにするタレントが多い為に、評価されている面もある。

職業については疑問点が多いが、「トータルビューティーアドバイザー」「トータルライフアドバイザー」と自称する。本人達によると、普段、皆が行っている事を叶姉妹らしくするというもので、ユニット名である「叶姉妹」は自分達の職業の名前でもあるという。衣服や宝石などは、その企業が広告主となって宣伝のために提供している。これを叶姉妹が「自分で選んだ」という設定で宣伝している。彼女らが自称する職業を分かりやすく言い換えれば、巧妙な宣伝・広告のためのファッションモデルである。

「殿方の」を「メンズ」と呼ぶ。その中でも特別に容姿端麗な男性の事を「グッド・ルッキング・ガイ」と呼んでいる。日本人が和製英語を使う中で、こういった英語表現も、雰囲気作りに一役かっており、記号化された叶姉妹らしさといえ、魅力のひとつと言える。

キッズステーションで放送される小児向け教育番組『モンすたージオ』にCGキャラクター「スーパービューティー」として出演。「ココ」(恭子)と「ミカリン」(美香)

以前は関西ローカルのスパワールドのCMに出演していたこともあるが、現在は、DHCのCMキャラクターとしても活動中。同社の会誌などにも美香が時折掲載される。

テレビ番組に出演する事も多く、映画の試写会にはなぜかよく招待されていることが多い。テレビに出演するとき、夏でも冬でも常に露出度の高いノースリーブで出演している。


【エピソード】
※ただし、以下のエピソードは本人談の芸能設定を多分に含む。

■「デヴィ夫人と不仲」と言われるが、意外に共演回数も多く、社交界の友人の1人だとか。 

■「ロンドンハーツ」(テレビ朝日系)で一回の食事で32万を費やし、好きなものが結果的には高価な物だと発言。「山ほど頼んで、山ほど残す」事も多々あるようで、批判の要因だと言える。

■様々なプレゼントをされ「超有名某宝石ブランドのVIPルームで宝石を選び放題」「クリスマスツリーに(クレジット)カードがぶら下げてある」等。数々の高級品をプレゼントされている為、並の物では驚かないらしいが、今まで一番嬉しかったプレゼントは島の権利書、株券等。 

■独特の美意識が強く、すっぽんの生き血にまだ鼓動する心臓を沈めて飲み、また肉も毎日食べる。シャンパン風呂、サムゲタン(韓国料理で丸鶏や若鶏を用いた薬膳スープの様なもの)風呂に裸で入る事である。2人曰く体全体でコラーゲンを吸収出来るらしいが、専門的な見解は一切無い。

■『芸能人格付けチェック』で色々な一流品と一般品を見極めるコーナーで唯一、叶姉妹だけが12問連続正解し「一流芸能人」の座を守った。


《叶恭子》
■いつも連れている男性達にはA、B、Cランクとあるらしく派閥も存在する。スーパーモデル等、総勢100人近くおり「必需品」と語る。大人数な為、名前がよく被り、被り易い名前は「スチュアート」と「リチャード」。被ってしまうと1号、2号と付け区別する。電話がかかってきて、美香が「リチャード1号から電話ですよ」と取り次ぐと、1号にも関らず、3号と勘違いして会話している事もよくある。デートする人も曜日で分かれている。ホテルの大部屋で大勢の男性達を裸にさせ「人間チェス」を楽しんだり、カラオケに行き自身も全裸となり歌ったり、男性に跨り「お馬さんごっこ」をしている(その後複数で夜もこなすそう)。これを「ダウンタウンDX」(日本テレビ系)で話し、勿論共演者全員驚いていたが平然と「チェスの人間版ってだけの事ですもの」と言い放った。恭子にのめり込み過ぎてノイローゼになり母国に帰ったスーパーモデルもいたそう(美香が「踊る!さんま御殿」(日本テレビ系)に出演した際に暴露)。因みに同時に愛することの出来る男性の人数について「時間的にも肉体的にも6人までなら、男を同時に平等に愛すことができます」と「ダウンタウンDX」(日本テレビ系)で発言した。(無論、設定であると思われる。)

■自分が不利になると「美香さんがそう言えって」「ねぇ、美香さん」と言う。 

■気に入った男性を見つけると美香を使ってナンパさせ、捕まえるまで追わせる。 

■美香が将来結婚したらその旦那を姉妹共有の性玩具として夜を楽しみたいという願望がある。

■自信に溢れた雰囲気とは裏腹に、意外に照れ屋である。 

■自宅の中では全裸で生活していると語る。

■変わり者の多い芸能人でも、理解困難な数々の驚くべき発言から「空飛ぶグータン」(フジテレビ系)に出演した際「30秒に1回面白い事を言う女」と紹介された。 

■「結婚はお金の為にする」と豪語しており「踊る!さんま御殿」(日本テレビ系)で明石家さんまに「どんな人と結婚したい?」と聞かれると「小さな国でも構わないので、王様ですかね」と答えた。もし結婚した場合も美香と一緒に暮らし、美香が先に結婚した場合も付いて行くのだとか。 

■「毛皮コートは汚れたら新しいのを買えばいいじゃないですか?」と発言した。

■お腹を露出した衣装でイベントに参加したところ、翌日の新聞に「恭子のお腹が弛んでいる」と掲載され話題となった。この報道があってから、恭子は暫く自身のイベントでお腹を露出した衣装は着なくなった。だが美容関連の書籍を出版しているだけあって直ぐに体形を戻し、再びお腹を露出した衣装を着始めた。

■深夜に美香がスケジュール管理をしている時に毎晩の様にデートに行くらしく、「爆笑問題の検索ちゃん」(テレビ朝日系)で太田光に「美香さんは大変そうですけど?」と聞かれると「やるべき事をやっているだけ」と答えた。スケジュール管理は妹に任せているが、デートの誘いを勝手に断られるのは嫌らしい(実際のスケジュール管理は、妹でありマネージャーでもある晴栄がやっているので、「妹に任せている」というのは嘘ではない。)。

■本屋に行くと、昆虫図鑑を中心に10〜15万円は購入する。本屋に限らず買い物の荷物持ちは男性達である。因みに買い物はいつも衝動買いであり「最終的には買うのが遅いか早いかだけ」と語っている。 

■美野里ふるさと食品公社の「ごぜんやまゆずヨーグルト」が好物の一つで、一日5個は食べるらしい。


《叶美香》
■着用している物の殆どが、姉のお下がりだというが、無論、設定であると思われる。芸能人としての地位やおそらく収入も、叶美香の方が恭子より上と推測されるため。

■好奇心旺盛らしく「爆笑問題の検索ちゃん」に出演した際、恭子に「とにかく事細かに聞いて店員を困らせる事がある」と暴露された。 
■ゴルフが得意。芸能人ゴルフコンペに単独で出場している姿がマスコミでもよく取り上げられる。

■連夜姉の世話に追われ、なかなか彼氏が出来ない。また、男性を恭子によく奪われてしまうらしく、今まで奪われた人数は50人である。「付き合っている人やいいなと思う人は、なぜだか皆、姉に奪われるんです。いいなぁと思う人は、次回食事する時はだいたい姉とピッタリくっついているんです。そして1度奪われたメンズは決して帰ってこないんです。」と発言している。この発言に対して恭子は、「奪っているんではなく、勝手に来るんですよ〜」と発言した。ちなみに好みのタイプは「誠実な人」。


【次女・晴栄失踪に関すること】
2007年2月9日放送回の「おはよう朝日です」(ABCテレビ)で芸能レポーターの井上公造が、晴栄は恭子の3億円以上する10カラットのダイヤの指輪、ダイヤが散りばめられた時計や他のジュエリーを付けたまま姿がわからなくなり、恭子が警察署で捜索のために相談していると語った。その後、「女性セブン」誌の報道を機に晴栄の失踪は広く知られることとなった。各種報道機関によって「叶姉妹が宝石や衣装保管の為に借りた家賃60万円のマンションに住んでいた」「そのマンションに保管してあった宝石・高級家具など5億円相当を持って逃げた」「現在消息不明」「警察に被害届けが出された」ことが報道され、世間の注目を集めている。

  叶恭子の代理人の弁護士による2月22日の緊急会見で、1月26日に叶姉妹に晴栄と連絡が取れないとのことで相談を受けマンションに行ってみると鍵が付け替えられていて、同28日に心配して晴栄の部屋に行ったところ、もぬけの殻というよりも綺麗に掃除されていたとのことだった。使い古しの家具などは、残っており選別した形跡があったことから、「計画的なことが伝わってきた」として、2月6日に被害届のコピーを提出。その後、警察から連絡があり、正式な文書として被害の目録を付け14日に受理された。

晴栄は2月17日に弁護士とともに警察に出頭し事情聴取を受けた。

書籍「Love&Sex」の発売時期とほぼ重なる形で今回の騒動が話題となった為に、書籍の宣伝ではないかと疑惑を持たれたが恭子、美香共に「その様な事はありません。書籍の内容と今回の件がリンクしているとは思えません。」ときっぱり否定し、涙ながらに訴えた。

取材をした井上公造曰く、恭子は実妹である晴栄が失踪したことで相当気を病んでおり、電話口でも疲れている様子が分ったという。恭子らは持ち逃げされた宝石などの行方よりも晴栄の事が心配であると語り、今回の騒動でストレスからか4kg痩せたという。

2007年2月27日に恭子の弁護士が会見を行なったが、晴栄は「自分のもの以外は持ち出していない」「3億円相当といわれている10カラットのダイヤモンドだけども、あんなのは1000万円程度の価値しかない」などと語っているという。一方の恭子は晴栄に対して刑事告訴(業務上横領)と、民事告訴(所有権に基づく引き渡し請求)することを決めている。

2007年3月17日のカワズ君の検索生活の第2検索ワードランキングで7位と9位がこの事件に関する事で「※大人の事情」に伏せられた。

この一連の騒動で、晴栄の存在と叶姉妹が元は三姉妹であった事も広く知られる様になった。

恭子は2007年8月号「婦人公論」のインタビューで『ただ、謝ってくれさえすればいいんです。手遅れなんて事は死ぬまでありませんから。』と述べている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070806-00000003-oric-ent

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小室哲哉 エピソード&プロフィール

小室 哲哉(こむろ てつや、1958年11月27日 - )は、日本の東京都府中市出身の音楽家。音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、編曲家、キーボーディスト、シンセサイザープログラマー、ミキシングエンジニア、DJ。

日本国内のマネージメントは2001年から吉本興業が行っていたが、2007年6月末で契約満了に付き終了した。妻はglobeのボーカルのKEIKO。 愛称は「先生」「てっちゃん」「TK」など。


【略歴・概要】
1986年に渡辺美里へ提供した「My Revolution」で日本レコード大賞作曲賞を受賞。自身のユニットであるTM NETWORKは、1987年に発表した「Get Wild」で一躍人気バンドとなり、1988年には第39回NHK紅白歌合戦に出場した。

自身のバンド活動と平行して、渡辺美里をはじめ、岡田有希子、荻野目洋子、おニャン子クラブの福永恵規、堀ちえみ、中山美穂、松田聖子、小泉今日子、宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂、中森明菜などに楽曲を提供し、作曲家としても活躍した。

1989年に自身がリードボーカルを担当したソロ作の「RUNNING TO HORIZON」、「GRAVITY OF LOVE」が連続でオリコンシングルチャート1位を記録。1985年〜1992年の間には、アニメーション映画の「吸血鬼ハンターD」、実写映画の「ぼくらの七日間戦争」、「天と地と」、月9テレビドラマの「二十歳の約束」、舞台ミュージカルの「マドモアゼル・モーツァルト」の劇中音楽を手掛けた。

1994年のTMN終了前後から、観月ありさ、篠原涼子、trf、hitomi、内田有紀、H Jungle with t、dos、globe、華原朋美、安室奈美恵、鈴木あみなど、多数のプロデュース活動を行い、1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーやヒット曲を打ち立て、その様子から各メディアにおいて、「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった独自の名称でカテゴライズされるなど社会現象となった。

小室哲哉がこれまでにプロデュースしたシングル・アルバムの総売上枚数は、約1億7000万枚に達する。


【人物】
■早稲田実業学校高等部商業科卒業後、早稲田大学に進学し5年ほど在籍するが除籍、現在は推薦校友になっている。2001年に早稲田実業学校開校百周年記念に百周年記念歌『ワセダ輝く』を作曲(作詞は奥島孝康)。母校の早稲田実業学校には『小室哲哉記念ホール』がある。早稲田実業時代は音楽活動に没頭していた。

■かつてはファミリーレストラン好きの一方で大の魚嫌いなど、かなりの偏食でも有名であった。「小室の魚介類嫌いはあまりにも有名だ。それを最初に吹聴して回ったのは、誰であろう、僕(木根尚登)とウツ(宇都宮隆)である。」(『続・電気仕掛けの預言者たち』 木根尚登著より)

■TM NETWORK時代にラジオ「小室哲哉のSF Rock Station」(東海ラジオ)の企画で結成したユニット「ハンバーグ&カニクリームコロッケ」は、当時お気に入りだったすかいらーくのメニューから名づけたほど。以前は全く魚が食べられず、本人曰く「父親に座敷のぼりを使って脅かされたのがきっかけ」らしい。魚は嫌いというよりもむしろ「魚を見るのが怖い」(本人談)だったようだ。イマジネーション旺盛な事が影響してか「(魚の)串焼きってあるじゃないですか。もしそれが人間だったら…って考えてしまうとだめなんですよね…」とおしゃれカンケイ出演時、また、「水族館に行った時目の前で魚が破裂したのを見て以来ダメ」とも「笑っていいとも」語っていた。

■ただ最近は結婚生活のせいか、魚も普通に食べられるようになるなど、偏食から脱してきているという。1994年TMN終了時に出演した「笑っていいとも」では栄養ドリンクが好きであると語っていた。

■楽曲提供や音楽プロデュースと並行して、TM NETWORK、globe、GABALLなどのユニットの一員としても活動する。

■現在は国連薬物犯罪事務所(UNODC)の親善大使も務めており、2007年4月から尚美学園大学の芸術情報学部・音楽表現学科・特任教授に就任している。担当授業は音楽特論(新世紀音楽概論)。


【バイオグラフィー】
■早稲田実業学校時代より複数のバンドで活動。

■1974年
・ニューミュージックのアマチュアバンド「哀婉」で活動。

■1975年
・プロ・ミュージシャンとしての活動を開始。
・あのねのね、白竜、原田真二等のバックバンドを経験。

■1980年
・SPEEDWAYに参加。
・月光仮面の主題歌をロック調に編曲したCMソング「ROCKIN' ON THE 月光仮面」で手腕を発揮した。
・2nd.アルバム『BASE AREA』で数曲を作曲した。

■1983年
・安岡力也の『ホタテのロックン・ロール』でアレンジを担当。
・ミス・オレンジショックをプロデュース。
・SPEEDWAYのメンバーであった木根尚登と新ユニットを組むことに合意。
・村田バンドに参加。
・宇都宮隆を誘い「TM NETWORK」を結成。リーダー、作曲・編曲・シンセサイザー演奏を担当。
・コカ・コーラ フレッシュサウンズコンテストに応募。「1974 (16光年の訪問者)」で史上初の審査員全員満点のグランプリを受賞する。

■1984年
・4月21日にTM NETWORKがアルバム『RAINBOW RAINBOW』とシングル「金曜日のライオン」同時リリースでデビュー。
・7月に大江千里「ロマンス」の編曲。
・11月に大江千里「十人十色」の編曲を担当した。(※CMバージョンは小室哲哉の編曲である)

■1985年
・アニメ映画「吸血鬼ハンターD」サウンドトラックを担当する。

■1986年
・渡辺美里に曲提供(作曲)した「My Revolution」がヒット。
・精力的にライブをこなす。

■1987年
・TM NETWORKのアルバム『Self Control』、シングル「Get Wild」がヒット。
・ロサンゼルスでアルバム『humansystem』をレコーディング。
・Bernie Grundman Masteringにマスタリングを初めて依頼した(Bernie Grundman本人が担当)。

■1988年
・角川映画「ぼくらの七日間戦争」サウンドトラックを担当。
・単身渡英し、アルバム『CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜』の楽曲制作を開始。
・アイドルデュオ、キララとウララのキララ(大谷香奈子)と結婚。

■1989年
・「Running To Horizon」で歌手としてソロデビュー、オリコン週間シングルチャート第1位を獲得。
・続く「GRAVITY OF LOVE」も第1位を獲得した(松田聖子の連続1位記録を途切れさせた)。
・アルバム『Digitalian is eating breakfast』をリリース。ソロツアーも開始。
・シンクラヴィアを本格的に使い始めた。

■1990年
・当人プロデュースによるシンセサイザー(キーボード)EOS B500発売
・角川映画「天と地と」サウンドトラックを担当。
・TM NETWORKが「TMN」にリニューアル。

■1991年
・「SPACE WORLD」で「Think Of Earth」を披露。
・X JAPANのYOSHIKIと「V2」を結成。
・V2「背徳の瞳」をシングルリリース(オリコン最高位第2位)。一度だけライブを行った。
・ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」の音楽を担当。

■1992年
・提供楽曲のセルフカバーを中心としたソロアルバム『Hit Factory』を製作。
・初の全面プロデュースユニットとしてtrf(Tetsuya komuro Rave Factory)を結成。
・trfが横浜ベイサイドクラブなどでイベント。小室哲哉がtrfとしてステージに参加したのは、1993年の「avex rave '93」まで。
・大谷香奈子と離婚。

■1993年
・trfがシングル「GOING 2 DANCE」でデビュー。
・2ndシングル「EZ DO DANCE」で、洋楽中心であった日本のダンスシーンに大変革をもたらした。
・米国でRadikal Recordsより「TRF Rave Factory」名義で12インチアナログ「OPEN YOUR MIND」を発売。

■1994年
・TMN"終了"。
・海外向けプロジェクトEUROGROOVEを開始。
・篠原涼子 with t. komuroとして「恋しさとせつなさと心強さと」で初のシングル売上200万枚突破。
・hitomi、大谷健吾、ANISSのプロデュースも同時期に開始した。
・trfのアルバム『WORLD GROOVE』から民族音楽への関心を示す。
・trf「BOY MEETS GIRL」やEUROGROOVEの楽曲などでトライバル・ハウスに積極的に取り組んだ。

■1995年
・trf、内田有紀、マーク・パンサー、MOON TRAP、伊藤彰などが出演したミュージカル「1999...月が地球にKISSをする」の音楽を担当。
・ミュージカルの楽曲は多くが商品化された。
・ジャングル・シークレット・イベント「t jungle m」を開催。
・H Jungle with t「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」でシングル売上200万枚を突破。
・「ジャングルで世界一の売上を記録したプロデューサー」として海外の雑誌でも取り上げられた。
・マーク・パンサー、KEIKOとともに、自身が参加するユニット「globe」を結成。
・trfの「Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜」で日本レコード大賞を受賞。
・自身のレーベル「ORUMOK RECORDS」をスタート。
・華原朋美、H.A.N.D.をデビューさせる。(1996年にはdosがORUMOKからデビュー)。
・公式ウェブサイト「Planet TK」をスタートさせた。

■1996年
・globeのシングル「DEPARTURES」で売上200万枚を突破。
・globeのアルバム『globe』で売上400万枚突破。オリコン歴代アルバム記録を更新。
・華原朋美のアルバム『LOVE BRACE』が売上250万枚を突破。オリコン歴代ファーストアルバム初動記録を更新。
・安室奈美恵のアルバム『SWEET 19 BLUES』が売上300万枚を突破。オリコン歴代アルバム初動記録、累計記録(女性部門)を更新。
・安室奈美恵のシングル「Don't wanna cry」で日本レコード大賞受賞。
・4月に嘉門達夫が小室哲哉プロデュースの曲を替え歌にした、TK替え歌メドレーが発売された。その五ヵ月後の9月、TK替え歌メドレー2も発売となった。
・4月15日付けオリコンシングルチャートで1位から5位までを自身がプロデュースする楽曲で独占した。
・1月より「Planet TK」でNTTの音楽圧縮技術「Twin VQ」を用いた実験。
・カラオケソフトウェア「TK's karaoke engine」の販売がスタート。
・12月、小室哲哉とルパート・マードック氏率いるニューズ・コーポレーションが百万ドルづつ出資し、香港に合弁会社「TK NEWS」を設立。アジア進出の足がかりとなり、2年後に台湾からRingをデビューさせるきっかけとなった。マードックは1998年に撤退したが、TK NEWSはRojam Entertainmentの母体となった。

■1997年
・4月6日、祖父の出身地、福島県西白河郡中島村に小室アレンジの「ヨカッペ音頭」が流れるからくり時計を寄贈。
・「TK presents こねっと」として『YOU ARE THE ONE』をリリース。収益金は「こねっと・プラン」参加校に寄付され、教育現場へのインターネット普及に貢献した。
・安室奈美恵のシングル「CAN YOU CELEBRATE?」で売上が200万枚を突破、レコード大賞を受賞。

■1998年
・ニューヨークでインディーズレーベル「True Kiss DiSC」(1999年正式に設置)を始動。
・元dosの吉田麻美とともに「TRUE KiSS DESTiNATiON」を結成。
・鈴木あみ、甲斐よしひろ、Ring、白竜などをプロデュースした。
・globeのシングル「wanna Be A Dreammaker」でレコード大賞を受賞。
・香港にアジア最大の総合音楽プロダクションを目指す会社「Rojam Entertainment」を設立。
・東京にメディアファクトリーなどとの合弁会社「factory ORUMOK」を設立。
・トーコが、小室哲哉と日向大介の共同プロデュースでデビュー。
・未来玲可が小室哲哉と久保こーじの共同プロデュースでデビュー。
・サッカー・W杯フランス大会の公式アルバムにジャン・ミッシェル・ジャールとともに「TOGETHER NOW」で参加。
・パリ祭のメインイベント「RENDEZ-VOUS '98 ELECTRONIC NIGHT」。

■1999年
・TM NETWORKを再結成し「GET WILD DECADE RUN」を発売した。
・TRUE KiSS DESTiNATiONがTOTOの代表曲「AFRICA」をカバー。
・TLCのLeft Eyeが名付け親のBLAQUE IVORYを「ADORE ME」の作曲とアレンジを担当した。

■2000年
・TM NETWORKとKiss DestinationがTRUE KiSS DiSCレーベルから撤退。
・Rojamよりネット配信と通信販売により新曲を発表した。
・RojamからはzoieとCELINA。
・factory ORUMOKからは坂口実央、MIYUKI、清水まなぶ、ステレオリキッドなどがデビュー。
・ネット販売とコンビニ販売を視野に入れた両社であったがレコード販売以外はほとんど実現できなかった。

■2001年
・factory ORUMOKから撤退、5月、吉本興業とマネージメント契約を結ぶ。
・同日Kiss DestinationのASAMI(吉田麻美)と再婚。
・DJ DRAGON、原田大三郎とともに「GABALL」結成、トランス・ミュージックへの傾倒が始まる。
・Rojamのレコード販売事業は縮小。
・吉本興業により設立されたR and C(後にRojamの完全子会社となる)へ移籍。
・TRF、BALANCeなどとともに、クラブ・イベント「zento」を開催した。
・10月より放送を開始したアニメ「サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER」の音楽を担当。

■2002年
・トランス・イベント「SHYNTHESIZED TRANCE」を主催。
・3月に吉田麻美と離婚。
・11月22日、globeのボーカルKEIKOと再婚。globeにはX JAPANのYOSHIKIが加入した。

■2003年
・4月より3年間「CAT・ミュージックカレッジ専門学校」の名誉校長に就任した。
・初のピアノ・インストアルバムを3枚発表した。
・新型肺炎や鳥インフルエンザの流行などにより、韓国での開催を予定していた黄砂対策チャリティライブが中止。
・globeにYOSHIKI加入後初の東京ドームライブが中止と、不運が相次いだ。

■2004年
・Rojam株を全て売却し、Rojamの経営から撤退した。
・音楽プロダクションとイベント運営を行う会社として「トライバルキックス社」を新たに設立。
・サッカー・Jリーグの大分トリニータのスーパーバイザーに就任。
・4月21日 TM NETWORKデビュー20周年を記念して横浜アリーナでライブを行った。
・11月2日 globe結成10周年を記念して2年半ぶりの全国ツアーを行う。ツアー中に新曲「judgement」を披露。

■2005年
・avexの手掛ける高音質ネット配信の研究プロジェクト「HD Sound Lab.」のアドバイザーに就任。
・「@MUSIC HD」にてglobeの楽曲の高音質配信を開始した。

■2006年
・ロサンゼルスを拠点とした活動を再開。
・DJ TK名義で丸山茂雄運営の「mF247」に楽曲の提供を開始。
・小室哲哉と吉本芸人がコラボレートを行った。「TKプロジェクト ガチコラ」と題して、11組のお笑い芸人に楽曲を提供した。
・10月には米ロックバンド・Stevie Salas Colorcodeのアルバム『Head On Collision』に参加。
・楽曲「cherokee girl」にシンセサイザーで参加した。
・音楽配信を主として新たなサイト「TKCOM」を立ち上げ、音楽配信を開始した。

■2007年
・Kimeruの「with you」をプロデュース。男性ソロアーティストのプロデュースは自身で9年ぶりとなる。
・4月、尚美学園大学芸術情報学部音楽表現学科特任教授に就任。
・6月、所属事務所の吉本興業と契約満了。
・11月、楽器フェア2007に、TM NETWORKとしてライブ出演予定。


【作詞】
1997年11月1日の朝日新聞の記事で「Can you celebrate?」という英語の表現や、詞の文法がおかしいなどの指摘があるが、小室哲哉は『たけしの万物創世紀』で「科学で作ったミリオンヒット曲」の項目の時にVTRでのコメントで、サウンドにハマる言葉を選んでいたと発言した。作詞において特に影響を受けたのは渡辺美里との仕事であるという。彼女の詞の世界を参考に、自身の視点から同じテーマを書くとこうなるというアプローチ的手法で作詞していたと、TKMCの渡辺美里との対談で明らかにした。


【ヒット曲】
1994年、小室哲哉は、trfの「survival dAnce 〜no no cry more〜」で初めて100万枚以上のヒットを達成。

1997年の華原朋美のHate tell a lieまで20曲のミリオンヒット曲を世に送りだした。(小室ブーム参照)。

※下記は主な小室哲哉プロデュース作品の売上枚数 (オリコン調べ)。


☆ … ミリオン ☆☆ … ダブルミリオン

■1993年
  「EZ DO DANCE」trf 78万枚
  「寒い夜だから…」trf 67万枚

■1994年
 ☆「survival dAnce 〜no no cry more〜」trf 137万枚
 ☆「BOY MEETS GIRL」trf 128万枚
☆☆「恋しさとせつなさと心強さと」 篠原涼子 with t.komuro  202万枚

■1995年
 ☆「CRAZY GONNA CRAZY」trf 158万枚
 ☆「masquerade」trf 138万枚
  「もっと もっと・・・」 篠原涼子 with t.komuro 62万枚
 ☆「Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜」trf 106万枚
☆☆「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」H Jungle With t 213万枚
 ☆「GOING GOING HOME」H Jungle With t 125万枚
  「Lady Generation」 篠原涼子 53万枚
  「Feel Like dance」globe 95万枚
  「Joy to the love (globe)」globe 81万枚
 ☆「I BELIEVE」華原朋美 102万枚
  「BRAND NEW TOMORROW」trf 67万枚
  「Body Feels EXIT」安室奈美恵 88万枚
  「SWEET PAIN」globe 90万枚
 ☆「Chase the Chance」安室奈美恵 136万枚

■1996年
☆☆「DEPARTURES」globe 228万枚
 ☆「I'm proud」華原朋美 139万枚
 ☆「Don't wanna cry」安室奈美恵 138万枚
  「FRIENDSHIP」H jungle with t 68万枚
 ☆「You're my sunshine」安室奈美恵 109万枚
  「Is this love」globe 88万枚 
  「save your dream」華原朋美 92万枚
 ☆「Can't Stop Fallin' in Love」globe 131万枚
 ☆「a walk in the park」安室奈美恵 106万枚

■1997年
 ☆「YOU ARE THE ONE」TK presents こねっと 122万枚
 ☆「FACE」globe 132万枚
☆☆「CAN YOU CELEBRATE?」安室奈美恵 229万枚
 ☆「Hate tell a lie」華原朋美 105万枚
  「How to be a Girl」安室奈美恵 77万枚
  「LOVE IS ALL MUSIC」華原朋美 65万枚
  「Wanderin' Destiny」globe 87万枚


【チャート記録】
1996年4月15日付けのオリコンシングルチャートで、小室哲哉が作詞・作曲・プロデュースを行った楽曲が1位から5位を独占した。同一作家、兼、プロデューサーによる上位5曲独占は全世界音楽史上初。

1位 安室奈美恵 / 「Don't wanna cry」
2位 華原朋美 / 「I'm proud」
3位 globe / 「FREEDOM」
4位 dos / 「Baby baby baby」
5位 trf /「Love & Peace Forever」


1995年度のJASRAC発表の著作権使用料の分配額ランキングでは、小室哲哉が作詞・作曲を行った楽曲が国内作品の1位から3位を独占した。同一作家による上位3曲独占は史上初。

1位 「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」
2位 「CRAZY GONNA CRAZY」
3位 「Overnight Sensation〜時代はあなたに委ねてる〜」

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070806-00000042-nks-ent

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Mie エピソード&プロフィール

Mie(ミエ、本名:立之美英 (りつの みえ)、1982年10月4日 - )は、ファッション雑誌『JJ』で活躍しているモデル。身長168cm。星座はてんびん座。血液型はO型。バラエティ番組を中心にタレントとしても活躍中。FILM FACTORYにて監督デビュー。


【プロフィール】
■愛称: ミエちゃん
■生年月日: 1982年10月4日
■現年齢: 24歳
■出身地: 日本・東京都八王子市
■公称サイズ(2005年時点)
・身長 / 体重: 168 cm / ― kg
・スリーサイズ: 81 - 58 - 83 cm
・股下 / 身長比: 80 cm / 47.6 %
・靴のサイズ: 24.5 cm


【略歴】
■特技 : 英語 (Bilingual)、ピアノ、料理

■趣味 : サーフィン、旅行

■資格 : 普通自動車、教員免許 (英語)

■ストレス解消法 : 運動、マッサージ、睡眠 

■尊敬する人 : 両親 

■好きな食べ物 : 和食 (ひじき、納豆、煮物)

■略歴 : 2001年、雑誌JJのモデルとしてデビュー(初登場は2001年8月号にて)

■八王子高等学校英語コース卒業

■2005春、青山学院大学文学部英米文学科卒業


【豆知識】
■現在はファッション雑誌『JJ』レギュラーモデルとして活躍。

■普段の私服はジーンズ派のMieではあるが、ワンピースの着こなしもけっこう上手い。コンサバなワンピースが好みである。

■『JJ』2003年9月号でMieはCaityと表紙を飾っているが、「CELINE」 (セリーヌ) のワンピース (Caityはピンクの、Mieは茶色のノースリーブのワンピース) を着ている。「CELINE」はLVMHのファッションブランドの一。ちなみに同号の表紙のCaityとMieのネイルは 「Reveal」 (Nail Salon Crèateur Reveal : 黒崎えり子が主宰するネイルサロン) 所属のネイリストが担当している。
JJ (2003年9月号) を参照。

■『JJ』創刊30周年記念号である2005年6月号で、金子絵里・有村実樹・桜井裕美とともに表紙を飾っている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070804-00000161-sph-ent

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須藤理彩 エピソード&プロフィール

須藤理彩(すどう りさ、本名:川島理彩、1976年7月24日 - )は日本の女優。所属事務所はアミューズ。神奈川県横浜市出身。横浜市立希望が丘中学校卒、神奈川県立旭高等学校卒。身長164cm、スリーサイズはB85 W60 H86。足のサイズは25.5cm。


【来歴・人物】
高校時代にはインターハイ(全国高校総体)に出場した実績をもつ陸上競技選手(県内3位の実力)であり、将来を嘱望されていたものの、練習中の怪我により、選手生命を絶たれ断念する。姉の推めでアミューズのオーディションに応募し、見事合格。タレント活動を始める。1998年度上半期放送のNHK総合テレビ連続テレビ小説「天うらら」でドラマ初主演。大工棟梁を目指す少女を好演した。その後も順調に活躍を続け、現在は時代劇から現代劇まで幅広く活躍する女優として知られている。2006年11月6日にブンブンサテライツの川島道行と、できちゃった結婚を発表。2007年1月30日に第一子(長女)を出産した。


【余談】
■デビュー作天うららでは大工の役柄であったが、実家も建築業である。

■学生時代のあだ名は「すーさん」

■高校時代はローソンでアルバイトをしていた。

■寺島しのぶとよく間違われる。

■バスを追いかけるシーンを撮影する際は、たびたびバスを追い抜いてしまうほどの俊足である。

■プライベートではかなりの酒豪で、バラエティ番組にゲスト出演した時には「飲み会では周りが先に酔いつぶれてしまう」などとネタにされることが多い。

■高校の一つ上に米倉涼子がいた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070805-00000001-sanspo-ent

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福山雅治 エピソード&プロフィール

福山 雅治(ふくやま まさはる、1969年2月6日 - )は、日本を代表するシンガーソングライター(アーティスト)であり、ラジオパーソナリティ・ラジオDJ、俳優、音楽プロデューサー、写真家と幅広い活躍をしている。所属事務所はアミューズ。


【来歴】
■長崎県長崎市出身。

■私立宝珠幼稚園、長崎市立稲佐小学校、長崎市立淵中学校、長崎県立長崎工業高等学校卒業。

■1988年 「アミューズ・10ムービーズオーディション」に合格、映画『ほんの5g』で俳優デビュー。

■1990年 シングル『追憶の雨の中』で歌手デビュー。

■1991年 TBS系ドラマ『あしたがあるから』でテレビドラマデビュー。

■1993年 シングル『MELODY』で第44回NHK紅白歌合戦に初出場。なおこの回が唯一の紅白出場である。

■1995年 フジテレビ系ドラマ『いつかまた逢える』で初主演。

■2000年 シドニー五輪、2004年のアテネ五輪でテレビ朝日のカメラマンとして活躍。


【人物】
■長崎から上京する時には、自分の本当の目標を周囲の人間に恥ずかしくて言えなかったので、古着屋になると言って出て来た。

■アミューズの先輩の桑田佳祐にはマサジと呼ばれる。ファンの中では桑田佳祐と並んで「下ネタの帝王」と呼ばれることもある。福山と桑田のそれぞれパーソナリティーのラジオ番組は下ネタや放送禁止用語が連発している。アダルトビデオが大好きで、更に桑田の誕生日パーティー(所属事務所のアミューズの2003年実施)に福山が当時人気があったAV女優の及川奈央の二枚組みDVDを桑田にプレゼントしたと、後日『桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド〜やさしい夜遊び〜』で桑田が暴露した。

■AV友達の今田耕司とは時々交換などをしている(文化放送『Come on FUNKY Lips!』にてゲストの福山が事実を認める)。ちなみに今田とは1992年に今田のラジオ番組にゲストとして招待されて以来の古い付き合いであり、1998年リリースのアルバム「SING A SONG」では今田が収録全曲のレビューを執筆した。

■「オナニー公爵」を自称。35歳を超えた今でもよくオナニーをしており現役バリバリだという(魂のラジオより)。ちなみに、初体験については本人も語ったことが無い。

■昔、酒に酔って自宅に帰る途中の道端に女性が倒れており、その(寝ていたらしい?)女性を背負って自宅まで連れ帰ったことがある。ちなみにその女性とは朝起きたときにわかめごはんを食べさせただけで、特になにもない。(HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMPにて本人談)

■福山からオールナイトニッポン木曜1部を引き継いだナインティナインの岡村隆史(2学年下、1970年生まれ)は福山くんと呼んでいる。

■音楽的には浜田省吾、サンハウス、THE MODS、A.R.B. らの影響を受けた。 ちなみに高校時代にA.R.B.に関しては大ファンだったようで同級生たちと組んでA.R.B.のコピーバンドをしていた程である。

■福山自身も学生時代はラジオを愛聴していた。「プレゼントアワー」という、長崎のローカルAM放送局NBCラジオが日曜深夜に放送していた中高生の必聴番組があった(現在では放送終了)のだが、福山もそのリスナーの一人だった。その番組内で「○○高校の△△部の□□君のことを教えてください」「☆☆君の情報ですが、1つ年下の彼女がいます」といった在学校名や実名をあげて個人の情報を依頼・提供し合うという、現在では考えられない、携帯電話はおろかポケットベルすら普及していなかった当時ならではの人気コーナーがあり、当時モテなかった(本人談)福山は自分の名前があがらないかと毎週楽しみに聴いていたが、結局高校を卒業するまで彼の名前が読み上げられることは一度もなかったらしい。

■現在担当しているオールナイトニッポンも学生時代にはよく聴いていて、笑福亭鶴光がパーソナリティを務めた「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」も聴いており、鶴光の巧みな「艶福ネタ」を好み、尊敬している。これはラジオの彼の話術にも影響を与えており、その甘いマスクのルックスに似合わず、自身のラジオ番組では女性ファンもドン引きするような強烈な下ネタを連発、その気取らないバランスさが男性からも高い人気を維持している。

■同郷生まれのSHINJO(新庄剛志)と仲が良く、北海道日本ハムファイターズの試合を見に行ったこともある。2006年シーズンには福山の楽曲の美しき花(milk tea や あの夏も海も空も の場合もある)を登場曲として使用している。他にも、西川貴教や加藤晴彦とはプライベートでも仲が良い。小説家の内藤善弘とはデビュー当時から親交が深く、一緒に旅行したりもしている。

■2000年に同じ事務所のサザンオールスターズが行い、後に伝説として語り継がれる「茅ヶ崎ライブ」では開演前の開会宣言を務めている。同ライブのMCで桑田は「福山が桜坂なんてあんないい曲を作詞出来るわけない。俺がマサジにファックスしたんだ」と発言して場内は爆笑だった。

■ちなみに彼は桑田佳祐の家でパーティーを行ったときにとてつもなく酔ってしまい、飾ってある皿を投げたりなどしたため桑田の家には立ち入り禁止らしい。(泉谷しげる談)

■小学生のとき、ソフトボールをやっていたが、右肩を故障。しかしその経験からか、シドニー、アテネ五輪では取材を行った。

■中学時代、卒業アルバム個人写真撮影時、本人は校則違反による謹慎処分中であったため、坊主頭での撮影を余儀なくされた。本人はそのアルバムを後輩等に見られることを嫌がっていたが、たまにラジオでネタにしている。

■福山自身は子供のころ、今のようにシンガーソングライターとしての成功は無理だと思っていたらしく、音楽の先生になりたかったらしいが、家庭の状況(金銭面)から断念した。結果的には夢が叶った訳である。(福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル・魂のラジオで告白)

■高校卒業後、しばらく一般企業に就職し、会社員をやっていたが、音楽への未練が断ち切れず、会社を辞め、単身上京した。(福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル・魂のラジオ内で告白)

■上京するとき、夜行列車(さくら)の中でお金を盗まれないように靴下の中に20万円を入れて上京した。そのため、東京に着いたときには、その20万円はしっとりと濡れていたという。ちなみに彼はこれで半年間生活できると思っていた。

■上京したての頃、本人はかなり頑張って標準語を喋っているつもりだったがイントネーションがおかしかったらしく、ついたあだ名は「長崎くん」。

■デビュー当時のキャッチフレーズは「イナカモンばい」

■8月20日はパン・ツ・ゼロということでノーパンの日であるという。夏にノーパンだと気持ちいいらしい。ライヴにもよくノーパンで登場するらしい。

■女性の好きな有名人アンケートにおいて必ずといっていいほど上位にランクされている。このことから、島田紳助はあるTV番組で「日本の女性は福山雅治に支配されている」と発言していた。

■下着メーカー「トリンプ・インターナショナル・ジャパン株式会社」が2005年に行った「ホワイトデーに関するアンケート」で「ホワイトデーに下着を贈られたい男性有名人は?」という質問で第1位、また「自分の下着を一緒に買いに行きたい男性有名人は?」という質問で第3位に選ばれた。

■2006年に表紙を飾った雑誌「anan」のインタビューで40歳前に結婚すると発言している。

■1993年に出演したドラマ「ひとつ屋根の下」でのセリフ「あんちゃん」や「小雪ぃ・・・」は放送から10年以上経った今でもプロアマ問わずモノマネされている。

■1988年8月15日、新宿のライブハウスで、東京での初ライブ。観客はゼロだった。

■昔ライブ中にズボンのチャックが開いていてそこから下に着ていたTシャツがビートを刻む度にとびだすという事件があった。

■ドラマ「美女か野獣」の撮影中に風邪を引いて以来、煙草は吸ってない。それ以来、飲酒の量も減ったという。

■購入したばかりのパンツよりも、使い古してヨレヨレになったパンツのほうが好きらしい。(福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル・魂のラジオにて本人談)

■実兄は自衛隊員(陸上自衛隊所属)

■「年齢」「東京に出てきた年(18歳)」「デビュー日(1990/3/21)」「所属事務所(アミューズ)」が全てBEGINと同じ。そのためかBEGINとの共演の際には「BEGINの4人目」と自称する事がある。

■大のバイク好きとして知られ、福山エンヂニアリングの番組内でホンダ・ドリーム CB400FOURを購入し、テリー伊藤や伊藤英明と一緒にツーリングへ行くなどしており、バイクチーム「有楽町crazy horse」を私設している。

■今でもスタジオミュージシャンに強い憧れを持っている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070803-00000025-nks-ent

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