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アグネス・チャン エピソード&プロフィール

アグネス・チャン(Agnes Miling Kaneko Chan、中国名:陳美齡(チャン・メイリン)、日本名:金子 陳美齢(かねこ チャンメイリン)、1955年8月20日 - )は、イギリス領香港(当時)生まれの歌手、大学教授、エッセイスト、小説家、日本ユニセフ協会大使。カトリック信者で、洗礼名が「アグネス」、苗字が「陳」(チャン)。教育学博士の学位を持つ。血液型AB型。


【経歴】
■中学生の時に始めたボランティア活動で、ギターを手に募金を集めた。これが噂になり、香港のフォーク歌手のオムニバスアルバムへのレコーディングの話が出た。

■1971年にこの『Second Folk Album』と題するオムニバスアルバムで、姉のアイリーン・チャンと共にジョニ・ミッチェル作の「The Circle Game」をカバーした結果、評判が良く、シングル化もされて大ヒットした。この時期、アイリーンは香港の映画界で人気を得、日本でもテレビドラマ出演などを果たしたが、日本の芸能界では妹アグネスほどの成功は収めていない。

■1972年には姉のアイリーン・チャンらと張徹監督の映画『年輕人』『反叛』に出演、映画が配給されたマレーシア、タイなどの東南アジアでも人気がでるようになった。

■香港のテレビ番組で知り合った平尾昌晃によって日本に紹介され、1972年11月25日にワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より「ひなげしの花」で日本デビュー。当時は大活躍の影で、楽屋には殆ど中華丼ばかりが用意され、「中国系の子だから中華丼で間違い無いでしょう」というスタッフの配慮による辛い思いを番組で語っていた。

■1973年「草原の輝き」で日本レコード大賞新人賞を受賞するなど、高く澄んだ歌声と、愛くるしいルックス、たどたどしい日本語が受けて、人気アイドルとなった。

■1973年の「小さな恋の物語」が大ヒットし、オリコンチャート1位を獲得。だが、前作の「草原の輝き」の印象が強烈すぎるせいか、この曲は世間一般での印象が薄く、テレビの懐メロ番組でも歌われることは少ない。

■1974年、「草原の輝き」が春の選抜高等学校野球大会の入場行進曲に選ばれる。また、ブロマイドの売上成績第1位に輝く。この頃、コンサートのバックバンドとして鈴木慶一とムーンライダーズを起用、司会は植田芳暁。上智大学国際学部に入学したが、父の勧めもあって、
1976年に芸能活動を休んでカナダのトロント大学へ留学し社会児童心理学科に入ったが、父は翌1977年に他界し、卒業する姿を見せることができなかった。1976年のさよならコンサートの前からホットケーキがコンサートに参加。

■1978年にトロント大学を卒業後、8月に日本に戻り、吉田拓郎作曲の歌「アゲイン」で芸能活動を再開。復帰コンサートツアーのひとつとして、中国人歌手としては初となる日本武道館でのコンサートも行った。レコード会社は次の「やさしさ知らず」からSMSに移籍。

■1979年に香港で、初の広東語アルバム『雨中康乃馨』を発売。日本ではゴダイゴとのコラボレーションアルバム『AGNES IN WONDERLAND 不思議の国のアグネス』と『ABC Agnes』を発売。

■1984年国際青年年記念平和論文に応募し、特別賞を受賞。フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』の主題曲「愛のハーモニー」から徳間ジャパンにレコード会社を移籍。

■1985年、芸能活動のみでなく、ボランティア活動を再開するようになった。4月、北京首都体育館で5万4千人を動員して宋慶齢基金会チャリティーコンサートを開催、中国で記念のベスト盤カセットテープが販売された。

■同年、日本テレビの『24時間テレビ』のために、旱魃による食料不足状態にあったエチオピアを取材。単に悲惨な情況を伝えるだけでなく、「ロンドン橋落ちた」の替え歌をアムハラ語で歌って現地の子供と交流する様子も伝えられた。

■1986年、元マネージャーの金子力(現所属事務所社長)と結婚し、カナダで長男を出産した。翌年子連れでの仕事を再開したことについて、林真理子が論評『いい加減にしてよ、アグネス』で批判した。これを端初にアグネス論争が起き、「アグネス」が新語・流行語大賞大衆賞を受賞するほどの社会的論争となり、日本の働く母親、女性の立場を再考させるきっかけとなった。

■1988年、飛鳥涼(現ASKA)作詞・作曲の歌「LIFE」でポニーキャニオンに移籍。

■1989年には米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学、現地で次男を出産。東京大学とスタンフォード大学の卒業生の10年後の姿を調査し、日米両国の男女間格差の実態をまとめ、1994年教育学博士号(Ph.D.)を取得した。

■1992年前後、フジテレビ系「たけし・逸見の平成教育委員会」に生徒役として数回ゲスト出演。国語の問題に関しては「中国語ではこう言いますよ。」等の珍答で、北野武先生や逸見政孝に「国語の授業って言っても、ここは日本なんだから、日本の国語で答えて下さいよ。(要旨)」等の「突っ込み」を入れられ、番組を盛り上げた。

■1996年、香港にて三男を出産。その後もエッセイスト、共栄大学客員教授として日本全国で講演を続けた。

■1998年には初代財団法人日本ユニセフ協会大使(黒柳徹子らが務めるユニセフ(国際連合児童基金)の親善大使ではない)に就任した。就任後、これまでに、大使としてタイ、スーダン、東ティモール、フィリピン、イラク、モルドバ、レソト、インドを公式訪問し、現地で目にした子どもたちの窮状を伝えるほか、『わたしが愛する日本』などの著作で、平和を目指す提言を行っている。

■2000年には日本クラウンに移籍し、ロングヘアをやめてイメージチェンジして、「この身がちぎれるほどに」を歌うなど、ムード歌謡の分野で歌手活動に力を入れるようになった。8月に台場小香港に香港雑貨店「CHAN'S」を出店(現在はネット通販のみ)。

■2002年には小説『パーフェクト・カップル』、『銃弾の指輪』を出版し、作家活動も開始した。翌年には月刊『すばる』に短編小説の連載もしている。

■2005年にリリースした、初のセルフカバー曲『草原の輝き2005』はアサヒ飲料十六茶のコマーシャルに使われた。9月に発売された『しあわせの花』は、手話を取り入れた振り付けで歌った。10月には広島大学の主宰する「ペスタロッチー教育賞」の14回目を受賞。

■2006年2月、ジャッキー・チェンとのデュエット曲を含む英語盤CD『 Forget Yourself』をアメリカで発売した。12月には日本デビュー35周年を記念するコンサートの第一弾が行われた。年末に香港で唾液腺腫瘍の摘出手術を受けたが、無事成功し、早くも年明けから活動を再開した。

■2007年には平和をテーマにした自作曲など3作のシングルとアルバム、それに著作の発売が予定され、日本各地で日本デビュー35周年のコンサートツアーが予定されているほか、9月には北京の人民大会堂でも公演の予定がある。

■平和をテーマにした曲の第一弾は、自らピアノを弾きながら、山本伸一の詞にメロディーを付けた『そこには幸せがもう生まれているから』。カップリング曲の『みんな地球に生きるひと』は歌詞も自作である。最新曲である、第二弾も、山本伸一作詞の『ピースフルワールド』。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20071003-00000074-mai-soci

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朝青龍 エピソード&プロフィール

朝青龍 明徳(あさしょうりゅう あきのり、昭和55年(1980年)9月27日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身の力士で、第68代横綱。本名Долгорсрэнгийн Дагвадорж(Dolgorsuren Dagvadorj;ドルゴルスレン・ダグワドルジ)。高砂部屋(入門時は若松部屋)所属。愛称はドルジ。身長184cm、体重148kg。

得意技は左四つ、寄り、突っ張り、星座は天秤座、血液型はO型、趣味は音楽鑑賞。特技は乗馬。

次兄のドルゴルスレン・スミヤバザルはブフ(モンゴル相撲)のアヴァルガ(モンゴル横綱)、三兄のセルジブデはリングネーム「ブルー・ウルフ」のプロレスラー(新日本プロレスに所属していた)。


【来歴】
■相撲勘が非常に良く、相手に応じて寄り、投げ、突き押し、足技などを繰り出す。足腰が強靱。

■1995年、15歳のとき、ブフ(モンゴル相撲)を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。

■1997年に朝赤龍とともに日本の明徳義塾高校に相撲留学し、2年後に退学して角界に入門した(後に卒業が認められた)。

■2001年に新入幕し、翌年9月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進し、同年11月場所、翌年1月場所に連続優勝して場所後に第68代横綱に昇進。

■2003年11月場所に第67代横綱武蔵丸が引退した翌年の3月場所から2007年7月場所に白鵬が第69代横綱に昇進する前の5月場所までの約3年半(21場所)の間、朝青龍は一人横綱を務めた。これは史上最長の期間である。

■2004年1月場所・3月場所で、2場所連続全勝優勝(30連勝)を果たした。5月場所は、今まで実績のあまりなかった北勝力の大活躍で苦しい展開であったが、優勝決定戦で下して優勝。7月場所も13勝2敗で優勝。1996年の貴乃花以来である、4場所連続優勝。

■2005年11月場所では、2004年11月場所からの7場所連続優勝(従来は大鵬が2度記録した6場所連続優勝)、2005年の年6場所全制覇(従来は
1966年の大鵬、1978年の北の湖、1986年の千代の富士の年5場所)、年間成績84勝6敗(従来は1978年の北の湖の82勝8敗)と、3つの記録を更新した。

■2006年1月場所14日目、自身は新大関琴欧州に勝ち11勝3敗としたものの、この日同じく勝った大関栃東が13勝とし星2つの差となったため、この時点で優勝が消滅、自身が持つ連覇記録は7で止まった。

■2007年1月場所において、14日目に大関栃東をつり出しで下し、20度目の幕内最高優勝を果たし、大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花に続く大台に到達した。また、20回以上の優勝は外国人力士では初の快挙となった。

■翌3月場所は初日時天空、2日目雅山に連敗を喫した。初日からの2連敗は小結だった2001年7月以来であり、横綱昇進後初めての出来事である。しかしその後はその連敗を忘れさせるように連勝し、14日目にはそれまで1敗で優勝争いのトップに立っていた白鵬に勝ち、自らも優勝争いのトップに立った。両者は千秋楽の優勝決定戦で再び戦ったが、この時は白鵬のはたき込みに敗れ、優勝を逃した。

■2007年5月場所においては、12日目の千代大海戦、13日目の魁皇戦で自身2度目の連敗を喫し、この時点で3敗に後退。2002年11月場所の初優勝以来初めて2場所連続で優勝を逃した。さらに、14日目には琴欧洲にもあっけなく上手を取られて投げつけられた。千秋楽には白鵬相手に大相撲を取るも敗れ、大関戦4連敗を喫した。4連敗は、9勝6敗に終わった2004年9月以来2度目。対大関3連敗及び4連敗に限れば、横綱昇進以来初めての事である。


【旭鷲山との因縁】
2003年5月場所、同郷の先輩力士の旭鷲山との対戦で土俵際で逆転負けした時、土俵上で物言いを要求する態度を見せて物議を醸した。

2003年7月場所、旭鷲山との対戦でマゲを掴み反則負けとなる。取組後の風呂場で両者は激しい口論となり、そこに居合わせた大関魁皇が割って入り止めたという。怒りが収まらない朝青龍は、旭鷲山の車のサイドミラーを壊して弁償する騒動にまで発展した。力士の乗る車のドアミラーを損傷させるなど横綱にあるまじき行動だと日本相撲協会や横綱審議委員会から苦言を呈された。

なお、現在は和解していると報道されている。


【八百長疑惑】
2007年1月22日発売の週刊現代(講談社)に「横綱 朝青龍の八百長を告発する!」と題された記事が掲載されることが明らかになった。朝青龍が全勝した昨年九州場所を検証し、15番中ガチンコ(真剣勝負)が4番と指摘しているもの。[2]

記事に関し、北の湖理事長(元横綱)は「まだ何も分からない。コメントできないよ」と困惑の様子。朝青龍の師匠・高砂広報部長(元大関・朝潮)も「答えようがない。そういうことはないと思っている」と疑惑を否定した。また記事中で仲介役とされる旭天山の師匠・大島親方(元大関・旭國)は「誤解を招くようなことはすべきでない」と激怒し、旭天山を直接注意した。[3]

なお、朝青龍自身も八百長疑惑を全面的に否定しており、悪役扱いに既に慣れている朝青龍も今回ばかりは「強くなるのがそんなに悪いことなのかよ〜」と、ぷんぷん怒っていた様子であったと言う。1月30日には日本相撲協会に事情を説明したあと報道陣に「せっかく20回目の優勝をしたのに、あんなことを書かれて、つらかった。悲しすぎる」と語り、場合によっては訴訟を起こす可能性も示したが、日本相撲協会は朝青龍を相撲に専念させるためにも、朝青龍自身が法的措置を取ることを回避させ、日本相撲協会が講談社と記事を書いた人間を相手に告訴することを決定した。


【取り口】
■立ち合いに鋭く突っ込んで先手を奪い、常に先に技を出して相手に相撲を取らせないのが必勝パターンである。しかし、2006年以降は立ち合いがやや鈍り、後手に回る相撲も見られるようになっている。

■根は左四つだが、右四つでも充分力を発揮する。投げは左右共に強く、上手投げ、下手投げ、すくい投げに小手投げとなんでもこなす。特に右からの投げは切れ味抜群で、廻しの引き付けも強いとされる。また、突っ張りもあり、足技も得意。守れば強靭な足腰を持つオールラウンダー型である。

■もともともろ差しを得意の形としていた。だがそれはどの力士にとっても優位な形であると言えるので、彼の得意な形とは称しにくい。ただもろ差しを果たすスピード、巻き替えの速さは大きな特徴。ただ昔に比べると「朝青龍にもろ差しをされたら一巻の終わりだ」と他の力士の警戒も高まり、最近ではもろ差しを果たして勝つことはほとんどない。朝青龍ももろ差しに以前ほどこだわってはいない。

■元大関・栃東とは対戦成績が拮抗していて、通算成績は朝青龍の15勝10敗だったが、一時は栃東が朝青龍に勝ち越していたこともあった。

■逆に、琴光喜、魁皇、千代大海、琴欧洲、雅山には相性がいい。特に琴光喜とは大関昇進を争った仲で、昔は琴光喜が6勝3敗と勝っていたが、その後朝青龍が26連勝して現在は29勝6敗と大きく水をあけている。魁皇には2004年11月場所に敗れ、9勝9敗と相性がやや悪かったが、その後8連勝した。雅山にも2007年1月場所まで13連勝するなど26勝3敗と手玉に取っている。しかし、魁皇には2007年5月場所、雅山には2007年3月場所に敗れており、連勝は止まったが、対戦成績は依然朝青龍がリードしている。

■朝青龍の負け取組の決まり手は、寄り倒しや押し倒しによる負けがかなり多く占めている。その一方で寄り切りなどの負けは少なく、彼の下半身が強靭である事を裏付ける説でもある。

■土俵入りにおいては足の動きに特徴があり、NHKの大相撲放送でも度々、砂を噛むように動く足が映される。

■気合満点の表情で仕切るにも関わらず、いざ相撲が始まると極めて冷静に、計算高く事を運ぶ。研究心が旺盛で、相手十分の体勢には滅多にさせず、勝利に拘った相撲を取る。しかし、自分の計算どおりに進まなかった場合、顔を張られた場合など朝青龍にとって不慮の事態が起こった場合には、カッとなって下半身もおろそかに強引な張り手を連発する悪癖もある。

■2004年9月場所、2007年5月場所のように、優勝の可能性がなくなると力を抜く傾向がある。


【その他】
■朝青龍という四股名は、出身校である明徳義塾高等学校の近くにある四国霊場36番札所青龍寺にちなみ、下の明徳の名は同校にちなんで名づけられた。

■高校時代は「ダシバドリ」とも表記された。

■明徳義塾高校を2年で退学しているため、当初は中退扱いであったが、文部科学省の規定でモンゴルの高校での単位が認められたため、卒業が認められ、2003年9月24日に卒業証書を受け取った。

■2003年に結婚。またこの年、長女が誕生。2004年8月には故郷モンゴルで披露宴を挙行したが、同月日本でも日本式で盛大に行われ、テレビ中継も行われた。

■貴乃花との対戦は、貴乃花の怪我による長期休場のためわずか2回しかなく、朝青龍の2戦2敗に終わっている。朝青龍が新大関として臨み、最後の対戦となった2002年9月場所では、善戦するも敗れ、対戦終了後に花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫んでしまい、その後に支度部屋で「(対戦で貴乃花の)怪我している足を蹴っ飛ばしておけばよかった」と発言し、非難を浴びるという出来事があった。

■2003年6月19日、麗澤大学へモンゴルからの留学生を受け入れるための「朝青龍奨学生制度」を発足。朝青龍の母校である明徳義塾高校校長の吉田圭一は、同学の出身。朝青龍は渡航費用を負担。

■2004年3月場所終了後の春巡業で、一門の枠を超え、モンゴル出身力士を集めて特別指導を実施した。この結果モンゴル出身力士の結束は深まり、白鵬、安馬らは部屋、一門が異なるにもかかわらず「援護射撃」を口にするようになった。また、安馬とは場所中に何度も夜の街へ繰り出す程の仲である。

■人気が上昇するにつれてテレビコマーシャルに出演することが多くなった。また祖国モンゴルでは2005年のモンゴル国大統領選挙に際して、同郷力士と共にナンバリーン・エンフバヤルを支持するテレビコマーシャルに出演した。

■2005年4月、明徳義塾高校へモンゴルの子供を留学させるための「朝青龍明徳教育基金」を設立。スポーツ留学に限らず、人選は朝青龍に一任されており、渡航費や生活費用等、年間約150万円を負担。

■2005年7月15日、高知県庁より、広末涼子と共に『高知県観光親善大使』に任命される。師匠である高砂と師弟二代で高知県の観光親善大使を務める。

■2005年12月8日、モンゴルのエンフバヤル大統領を表敬訪問した際に、モンゴルの英雄の名前を冠したスフバートル勲章が贈られた。

■横綱が平幕力士に金星を献上すると座布団が乱舞するのは、以前から良く見られたが、全盛期の朝青龍の場合は負けた相手が大関であっても座布団が飛ぶ。これは、朝青龍の強さが圧倒的であるためと思われる。

■高知新聞では、郷土出身力士として扱っている。

■2007年1月1日 元日放送のプロスポーツマンNo.1決定戦(TBS系列)のパワーバトル部門に出場。SPIN OFFで大関琴欧洲、THE-TAG OF WARで関脇琴光喜に惜しくも決勝で敗れるも、THE GALLON THROWで佐々木健介と共にNo.1にランクイン、得点で総合No.1となった。

■懸賞金を貰った後にカメラ目線で、カメラを睨む癖がある。仕切り前にも花道を睨むことがある。理由は、テレビを見ている妻への愛情をこめて目を向けているということもあるが、視聴者の中にはこの睨みを嫌う者もいる。


【朝青龍への批判】
■自分が勝ち続けている内は気分が良く取組直後の自分が負かした相手に手を貸したり、インタビューに穏便に答え舌先も滑らかであったが、自分が負けたりすると相手の手を強引にふりほどいたり気分で自分の態度が変わってしまう。

■かつては懸賞を受け取るとき左手で手刀を切るなど土俵上の礼儀・作法が問題になった。

■2003年10月、病気を理由に稽古総見を休むなどし、11月場所後に高砂親方に内緒でモンゴルに帰国をした。親方には風邪をひいたと説明していたが、帰国の翌日の日本のスポーツ誌にアントニオ猪木と握手している写真が掲載され、親方が驚いた。日本で大騒ぎになったが、猪木のパフォーマンスの一環である。このとき着物姿でなくスーツ姿であったことが横綱審議委員から問題視され、高砂親方も注意したい旨の発言を行う。しかしながら、現役力士は着物以外禁止という内規は特になく、高度成長時代には力士のスーツ姿が雑誌に掲載されていた程である。

■横綱としての実績が高くなるにつれ、次第に常に挑戦者と思って相撲を取る謙虚かつ油断のない姿勢や、本割で負けた相手には特に集中して稽古相手に指定するという負けず嫌いに立脚する向上心が、関係者に高く評価されるようにもなってきており、最近は横綱審議委員会から絶賛を受けるまでになっている。

■平成17年正月に放送された「志村・鶴瓶のお正月芸能人交流スペシャル」(テレ朝)にて、高砂部屋に来ていた外国人の子供達と稽古をして、その後、子供達とハイタッチを交わしていたが一番最後の太った子供だけはハイタッチせずに頭を叩いた。

■平成17年5月30日に亡くなった故・二子山親方(元大関:貴ノ花)の協会葬の時、ハワイに行って出席しなかった。

■2006年からは毎場所のように稽古不足が指摘されている。

■ムキになると過剰な押し出しなどをする。

■横綱昇進後は完全なヒール役となっており、週刊誌に「女性が嫌いなスポーツ選手」で堂々の1位に輝いたこともあった。これは旭鷲山戦で見せた醜態等彼の土俵態度が影響していると見られる。最近はやや丸くなり、横綱として十分な実績を残している事から、以前よりは嫌われなくなった。だからと言って人気力士の部類に入るわけでもなく、かつての北の湖と同じように負ければ館内は狂喜乱舞する。

■2006年11月場所8日目、前場所で敗れた稀勢の里に蹴手繰りを食らわせ、その場所で全勝優勝しながら場所後の横綱審議委員会で非難の声が続出。北の湖理事長も「横綱がやるような技じゃない」批判した。

■2007年5月場所、安美錦に負けて座布団を投げつけられたとき、花道で座布団に向かって蹴りを見舞った上、さらにテレビカメラに向かって怒りを露わにしてカメラ目線で吼えたシーンが全国に写された。


【出稽古に対する批判】
また、本割で負けた相手や力のある若手力士(モンゴル人を除く)を、その後の出稽古で対戦相手に指名し激しい稽古をしている。

標的となった力士は高見盛(右肩亜脱臼により医者から「完治しない」と診断される)、琴欧洲、稀勢の里、北勝力、千代白鵬、白乃波(稽古中に失神させられ古傷の首と膝を負傷)、琴奨菊(通常は5〜6番で済まされるぶつかり稽古を20回近く行う。稽古中うずくまっていた所を引き起こし、竹刀で尻を叩く。この後腰を痛めその場所負け越し)など多数。東関親方は高見盛が故障した際、高砂部屋への出稽古の中止を宣言した程だ。また横綱昇進前ではあるが武雄山も朝青龍との稽古で右膝を負傷している。

これらの力士に避けられると持病に腰痛を抱える兄弟子の元小結闘牙に対して吊り落としを見舞い、腰痛を悪化させた。彼は吊り落とされた直後の2004年11月場所2勝13敗と大敗し十両に陥落、翌2005年も腰の状態が思わしくなく不振が続いた(十両優勝した九州場所も腰の状態は万全には程遠かった)。さらに2006年1月場所を休場し(途中から出場して4勝)、翌3月場所も初日からの7連敗もあって僅か2勝13敗と振るわず、翌5月場所に西幕下5枚目に陥落し、5月5日に引退を表明した。


《2007年4月30日の出稽古》
さらに2007年4月30日、時津風部屋へ出げいこを行った際、新小結豊ノ島にプロレスまがいの技を仕掛け、右ひざと足首のじん帯損傷の怪我(全治2週間)を負わせた。その後、豊ノ島は5月場所に強行出場。朝青龍との取り組みが初日に組まれたが、このときは立会いすぐに豊ノ島が腰から落ち、朝青龍が勝っている。

この事態が起こった際日刊スポーツ紙上で納谷幸喜(元横綱大鵬)から「横綱の稽古というものが分かっているのか。相手を痛めつけ、恐怖感を与えるのは間違いだ。故意ではなくても、プロレスまがいの技でケガをさせるのは、もってのほかだ。稽古にもルールがあることを忘れないでほしい」と苦言を呈された。また豊ノ島の師匠時津風親方は「豊ノ島を強くしようという稽古じゃなく、壊してやろうという感じだった」「過去の横綱で壊すことをする人はいませんでした。情けない」と苦言。さらに「みんな来るのを嫌がるんじゃないですか」と各部屋で出稽古を拒否する動きに発展することを示唆した。さらに朝青龍の行動に対し日本相撲協会には抗議の電話が殺到した。

また朝青龍は豊ノ島に「残ろうとしすぎだよ」と言った一方、後日高砂親方に注意されると「向こうが力を抜くので、流れでそうなりました。気をつけます」と謝るなど、完全に矛盾する発言をしている。また報知新聞の記者には「何だ?なんだ?じゃあな!」と吠えたり、日刊スポーツ記者には「俺は先場所(八百長騒動で)いじめられたから、そのお返しをしたまでだ」と、稽古という名の八つ当たりを決行したと言ってもよい。

6日に時津風親方が、2日に9部屋からなる時津風一門(荒汐部屋・伊勢ノ海部屋・井筒部屋・鏡山部屋・式秀部屋・錣山部屋・時津風部屋・陸奥部屋・湊部屋)として伊勢ノ海親方が高砂部屋に朝青龍の稽古内容を改めるよう抗議したことを明らかにした。しかしながらこの時点では高砂親方・朝青龍自身から謝罪がなく、時津風親方はこのまま再び出稽古に来て「あの内容の稽古を繰り返せば帰ってくれと言う」と激怒していた。

高砂部屋に所属する現役最年長の序二段力士、一ノ矢充は自らが管理する高砂部屋公式サイト上の日記で「怪我は99%が自分の体の使い方の間違い、未熟さによるものである(中略)相手のせいではないのである。」としている。また、豊ノ島自身もブログ上で「稽古場での事故」としている。その後高砂親方からも謝罪があり、時津風親方は朝青龍が態度を改めれば問題視しないとし、今回の件は沈静化しつつある。


《出稽古の意義》
高見盛の故障時から前述の東関親方を始め一部の間で朝青龍の危険性は指摘されていた。しかし当時各スポーツ紙ではそのキャラクターから高見盛を揶揄するかのような報道がなされ、右肩亜脱臼という事実はそれから2ヵ月後に一部スポーツ紙で報じられたのみであった。豊ノ島の故障により、4年近くを経てその危険性が表面化したことになる。

出稽古で先場所に負けた相手ととことん申し合いをして痛めつけ、相手に恐怖心を与えるというのはある意味心理的な作戦であり、千代の富士(現九重親方)など歴代の名横綱が行っていることである。下位力士に横綱の強さを徹底的に刷り込むと共に若手力士の弱点を探るという効果がある。一方出稽古を受け入れる側には横綱のような強い力士と実戦的な稽古をできる利点がある。

ただ朝青龍の場合、精神面ばかりではなく、肉体的にも休場に追い込むほどの重傷を負わせており、結果的に取り組みとは無関係なところで後進の発展を阻む事態となっている。稽古相手の故障率の高さにおいて千代の富士らとは明らかに異なっており、豊ノ島の師匠である時津風親方は「朝青龍には、下の力士に稽古をつけてやる、という気持ちはない。若手を壊して恐怖感を与えることしか考えていないように見える。悪意に満ちた稽古だ。」と語っている。


【エピソード】
■幼少期から手のつけられない悪ガキだった。本人曰く「墨田区の番長のようなもの」*: (2007年1月7日日刊スポーツ、日曜日のヒーローにて)

■大相撲中継においては近年、「白崎義彦アナが実況すると、よく横綱朝青龍が敗れる」とファンの間で言われている。実際に白崎義彦アナウンサーがテレビ実況を担当した日に限ると、朝青龍が3連敗したこともあった。あの横綱の成績が白崎アナ実況時には通算で5割に近い勝率となっている。中には2004年5月場所で朝青龍の連勝記録が35でストップとなったテレビの実況も含まれている。

■明徳義塾高校時代、普天王、豊真将、白乃波と対戦しており、豊真将、白乃波には勝ったが普天王にはインターハイで敗れている。

■2004年5月場所は6日目(同年5月14日)に平幕の北勝力に敗れて連勝が止まり、最終的にこの場所は2敗となったが、千秋楽(5月23日)の
優勝決定戦で北勝力を破り、3場所連続優勝を達成した。優勝決定後、星1つの差で追っていた北勝力を本割で立ち合いの変化で破り「援護射撃」を果たした同じモンゴル出身の白鵬と握手し、部屋・一門を越えたモンゴル人同士の結びつきの強さを認識させた。

■優勝インタビューでは当意即妙な発言をすることで知られ、(風邪を引いた場所で)「白星が最高の薬」、(史上最高の懸賞が懸かった場所で)「ごっちゃんでした」、大阪で開催される3月場所では、千秋楽には「大阪、ありがとう!(2004年)」、「大阪の皆様、おおきに!(2005年)」、「まいど、大阪!(2006年)」と述べて、ファンを沸かせた。またインタビューの際に両手を挙げて一回転し観客の声援に応える光景はすっかりおなじみである。

■モンゴルに帰国中は強さを維持するために、いつもトレーニングを欠かさない。滞在中も毎日のようにジムに通う。一方の腕ずつ持ち上げるダンベルカールでは、トップボディービルダーでも難しいと言われる52.5kgを上げる。山崎泰央トレーナーが「反動もつけないで上げる。腕の力だけでなく体幹の力が強いんでしょう」と驚くほどのパワーを持っている。

■2005年3月場所の金色のまわしは話題になったが、13日目に大関・栃東に負けたことによって次の日14日目から黒のまわしに戻した。それについては本人曰く「金のまわしは伸びる」からだということ[5]。確かに栃東戦ではまわしが伸びていなければ勝っていたように解釈可能だが、取り直しの一番は完敗だった。(おっつけの強い相手と対戦するときに若干まわしをゆるめるのは武双山などがよく使った戦術でもある)

■2005年10月6日に、長男が誕生し、10月4日に渡米していたラスベガス巡業より帰国後、長男と初対面しての感想は「いいところの社長さんみたい」。

■高校野球強豪校の明徳義塾高等学校出身であるため、野球にも関心があり母校の応援を欠かさないのはもちろんのこと、ワールド・ベースボール・クラシックの準決勝・決勝を支度部屋でテレビ観戦し日本チームを応援していた。プロ野球は阪神タイガースの大ファン。

■2005年11月場所、朝青龍は前人未踏の七連覇、年間六場所制覇を達成した。この時横綱は涙を流しマスコミでは大記録達成の涙と報じられたが、後に横綱はそれを否定、「あの場所、地元福岡出身の大関魁皇を観客のほぼ全員が応援している中たった1人、自分を応援している1人のファンと偶然目が合い、そして勝った瞬間にまた目があった。その人が泣きながらすごく喜んでいるのを見て、思わず涙が出た」と語った。

■亀田興毅、細木数子、島田紳助、堀江貴文とも親交が深い。特に亀田との仲が良いらしく、2006年8月2日に行われた亀田の世界タイトルマッチ(詳細は亀田興毅のページを参照)の際には応援に駆けつけ、勝利を収め喜ぶ亀田を肩に乗せて祝福した。細木とも仲がよく、2005年11月場所では、細木のロールス・ロイスを借りて、それで場所入りした(過去に、輪島がリンカーン・コンチネンタルで場所入りしたことがあったが、ロールス・ロイスで場所入りする力士は史上初)。

■亀田以外でも格闘技の会場ではよく姿を見かける。引退したら格闘技界への進出も噂された。なお、兄2人が前述のとおり格闘家であることも噂の要因になりがちである。

■河島英五の「時代おくれ」を愛唱している。ORANGE RANGEの花もよく歌うらしい。

■2006年11月4日、広島県廿日市市宮島の大本山大聖院にて仏教行事に参加していたダライ・ラマ14世を九州場所前であったが訪問した。これはモンゴルがチベット仏教国であるためである。

■平成15年3月場所3日目に旭天鵬に敗れた後、腹癒せに大阪府立体育会館の空調設備を破壊した。

■リハビリの為モンゴルで合宿をしていた朝青龍は専属トレーナー山崎泰央と共にざんばら髪のポニーテールで成田空港降り立つ。協会より厳重注意(これと似た事件で、関取になりたての貴乃花が女性とデートしている所をフライデーに載せられ、師匠の二子山に「女と遊ぶなとは言わんが、力士らしい格好をしろ!」と大目玉を食らっている)。

■平成16年の7月場所後、高砂部屋で師匠の高砂親方と結婚披露宴の件で揉めた後に「朝潮のアホ〜!!」と暴言を吐き、大トラになった上に部屋の看板を足蹴りし、ドアを破壊しパトカーを呼ぶ騒ぎを起こす。この時、記者会見で泣きながら「もう、酒は飲みません」とコメント。

■琴欧洲には妙に嫉妬したような態度をとる事が多い。2006年1月場所前日、「あのヤローなんか目じゃねぇよ!俺は眠れる虎だ、見とけよ!」と暴言を吐いたり、琴欧洲のCM出演に「アイツばっか、何でCMに出るんだよ!アイツは大関で、俺は横綱なんだよ!」と激怒したりしている。しかし、琴欧洲が入門して間も無い頃は「日本語を覚えるにはカラオケに行ったらいい」とアドバイスをしている。

■彼が出演したCMは不思議と外れるジンクスがあり、2006年にNTTドコモのCMに出演した時は、2006年の携帯登録者数の首位と売り上げをauに初めて奪回された。また彼のCMは、すぐに打ち切り気味に見られなくなる特徴がある。

■2006年有馬記念のプレゼンターに登場する事が決まった際「私が好きな馬は風格があり、強さと気品があるディープインパクトです」とも言っている。

■稀勢の里に対して勝負がついたあとに膝蹴りを食らわし苦言を奏された。

■2007年5月場所千秋楽で白鵬に破れ彼の横綱昇進が確実になった際「土俵に上がったら、ただの人間になっちゃった」と、この日ばかりは弱気な発言もした。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070912-00000041-sph-spo

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アニマル浜口 エピソード&プロフィール

アニマル浜口(アニマルはまぐち)のリングネームでの活躍で最も知られる濱口 平吾(はまぐち へいご、1947年8月31日 - )は、ヘビー級の元プロレスラーでボディビル指導者。島根県浜田市出身。ボディビルダー出身で国際プロレスや新日本プロレスで活躍し、闘将のニックネームで呼ばれた。

浜口京子(アマチュア女子レスラー)の父であり、容姿言動から怪物と言われている熟年男性というイメージの方が一般的に知られている。

熱狂的なジャイアンツファンでもある。


【略歴】
父親が事業に失敗したため、小学5年生の時(1958年)、母親と妹と一緒に親戚の住む大阪府堺市へ移る。中学卒業後は工事現場を転々とする毎日だった。1964年、17歳でボディビルを始め、1969年にミスター兵庫コンテスト準優勝を受賞。その後、ボディビル界との繋がりが強かった国際プロレスに入団、プロレスラーに転向する。

浜口には格闘技の経験がなく、身長も公称178cm(実測170cmほど)とレスラーとしてはけっして恵まれた体格とは言えなかった。だが国際プロレス社長で著名なアマレス選手でもあった吉原功からレスリングの直接指導を受け基礎を築き(このときの経験が後の京子への指導に生かされることになる)、効率的なトレーニングの工夫と頭脳的(ときに狡猾)なプレーで頭角をあらわす。1972年にはディック・ザ・ブルーザーが主宰するアメリカ・インディアナポリスのWWAへ遠征、ブルーザーとの抗争を展開しトップスターとなる。

1973年の帰国後は、国際プロレスのメインエベンターのひとりとなる。しばらくタイトルには恵まれなかったが、1977年、グレート草津とのタッグでIWA世界タッグ王座を獲得、その後は主にタッグ戦のエキスパートとして、末期国際プロレスの中心選手となった。特にマイティ井上とのチームはIWAタッグの他にアジアタッグ王座も獲得し、和製ハイフライヤーズ、浪速ブラザーズなどと呼ばれた名コンビだった。1979年のプロレス夢のオールスター戦では後の盟友長州力とコンビを結成し全日本プロレスの「極道コンビ」グレート小鹿&大熊元司組と対戦している。一方で怪我や病気に襲われることも多く、国際プロレスが活動を停止した1981年8月は肝臓疾患のため欠場中であった。

1981年9月23日、新日本プロレス田園コロシアム大会にラッシャー木村・寺西勇とともに来場。このときリング上で新日本に宣戦布告するはずのところ木村がいきなり「こんばんは」とやってしまいドッチラケになりかけた状況を救ったのが浜口のマイクアピールであった。10月に新日本プロレスとの全軍対抗戦に出場、そのまま木村・寺西と共にはぐれ国際軍団'を組み新日に参戦する。国際時代とは一転、ヒールとして新日ファンからの憎悪を買った。なかでもアントニオ猪木1人と旧国際軍団3人(ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇)の変則マッチは今でも当時を知るプロレスファンの語り草になっている。この試合では中堅をつとめ、フォール負けを喫するが アントニオ猪木のエネルギーを消耗させ、五分で渡り合った。そして 主将であるラッシャー木村の勝ちに貢献した。さらに長州力とは維新軍団を結成して新日正規軍と対戦、同軍団の副将格、そして長州の参謀として大活躍した。なおこのときに始まる長州との交流は立場を違えてからも続き、浜口の引退時、長州は陰で声を上げて泣いたという。

1984年に突如、長州力・マサ斎藤らとジャパンプロレスを結成し全日本プロレスに参戦する。浜口自体に無類の強さという感じは無かったが、タッグとして主役級の相棒(タッグパートナー)を引き立てる”助演”の旨さに定評があり、ジャイアント馬場からも評価されていた。これは浜口とタッグを組んだグレート草津、マイティ井上、ラッシャー木村、寺西勇、長州力、キラー・カーン、谷津嘉章らが異口同音に浜口を評する言葉である。(なお馬場は、鶴田vs浜口シングル戦のTV解説時、最初に「全日本のエース鶴田、負ける要素は何もありません」と言った実況アナウンサーの倉持隆夫に「あなたの言うようだと浜口には勝つ要素は何もないみたいだけど、浜口はそう軽い相手じゃありませんよ」とたしなめたことがあり、試合終了後も浜口のファイトを絶賛していた。)

1987年にジャパンプロレス分裂→長州らの新日復帰に合わせ、現役を引退。浜口の引退は新日からジャパンプロレスに移籍する際に交わした、「トラブルを起こした場合は引退する」という約束を貫くため(キラー・カーンも同様)、また体調を崩しシリーズ欠場中でもギャラを支払ってくれたジャイアント馬場への恩義が影響していると思われる。引退セレモニーで「私はこの四角(リング)の中に魂があったんですよ。ありがとうプロレス。さよならプロレス」という浜口節と10カウントで締めた。その後 アニマル浜口トレーニングジムを東京都浅草に開設。指導者となる傍ら、自らも一から体を作りあげて、ボディビルの大会(シニア部門)に出場した。

1990年、長州力が昔とは別人のような、精彩を欠いた試合を続けていた頃、浜口は引退後初めて新日の会場に現れる。長州がその日も不甲斐ない試合をしたのを見届けた浜口は、突如、その試合後のリングに乱入する。「おいっ長州、お前何やってるんだよ。こんな試合をして恥ずかしくないのか。」と、涙ながらに叫んで長州を張り倒し、馬乗りになってなおも張り手を見舞っていった。その後「昔のようなギラギラとした奴に戻ってほしい」と、長州の景気付けのつもりで、長州とのタッグマッチの対戦限定で現役復帰をし、暫くの間ビッグバン・ベイダー等と共闘し、長州と対戦する。後年にキーワードとなる「燃えろー!!」「気合だー!!」は、この頃に初めて発したものである。(その後、長州とは一騎打ちを経て和解し、ジャパンプロレス時代以来のタッグを復活させたりした。)

1994年、セミリタイヤ状態を経て、WARに舞台を移して再度現役復帰。1995年には天龍源一郎、北原光騎と組んでWAR6人タッグ王座を獲得する。王座陥落後はリングからは遠ざかっているが、正式な引退表明はしていない。しかし、ボディビルに専念する為に、受身に必要な脂肪を減量により無くしてしまった事と、現役時代に肉体を酷使した影響で首を痛めている為、レスラーとしてリングに上がる事は無いと思われる。
その一方、この頃からは名伯楽としてもクローズアップされ始めた。ジムからは小島聡、大谷晋二郎、大森隆男、小原道由、SUWA、本間朋晃らを送り出した。また、長女の浜口京子をアマチュアレスリングの世界チャンピオンに育て上げる名コーチとして注目を集めた。

2004年アテネ五輪における「気合だー!!」という言葉の連呼(同年流行語大賞トップテンに選出)と、場合によっては周囲の迷惑を顧みないと非難された派手な応援(とくに掲示板の得点表示ミスに関する抗議)は海外のメディアからも一定の注目を集めた。同オリンピックを国民的に盛り上げた第一の功労者ではとの見方も一部にはある。娘に向かって「気合だー!! オィッ!! オィッ!! オィッ!!」と叫ぶ姿で世間に顔を売ったとも言われている。

現役時代のトレードマークはターザン風のワンショルダー、赤・青ツートンカラーのタイツ。得意技はダイビングエルボードロップ、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ、エアプレン・スピン。ネックブリーカーは本家のジャイアント馬場からも褒められた。エアプレン・スピンはアンドレ・ザ・ジャイアントを回すのが現役当時の夢であった。入場テーマは「マタドール」(曲:日野皓正)。国際プロレス及び新日本プロレス参戦時には「フリーライド・サーファー(ZERO TO SIXTY IN FIVE)」という曲もテーマ曲にしていた。

見た目は強面だが、優しく涙もろい性格である。その人柄を慕う若者は多い(愛弟子・小島聡がプロレス大賞MVPを獲得した時のインタビューでは泣きながら喜んで語っていた)。

1995年5月、「リングの魂」(テレビ朝日系)の企画で、”憧れの人に会いたい”という企画で浜口の憧れの人→沢たまき(女優・故人)と一日デートが実現した。いつもの気合は何処へやら、終始デレデレした意外な浜口が見られた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070911-00000032-sanspo-spo

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秋川雅史 エピソード&プロフィール

秋川 雅史(あきかわ まさふみ、1967年10月11日 - )は、日本の声楽家、テノール歌手。愛媛県西条市出身。血液型はA型。2006年4月頃から母校である国立音楽大学客員准教授を務めている。


【来歴・人物】
4歳よりヴァイオリン、ピアノを始める。西条市立西条南中学校3年生の時に父の指導のもと声楽家へ転向。愛媛県立小松高等学校を経て、国立音楽大学卒業、同大学大学院修了。その後4年間、イタリアのパルマにて修行。帰国後、ベートーヴェン作曲の交響曲第9番(合唱付き)のソロなど、数々のコンサートに出演。1998年にカンツォーネコンクール第1位、日本クラシック音楽コンクール声楽部門最高位をそれぞれ受賞した。

2001年に、日本コロムビアより最年少テノール歌手としてCDデビュー。

2006年12月31日の第57回NHK紅白歌合戦に「千の風になって」にて出場。

紅白歌合戦出場後、「千の風になって」が2007年1月15日付のオリコンシングルチャート第4位にランクイン。テノール歌手として史上初のトップ5ランクインを果たし、1月22日付のオリコンチャートにて1位となる(2006年6月12日付オリコンシングルチャート初登場168位だったので、100位以下の初登場から1位になったのはオリコン史上初)。

代表作「千の風になって」は、著名な詩「Do not stand at my grave and weep」(作者不明であるが、メアリー・エリザベス・フライの作とする説が有力)を、新井満が日本語に訳し同氏自らが作曲・歌唱したものがオリジナルで、秋川の歌唱はカバー曲にあたる。

コンサートは、ピアノ伴奏のみによる形式と、前半をピアノ伴奏、後半をバンド(ピアノ・バイオリン・ギター・ベース)をバックに行う形式をとる。

実家の西条祭りには毎年スケジュールをやりくりして帰省するほどの祭り好きである。


【エピソード】
■高校ではその声を見込まれて応援団にも臨時に所属していた。高校野球地方予選の応援では、相手チームの観客席までひときわ声が響いた。

■ちなみに兄も大学時代に応援団の吹奏部に所属していた。

■西条祭りにはイタリア留学時も含めて全て帰省して担き夫として参加している。また平成18年11月のだんじり32台が伊勢神宮に遷宮記念奉祝奉納を行った際にも、所属だんじりが遠征したため参加している。「この祭りで歌に悪いこと(酒や大声など)を全てやり尽くすことで、それ以外の日は歌に専念することができる」と述べている。

■声の為に毎日フィジカルトレーニングを行っている。25mプールを息継ぎなしで泳ぎ、それを計600m。その後2kmのランニング、腹筋、背筋、懸垂をし、その後に発声練習をすることが日課となっている。

■イタリア留学中に舌根扁桃(舌の付け根の扁桃腺)の病気で声に雑音が入るようになってしまい、絶望の時期を経験。日本へ帰国し手術を受け、従来の声を取り戻した。手術は合計3回受けている。

■甘いマスクが女性の人気を呼び「秋様」「テノールの貴公子」と呼ばれることもある。歌いやすさを確保すべく、白いシャツを第2または第3ボタンまで開く姿を自らのスタイルとしている。

■大学時代は6年間引越屋でアルバイトをするなど、肉体や体力を使うことが好きであるとテレビ番組にて述べている。

■ラテン系の性格のためイタリア留学時もすぐに馴染んだ。また明るいことを好み、部屋の灯りも一番明るい蛍光灯を使っている。その一方、馴染めなかったこともあったようで、そういった時にアイルトン・セナを心の支えにしていた。皮肉なことに1994年のサンマリノGPを見に行ったときに目の前でセナの事故死を目撃してしまう。

■仕事場には、今でも電車で行くという。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070829-00000017-oric-ent

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渥美清 エピソード&プロフィール

渥美 清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。

東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身


【来歴・人物】
『生涯』
1928年3月10日に上野の車坂に生まれる。父は新聞記者、母は教員であった。

1934年、上野の尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代は所謂欠食児童であったという。加えて、病弱でもあり小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為、学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごした。戦争の色濃くなる1940年に巣鴨中学校に入学。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一には、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。 その後、中央大学経済学部へ進学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」と読み違えたものをそのまま使用したといわれている。芸名の"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。

1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。

1954年、肺結核で右肺を摘出手術しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。

1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。

1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。

1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。

1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で、愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト・バルボンが連合国兵士役で出演した)。

1965年公開の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(1967年〜1968年)なども有名である。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到。「罪滅ぼしの意味も含めて」同1969年、松竹で映画を製作。これが予想に反して大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。

1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。

1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事( 時間(とき)よとまれ)』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事(旅路の果て)』が、1979年には『田舎刑事(まぼろしの特攻隊)』がいずれも渥美主演で製作放送されている。

映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。

1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。

1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。

その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった(映画出演自体での遺作は亡くなる直前まで出演した男はつらいよ 寅次郎紅の花になる)。

後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこのことを知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを一本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんどうごかなくなるなど痛々しい演技である。

病気については1991年に肝臓癌が見つかり,1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演した。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けるが癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば病院で癌の手術が遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。そして1996年8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂医院にて死去。享年69(68歳没)。「死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい。」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が弔辞を読み上げた。世間は、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

又、妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事も明らかになっている。


『経歴についての異説』
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。

中央大学への進学に関しても無かったとの説もある。


『実像』
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や黒柳徹子、渥美とは親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、プライバシーを徹底的に秘匿し、「渥美清=”寅さん”」のイメージを壊さないためであった。

長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。結婚式は家族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。結婚まで秘密にしていたため、他界の数年前も渥美が独身と思っていた人が多かったようである。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで競演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。

2006年9月4日にNHKで放送されたプレミアム10『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。

また、永六輔とは少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったいう。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗み、それを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は、個性が強すぎて一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。

長男の田所健太郎はニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった。

また晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。

(出典:Wikipedia)

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浅尾美和 エピソード&プロフィール

浅尾 美和(あさお みわ、1986年2月2日 - )は、ケイブロス所属のプロビーチバレーボーラー、元インドアバレーボール選手。抜群のスタイルを生かし、ファッションモデルやタレント業もこなす。


【人物】
■三重県鈴鹿市出身。兄2人、弟、妹という5人兄弟の真ん中として育つ。

■身長172cm、体重53kg、B83cm、W62cm、H86cm、股下81cm。血液型O型。

■2004年三重県立津商業高等学校卒業。

■高校時代のコートネームは「キラ」。キラキラ輝く選手になるようにという意味でつけられた。

■在学中に2度春の高校バレー三重県代表校メンバーとして出場。

■高校卒業後はビーチバレーに転向し、同時にモデル業も始める。

■双子の妹とペアを組んでいた西堀健実と出会い、現在ペアを組み活動中。

■そのアイドル並の容貌からビーチバレーの妖精とも呼ばれ、ビーチバレーボール界では浦田聖子(レオパレス・ウインズ)と人気を二分する。

■趣味は映画鑑賞に音楽鑑賞などで、布団を干すのが好きである。

■最新の日本ビーチバレーランキングでは女子5位(2007/7/19現在)。北京五輪出場を目指しており、世界ランキングの引き上げが大きな課題となっている。
(ビーチバレーの五輪出場権は、国際大会などでの成績を元に決められる世界ランキング上位に与えられており、2007年初めの時点では浅尾・西堀組の世界ランクはまだその水準に達していない。)


【ビーチバレー転向後のエピソード】
■スポーツ選手としては異例のセクシー写真集、DVDを発売しており、これにより浅尾の知名度、人気は大きく上がった。

■DVD効果などで浅尾の人気はアイドルなみに上がり続け、浅尾の出るビーチバレーの試合は観客が急増した。それに伴い、浅尾を写真撮影しようとする客も増えた。日本ビーチバレー連盟は「選手の写真がネット上や雑誌などへ無断掲載されるのを防止、肖像権を守る」ことを主な目的として、2007年度から試合の個人撮影を禁止した。撮影が発覚した場合、観客は記録画像をすべて破棄しなければならない。2007年5月4日、東京・お台場ビーチでのビーチバレー国内ツアー第2戦東京オープンでは遠方から選手を撮影していた客に主催側が画像破棄を求めたが拒んだ為、通報され警察に強制連行されるというトラブルも発生した。この件については、そこまでやる必要があるのか、ビーチバレー人気に水を差すものではないか、また本人側は拒んでいないのに協会側が勝手に禁止する権利があるのか、という意見もある。なお、同じように近年撮影が拒否されることが多くなったスポーツとしては、屋内ではあるが女子の競泳、体操、フィギュアスケートなどがある。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070802-00000021-oric-ent

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阿久悠 エピソード&プロフィール

阿久 悠(あく ゆう、1937年2月7日 - 2007年8月1日)は、兵庫県津名郡鮎原村(現在の洲本市五色町鮎原)生まれの作詞家、小説家。本名、深田 公之(ふかだ ひろゆき)。ペンネームの由来は「悪友」から。また、多夢星人のペンネームも持つ(由来は、自分の書いた小説に出てくる人物から)。


【来歴】
幼少期は兵庫県警巡査であった父の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。兵庫県立洲本高等学校卒業、明治大学文学部卒業、同大学院修士課程修了。

広告代理店宣弘社でCM制作を手がけながら、1964年から放送作家としても活動。1966年に同社を退職し、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。処女作はザ・スパイダースのGSデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」。後にオフィス・トゥー・ワンに所属。

作詞家として数々のヒットをとばす。ジャンルは演歌、アイドル歌謡曲、フォーク、コミックソング、アニメソングと幅広い。日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」に番組企画・審査員としてかかわる。1977年、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、おはよう!こどもショーのコーナーでも歌われていた。

シングルの総売上枚数は6,818万枚で作詞家歴代1位を誇る。ちなみに歴代2位は松本隆で4,946万枚、3位は小室哲哉で4,216万枚となっている (数字はいずれもオリコン。阿久悠が死去した2007年8月1日現在での記録)。

直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がける。

1982年には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。

1991年から1995年まで法政大学文学部日本文学科客員教授を務めていた。

2007年8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。享年71。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。


【作詞した楽曲】
《阿久悠名義》
・あさみちゆき「青春のたまり場」

・梓みちよ「二日酔い」「トマトジュースで追いかえすのかい」(大塚博堂と同曲)

・あべ静江「コーヒーショップで」「みずいろの手紙」

・新井満「ワインカラーのときめき」

・石川さゆり「津軽海峡冬景色」「能登半島」「暖流」

・石野真子「狼なんか怖くない」「わたしの首領」「失恋記念日」「日曜日はストレンジャー」「プリティー・プリティー」「ワンダー・ブギ」

・五木ひろし「契り」「追憶」

・五木ひろし&木の実ナナ「居酒屋」

・伊藤咲子「ひまわり娘」「乙女のワルツ」「木枯しの二人」

・井上順「昨日・今日・明日」

・井上忠夫「水中花」(木の実ナナ、渚ようこもカヴァー)

・岩崎宏美「二重唱(デュエット)」「ロマンス」「センチメンタル」「ファンタジー」「想い出の樹の下で」「思秋期」「二十才前」「シンデレラ・ハネムーン」

・大竹しのぶ「みかん」

・大塚博堂「センチメンタルな私小説」「春は横顔」「トマトジュースで追いかえすのかい」「自由に生きてほしい」(大塚たけし時代)

・大橋純子「たそがれマイ・ラブ」「燃えつきて」

・大橋純子&もんたよしのり「夏女ソニア」

・尾崎紀世彦「また逢う日まで」「さよならをもう一度」

・柏原芳恵「No.1」「毎日がバレンタイン」「第二章・くちづけ」「めらんこりい白書」「A・r・i・e・s」「冬の孔雀」

・河島英五「時代おくれ」「ろまんちすと」

・北原ミレイ「ざんげの値打ちもない」「棄てるものがあるうちはいい」

・杏真理子「さだめのように川は流れる」

・香田晋「酒場の金魚」

・郷ひろみ「素敵にシンデレラ・コンプレックス」

・郷ひろみ&樹木希林「林檎殺人事件」

・小西博之+清水由貴子「銀座の雨の物語」

・小林旭「熱き心に」「夢ん中」

・西城秀樹「君よ抱かれて熱くなれ」「ジャガー」「若き獅子たち」「ラストシーン」「ブーメランストリート」「セクシーロックンローラー」「ボタンを外せ」「ブーツをぬいで朝食を」「炎」「ブルースカイブルー」

・堺正章「街の灯り」

・桜田淳子「わたしの青い鳥」「はじめての出来事」「十七の夏」「気まぐれヴィーナス」「サンタモニカの風」「夏にご用心」

・沢田研二「時の過ぎゆくままに」「立ちどまるなふりむくな」「さよならをいう気もない」「勝手にしやがれ」「憎みきれないろくでなし」「あなたに今夜はワインをふりかけ」「サムライ」「ダーリング」「ヤマトより愛をこめて」「LOVE(抱きしめたい)」「カサブランカ・ダンディ」「OH!ギャル」「酒場でDABADA」「麗人」

・しばたはつみ「夜はドラマチック」

・ズー・ニー・ヴー「白いサンゴ礁」

・すがはらやすのり「D・51(でごいち)」

・杉田かおる「鳥の詩」「みかん」(鳥の詩のB面であり大竹しのぶのカバー)

・ザ・スパイダース「モンキー・ダンス」「リトル・ロビー」「ロビー・ロビー」

・ザ・タイガース「十年ロマンス」「色つきの女でいてくれよ」

・田原俊彦「騎士道」

・チェリッシュ「若草の髪かざり」「月は東に」「男と女のメルヘン」「行ったり来たり」

・Char「気絶するほど悩ましい」「闘牛士」「逆光線」

・伝書鳩「目覚めた時には晴れていた」

・Toshi&Naoko「夏ざかり、ほの字組」

・長渕剛「青春は手品師」(ドラマ「王貞治物語」のテーマ曲)

・中村雅俊「日付変更線」

・渚ようこ「ふるえて眠る子守唄」

・夏木マリ「絹の靴下」「お手やわらかに」

・新沼謙治「おもいで岬」「嫁に来ないか」 「ヘッドライト」

・西田敏行「いい夢見ろよ」「もしもピアノが弾けたなら」

・西田敏行&桃井かおり「ルネッサンス」

・早見優「アンサーソングは哀愁」

・日吉ミミ「世迷い言」

・平松愛理「美し都 〜がんばろや We Love KOBE〜」

・ピンクレディー「ペッパー警部」「S.O.S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」「サウスポー」「モンスター」「透明人間」「カメレオンアーミー」「ジパング」「波乗りパイレーツ」「マンデー・モナリザ・クラブ」「OH!」

・フィンガー5「個人授業」「恋のダイヤル6700(シックスセブンオーオー)」「学園天国」「恋のアメリカン・フットボール」「バンプ天国」

・フォー・クローバース「冬物語」

・フォーリーブス「踊り子」

・藤圭子「京都から博多まで」

・ペドロ&カプリシャス「ジョニーへの伝言」「五番街のマリー」

・都はるみ「北の宿から」

・南高節とかぐや姫「酔いどれかぐや姫」

・宮前ユキ「Give Up」

・村下孝蔵&中林由香「哀愁物語−哀愁にさようなら−」「美し過ぎるミステイク」

・ザ・モップス「朝まで待てない」(阿久悠A面でのデビュー作品)

・森進一「北の蛍」

・森田健作「さらば涙と言おう」「友達よ泣くんじゃない」

・森田公一とトップギャラン「青春時代」「下宿屋」

・森山加代子「白い蝶のサンバ」

・八代亜紀「雨の慕情」「舟唄」

・山本リンダ「どうにもとまらない」「じんじんさせて」「狂わせたいの」「狙いうち」

・和田アキ子「星空の孤独」「笑って許して」「あの鐘を鳴らすのはあなた」「もう一度ふたりで歌いたい」

・大阪学院大学「応援歌 友よ」


《アニメソング、特撮など》
・ピンポンパン「ピンポンパン体操」

・デビルマン「デビルマンのうた」「今日もどこかでデビルマン」

・宇宙戦艦ヤマト「宇宙戦艦ヤマト」「真っ赤なスカーフ」(「宇宙戦艦ヤマト」エンディング)「ヤマトより愛をこめて」(「さらば宇宙戦艦ヤマト」エンディング)「銀河伝説」(「ヤマトよ永遠に」)

・ミクロイドS「ミクロイドS」「ヤンマだ、アゲハだ、マメゾウだ」

・ファイヤーマン

・宇宙船サジタリウス「スターダスト ボーイズ」「夢光年」

・スーパーロボット マッハバロン「マッハバロン」「眠れマッハバロン」

・ウルトラマンタロウ「ウルトラマンタロウ」「ウルトラ六兄弟」

・ウルトラマンレオ「ウルトラマンレオ」「戦え! ウルトラマンレオ」「星空のバラード」

・はれときどきぶた(テレビアニメ)「BOO〜おなかが空くほど笑ってみたい〜」「あッ豚だ! 〜一日ゆかいにいきるうた〜」

・名探偵コナン「 ぼくがいる〜コナンのテーマ〜」「ホシが歩いた道を」

・ぱくぱくポケットシリーズ「バースディの唄」「イッチとエッチ」


《スポーツの応援歌》
・地平を駆ける獅子を見た(西武ライオンズ球団歌)

・ダイヤモンドの鷹(福岡ダイエーホークス球団歌)

・今ありて(選抜高等学校野球大会大会歌)

・ああ甲子園、君よ八月に熱くなれ(朝日放送・全国高校野球選手権
大会中継テーマソング、熱闘甲子園テーマソング・挿入歌)

・ふり向くな君は美しい(日本テレビ放送網・全国高等学校サッカー選手権大会中継テーマソング)


《多夢星人名義》
・内田あかり「三色幻燈」

・小柳ルミ子「来夢来人」

・坂本冬美「恋は火の舞剣の舞」

・谷村新司「三都物語」

・堀内孝雄「青春でそうろう」

・水越恵子「“TOO YOUNG”ワンスモア」

・山口弘美「夢盗人」「弱点」


【阿久悠のチャート独占】
1977年12月3日付けのオリコンシングルチャートでは、阿久悠作詞の楽曲が100位までに17曲チャートインした。

1位 - ピンク・レディー『ウォンテッド』
4位 - 沢田研二『憎みきれないろくでなし』
6位 - 岩崎宏美『思秋期』
10位 - 桜田淳子『もう戻れない』
11位 - 新井満『ワインカラーのときめき』
12位 - 石川さゆり『暖流』
13位 - ピンク・レディー『渚のシンドバッド』
14位 - 西城秀樹『ボタンを外せ』
20位 - ささきいさお『宇宙戦艦ヤマト』(アニメソング)、
24位 - 石川さゆり『能登半島』
26位 - 沢田研二『勝手にしやがれ』
36位 - CHAR『気絶するほど悩ましい』
47位 - 石川さゆり『津軽海峡冬景色』
48位 - 岩崎宏美『熱帯魚』
49位 - 新沼謙治『ちぎれたペンダント』
54位 - 森田公一『過ぎてしまえば』
79位 - ピンク・レディー『カルメン'77』


【その他】
「瀬戸内少年野球団」でもわかる通り野球ファンであるが、プロ野球では阪神タイガースのファンで阪神を題材にした小説「球臣蔵」を執筆しているほど。しかしながら西武ライオンズ・福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の球団歌は手がけているが、阪神の応援歌は書いていない。その上皮肉なことに阿久が作詞家になってから阪神はこの2球団のどちらとも日本シリーズで対戦している。また、ヒット曲では「ピンポンパン体操」「サウスポー」となぜか王貞治に縁がある作品を手がけている。

漫画原作者として「悪魔のようなあいつ」(上村一夫画)を手がける。連載中に沢田研二主演ででテレビドラマ化(東京放送)された。主題歌は沢田研二の「時の過ぎゆくままに」。

長年、産経新聞『正論』メンバーとしても活動していて、産経新聞生活面に『阿久悠 書く言う』というコラムを、亡くなる2ヶ月ほど前の2007年6月9日まで執筆・掲載していた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070802-00000002-sanspo-ent

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相武紗季 エピソード&プロフィール

相武 紗季(あいぶ さき、1985年6月20日 - )は、兵庫県宝塚市出身の女優、アイドル、タレント。本名は同じ。愛称は「アイブー」「ぶっちぃ」「さきっちょ」「相武ちゃん」「サキサキ」。

所属事務所はボックスコーポレーション。身長は165cm。血液型はO型。母は宝塚歌劇団卒業生の朱穂芽美(1976年入団、1981年退団)。姉は宝塚歌劇団87期生で星組娘役の音花ゆり。


【来歴・人物】
地元の中高一貫校である雲雀丘学園中学校・高等学校に通学していたが、2002年の夏に朝日放送の「夏の高校野球PR女子高生」に、およそ1,000人の応募の中から選ばれた事がきっかけで現在のマネージャーにスカウトされ、翌年、芸能界デビュー。高校2年の時に単身上京し、日出高等学校に転校して、そのまま卒業。尚「PR女子高生」には相武も含めて3人選ばれたが、残りの2人は芸能界入りはしなかった。

所属のボックスコーポレーションが昔からCMに強かった事もあり、デビュー直後から、いきなり「2ウィーク アキュビュー」(ジョンソン・エンド・ジョンソン)や「C.C.レモン」(サントリー)等のCM出演を果たす。キュートな笑顔と関西出身らしい明るい性格が評判となった。デビュー当初は水着グラビアも行っていたが、2005年に2冊目の写真集を出したのを区切りに水着は封印した。ちなみに、2003年に初のドラマ出演となった「WATER BOYS」や、2005年の「がんばっていきまっしょい」(共にフジテレビ系)では水着姿も披露している。

2004年 からCM出演している「ミスタードーナツ」(ダスキン)では、タカアンドトシ(現在は降板)とのコミカルな掛け合いも話題となり人気を得るきっかけとなった。その一方で女優業にも進出し、17才夏。 〜屋上ガールズ〜(朝日放送)、シナリオ登竜門大賞受賞作『なつのひかり。』(日本テレビ系)などの単発ドラマでは主演経験を積んだ。NHK総合「よるドラシリーズ」の新規作品最終作となった『どんまい!』(NHK総合)では、連続ドラマ初主演を務めた。

2005年以降は声優業にも進出し、アニメ映画『まじめにふまじめ かいけつゾロリ なぞのお宝大さくせん』、映画 『ドラえもん のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜』ではヒロインの声を務める。準主役クラスで出演したドラマ『アテンションプリーズ』(フジテレビ系)が縁になって起用されたJAL日本航空の「先得割引」(「紗季」と引っ掛けたものと思われる)では、B777の胴体に客室乗務員姿の巨大写真が3機ペイントされたが、これは女優としては史上初である。

現在、12社のCMに出演中。テレビや雑誌の紹介でも「新CM女王」などと評されることが多く、不動の地位を築いている。


【エピソード】
■「相武」という名字は全国的にも珍しく、よく芸名と間違えられる(人名で「武」の文字を「ぶ」と音読みにするのも少ない)。「アイタケサキ」という名前で、KFCデリバリーを頼むなどの工夫をしている。

■また、東京都と神奈川県の都県境付近の地域を指す名称として「相武(そうぶ)」があり、これに関連し相模原市の地名に相武台、小田急小田原線に相武台前駅、相模線に相武台下駅などがあるため、「そうぶさき」と誤読される事もあった。

■特技はシンクロナイズドスイミング、競泳(平泳ぎ)。競泳(平泳ぎ)は中学生の時、宝塚市の大会で一位になった事がある。中学、高校では水泳部で副部長を務め、“鬼の副部長”として恐れられるほど、後輩を厳しく指導していた。練習メニューを作成していたという。シンクロにおいてはオリンピックで見た小谷実可子に憧れて始め、一時期は選手を目指すほど打ち込み、宝塚市の代表を務めた事もある。小学校の時から始めた水泳で鍛えた身体は筋肉質だが、陸上競技は苦手。ただ、持久力には自信を持っている。

■ドラム演奏は中学生時代に父親の影響で始めている。一部雑誌インタビューの手違いで学園祭でバンドを組み演奏したとされているが、実際は計画止まりであった。

■趣味は読書で特にミステリー小説を愛読している。好きな作家は宮部みゆき、恩田陸、伊坂幸太郎など。その他の趣味は音楽鑑賞、料理。特に料理はテレビのバラエティ番組で数々披露している。

■自ら酒好きを公表しており、お気に入りのお店はダーツバーと焼き鳥屋。

■男子高校生や男子大学生にかなり人気がある。理想のタイプとして選ばれることが多い(2006年6月19日放送の芸恋リアル(日本テレビ系)で発表された、「全国一万人大調査 恋人にしたい女性ランキング」では第4位にランクインした)。

■ペットは希少犬のボロニーズ(メス)。名前は『みゅー』。2006年9月に飼い始めた。

■高校2年の時にスカウトされて上京しようとした時、父親から「中学から一緒の友達と卒業出来なくていいのか?」と言われ、説得するのに時間がかかったという。

■上京以来、毎年父親に手編みマフラーをプレゼントしている。

■最近ではサーフィンに夢中になっているという。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070708-00000024-dal-ent

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青田典子 エピソード&プロフィール

青田 典子(あおた のりこ、1967年10月7日 - )は、日本のタレント、女優。本名、森田 典子(もりた のりこ)。なお、本名の森田典子の名義で活動していた当時のプロフィールによると、生年月日は1966年10月7日 となっている。

愛媛県松山市出身。東京都立八王子東高等学校卒業。戸板女子短期大学中退。オスカープロモーション所属。


【プロフィール】
生年月日: 1967年10月7日
現年齢: 39歳
出身地: 愛媛県松山市
血液型: O型
公称サイズ(1995年時点)
身長 / 体重: 164 cm / ― kg
スリーサイズ: 88 - 58 - 85 cm
靴のサイズ: 23.5 cm


【略歴】
1990年にオスカーが主催したコンテスト「日本美人大賞」準グランプリ。その後1991年に同コンテストの上位入賞者で結成されたC.C.ガールズの初代メンバーに選ばれる。当時の愛称は「てんこ」(メンバーに同じ「のりこ」である原田徳子がいたため)。同年日本テレビ音楽祭新人賞、1993年にはゴールデン・アロー賞グラフ賞、1995年にはハット(帽子)グランプリ特別賞を受賞した。

1996年にC.C.ガールズを卒業後はソロでの女優・タレント活動を開始。映画・Vシネマのヒロインクラスの役を務めるほか、バラエティーのMCなど幅広く活躍。

ちなみにC.C.ガールズデビュー前は本名の「森田典子」として、フジテレビの深夜番組『オールナイトフジ』にレギュラー出演しており、当時はモデルやコンパニオンで構成される“シーエックス”というグループのメンバーだった。また、1986年から1987年にかけ、『BUNTA』『月刊プレイボーイ』誌上で、森田典子としてヌードグラビアも披露している。

2004年頃から、「結婚を諦めて」(本人談)なりふり構わず仕事の幅を広げ、バラエティ番組『ロンドンハーツ』に出演。「格付けしあう女たち」のコーナーで、そのキャラクターから「L'amant(ラマン)青田」「バブル青田」と呼ばれ人気になり、2005年冬スペシャルでは、バブルを代表する画家、ラッセンにヌードの絵を描いてもらった。 また同コーナーの中の決めゼリフ「ジーザス・クライシス♥」が大爆笑をとりブレイク。 さらに、同番組の企画で、小室哲哉の楽曲提供を受け、「バブル青田」の名で「ジーザス」というタイトルで2006年4月19日にソロCDデビュー。この企画の一部始終は同年4月11日の『ロンドンハーツスペシャル』で放送された。詳細は下記を参照。

女性セブン2007年5月31日号で1歳年下の実業家との04年11月〜05年秋までの結婚歴があることが報道された。


【エピソード】
C.C.ガールズで人気が高かった頃、写真週刊誌『FOCUS』に整形の過去があることがすっぱ抜かれた。青田は子供の頃両親が離婚し母親は現在も福山市に住み、度々ここを訪れたためかデビュー時のプロフィールでは広島出身とされている記事もあった。そういう関係でとても腕がいいと評判だった広島市の美容外科で手術を行った。顔だけで20ヶ所と記事に載っているが、院長が自慢し「それがウチの特徴なんです。少しづつ施術してまわりの人には分かりません」とベラベラ喋っていた。それだけ喋ったらまわりの人に分かってしまうが、更に美容学会で青田の写真を持ち出して発表し大きく世間に知られることとなった。青田自身「それの何が悪いのよ!」と開き直っていた。青田以外の大物芸能人、ジャニーズ系もお忍びで手術に訪れたという噂があったがこの病院は現在は廃院となっている。


●バブル青田
バブル青田とは、彼女の歌手としての別名。青田は元々歌手志望だったが、C.C.ガールズ時代にリリースした曲(初期は「D.D.GAPS」のユニット名でリリース)はヒットしなかった。そこでロンブーの田村淳が『ロンドンハーツ』(以下『ロンハー』と略)で青田を「バブル青田」としてソロCDデビューさせようと企画。プロデューサーは、淳と同じ吉本興業所属で、青田自身も大好きという小室哲哉だった。

…というのが一連の流れとなっているのだが、実際の所は淳も含めた番組サイドからのブッキングという訳ではなく、小室側から出た企画とも(番組内で「小室さんから声がかからなかったら実現しなかった」との発言有り)。

小室は全盛期だった1997年(後で1996年と分かったが)の未発表曲を提供。作詞は、青田のカラオケの十八番『Chase the Chance』(歌・安室奈美恵)を作詞した前田たかひろ。タイトルは、前述の『ジーザス』がそのままタイトルになった。

青田はカラオケBOXで練習をしたり、カウンターテナーの米良美一などからボイストレーニングを受け、レコーディングに挑んだ。

CDデビュー会見で『ロンハー』メンバーに初めて報告。またそこで同じ日に『ロンハー』で共演している熊田曜子もCDデビューすることが分かり、二人は発売後一週間の売り上げ記録で勝負し、負ければ故郷で『ジーザス』を披露することに(結果、青田が12位、熊田が15位となり、熊田が自らの故郷・岐阜で披露)。さらに、幕張メッセでデビューライブを行うことも通達された。

振り付けはTRFのSAM、ETSU、CHIHARUが担当。ダンスレッスンを受け、ジュリアナ時代に流行した“ジュリ扇”を使ったダンスが完成した。曲の最後の決めポーズは「イナバウアー」ならぬ「イナバブル」。

ライブに向けて青木さやかと同じケビン山崎のジムで体を絞り、ウエストを68cmから60cmにしダイエットにも成功。

9000万円の費用を投じた幕張メッセのステージは見事成功。そこでCDジャケットが披露されたが、ジャケット撮影の時間がなかったため青田の運転免許証の写真(スッピン顔)が使われた。

『ロンハー』共演者の青木さやかは『ジーザス』がお気に入りと公言している。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070518-00000007-nks-ent



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阿部美穂子 エピーソード&プロフィール

阿部 美穂子(あべ みほこ、1975年9月4日 - )は東京都出身のタレント、女優。身長160センチ、体重43キロ。


【来歴・人物・エピソード】
「王様のブランチ」のブランチレポーターとして活躍後、番組アシスタントや女優として真面目路線で活躍。

2003年、NHKのハングル講座の韓国ロケで知り合った元韓国代表のサッカー選手である崔成勇(チェ・ソンヨン)と結婚し、韓国に生活拠点を移す。

そのチェは2006年に横浜FCへ移籍したため、それに併せて阿部も帰国した。

2006年11月2日午後4時46分に、3,136gの第1子(男児)を出産。名前は「知暁(ヂヒョ・ともあき)」。

千葉県立実籾高等学校、和洋女子大学短期大学部を卒業。趣味は水泳。

スポーツBOMBER!では天然ボケキャラを続出。その出演中にやじうまプラスの司会者の起用が決まったために競演していた清水圭から不安視がられた。

1996年3月頃に放送された「クイズ日本人の質問」(NHK総合)でブルマーに関する問題では、アシスタントで一緒だった夏川真紀と2人で体操着ブルマー姿で登場した。1人は濃紺のブルマーに白の襟付き半袖体操シャツ、白のソックス、運動靴を着用し、体操シャツはブルマーの中に入れ、頭には赤のハチマキをして登場。もう1人は濃紺のちょうちんブルマーに白の開襟シャツ、運動足袋、白のハチマキをしていた。

愛称は「阿部ちゃん」。王様のブランチに出演していた頃はリポーター仲間やファンから「あべこ」と呼ばれていた(名付け親は坂下千里子)。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070504-00000012-sanspo-ent

蒼井優 エピソード&プロフィール

蒼井 優(あおい ゆう、本名非公開 1985年8月17日 - )は、日本の女優。

福岡県出身。イトーカンパニー所属。堀越高等学校卒業。日本大学芸術学部演劇学科中退。

血液型はA型、身長160cm。


【略歴】
■小学生の頃から地元のモデル事務所に所属してCMや広告に出演。

■1999年、約1万人の中からミュージカル『アニー』のポリー役に選ばれデビュー。

■1999年夏、オーディション情報誌『月刊デ・ビュー』(オリコン・エンタテインメント刊)の「夏の特別オーディション」企画に掲載されていたタレント募集の中から現事務所に応募し、以来所属。

■2001年、岩井俊二監督の『リリイ・シュシュのすべて』で映画初出演。

■2002年、三井のリハウスの10代目リハウスガールに選ばれる。

■2003年、『高校教師』で初めて連続ドラマにレギュラー出演する。

■2004年、『花とアリス』で訪れた第9回釜山国際映画祭で、韓国での映画の熱狂ぶりと日本映画の認知度の低さに驚き、日本映画にもっと深く関わっていきたいと思うようになる。

■2005年、7本の映画出演作が公開され、『ニライカナイからの手紙』で単独初主演を果たした。

■2006年、第11回釜山国際映画祭にて行われたスターサミットアジア2006に参加し、これからアジアの映画を担っていく女優として市原隼人、香椎由宇らと共にカーテンコールの1人に選ばれる。

■2006年度、『フラガール』などでの好演が認められ、第30回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞、第49回ブルーリボン賞主演女優賞をはじめ、多くの映画賞を受賞した。


【特徴・その他】
■ナチュラルで透明感のある演技が魅力。特に、2001年公開の映画『リリイ・シュシュのすべて』(岩井俊二監督)では比較的少ない出演時間でありながら、その儚く切ない存在感は観た人に最も強い印象を残している。また同岩井監督作品『花とアリス』では前作とは違った、明るいが孤独を持った小悪魔的な少女の演技と、2歳から続けていたというバレエで観るものを魅了する。

■本人曰く「自分は個性がないところが個性だ」。

■宮崎あおいとは仲が良い。映画『害虫』やドラマ『青と白で水色』、CM『ファイブミニ』、雑誌で多く共演しており、お互いを「あおい」、「優」と呼び合う。

■ときおり右の頬に片えくぼが現れることがあり、チャームポイントの一つとなっている。

■一人称は「優」。

■新潮社『ニコラ』では本名で読者モデルオーディションを受けたが、その後すぐ現在の事務所に所属になり、蒼井優としてモデル活動を始めた。

■食べることが好きで、サバの味噌煮、筑前煮などを好む。また、カキ氷は週に5日は食べるという。

■2005年の『クレヨンしんちゃん』冬SPでは彼女の名をもじった赤井優というキャラが登場した。

■ゲームソフト『ポケットモンスター』シリーズのファンであり、2006年には『ポケットモンスター ダイヤモンド・パール』CMに出演した他、ゲーム雑誌『CONTINUE』(太田出版)Vol.31の表紙を飾ると共にインタビューが掲載されている。

■『僕らの音楽』(2007年3月30日)で、レミオロメンの藤巻亮太と対談。その中で、レミオロメンの曲に出合ったきっかけは嵐の二宮和也と舞台で共演した時、二宮の楽屋から『3月9日』が聞こえてきて、その後、二宮から曲のことを聞いたことだという。

■『クワイエットルームにようこそ』では、摂食障害の役のため、役作りで体重を7kg落としたという。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070425-00000015-flix-movi

あみん エピソード&プロフィール

あみんは、岡村孝子(おかむら たかこ 1962年1月29日- 愛知県岡崎市出身)と、加藤晴子(かとう はるこ 1963年1月2日- 愛知県豊川市出身)の2人によるJ-POPのユニット。1980年代前半に活動し、シングル4枚とオリジナルアルバム2枚をリリースした。アルファベット表記は「Aming」。代表作となった「待つわ」は現在でも耳にする機会の多いスタンダードナンバーである。

歌うときは、向かって左側に岡村、右側に加藤が立つ。岡村の歌う主旋律に加藤がハモりを加える曲が多い。

2007年に再結成の予定(詳細後述)。


【来歴】
椙山女学園大学の同級生として出会った岡村と加藤が、意気投合しユニットを結成。

岡村は、愛知県立岡崎北高等学校を卒業して、一浪後に同大学に入学。加藤は、愛知県立小坂井高等学校を卒業後、同大学に入学。2人は1歳違いで、同級生である。

その出会いは、岡村孝子が大学の教室内で、履修届の書き方がわからなくて、前の席に座っていた加藤晴子の背中をペンでつついて尋ねたのが2人の出逢ったきっかけ。

ユニット名は、さだまさしの楽曲『パンプキン・パイとシナモン・ティー』(1979年、アルバム『夢供養』収録)に登場する喫茶店「安眠(あみん)」から取った。当初は「亜未夢」という漢字を当てていたものの「あくむ」などと誤読されることが多かったため、ひらがな表記に変えた(余談だが、さだまさしが喫茶店の名前にした「安眠(あみん)」の由来は、ウガンダの独裁者イディ・アミンである)。

1981年秋、第22回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に「琥珀色の想い出」で出場し、中部北陸大会で優秀曲賞を受賞。だが本選(全国大会)へは進めずじまい。ちなみに、このとき同じブロックからアラジンの「完全無欠のロックンローラー」が本選に進みグランプリを獲得した。

1982年春、第23回ポプコンに「待つわ」で出場。5月16日の本選に進出、グランプリを獲得した。

1982年7月21日、「待つわ」でレコードデビュー。楽曲が多大なる共感を得て、デュエットによるハーモニーの新鮮さや清潔感と相まって同年のトップセールスを記録するほどの大ヒットとなる。あまりの有名さと分刻みのスケジュールで、大学の授業に出ると教授から「芸能人は来るな」と教室を追い出されるというエピソードもあった。1982年12月31日には第33回紅白歌合戦に出場。

1983年4月25日、ファーストアルバム「P.S.あなたへ…」をリリース。他のアーティストからの提供曲も歌わせたいというレコード会社側の意向と、できるだけ多く自作曲を歌いたいという当人の意向が衝突し、当初は前年の10月にリリースする予定だったものを延期して、あみん側の意向を通した。なお、このファーストアルバムがオリジナル曲中心だったのに対し、次作のアルバム「メモリアル」は全曲がヤマハ音楽振興会所属・出身アーティストによる既発表曲のカバーであった。

1983年5月から全国6か所で初ツアー。だが、この頃から活動をやめようという意見が出始める。当時は「多忙さに伴う学業との両立問題」が理由とされていたものの、本当の理由は違うところにあることが後年になって明かされた。2005年6月12日にBS2(NHK)で放映された岡村のライブ番組内で、加藤がインタビューに答えたところによると、「自分の才能のなさから、音楽業界は自分の居場所ではないと思うようになった」ことが動機で、ただ当時の岡村には言えなかったため、学業との両立を口実に休止を切り出したとのことである。

結局、1983年12月18日、愛知県勤労会館のコンサートが最後の活動となった。このコンサートがファイナルであることはあえて公表されず、翌々日の1983年12月20日にリリースしたアルバム「メモリアル」を以て休止ということになっている。


【休止期間中】
■岡村は大学を中退、ソロデビューして現在に至る。詳細は岡村孝子の項目を参照。なお、4枚のシングルを編曲した萩田光雄は岡村のソロ活動においてもずっと編曲を担当している。

■加藤は大学を卒業後、OLとして就職、のち結婚。一般人の主婦として生活を送る。

■岡村がソロデビューした後も、プライベートでは岡村・加藤の交流は続いていた。その後、次のような形で、加藤が岡村の音楽活動にかかわるようになる。

■2002年、岡村の依頼により、デビュー20周年記念シングル「天晴な青空」にコーラスとして加藤が参加する。

■2002年9月6日、渋谷公会堂でおこなわれた岡村のコンサート「DO MY BEST」ツアー最終日のアンコールに加藤が登場し、あみんを一夜限りで再結成して「待つわ」を歌う。ただし当時から半音下げたキーによる演奏だった。その模様は岡村のライブDVD「ENCORE V」に収録されている。

■2006年5月にリリースされた岡村のアルバム「四つ葉のクローバー」に収録されているうちの2曲で、再び加藤がコーラスとして参加。うち、先行シングル「銀色の少女」は、さだまさしが作詞を担当した。

■2006年12月16日、岡村のクリスマスコンサートのアンコールで加藤が飛び入り出演し、あみんとしての活動を2007年より再開することが発表された。


【活動再開】
活動内容としては、2007年6月20日付けでリリースのシングル「待つわ'07」(レコードデビュー曲の新録音)、7月のアルバムリリース、8月24日〜9月15日のコンサートツアーが予定されている。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070423-00000004-sanspo-ent

嵐 エピソード&プロフィール

嵐(アラシ)は大野智、櫻井翔、相葉雅紀、二宮和也、松本潤から構成されるジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループ。所属レコード会社は、ポニーキャニオンからジェイ・ストーム(プライベートレーベル)へ移った。


【メンバー】
■大野智(1980年11月26日- A型)愛称は大ちゃん/リーダー/キャプテン/おじさん
■櫻井翔(1982年1月25日- A型)愛称は翔くん/翔ちゃん/チェスト櫻井/嵐のお母さん
■相葉雅紀(1982年12月24日- AB型)愛称は相葉ちゃん/雅紀くん(海外では「アイバ、マーくん」らしい。)
■二宮和也(1983年6月17日- A型)愛称はニノ/にのみぃ/和/ニノちゃん
■松本潤(1983年8月30日- Rh-A型)愛称はマツジュン/潤くん/まっつん(平山あや談)/マイナースポーツ番長/ドS番長/松本さん


【名前の由来】
グループ名「嵐」の由来は「芸能界に嵐を起こす」という意味のほかに、頭文字が五十音でも最初の「あ」、アルファベットでも最初の「A」に来ることから「必ず一番になる」という意味が込められている。LOVE LOVEあいしてるで櫻井は、他にもいくつかあって嵐になったと発言している。「?(クエスチョンズ)」という候補もあった。名前の由来はかなり曖昧で、一時「Five」に仮決定していた。あまり知られていないが、ジャニー喜多川は「1年以内にデビューさせる。もう、どの子かも決まっている。やはり、5人ぐらいがグループとして丁度良いと思っている(光GENJIは、7人から5人へ、6人グループのSMAPが1996年、森且行が辞めたことも関係して)」と仲の良い記者に語っていた。名付け親が木村拓哉といわれるが、広く知られたガセネタである。これは木村自身がラジオ番組で明確に否定し、明らかになった(木村自身もそんなガセが出回っていることを知らなかった)。


【概要】
■1999年9月15日(日本時間では9月16日)ハワイ・ホノルル沖の船上にて“嵐”結成を発表。デビュー会見を行う。最初の構想では、メンバーは櫻井、二宮、松本の3人であったが、メンバー3人の意向により、大野、相葉の加入が決まり、現在のメンバー構成となった。このことは櫻井が、雑誌「H」の取材を受けた際のインタビューにて明らかになった。櫻井は、ジャニー喜多川から「ワールドカップのイメージキャラクターやらない?」と言われ、一時的なものだと思い、承諾。二宮と松本は、スタジオでジャニーズJr.のみんなでバレーをしている際、2人がたまたま最後までその場に残っていて、ジャニー喜多川の「Youたち、チョーうまいじゃん!」の一言で決定。大野は、Jr.内で1番歌がうまいことから、「レコーディングを手伝って欲しい」と言われて行ったら、いきなり自分のソロがあったらしい。相葉に至っては、ハワイでの記者会見の3日前に、ジャニー喜多川から「You、パスポートある?」と電話で言われ、「あります」と答えたところ、3日後にハワイに行って、そのまま記者発表になった。大野、櫻井、二宮は、「デビューする事を聞いてなかったから、聞いてたら断るつもりだった」と語っている(HEY!3MUSIC CHAMPより)。

■グループ内の年齢差が3歳以内というのはジャニーズ内でも珍しい。また、ジャニーズの中で、デビュー時の平均年齢が最年少。

■ジャニーズ内でもとても仲が良いグループである。(V6マネージャーや本人談)以前、TOKIOの松岡に「1回本気で殴り合いの喧嘩をしてみろ」と怒られたことがある程仲良しで、1回もメンバー同士でケンカをしたことがないらしい。プライベートで何回か旅行している。

■本人たち曰く「体育会系のノリじゃなくどっちかっていうと文系」(まごまご嵐)


【エピソード】
■結成当時、じゃんけんでリーダーを決められた大野智は、プレッシャーで、リーダーを1ヵ月交代でローテーションしようと言っていたという。(Mステでの本人談)

■HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMPで関ジャニ∞と仲が悪いと告白。櫻井翔が村上信五とオシャレな喫茶店でお茶していたら「マジでか〜!?」と大声で話し、目立って仕方なかったらしい。相葉雅紀曰く「横山裕は初対面からうさんくさいやつだった」。もちろん仲が悪いと言うのは彼らの冗談で、相葉雅紀は「これ見たら絶対お礼の電話かかってきますよ」と言っていたが、その後、相葉のほうから横山裕に電話を掛けたようである。

■嵐はメンバー同士で誕生日プレゼントを渡しているが、2005年大野はもらえなかったという。だが、2005年11月26日の大野智の誕生日は「まごまご嵐」ボート部の合宿中だったので、当日の夜バーベキューを終えた後メンバーとボート部コーチから舞台での役が描かれたバースデーケーキをもらい祝福された。このとき松本潤はドラマ撮影のためいなかった。

■最近(2006年)では、メンバー5人とジェイ・ストームのスタッフ数名とサッカー(フットサル)チームを作ろうとしている。

■実際につい最近、フットサルのチームが組まれ、練習をしたらしい。(ゲームニッキより)また、ユニフォームも作ったらしい。


【来歴】
■1999年11月3日、バレーボールワールドカップのイメージソング『A・RA・SHI』でデビュー。デビュー日前々日の11月1日に代々木で行った握手会(嵐大集会)では、約8万人のファンが殺到したとして話題になる。デビューシングル『A・RA・SHI』の初回出荷枚数は36万枚。曲が決定する以前から初回出荷枚数は決定済みであった。

■2001年春に行われたコンサートツアーの松山公演が、芸予地震により会場が損壊したため、中止となる。メンバーはこの中止を受け、その後このツアー最終日に行われた記者会見にて、「必ず借りは返します。」と発言。2年後の2003年夏に行われたツアーにて、松山公演を実施した。)

■2001年11月7日、ポニーキャニオンから自社レーベル ジェイ・ストームへ移籍。

■2002年4月16日、CD『ナイスな心意気』のキャンペーンでアラシ株式会社の入社式を行う(東芝EMI)。

■2002年秋にはメンバー5人全員での初主演映画『ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY』が公開、主題歌、挿入歌ともに嵐が担当(主題歌はPIKA☆NCHI)(挿入歌はPIKA☆NCHIカップリングの道)

■2004年8月には、日本テレビ系『24時間テレビ 愛は地球を救う』の第27代メインパーソナリティを務め上げる。その際、相葉がメンバーへの手紙を読む場面があり、大野、松本は号泣、櫻井、二宮も涙ぐんでいた。

■2006年1月2日(日本時間3日)に事務所の先輩東山紀之、森光子とともに相葉、二宮、松本がハワイ入りした。記者にインタビューされた時、東山にそそのかされた相葉が「先輩が走れって言うなら、走ります」とホノルルマラソン出場宣言をしている。だが、ラジオにて「そう言わない訳にはいかない。」と言っているので実際は分からない。

■同年1月14日、メンバー櫻井のソロコンサートが開幕(ソロでは初めて)。だがその最終日である2月4日の札幌公演は、天候が悪く中止に。その後雑誌で「最近悲しかったことは?」と聞かれ「札幌のコンサートができなかったこと」と答えていたため、相当悔しかったと思われる。

■同年1月29日、メンバー大野のソロコンサートが開幕(ソロでは初めて)。

■同年3月13日、二宮が、アメリカ・ハリウッドにてハリウッド映画『硫黄島からの手紙』の撮影を開始。4月25日、ハリウッドから帰国し、映画撮影が終了した。ちなみに、二宮の役は、西郷という役である。

■同年5月12日、『ピカ☆☆ンチ』以来3度目に5人が揃った、映画『黄色い涙』がクランクイン。

■同年7月9日より全国ツアー「嵐 SUMMER TOUR 2006 ARASHIC ARACHIC ARASICK Cool&Soul」がスタート。9月からは、初の海外公演も控えている。

■同年7月31日、タイ・台湾・韓国の3ヶ国をわずか一日で回り、9月からの初の海外公演を大々的にPRした。その際に使用したプライベートジェット機の名は「ジェットストーム」である。この1日に掛かった費用は約1億円。各国では、1000人〜1500人のファンが嵐を一目見ようと空港や会場に殺到。各国メディアのみならず国内メディアもこれを大きく扱い、国外での人気ぶりまでもが広く知れ渡るところとなった。尚その出発のわずか数時間前には、大阪でのコンサート(1日3回公演)を終えたばかりであった事にも驚かされる。

■しかし、10/7に開催される予定であったタイではクーデターの影響により今公演は中止が決定。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070423-00000008-sanspo-ent

秋山莉奈 エピソード&プロフィール

秋山 莉奈(あきやま りな、1985年9月26日 - )は、日本のグラビアアイドル、女優、タレント。

東京都出身。キリンプロ所属。『仮面ライダーアギト』出演時には誰も予想しなかったが、お尻の美しさに定評があり「美尻の女王」との異名をとる。

『仮面ライダーアギト』にてヒロイン・風谷真魚役として出演し、6年後放送の『仮面ライダー電王』にてナオミ役として再び『仮面ライダーシリーズ』に出演を果たした。

血液型A型。特技はソフトテニス、陸上。

2007年04月08日 PRIDE.34より、フレッシュサポーターとして、PRIDEのコメンテーター&選手へのインタビュアーを務めている。

2007年5月9日、シングルCD『莉奈はオシリーナだから』で歌手デビュー予定。


【プロフィール】
愛称: オシリーナ
生年月日: 1985年9月26日
現年齢: 21歳
出身地: 日本・東京都
公称サイズ(2006年時点)
身長 / 体重: 164.5 cm / ― kg
スリーサイズ: 83 - 57 - 88 cm
靴のサイズ: 23.5 cm

(出典:Wikipedia)

愛川欽也 エピソード&プロフィール

愛川 欽也(あいかわ きんや、1934年6月25日 - )は、日本の俳優、バラエティ業をこなすマルチタレント。本名、井川 敏明(いかわ としあき)。キンキンの愛称で知られている。

東京都豊島区巣鴨出身。愛川企画室所属。血液型A型。「おまっとさんでした。」という言葉はドラマ以外の出演番組の冒頭で出る名ゼリフである。


【来歴・人物】
■浦和高校中退後、1954年俳優座養成所(3期生)に入所。

■人気深夜番組『11PM』の司会を長年つとめる。当時はスタッフに対して威張り散らす司会者だったらしく、放送作家だった景山民夫に散々批判されていた。その後も、女性の出演者を呼び捨てるスタイルが批判されたことがある。

■1959年に最初の結婚。翌年娘(女優の佳村萌)をもうける。

■1975年、満艦飾のトラックを主人公とした映画を企画し持ち込む。これが東映のドル箱シリーズとなった『トラック野郎』。菅原文太と共演し相棒「やもめのジョナサン」役を演じる。これが空前の大ヒットとなり1979年までに全10作が製作・公開される。監督鈴木則文。

■1978年に前妻と離婚。同年、離婚日の翌日にタレントのうつみ宮土理と再婚。うつみとはTBS系の昼バラエティ『シャボン玉こんにちは』で長くコンビを組んでおり、現在で言う不倫の末の略奪結婚ではないかと騒がれた。

■1983年には三波伸介の急死により日本テレビ系『笑点』の新春特番の司会を務めそのまま正式に司会就任を要請されるが、「大勢の落語家さんを相手にとても司会なんか出来ない」と辞退し、三遊亭円楽が就任した。

■同じく1983年に水野晴郎が参議院選挙に出馬したため、日本テレビ系「水曜ロードショー」の解説を担当。「よこそ僕の映画の部屋へ」というフレーズを使っていた。また「刑事コロンボ」を放送する際には、コロンボのトレードマークであるトレンチコートを着用したが、あまり評判はよくなかった。
その後、水野晴郎が落選し、番組に復帰した為、短期間の担当となった。

■1996年まで放送されていた『なるほど!ザ・ワールド』(フジテレビ)の司会者を務める。コンビを組んだ楠田枝里子との身長差をカバーする為に、楠田が椅子に掛け愛川が立ったまま、というスタイルが編み出される。

■1995年に『出没!アド街ック天国』開始以来、たまに放送されるテレビ朝日系『土曜ワイド劇場 西村京太郎トラベルミステリー』と同じ時間に見られるようになった。土曜ワイドでは『横溝正史の吸血蛾』(1977年)にて名探偵金田一耕助を演じるが、さすがに作品のイメージと違いすぎたのか、愛川金田一はこれ1作となっている。

■過去に3つのレストランを経営。しかし、時代を先取りしすぎたのか全て3ヶ月で倒産(業界用語では「1クール倒産」)しており、多額の債務を背負ったが現在は完済している。

■1996年に上映された映画『ドラゴンボール 最強への道』で亀仙人役を演じている。これは初代亀仙人の声を務めた宮内幸平が他界した為。声優としての久々の仕事となるが、『いなかっぺ大将』における野沢雅子との師弟コンビ復活が実現し大きな話題となった(一説にはこれを踏まえてのオファーだったとも)。

■『出没!アド街ック天国』での司会の経験からか、街づくりに対する愛川なりの想いがある。『東京新聞』の「わが街わが友」と題する愛川の随筆では、画一的なニュータウンもよいが、街ごとの香りが感じられる街に愛着を抱く様子が書かれている。

(出典:Wikipedia)

新垣結衣 エピソード&プロフィール

新垣 結衣(あらがき ゆい、1988年6月11日 - )は、日本のファッションモデル・女優・タレント・グラビアアイドル。愛称はガッキー。

沖縄県那覇市出身。レプロエンタテインメント所属。

那覇市立開南小学校、大里村立大里中学校、日出高等学校卒業。

身長167cm。血液型はA型。


【プロフィール】
愛称: ガッキー
生年月日: 1988年6月11日
現年齢: 18歳
出身地: 日本・沖縄県那覇市
血液型: A型
公称サイズ(2005年時点)
身長 / 体重: 167 cm / 50 kg
BMI: 17.9(低体重)
スリーサイズ: 82 - 63 - 88 cm
ブラのサイズ: B
股下 / 身長比: 80 cm / 47.9 %
靴のサイズ: 24.5 cm


【来歴・人物】
2001年、女子小中学生向けファッション誌『ニコラ』の読者であった姉に「私はもうできないからお前に頼んだ」と言われてモデル(ニコモ)オーディションに応募、グランプリを獲得。その後のモデル活動では主にかっこいい系のファッションやキャラで同世代の読者から極めて高い人気を集め、2005年春にニコモを卒業するまでの表紙登場回数は当時最多の15回を誇る。同時期に人気を集めた虎南有香は大親友。なお、愛称の「ガッキー」はニコモになって間もなく榎本亜弥子に提案されたもので、ニコラ時代にはフルネームではなくこちらが名前として使われていることも多い。

翌年春にニコラ卒業を控えた2004年中頃からはバラエティ番組や水着グラビア、女優業などへと進出し、活動の場を広げている。女優としては2005年に出演したテレビドラマ『ドラゴン桜』で注目され始める。ニコモを卒業した今でも、ニコラに載る事がある。

2006年にはNTT東日本企業CMへの抜擢、土9ドラマでは異例の『ギャルサー』『マイ★ボス マイ★ヒーロー』と続く連続出演、グリコ『ポッキー極細』のCM出演などで話題を呼ぶ。アニメの声優にも挑戦し、映画『超劇場版ケロロ軍曹』ではミララ役でゲスト出演、テレビアニメ『デジモンセイバーズ』では藤枝淑乃役でレギュラー出演している。

グラビアアイドルとしては主に少年誌の雑誌グラビアで活動していたが、2006年3月3日には1st写真集『ちゅら☆ちゅら』が、5月17日にはイメージビデオ『シャンユイ』が発売された。『ちゅら☆ちゅら』の発売にあたって3月5日12時から福家書店銀座店にて開催されたサイン本発売&握手会には1500人近くが来場、同店におけるイベントとしてはプロ野球監督の長嶋茂雄以来という盛況を博した。ちなみにタイトルの「ちゅら」は琉球語で「美しい」という意味を持つ。

2007年夏公開のワルボロで映画デビュー。また同じく今夏公開『恋するマドリ』で主演を務める。そして、3月22日には約1年ぶりとなる2nd写真集『まっしろ』 が発売された。前作から一転、本作では函館の雪景色や温泉が舞台。

同級生には多部未華子、佐津川愛美、郡司あやの、森絵梨佳、HALCA(HALCALI)、石田未来などがいた。


【特徴】
■3人姉妹の末っ子。

■子どもの頃から人見知りをする。

■沖縄出身だが暑さには弱い。

■一人称は度々変わる。基本は「私」だが自身が書く日記の中でも「僕」「ゆいぼ」「ユイ」「新垣」「ガッキー」「ガッちゃん」など様々。(本人によると沖縄では「私」を使う人は学年に2人ほどらしい)。中学校時代の友達には「ゆいぼ」などと呼ばれている。

■漫画が大好きで、特に「ラブ★コン」にハマっている。またHY、Coccoのファンである。

■イラストを描くのが得意。

■得意料理はゴーヤーチャンプルー。バラエティ番組『恋するハニカミ!』に出演した際、小出恵介にふるまった他、NTT東日本のCM「家政科学生ユイの想い」でもその腕前を披露している。

■アイスが好きで冬でも食べる。また牛乳も大好きでピザやラーメンを食べているときにも飲む(本人談)。嫌いな食べ物は寿司、鰻でお金がかからないねとよく言われる(本人談)。

■注射が大の苦手。

■普段、機敏な動きはしないらしく友達からは「手を肩から上にあげない」と言われるほどで、ポッキーCMでのダンスは自分の体じゃないみたいで気持ち悪かったとインタビューで語っている。

■ボーイズ系カジュアルの他にもいろいろな洋服を着こなすことでも読者の憧れであった。私服では自身の父のジーパン(大きめでダメージが強い)を愛用して「パパカジ(パパのカジュアル)」という新しいファッション用語を同誌で流行らせた。

■ザ・ワイド(2007年の)で、今年花を咲かせそうな芸能人ランキングで、6位になった。


【エピソード】
■テレビドラマ『ドラゴン桜』で香坂よしのを演じる際、髪を茶色く染めた。本人は髪を染められることを喜んでいたという。

■事務所で1番初めに仲良くなったのは古志安恵で今も親交が深い。

■高所恐怖症である。雑誌『UP to boy』でグラビア撮影をした時、観覧車に乗る場面があったがあまりの怖さに外を見ることができずゴンドラの中で体を伏せていた。

■いつも身につけているクロスのネックレスは、祖母、母と受け継がれたもの。また母方の祖母からゴールドの結婚指輪も高校1年生の時に受け継いだがこちらは本人が紛失してしまった。相当ショックを受けたようで今は代わりのリングをいつも同じところ(右手薬指)にはめている。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070504-00000006-sanspo-ent

秋山奈々 エピソード&プロフィール

秋山 奈々(あきやま なな、1989年12月26日 - )は、日本のモデル、女優、歌手。

東京都出身。ABP INC所属。所属するレコード会社はビクターエンタテインメント、所属レーベルはSPEEDSTAR RECORDS。

子役モデルとしてデビューした後、少女向けファッション雑誌『ピチレモン』のファッションモデル(通称「ピチモ」)として活躍。また、テレビCMや広告等に出演。2005年に特撮ドラマ『仮面ライダー響鬼』に「天美あきら」役として出演したことから知名度が上がった。2006年からは歌手、グラビアアイドルとしても活動している。


【プロフィール】
■特技:書道、クラリネット、ダンス

■趣味:ショッピング、音楽鑑賞

■好きな食べ物:オムライス

■その他
・一人称は私。ブログ上では「あきやま」。
・家族構成は本人、母、祖母、モモ(猫)。母の誕生日は6月4日。
・水は好きだが、泳ぎ(泳法)は苦手。
・気管支喘息を持つ。
・食べること自体への興味は基本的に薄く、少食のようである。
・(本人によれば)料理は食べることよりも作ることが好き。


【略歴】
■1998年 - モデル活動を始める。

■2000年 - 『キッズデビュー』(勁文社)のレギュラーモデルとしてデビュー。

■2003年 - 『ピチレモン』(学研)のレギュラーモデル「ピチモ」に。その他雑誌グラビアでも活躍。

■2005年 - 『仮面ライダー響鬼』で、女優としてデビュー。

■2006年 - 『わかってくれるともだちはひとりだっていい/夜明け前』でCDデビュー。


【エピソード】
■歌手デビューのインタビューでは16歳と思えないほどの落着きぶりと冷静さに加え、謙虚な言葉での受け応えを披露し、集まった取材陣、周囲を驚かせた。なお、インタビュアーからは「(秋山さんは)本当に16歳ですか」と聞かれる場面もあった。

■『仮面ライダー響鬼』のオーディション時も、本来はヒロインの持田ひとみ役で受けたにも関わらず、その落ち着いた性格がイメージに合わなかったために合格には至らなかったが、代わりに彼女に合わせて「天美あきら」というキャラクターが新たに設定された、という逸話がある。

■翌日に高校入試を控えつつも『仮面ライダー響鬼』の撮影に臨んでいたそうだが、結局高校へは進学せず、芸能活動に専念する道を選んだ。

■視力は0.1であるが、ダテ眼鏡を持っている。なお、「普通の眼鏡買わなくちゃ」とブログで書いたことがあるが、ブログの中断・再開後も購入はしていなかった。しかし、ブログ再開後も購入を書いており、それまで購入する機会がなかったようである。2007年3月に購入したことをブログに書いた。

■ブログの更新は、週4〜6とほぼ毎日1回のペースで更新される。絵文字や顔文字が多用されている。ちなみにブログの女王こと中川翔子のブログ内で自分の名前が掲載されることが夢のひとつで、2007年1月に実際に自分の名前が掲載されると感銘を受け、以来「ギザ〜」言葉や彼女の模倣(?)を自分のブログに用いるようになった。(もともと、中川のファンだったらしい)

■洋服・衣装が好きで、ミニ・ライブやイベント、ジャケットやポスターの撮影では彼女自身がスタイリストを担当し自らをコーディネートしている。ただ、稀に衣装がなかなか決まらないこともあり、徹夜で6時間悩んだ末決定したのはじめてから7時間後ということがあったと話したことがある。

■「佐藤四姉妹」を観たディレクターの提案により、スカウトのような形でビクターエンターテイメントよりCDデビュー。スタッフとの顔合わせの際、カラオケで披露した曲は「タッチ」

(出典:Wikipedia)

相田翔子 エピソード&プロフィール

相田 翔子(あいだ しょうこ、1970年2月23日 - )は日本の女優、歌手、タレント。元アイドル歌手デュオWinkの一員。

東京都東村山市出身。アップフロントエージェンシー所属。私立文華女子高等学校卒。身長は160cm。血液型はB型。星座はうお座。


【略歴】
●幼少期から芸能界デビュー(1970年 - 1988年)
1970年2月23日、東京都東村山市に生まれる。芸能界にデビューして一人暮らしを始めるまで、家族と共にこの地で育つ。幼少の頃から歌が好きで、よく1歳年上の姉とピンク・レディー等の歌を歌っていたという。

中学2年の時に、友人の応募でオーディションを受けたことを契機として、芸能プロダクションに所属し、歌手としてのレッスンを受け始める。高校2年の時にはソロ歌手デビューの話があったものの、校則で禁止されていたのでデビューを断念している。

1987年9月、ワニブックス社の雑誌『UP TO BOY』の第9代ミスアップ・グランプリを受賞する(第7代グランプリが後にデュオを組むことになる鈴木早智子)。

●Wink時代(1988年 - 1996年)
1988年4月、高校卒業後に鈴木早智子とWinkを結成し、『Sugar Baby Love』で歌手デビューする。

1989年、シングル3作目となる『愛が止まらない 〜Turn It Into Love〜』(フジテレビ系ドラマ『追いかけたいの』の主題歌)でブレイクを果たす。以降、1990年3月にリリースされた『Sexy Music』まで5曲連続オリコンチャート1位を獲得し、この間人気は頂点に達する。

1989年12月には『淋しい熱帯魚』で第31回日本レコード大賞を受賞している。

デビュー当時の翔子は、頼りなげな素人っぽい雰囲気を残し、ブレイク前の1988年夏のキャンペーンでは、どこに行っても観客が入らず、楽屋で泣くこともあったという。1歳年上の早智子を「すごく優しくて、お姉ちゃんのように相談できる」と慕う一方、「どんどん勉強して実力をつけて、自分の書いたものを人に見てもらえるようになりたい」と作詞に対する意欲を語っている[1]。

Wink時代、特に全盛期には笑わないアイドルとして知られる。このことに関して、本人は「当時は突然の人気に戸惑い、ずっと緊張が解けなくて笑うことができなかった」と回想している。その一方で、オルゴール人形のように無表情で独特な振り付けは、Winkのキャラクターとして定着していく。

気負いのない素直な振舞いは、時にやる気がないとバッシングを受けることもあったが、翔子はWink時代を通して音楽に打ち込み、挑戦を重ねてきた。アルバムのソロ楽曲では、ノーランズ、ジョン・レノン、ベット・ミドラー、チャカ・カーン等、海外アーティストのカヴァーを積極的に取り上げ、歌手としての表現の幅を広げる(「#Wink時代のソロ楽曲」を参照)。

さらに、中期以降は、アルバムごとに自作曲を発表するようになる。1993年のアルバム『Αφροσιτη(アプロデーテ)』に収録された『おしえて』は、しっとりとしたバラードの曲想にのせて、切ない恋心を歌い上げた佳曲である。また、1994年のアルバム『voce』に収録された『裸足のマリオネット』は、ボサノヴァ志向を明らかにし、後のソロ活動を予見させるものとなった(「#Wink時代の自作曲」を参照)。

1995年3月、ソロプロジェクトに着手する。そして、ソロ活動とのけじめをつけるため、1996年3月、Winkとしての活動を停止する。アイドルユニットとしては異例の長期にわたるWink時代の8年間は、早智子との厚い友情と周囲の熱意に支えられたものであり、自らの芸能活動の原点となったWinkについて、翔子自身はとても大切な宝物みたいな存在だと語っている。

●ソロ活動開始(1996年 - 1998年)
Wink活動停止直後の2年間は、マイペースな音楽活動に没頭した時期である。音楽雑誌のインタビューや地方FM局のパーソナリティを除いて、テレビ等のメディアにほとんど登場していない。したがって、この時期の活動成果は、全曲自作曲による2枚のソロ・アルバム『JÓIA』(1996年5月)、『Luz』(1997年5月)に集約される。

この時期、翔子が自分自身と向き合い、安らげる音楽を求めて模索を続けながら、辿りついたのはボサノヴァであった。セルジオ・メンデス、ベン・ウィットマンのプロデュースを得た『JÓIA』は、ボサノヴァを基調とする本格的なアコースティック・サウンドを目指した意欲作である。

しかしながら、これらのアルバムは必ずしも一般受けするものとはいえず、商業的な成功をおさめることはできなかった。この時期の活動について、本人はアーティストであることにこだわり過ぎていたという。そして、表現者である限り、恥をかいてもいいから、もっと自分を表に出していこうと決心する。この強い決意がバラエティ番組等への進出の契機となる。

●バラエティ進出から現在(1998年 - )
1998年11月、TBS系のテレビ番組『世界ウルルン滞在記』に出演、旅先での思い切りのよいレポートは好感をもって迎えられ、1999年4月からは同番組の司会に起用される。また、2000年7月には日本テレビ系の『踊る!さんま御殿!!』にゲストとして出演し、天然ボケといわれる独特のキャラクターで注目されるようになる。

以降、『笑っていいとも』、『メレンゲの気持ち』等、数々のバラエティ番組でレギュラーを務めるとともに、『花とアリス』、『七色のおばんざい』等の映画やドラマにも出演し、女優・TVタレントとしても幅広く活躍している。

また、音楽活動も精力的に展開しており、地中海地域の音楽をカヴァーしたアルバムを発表したり、2004年以降『晩餐ライブ』と題して定期的にライブを開催している。現在は芸能事務所「アップフロントエージェンシー」に所属し、地中海レーベル(アップフロントワークス・販売はソニー・ミュージック)からCDをリリースしている。

●補遺(近況)
2006年10月28日公開の映画『虹の女神 Rainbow Song』には、年下の主人公を翻弄する恋人役で出演。もう若くはないことを自覚し、年齢を偽ってでも可愛いらしく振舞い、主人公の気を惹こうとする女の悲しい性を丹念に表現する。キネマ旬報2006年11月下旬号では、「年齢不詳の女の持つ迫力をまざまざと見せつけてくれたのは衝撃ですらあった」と評される。

また、2007年9月には、大阪松竹座の新築開場10周年記念公演『蝉しぐれ』(藤沢周平原作)にふく役で出演することが決定しており、「日本の女性のつつましやかな一面や、凛とした強さを私なりに表現できたら」と意欲的に語っている。


【人物像】
父、母、姉の4人家族で、「ユーモアがあって冗談をよく言う父、いつも明るく太陽のように笑っている母、親友のような姉」という。家族思いで、母を亡くした直後に出演したテレビ番組では、「還暦を迎えた母のために開いたパーティーで泣いて喜んでくれた」と涙ながらに語っている[2]。

子供の頃は、やんちゃでイタズラ好きだったという。3歳の時、肥溜に落ちて偶然通りかかった姉と友達に助けられたことは、トーク番組でよく話題にされる[3]。

おっとりとした外見とは裏腹に、仕事に対してひたむきな姿勢を示す。「表現者として歌を歌うことやお芝居を演じることは、多くの人に夢を与えるものでないといけないと思う。そのためには、大袈裟かもしれないけど、命がけなんです」という[4]。音楽に対するこだわりも強く、女優、司会業など幅広く手がけるようになっても、自分のベースにあるのは音楽であり、「不器用な性格だからこそ、音楽という表現方法は欠かせないものなんです」という[5]。

その一方、子供の頃から引っ込み思案で人見知りが強く、人前に出るのが苦手だったため、自分は芸能界には向いていないと思っていたという[6]。Wink時代末期には、疲労とストレスの連続から突発性難聴になり、自信を失って引退を考えたことや、ソロ活動をはじめてからも、周囲に迷惑をかけているのではないかと心配で、落ち込むことが多かったことなども素直に告白している[7][8]。

こうした仕事に対するひたむきさ、嫌味のない素直な性格と、自分を飾らずに、ありのままの自分を表現しようとする姿勢は翔子の優れた美点であり、愛らしい容姿とも相まって、高い人気と同性からも支持される理由につながっている。無表情といわれたWink時代より、30歳を過ぎてからのほうが美しく魅力的になったとの評価がよくなされるが、このことは翔子が内面の葛藤を重ねながらも、それを乗り越えて、自分らしさを自然に表現できるようになったことの証である[9]。

女優、歌手、タレントに及ぶ自らの芸能活動について、テレビ番組への出演は、素の自分を表現できる場として大切にしたいという。また、自分で曲を作って歌うことは、うまく口に出せない感情も表現できるので、ライフワークとしてずっと続けていきたいという[10]。一方、ここ数年はバラエティ番組への出演が減っており、女優としての活動が目立ってきている。「今は本当に恵まれた環境で仕事ができることを実感しているんです。でも、もっと追いこまれる場所で仕事をしてみたい。大きな壁にぶつかってそれを乗り越えることで、自分自身も見えてくるし、周囲からも理解されると思うから」という[11]。翔子は、デビュー20周年を前にしてその言葉のままに挑戦を重ねている。


【エピソード】
●天然ボケ
バラエティ番組等での天然ボケ発言について、本人は、極度の上がり性で、緊張すると頭の中が真っ白になってしまうからだという。その一方で、受けを狙っていることも半分ある、そのためにネタ帳も作っているという。天然ボケと言われることについて本人は否定的だが、私生活においても、扉に顔をはさんだり、階段からよく落ちるなど、天然ボケに関するエピソードには事欠かない。

●趣味
個性的な趣味の持ち主であり、夢中になると自分の世界に入り込んでしまう性格である。

■料理:食べるのも作るのも大好きで、友人からリクエストが多い得意料理はマグロの漬け丼だという。また、お酒も好きで、飲むとすごく楽しくなるという。本人曰く、毎日は飲まないけど、たまにドカッと飲んでしまうという。

■ホームパーティー:友人を自宅に招いて、手料理でもてなすのが好きだという。お茶目な性格ゆえ、新品のパンティーストッキングを用意して、被ったり引っ張ったり破いたりして大勢で遊ぶこともあるらしい。

■着物:和服を自然に着こなせるように普段から浴衣で過ごすこともあるという。ドラマのほか、写真集や着物雑誌等でも艶やかな和服姿を披露している。

■裁縫:ソロ活動を始めた頃に着古したジーンズで作ったパッチワークのクッションは、いつも移動用の車の内に置いている。ぎゅっと抱きしめることがある、苦楽を共にしてきた最高の「癒やしグッズ」だという。

■音楽:ジャンルを超えて音楽を愛する。演歌は石川さゆりが大好きで、コンサートを聴きに行ったり、カラオケでも必ず歌うという。特にお気に入りの曲は『日本海の詩(うみのうた)』。また、パトリシア・カースも好きで、自身のカヴァー・アルバムでも2曲取り上げている。

■インテリア:自分好みの部屋作りが得意で、自宅は部屋ごとにカラーを変えている。リビングルームは木の質感を生かしたアメリカン・カントリーテイスト、ベッドルームは籐(トウ)の家具とかを置いてハワイアンにしているという。

■犬:以前飼っていたパグは樽子(たるこ)と名付けて、家族のように心から可愛がっていた。ペットを愛する著名人として、ネスレ・ピュリナ・ペットケアの第1回『ペットケア・アワード』を受賞している(2002年9月2日)。

■プロレス:クラッシュギャルズのファンで、女子プロレスに憧れ、中学生の時には履歴書を書いて応募したこともある。今でも女子プロレスを観戦しに行くという。

■モデルガン:ガンマニアであり、モデルガンを30〜40丁ぐらい持っていて、玄関に飾っていたこともあるという。

■流木拾い:海岸等で流木を拾って集めるのが好きで、自宅にもオブジェにして飾っている。テレビ番組でも、熱海で流木拾いに熱中する姿が紹介されたことがある。

●美容
美容も健康もあせらず体の内側から整えるのが大切だという。美肌のため、毎日ヨーグルトにシークヮーサー果汁をかけて食べることと、半身浴でしっかり汗をかくことは欠かさないという。また、週に一度はスクラブ洗顔(古い角質を落とす顆粒の入った洗顔料を使う)、毎日常温か冷水で洗顔して肌を引き締めるようにしている。サランラップを顔に巻いて半身浴する小顔美容法をテレビ番組で紹介したこともある。

●友人
人見知りなので、仲良くなるのに時間がかかるが、打ち解けるとすごく仲良しになるという。また、人の話は聞かずに、自分の話ばかりしてしまうので、つきあってくれる友人にはとても感謝しているともいう。友人を大切にする優しい性格は、幼稚園時代からの親友に対する感謝の気持ちを綴った手紙にもよく表れている。芸能界では、島崎和歌子、鈴木蘭々、KABA.ちゃん、飯田圭織などと親しい。また、ヘアメイクを担当しているIKKOとはプライベートでも親しく、心の師匠だという。

●恩師
高校2年の夏休みに、サイクリング部の先生の引率で、3人の友人とともに、苫小牧から東京まで16日間の自転車旅行をしたことは、高校時代の忘れ得ない思い出だという。その時の恩師が、高校を定年退職後、中国の北京外国語大学に留学し、中国版「ロミオとジュリエット」と言われる「梁山伯祝英台伝説」について調査・研究を行い、『梁山伯祝英台伝説の真実性を追う』という本を出版した渡辺明次で、翔子はその本に推薦の言葉を寄せている。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070406-00000053-sph-ent

浅田真央 プロフィール&エピソード

浅田 真央(あさだ まお、1990年9月25日 - )は、愛知県名古屋市出身の女性フィギュアスケート選手。血液型B型。中京大学附属中京高等学校に在籍。愛称は真央ちゃん、ミラクルマオ。姉は同じくフィギュアスケート選手の浅田舞。

12歳の時に特例で出場した2002年全日本選手権で、女子史上初となる3回転‐3回転‐3回転のコンビネーションジャンプを着氷し注目を集める。2004年全日本選手権では、日本人3人目となるトリプルアクセルを成功させ2位。2005年にはシニアデビューし、ISUグランプリファイナルで優勝。2006年、特例によるトリノオリンピック出場を期待する声もあったが、国際スケート連盟の定めた年齢制限に87日足りないため代表資格を得られなかった。
2006年全日本チャンピオン。2007年世界選手権銀メダリスト。


【技術】
■ジャンプには定評があり、ジャンプの種類の中でも現役女子選手では数少ないトリプルアクセル(3回転半)を跳べる選手である。ただし、トリプルサルコウは苦手でありプログラムにも取り入れていない。

■高い柔軟性を活かしたビールマンポジションでのスパイラルや、片手(ワンハンド)ビールマンスピンが得意である。

■宙を舞うような軽い動きのあるスケーティング、音楽の解釈は、高く評価されており、8点台を叩き出している


【経歴】
 ・5歳の時、友人に誘われ初めてスケート靴を履きフィギュアスケートを始める。3歳から9歳まではバレエのレッスンも受けていた。

●2000〜2004年
 ・小学生六年生の時に特例で出場した全日本選手権で、不完全ながら女子史上初の3回転‐3回転‐3回転のコンビネーションジャンプ(3フリップ+3ループ+3トゥループ)を跳び、「天才少女」と呼ばれた。

●2004-05シーズン
 ・ジュニアグランプリで2連勝、続くジュニアグランプリファイナルでも優勝を果す。

 ・西日本ジュニア選手権、全日本ジュニア選手権において姉の舞と1位、2位を独占。

 ・全日本選手権に出場し、日本女子選手としては伊藤みどり、中野友加里に次ぐ3人目となるトリプルアクセルを成功させ、2位で初の表彰台に上る。

 ・世界ジュニア選手権でも、男子の織田信成とともに日本勢アベック優勝。

●2005-06シーズン
 ・シニアの国際大会デビューとなるISUグランプリシリーズの中国杯で、イリーナ・スルツカヤに次ぐ2位。2戦目となるフランス杯ではサーシャ・コーエンと荒川静香を抑え、シニアの国際大会初優勝を飾る。同年のISUグランプリファイナルでは、日本女子選手として村主章枝以来2人目の優勝を飾った。

 ・全日本選手権では2位。また、フリーで女子史上初となるワンプログラムに2回のトリプルアクセルを成功させ話題になった。

 ・連覇が期待された世界ジュニア選手権はジャンプでミスがあり、2位に終わった。

 ・2006年5月のJapan Open 2006にて本田武史・高橋大輔・安藤美姫とともに団体戦に臨み、団体優勝。個人成績でも1位。

●2006-07シーズン
2005-2006シーズンまで師事した山田満知子・樋口美穂子両コーチの元を離れる。姉の舞とともに米国ロサンゼルスを拠点とし、ラファエル・アルトゥニアンコーチに師事することとなった。
2006年度は身長が5cm以上伸び、バランスが変わり演技にも変化が見られシーズン不調の原因の一つとなり、今まででは考えられないようなジャンプでの失敗が見られた。

 ・今シーズン初戦となるキャンベルカップ(団体戦)に浅田舞、安藤美姫と参戦し団体優勝。

 ・グランプリシリーズ初戦となるスケートアメリカでは、ジャンプのミスが響き3位となる。(優勝は安藤美姫、2位はキミー・マイズナー)その為、ファイナルへの進出が危ぶまれたが、NHK杯では歴代1位のスコアで優勝(2位に村主章枝、3位には中野友加里)。連覇が期待されたグランプリファイナルでは2位に終わった。

 ・全日本選手権では、SP及びFSでもほぼ完璧な演技をこなし、初優勝を飾った。

 ・2007春の世界選手権東京大会では、SPでコンビネーションジャンプの3フリップ-3ループのループが1回転になるというミスを犯し、5位スタートと出遅れる。翌日のFSではトリプルアクセルとトリプルトゥループ(回転不足でダブルトゥループ判定)で両足着氷するも、FSのみで133.13という高得点をたたき出し、銀メダルを獲得(優勝は安藤美姫、3位は韓国代表のキム・ヨナ)。

なお世界選手権で女子がトリプルアクセルを成功させたのは、91年大会のトーニャ・ハーディング以来16年ぶりで、伊藤みどり・トーニャ・ハーディングに次ぎ女子で3人目となった。また133.13点は、女子フリーで世界最高記録の得点である。


【人物】
■趣味はジグソーパズルとレゴ。

■真央という名は父親が大地真央のファンであったことからそう名づけられた。

■自身も師事していた山田満知子コーチのかつての教え子である伊藤みどりを尊敬している。また、伊藤みどりの方も浅田を可愛がっているという。東海クラブでは伊藤みどりらの衣装をそれぞれ着用して大会に出場することもあり、「みどりさんのパワーがつまっている気がして、それを着て滑るといつも調子がいい」と発言している。

■好きなフィギュアスケーターはサーシャ・コーエン、最も印象に残っている演技は荒川静香の2004年世界選手権の「トゥーランドット」。

■夢はオリンピックで金メダルを獲り、プロスケーターになって世界中を周ること。

■愛犬は2005年の世界ジュニア選手権で優勝した際に買ってもらった、トイ・プードルのエアロ。名前の由来はネスレの菓子ブランド名の "AERO" (エアロ)から。2007年初演技となる全日本選手権のエキシビジョンではそのエアロと共に演技した。

■好きな食べ物はチョコレートとミニカップ麺のブタメンで、これらは海外遠征でもいつも持参するほど。焼肉も好物である。また名古屋出身らしく好きな食べ物の話では「みそカツ」と「みそ煮込みうどん」の名を必ずあげる。

■会見での口癖は「んー」で、通常一人称は「真央」。試合後のインタビューでは、鼻をつまむ仕草がよく見られる。

■「人前で涙を見せる事は嫌い」と話し、2005年12月のISUグランプリファイナルに優勝した時も涙はこらえて見せなかったが、人生初の不調に見舞われた2006年12月の全日本選手権では210点を超える好演をし、会場の拍手、スタンディングオベーションを見て思わず涙を見せた。

■歌手の浜崎あゆみの大ファン。バレエ曲などのクラシック音楽もよく聞く。


【交友関係】
■名東FSCに入会した5歳のときから安藤美姫とは幼馴染であり、姉の浅田舞とともに門奈裕子コーチのもとで一緒に練習をしていた。

■年齢、生まれ月、身長まで同じである韓国代表のキム・ヨナとは、過去の大会で1、2位を分け合っており、「自分にとってとても良いライバル。これからも二人で刺激しあって頑張りたい」と話している。


2007年3月25日現在、ISU世界ランキング第1位である。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070404-00000015-oric-ent

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