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神田うの エピソード&プロフィール

神田 うの(かんだ うの、本名同じ、1975年3月28日 - )は、川崎市出身の女優・タレント、ファッション・デザイナー。身長168センチ、体重43キロ。血液型O型。白鵬女子高等学校卒業。スペースクラフト所属。


【来歴・人物】
1975年、東京都目黒区に生まれる。本名でもある「うの」は、持統天皇の幼名「鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」が由来であり、幼い頃はこの「ひめみこ」をとって両親や祖母から「ヒメ」と呼ばれて育つ。東大卒かつ東大院修了で旧・通商産業省のキャリア官僚(技官)だった父親(神田淳)の仕事の関係で1歳のときにインドネシアのジャカルタに移住。4歳までインドネシアで過ごしたのち帰国、神奈川県川崎市中原区に居を移す。5歳のときにバレエをはじめる。谷桃子バレエ団に所属。

1990年には、東京新聞が主催するバレエコンクールに入賞。バレリーナとしての将来を期待され、ダメもとで受験した「アジア人はほとんどいない」と言われる、パリにある全寮制のバレエ学校(コンセルバドワール)に見事合格。だが、日本を離れ、フランスでひとり寮生活をおくることに耐えられず、先生たちの期待や希望にそむいて世界的プリマとなる夢は断念する。1992年、17歳で中部全日本バレエコンクールのジュニア部門1位を受賞、東京全日本バレエコンクール入賞。

2006年11月5日、うのが23歳のときに出会い、約8年の月日を経て現在の関係になったというパチンコチェーン店、不動産会社を経営する西村拓郎(日拓リアルエステート株式会社社長)と都内料亭にて結納を交わし、13日、報道陣に億単位の婚約指輪(5caratのdiamond)を披露した。

2人の弟がおり、その2人もまた芸能界に関わっている。上の弟・神田伸一郎は、東京農工大学大学院中退。ハマカーンというコンビを結成し現在NHK爆笑オンエアバトル等で活躍中。下の弟・昇二郎は、上智大学文学部哲学科卒。俳優希望でVシネマ等に出演。


《モデルからタレントに》
子どもの頃から街を歩くたびに芸能事務所からスカウトされ、何枚もの名刺をもらい続けるが、家族に反対され実現ならず。本人も「芸能」には興味がなかったが、当時からファッション好きだった彼女は、モデル事務所からのスカウトに興味を抱き、親を説得。1989年、14歳でモデルとしてのキャリアをスタートさせる。広告などのモデルを経て、3年後の17歳のときに雑誌『プチセブン』(小学館刊)のモデルに。


《クリエイターとして》
1999年、毛皮メーカーとのコラボレーションで「コスタ・モーダ・ウノ」ブランドを発表、その後サングラスブランド「U-NO」を発表し、現在ではストッキング・下着(トゥシェ・ウノコレクション)、ウエディングドレス(シェーナ・ドゥーノ)、ジュエリー(デュノア)、の3つの自己ブランドのデザイナーとして活躍中。

2005年春には南青山に推定5億円ともいわれる豪邸(通称・パンスト御殿)を建てたことで話題になった。2004年にデザイナーとしてパリコレデビューを果たし、2006年10月にはN.Y.コレクションデビューも果たした。


【エピソード】
■血液型は公式ページにもあるとおり「O型」であるが、デビュー間もない頃の自由奔放なキャラクターもあってか、(血液型性格分類を信じる人々から)「B型」に間違えられることが少なくなかった。デビュー当時のプロフィールに「B型」と掲載されていた時期もあったが、これは単なる誤植で、ほどなく訂正されている。ちなみに2人の弟も、うの同様O型である。

■胃下垂なので、痩せる為だけの食事制限=ダイエットをした事がないと発言している。

■リアルファーを中心としたブランドをプロデュースしたことで、女優のブリジット・バルドーら動物愛護運動家や動物愛護団体等から抗議を受けた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20071008-00000000-oric-ent

川村カオリ エピソード&プロフィール

川村カオリ(かわむら-、1971年1月23日 -)は、日本で活動する歌手。モスクワ生まれ。ロシア人とのハーフ。英国四天王寺学園(四天王寺国際仏教大学)高等部卒業。


【略歴】
1988年にシングル『ZOO』および同名アルバムでデビュー。

『神様が降りてくる夜』が「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」で使われヒットする。代表曲は『翼をください』(赤い鳥のカヴァー)、『I'LL BE THERE』(日本語カバー)など。

また1989年4月から1991年6月までニッポン放送「オールナイトニッポン」土曜2部のパーソナリティを務めた。

ファッションモデルとして、雑誌やファッションショーなどにも登場している。 1999年、活動形態をソロユニット"SORROW"に変更したのを機に川村かおりから川村カオリに改名。 パンクバンド SOBUT のギタリストであった夫のモトアキとともに SORROW でインディーズで活動。

2006年、映画「BLACK KISS」出演。また、先日出たエッセイ「Helter Skelter へルタースケルター:宝島社」では、少女期のいじめと乳がん発病とその闘病生活などを赤裸々に語った。

2007年6月にモトアキ氏と離婚していた事が2007年9月28日に報じられた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070927-00000027-dal-ent

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華原朋美 エピソード&プロフィール

華原 朋美(かはら ともみ、1974年8月17日 - )は、日本の女性歌手、タレント、 ミュージカル女優。東京都江東区出身、千葉県浦安市育ち。血液型はA型。獅子座。愛称は「朋ちゃん」。

代表曲に『I'm proud』『I BELIEVE』『Hate tell a lie』など。かつてのプロデューサー・小室哲哉に「愛を歌うことが出来る人」と称された。


【プロフィール】
東京都江東区亀戸生まれ、千葉県浦安市育ち。松蔭中学校・高校卒業。身長156.7cm(公称160cm)。体重44kg。スリーサイズB86・W58・H84。

3才頃、「あれに乗りたい!」の一言で始めた趣味の乗馬は、高校3年生の時に国体で第4位という成績を修めた。5才頃には、突発性血管性紫斑病に罹り、3ヶ月間無菌室に入院していた。その後は乗馬で身体も鍛え筋力もつき、2005年に発売した初の写真集では引き締まったプロポーションを披露した。また、将棋の級(日本将棋連盟ジュニアクラス1級&一般クラス3級)も持っており、NHK衛星第2テレビの将棋特番で司会も務めた。

かつては、三浦彩香や遠峯ありさなどの芸名でグラビアアイドルタレントとして活動。「さんまのナンでもダービー」などでアシスタントを務めた。遠峯時代に小室哲哉に見出される。小室との出会いは、華原(遠峯)に興味を持っていた小室が、当時青山にあった小室の店・TJMに華原を呼んだことがきっかけ(引き合わせたのは、きくちP)。そして2人は親交を深め恋愛関係に発展した。また華原は女優志望だったが、交際中、偶然カラオケでtrfの曲を歌い、それを聴いた小室が“涙腺を刺激する歌声”と称し、歌手デビューが決定。ちなみに、初めて買ったCDが中山美穂の「50/50」(小室作曲)で好んで歌っていたというから、まさに運命的な出会いであったと言える。また、デビュー直前に2人の関係をすっぱ抜いた週刊誌の記者に対し、小室は“アーティストに手をつけたのではない、恋人に曲を書いてデビューさせただけだ”と語っている。

小室プロデュースの作品でミリオンセラーを連発し、一躍トップアーティストの仲間入りを果たす。1995年に発売したシングル『I BELIEVE』で新人賞を総なめにし、2作目にしてミリオンを突破するなど新人としては異例の快挙を達成。1996年に発売した3枚目のシングル『I'm proud』は140万枚を売り上げ、名実共に代表曲に。ファーストアルバム『LOVE BRACE』も250万枚突破の記録的なヒットとなり、1997年に発売したCDは全てチャート首位を獲得。中でも『Hate tell a lie』は小室プロデュース作品としては最後のミリオンシングルとなっている。そのドラマティックな半生は、各曲の歌詞・歌声に表れている。また、透明感溢れる澄んだハイトーンヴォイスに、ブランドスーツ・ワンピースを着こなすセレブなファッションなど、同性から強く支持され、安室奈美恵の“アムラー”に対しては“カハラー”と呼ばれた。平成のシンデレラとも呼ばれた。ハローキティ再流行のきっかけ(当時、サンリオ社長も華原朋美効果を認めた)や、牛丼の「つゆだく」、1998年に自身が出演した“ヒュ〜ヒュ〜”でお馴染みのCM・JT「桃の天然水」が大ヒット商品になるなど、ブームリーダーにもなった。なお、桃の天然水は2006年に発売10周年を記念して復刻版として再発売され、そのCMキャラクターにも再起用され、8年前23歳だった自分との共演を果たしている。また、自分の一人称を「朋ちゃん」と呼ぶなど、ぶりっ子ともとれる態度も本来であれば女性から非難を浴びる所ではあるが親しまれた。

1999年には小室との破局から体調を崩し、睡眠薬などに頼る体質から度重なる事故騒動などで世間を騒がせた。2000年には再度休養に入り、このまま活動停止・引退と心配されたが、休養先のカナダから一時帰国中に「進ぬ!電波少年」から全米デビュー企画のオファーを受け渡米。2001年に凱旋帰国後は歌手業だけではなく、バラエティ番組への出演や司会業など活動の幅を広げマルチに活動。デビュー10周年を迎えた2005年からはミュージカルの舞台にも進出し、ミュージカル女優としての活動も本格化させていた。同じく2005年、パチンコ機「CR華原朋美とみなしごハッチ」(フィールズ)でキャラクターものとしてパチンコ機化。メインはみなしごハッチだが、リーチアクションなどで華原が出てくることもある。華原が歌うトランス調にアレンジされた「みなしごハッチ」テーマソング収録のCD(未発売)や、ストラップ、トースターなどグッズも作られた。


《所属事務所との専属契約解除》
2007年6月29日、所属事務所のプロダクション尾木が6月28日付で専属契約を解除した事を発表。前年末の主演ミュージカル公演中に気管支炎などを患い一部休演後、年明けから4月いっぱいまで3度目の休養に入り、心身の回復に努めていた。5月には仕事を再開しTV復帰するも、番組のリハーサルやゲスト出演などを無断欠席し、突然の仕事キャンセルが相次いでいたと報道されている。19日には酩酊状態のまま倒れているところを保護されたという。警察のご厄介になったのは6月だけでも計3回。小室との破局以降、不安になると睡眠薬や精神安定剤に頼る体質が断ち切れてないという。26日に今後について対応を電話で話し合ったが、回復状況が予想以上に思わしくなく、これ以上のマネージメントは不可能と判断と報道。尾木徹社長は「本当に残念でたまらない、断腸の思い」「早く治療すべきものは治療し、習慣になっているものはやめて、まず人間として再起再生してもらいたい」とエールを送ったという。レギュラー番組「新堂本兄弟」も降板となり、既に収録済みの出演シーンはそのまま放送された。7月から予定していたコンサートなどスケジュールも中止となり、公式ファンクラブ“Pretty Eye”は6月29日付で解散された。事務所の意向を受けて、所属レコード会社のユニバーサルミュージックとの契約も28日付で終了。29日深夜に本人から尾木社長へ「ごめんなさい。ご迷惑をかけました。クビにしないでください。」という謝罪の留守電が入っていたが、事務所は再契約について「病気を治すことが先決。本人の人生のためにも大切」としている。9月13日現在、他の事務所への移籍などは決まっていない。

(出典:Wikipedia)

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假屋崎省吾 エピソード&プロフィール

假屋崎省吾(かりやざき しょうご、1958年12月17日 - )は、日本の華道家、タレント。東京都練馬区出身。血液型はAB型。

元来、いけばなの作品を創作する人は「いけばな作家」などと称されたが、簡潔な表現ではないとして、「書道家」などにならって「華道家」という呼び名を考え出したと話している。

日本各地で個展を開催しているが、毎年秋の目黒雅叙園での個展は本人の企画による。目黒雅叙園の保存建築「百段階段」は、国の登録有形文化財に登録されており、普段は公開されていない。その華美な装飾で埋め尽くされた空間に大がかりな作品もいける。


【人物像】
■“假屋崎省吾花教室”を主宰。

■いけばな草月流に属している。早稲田大学在学中に本部教室に入門。家元の勅使河原宏氏に師事する。

■現在は、本人曰く、個展の開催、教室での指導、本の出版、花に関わるビジネス、そしてタレントという5つの仕事をしている。

■タレントとしては2000年頃からテレビに登場。温和な物腰で、しばしばカーリーと呼ばれる。

■一方、華道家假屋崎省吾は、生徒に説教するくらい厳しい。

■美輪明宏のおっかけ(本人公認)を自認しており、美輪から「美をつむぎ出す手を持つ人」と評されることを誇りにしており、美輪邸に花を飾らせてもらったことがある。

■「花は心のビタミンです」がモットー。

■園芸好きの両親のもとに生まれ、自称「園芸少年」であった小学生の頃から、NHK「趣味の園芸」「きょうの料理」「婦人百科」を定期購読していた。料理が得意で、近年はレシピ本も執筆している。

■10代の頃はピアニストを目指していたこともあり、クラシック音楽を好む。音楽会での演奏家とのコラボレーションとして舞台上で花をいけることも多い。

■ガラス花器の制作を長年やっており、個展ではガラス工場で自ら成型した花器にも作品がいけられる。

■アメリカ合衆国大統領クリントン来日時や、今上天皇の在位10周年記念式典の際、花のコーディネーターを務めた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070915-00000052-sph-ent

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カーネル・サンダース エピソード&プロフィール

ハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders、1890年9月9日 - 1980年12月16日)は、ケンタッキーフライドチキンの創業者。称号はケンタッキー・カーネル。カーネル・サンダースとして知られている。なおカーネル(英:colonel)というのは名前でも、通常用いられる軍の大佐の意味でもなく、ケンタッキー・カーネルというケンタッキー州に貢献した人に与えられる名誉称号である。また、フリーメイソンのメンバーでもある。


【来歴】
インディアナ州ヘンリービルに生まれる。6歳の時に父親が亡くなり、幼い弟、妹の世話をさせられる。15歳から社会に出て働き始め、路面電車の車掌を皮切りに、軍隊、消防士、保険外交員、船の仕事、タイヤ売り、ガソリンスタンドなどを経験。40歳の時にケンタッキー州のコービンで、ガソリンスタンドの一角を借りて食堂コーナーを始める。

店は繁盛し規模を拡大するも、1950年代に入ってから高速道路の開通で客の流れが変わり、店に客が入らなくなる。そこで、フライドチキンをワゴン車に積んで各地を回り、その調理法を教えてフランチャイズに加ってもらい、歩合をもらうというアイディア商法を考え出す。これがケンタッキー・フライドチキンの始まりとなる。

既に高齢だった彼は、1964年74歳になったのを潮時にこの商売の権利をジョン・ブラウン2世に売却、その第一線から退いたが、以後も会社の広告塔として働いた。「カーネル」の呼称は 1935年にケンタッキー州知事から与えられたものだが、サンダース自身も宣伝のためにこの呼称を好んで用いており、典型的な“南部の紳士”を演出するために白いスーツを着ていた。なお、その後は独自の製法が守られているかを見るために各地の店舗を見て回り、日本には3度訪れている。

なお、ケンタッキー州議会には地元出身の名士として、カーネル・サンダースの胸像が飾られている。これをめぐって、動物愛護活動で知られる女優のパメラ・アンダーソンが、ニワトリへの残酷行為の象徴だとして、撤去を求めている。

1980年、白血病のため逝去。90歳だった。


【カーネル・サンダース像】
ケンタッキーフライドチキンの店頭にディスプレイされているカーネル・サンダース像(繊維強化プラスチック(FRP)製)は、元々カナダのフランチャイズ店でイベント用に使用されたものが倉庫に放置されているところを、視察に訪れた日本法人の関係者が持ち帰ったものだといわれている。 日本法人が設立された1970年当時はまだファーストフード、フライドチキンの文化が日本に浸透してなかったこともあり、日本の消費者にフライドチキンのおいしさを分かってもらいたいというPR活動のシンボルとして日本各地でカーネル像がディスプレイされるようになったといわれる。また立体商標登録されている。

像のモデルはカーネルが60歳だったころの等身大モデルで、身長173cm。眼鏡にも遠視用の度が入っている。自身も来日の際この像が気に入ったということもあり、アメリカの総本部にも日本法人提供の像が展示されている。

1979年にアジア・オセアニア地域の出店を統括する「KFCインターナショナル 北太平洋地域オフィス」が日本に設立され、日本法人のスタッフがアジア・オセアニア地域の出店に当たっての現地指導に派遣されたことから、その地域に日本から寄贈された像がディスプレイされている。

長野県小谷村栂池高原スキー場のゴンドラリフト・イヴの作業用ゴンドラには、カーネル像が乗っているものがある。

ちなみに、彼のリボンの色は生前と死後では色が違う。


【カーネル・サンダースの呪い】
1985年、阪神タイガースのリーグ優勝が決まった際、ファンが道頓堀店のカーネル像を当時の助っ人・ランディ・バースに見立てて、店員の制止を聞かずに道頓堀川に投げ込んだことが社会問題となった。この事件以後、阪神は18年間も優勝から遠ざかったため、これを冗談めかして「カーネル・サンダースの呪い」だと呼ぶファンもいた。その後、道頓堀店から一旦カーネル像は姿を消すが、1992年に復活。今度は盗難されないようにと台座をボルトねじで固定した。なお道頓堀店は、現在閉店している(関連項目・探偵!ナイトスクープ「カーネル像救出作戦」)。ちなみに、2006年夏に公開された映画「日本沈没」では、水没後の大阪府の街にこのカーネル像が、阪神ユニフォーム着用のまましっかり存在している。

この事件を契機に他の店舗にも悪戯が多発し、像が誘拐され交差点の横断歩道前や地下道など街頭に置き去りにされたりした。中には、像を誘拐した者がカーネル・サンダースになりきって盗まれた店舗に電話し、店員が発信元の電話ボックスに急行したところ実際に像がボックス内に立っていたり、個人の自宅の庭先に置き去りにされたりするケースもあった。眼鏡やステッキといった部品単位で盗難される被害も多発した。以後、各店舗のカーネル・サンダース像はボルトやチェーンで固定されることになった。

「小さく前へ習え」のようなポーズから、客が入店の際手に何かを持たせることもあり、雨の日には傘がかけられていたり、弓道の弓や釣竿、地域によってはスキーまで持たされていることがある。

2002年6月14日には2002 FIFAワールドカップでサッカー日本代表がチュニジアを下したことを祝った一部のフーリガンが、三宮阪急駅前店にあったカーネル像を襲った。かねてから店内に避難させていたにもかかわらず誘拐され、投げ飛ばされたり手首を折られるなどの負傷があった。また、この当時店内にはたまたま大阪近鉄バファローズ(当時)のタフィ・ローズが来店中であったため、サッカーファンの仕業である上、ローズに見立てられて襲撃されたといわれることもあった(なお、この事件以降サッカー日本代表はワールドカップ本大会で一度も勝っていないため、一部サッカーファンの間で「これもカーネルサンダースの呪いのせいだ」と囁かれている)。

(出典:Wikipedia)

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Gackt エピソード&プロフィール

Gackt(がくと、神威 楽斗(かむい がくと、Gackt Camui)、公称1540年7月4日 - )は日本の男性歌手である。沖縄県生まれ。血液型はA型。所属レコード会社は日本クラウン。彼のファンを「Dears」という。


【来歴】
■1994年以前 - ピアノと声楽を学び「CAINS:FEEL」にてドラムスとして活動。後にボーカルに転身。

■1995年10月〜1999年1月 - 「MALICE MIZER」のボーカルとして活動。

■1999年1月 - 『Gackt Job』を立ち上げ、ソロ活動を始める。

■2000年2月 - 個人事務所を設立。同時にファンクラブ「Dears」を設立。

■2001年から4回連続でNHKの紅白歌合戦に出場する。

■2005年12月24日 - 自身初の東京ドームライブを決行。

■2006年1月14日 - 韓国ソウルにおいて、日本と全く同じ規模と内容のコンサートを行う。

■2006年2月28日 - 兵庫県立舞子高等学校の卒業式来校を依頼され、卒業生・在校生の前で未発表曲『野に咲く花のように』を披露。同曲は翌年にCD音源化され、その年には長崎県立長崎北陽台高等学校の卒業式においてライブを行った。

■2007年5月25日 - YOSHIKIらと新バンド「S.K.I.N.」を結成し、翌月より音楽活動を開始することを発表。


【人物】
『趣味・特技・家族』
■B'zのボーカル稲葉浩志を「最高のボーカル」とラジオで発言[要出典]。自身もB'zの楽曲『いつかのメリークリスマス』を聴き感動したと語る。またテレビ番組などでもB'zの楽曲を取り上げたり、歌ったりしている。

■家族構成では、姉と弟を持つ長男。姉のことは「姉さん」や「姉貴」と呼んでいる(姉、スタッフ等はGackt邸の合鍵を持ち、管理をしている)。

■『機動戦士ガンダム』のマニアとしても知られているが、その出会いは、20歳頃友人にTV版ガンダムのビデオを借りた事から。「宇宙で一番ガンダムを見た人間」と自負、音声の全てをパソコンに取り込み、延々と流し続けたりといった行動をとる。また、自身がDJを務めていたラジオでアムロ・レイ演じる古谷徹やシャア・アズナブル演じる池田秀一を招いた。ガンダムを取り上げたTV番組において、スタッフから受け取ったヒートホークの形をしたエレキギターから出た効果音を「これニュータイプの音だよね」と瞬時に答えている。また友人関係にあった富野由悠季総監督から直々に、2005年に劇場公開された映画『機動戦士Ζガンダム』三部作の主題歌を打診され快諾。 一作目放映前後であらゆる音楽番組に出演し、その度に『Ζガンダム』の宣伝を繰り返していた。その一作目放映後の打ち上げでは「今まで出た打ち上げで最も幸せな打ち上げだった」と語った。 2006年9月25日に出演したHEY!HEY!HEY!では登場人物のシャア・アズナブルのセリフ、10月16日に出演した同番組ではアニメの1シーンのアフレコを完璧にこなしてみせる程、モノマネが上手く現在レパートリーはアムロ・レイ、シャア・アズナブル、カイ・シデン、ギレン・ザビなどがある。


『生活』
■言葉遣いを気にしており、特に女性の言葉遣いが汚かったりすると、一瞬で「女性として見なくなる」。言葉フェチ・声フェチと自称するほどであり、女言葉を大切にしてほしいとのこと。

■両利きである事と、見事な書道の腕前を披露し、浜田雅功、木村祐一を驚かせた。木村祐一曰く「書家みたいな字」とのこと。またあまりに欠点がないので浜田に「どっか一個ぐらいかっこわるいとこ見せぇ」と突っ込まれている。バツゲームでは普段着用のサングラスを外し、ガソリンスタンドで真面目に働く姿も披露した[7]。

■L'Arc〜en〜Cielのボーカルhydeと非常に親しく、Gackt邸に招かれた。Gackt初の映画『MOON CHILD』では、台本を書く段階からhydeの出演を願っていたらしく、また、収録の合間、寝ているhydeにキスをしようとしていたというのは有名な話。hyde本人も「次々とアイデアが出てすごい」と、Gacktを敬愛しており「相思相愛」の仲である。また、理想の女性はhydeで、なぜ女性ではないのだと嘆いたことがある。

■愛車はポンティアック・ファイヤーバード・トランザム ラムエアリミテッド(2000年)である。外装、内装を問わず大幅な改造を施していて、インパネ類はセンターに移動させる、シフトレバーを外す等、普通の車の概念を超えたものになっている。内装の一部は雑誌で公開したことがある。座席はすべてフラット、倒せるようになっている。これまでに乗りつぶした車は、10台以上にも上る。

■小銭を持ち歩くのを極度に嫌い、現金での支払いに伴い発生したお釣りの小銭は全て家の玄関に置いてある壷に投げ入れている。ただ500円硬貨や100円硬貨は姉が掃除等に来た際に壷から拾い上げて持っていってしまうため、実際には10円以下の小銭しか貯まっていない。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070826-00000055-sph-ent

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叶姉妹 エピソード&プロフィール

叶姉妹(かのうしまい)は、叶恭子(かのう きょうこ、1962年10月7日 - )と叶美香(かのう みか、1967年9月23日 - )の2人からなるユニット。実の姉妹ではない。「トータルビューティーアドバイザー」「トータルライフアドバイザー」を自称するが、その実態は本人たち以外には窺い知ることはできない。


【メンバー】
■叶恭子
本名小山恭子。大阪市城東区出身。帝国女子高等学校(現・大阪国際滝井高等学校)中退。身長168cm、B96cm、W56p、H90cm。血液型O型。

・叶姉妹では姉(長女)の設定。「美香には少し厳しいが、全ての世話を美香にやらせており美香がいなくなると困ってしまう」というように、奔放で世間知らずな姉の役。

・高校中退後、様々な職種を経て、本名の小山恭子の名でファッションモデルとして活動。

・モデル名鑑によるとオスカープロモーションに杉本エルザという芸名で所属していた(本人は否定)。当時の活動は、エキストラとして以外は特に経歴に残るものはない。

・1984年頃から叶恭子と名乗り始め、グラビアやカラオケビデオなど、肌を露出した仕事を始める。
 

■叶美香
本名玉井 美香。愛媛県西条市(旧:東予市)出身大阪府松原市育ち。樟蔭東高等学校、夙川学院短期大学児童教育学科卒業。身長170p、B98cm、W58cm、H91cm。

・第20回1988年ミス日本グランプリ。

・小学校教諭二種免許を所持している。

・高校時代、本名である玉井 美香の名で阪神タイガースを応援する番組「週刊トラトラタイガース」に番組アシスタントとして出演。

・1988年、日本テレビ系の深夜番組「11PM」のカバーガールとして月曜日にレギュラー出演。

・その後、某プロデューサーの肝煎りで玉乃ヒカリと改名、グラビアアイドルとして活動していた。当時もテレビ出演などの経験があり、新人としてはそこそこ売れていた(叶恭子に比べれば、芸歴では圧倒している)。

・叶姉妹では奔放な姉のフォローをするしっかりものの妹(三女)の役。恭子と一緒に出演するだけでなく、単独でのテレビ番組出演も多い。傍若無人ともとれる姉の行動に振り回されることもしばしばだが、それをよくテレビでネタにするなど、したたかな性格でもある。

・2000年、映画「サルサ」の主題歌を日本語でカバーしたシングル「サルサ!アマイエクスタシー」をインディーズよりリリース(製造元は東芝EMI)。恭子が作詞を担当。オリコン初登場152位、2週目176位。

・2004年、スーパービューティーミカリン+K with キューティーモンすたーズ名義で「O・SU・SO・WA・KE〜プルプルンのキュッのボン!〜」をリリース。自身が出演していた教育番組『モンすたージオ』テーマソングの他、DHCのCMソングとしてもオンエアされた。恭子が振り付けを行った。

・2006年4月3日、美香を被写体に恭子が撮影したという触れ込み(実際に撮影したのは素人の恭子ではなく、写真集やDVDのパッケージなど叶姉妹関連の仕事の多いカメラマンの大川直人によるもの)のヘアヌード写真集「Sweet Goddess」が発売された。男性はもとより女性にも広く支持され、20万部を突破するベストセラーとなる。


《過去のメンバー》   
■叶晴栄(かのう はるえ)
・本名小山晴栄。「はるゑ」の表記もあり。

・次女(の設定)。恭子の実の妹。 

・デビュー当初からしばらく3人で活動していたが、結婚を理由に脱退。2000年に離婚後は、姉妹のマネージャー役を務めている。恭子らが「3人での活動もあるかも知れない」と発言し、復帰も噂されたが、現在までにそうした活動はない。

・2007年1月に行方不明となり、話題となる。


【特徴】
もともとは個別にそれなりに芸能活動をしていたが(後述)、注目を浴びるようになったのは雑誌『25ans』のスーパー読者として登場した事から。2人は設定上は異父姉妹だが、実際は姉妹でも異父姉妹でもない。まれに誤解されるが、叶姉妹は芸能ユニットであり、メディアでの行動や発言は、あくまで商業上の設定に基づく職務として行っているものである。ユニット結成当初は「三人姉妹」であった。恭子と美香の間に次女 ・晴栄(はるゑ)がおり「叶三姉妹」として取りあげられていた。結婚を理由に脱退したが2000年に離婚。現在は2人のマネージャーをしている(晴栄は恭子の実の妹)。近年は“姉妹”である事を強調するが、テレビに出始めの頃は恭子が「姉妹でも異父姉妹でもありません、それっていけない事ですか?」と笑いを取っていた。

テレビ番組などに出演を始めた当初は「親が大変なお金持ちであるため、自分達もお金持ち。」という設定を使っていた。これはアメリカで注目されているヒルトン姉妹の日本版ということで叶姉妹を売りたかったためと思われるが、この設定を本気にした多数の人間が二人の実家におしかけ、寄付を求めたりセールスをしたりと大変な騒ぎになったため、この設定は封印された。実際の二人の両親は、普通の生活水準である。恭子は2007年8月号「婦人公論」のインタビューで「私たちはある事情で家族、親類と過ごした時間が少ない。」と明かしている。

ゴージャスな衣服を身にまとい、豪遊しているが芸能活動以外の収入源が謎だということを宣伝することにより、「個人スポンサーが付いているのではないか」「海外セレブ相手の高級娼婦ではないか」という設定が、バブル崩壊後のデフレや質素倹約が叫ばれる世情の中で非常に目立ち、よく受け入れられた。「お金持ちの芸能人」という分かりやすいキャラクターを提示したことが、成功の秘訣だったと言われる。またそれに尾ひれがつき「セレブを1回相手するだけで200万円前後貰っている」「石油王がパトロンだ」など詳細な事が囁かれ始め、イメージダウンするどころか、今までに無い不思議さに一気にブレークした。余談であるが、本人達に「収入源は?」と聞く事は芸能界におけるタブー(野暮な事)となっている(と言うよりは執拗に問おうとする芸能人がいない)。アメリカでは、日本で芸能活動をする前にコールガールであり、ドナルド・トランプとも関係を持ったと言われている。 

男性のみならずライフスタイル自体を崇拝する女性からも支持される。ただその人気の一方で極端なゴージャス指向に批判的な意見を持つ人も少なくはない。また完璧すぎるスタイルは「豊胸サイボーグ」と言われる。2002年7月に青山で開催されたファッションブランド「プレイボーイ」のパーティーに参加。その際フローラン・ダバディーが「どんな姿勢になっても、動かない胸を持つ、叶姉妹。大和にもロボット(ここでは「人工的に作られた美しさを持つ女性」の意味)がいた。」と評している。常々、整形疑惑は絶えず、ネット上で過去と現在の写真を比較するサイトまである。

極端なゴージャス指向を批判されながらも、彼女達のトークは日常生活のことをネタにしていたり、特に美香は姉とのエピソードを自虐的に語っており、近年、人を毒舌でネタにするタレントが多い為に、評価されている面もある。

職業については疑問点が多いが、「トータルビューティーアドバイザー」「トータルライフアドバイザー」と自称する。本人達によると、普段、皆が行っている事を叶姉妹らしくするというもので、ユニット名である「叶姉妹」は自分達の職業の名前でもあるという。衣服や宝石などは、その企業が広告主となって宣伝のために提供している。これを叶姉妹が「自分で選んだ」という設定で宣伝している。彼女らが自称する職業を分かりやすく言い換えれば、巧妙な宣伝・広告のためのファッションモデルである。

「殿方の」を「メンズ」と呼ぶ。その中でも特別に容姿端麗な男性の事を「グッド・ルッキング・ガイ」と呼んでいる。日本人が和製英語を使う中で、こういった英語表現も、雰囲気作りに一役かっており、記号化された叶姉妹らしさといえ、魅力のひとつと言える。

キッズステーションで放送される小児向け教育番組『モンすたージオ』にCGキャラクター「スーパービューティー」として出演。「ココ」(恭子)と「ミカリン」(美香)

以前は関西ローカルのスパワールドのCMに出演していたこともあるが、現在は、DHCのCMキャラクターとしても活動中。同社の会誌などにも美香が時折掲載される。

テレビ番組に出演する事も多く、映画の試写会にはなぜかよく招待されていることが多い。テレビに出演するとき、夏でも冬でも常に露出度の高いノースリーブで出演している。


【エピソード】
※ただし、以下のエピソードは本人談の芸能設定を多分に含む。

■「デヴィ夫人と不仲」と言われるが、意外に共演回数も多く、社交界の友人の1人だとか。 

■「ロンドンハーツ」(テレビ朝日系)で一回の食事で32万を費やし、好きなものが結果的には高価な物だと発言。「山ほど頼んで、山ほど残す」事も多々あるようで、批判の要因だと言える。

■様々なプレゼントをされ「超有名某宝石ブランドのVIPルームで宝石を選び放題」「クリスマスツリーに(クレジット)カードがぶら下げてある」等。数々の高級品をプレゼントされている為、並の物では驚かないらしいが、今まで一番嬉しかったプレゼントは島の権利書、株券等。 

■独特の美意識が強く、すっぽんの生き血にまだ鼓動する心臓を沈めて飲み、また肉も毎日食べる。シャンパン風呂、サムゲタン(韓国料理で丸鶏や若鶏を用いた薬膳スープの様なもの)風呂に裸で入る事である。2人曰く体全体でコラーゲンを吸収出来るらしいが、専門的な見解は一切無い。

■『芸能人格付けチェック』で色々な一流品と一般品を見極めるコーナーで唯一、叶姉妹だけが12問連続正解し「一流芸能人」の座を守った。


《叶恭子》
■いつも連れている男性達にはA、B、Cランクとあるらしく派閥も存在する。スーパーモデル等、総勢100人近くおり「必需品」と語る。大人数な為、名前がよく被り、被り易い名前は「スチュアート」と「リチャード」。被ってしまうと1号、2号と付け区別する。電話がかかってきて、美香が「リチャード1号から電話ですよ」と取り次ぐと、1号にも関らず、3号と勘違いして会話している事もよくある。デートする人も曜日で分かれている。ホテルの大部屋で大勢の男性達を裸にさせ「人間チェス」を楽しんだり、カラオケに行き自身も全裸となり歌ったり、男性に跨り「お馬さんごっこ」をしている(その後複数で夜もこなすそう)。これを「ダウンタウンDX」(日本テレビ系)で話し、勿論共演者全員驚いていたが平然と「チェスの人間版ってだけの事ですもの」と言い放った。恭子にのめり込み過ぎてノイローゼになり母国に帰ったスーパーモデルもいたそう(美香が「踊る!さんま御殿」(日本テレビ系)に出演した際に暴露)。因みに同時に愛することの出来る男性の人数について「時間的にも肉体的にも6人までなら、男を同時に平等に愛すことができます」と「ダウンタウンDX」(日本テレビ系)で発言した。(無論、設定であると思われる。)

■自分が不利になると「美香さんがそう言えって」「ねぇ、美香さん」と言う。 

■気に入った男性を見つけると美香を使ってナンパさせ、捕まえるまで追わせる。 

■美香が将来結婚したらその旦那を姉妹共有の性玩具として夜を楽しみたいという願望がある。

■自信に溢れた雰囲気とは裏腹に、意外に照れ屋である。 

■自宅の中では全裸で生活していると語る。

■変わり者の多い芸能人でも、理解困難な数々の驚くべき発言から「空飛ぶグータン」(フジテレビ系)に出演した際「30秒に1回面白い事を言う女」と紹介された。 

■「結婚はお金の為にする」と豪語しており「踊る!さんま御殿」(日本テレビ系)で明石家さんまに「どんな人と結婚したい?」と聞かれると「小さな国でも構わないので、王様ですかね」と答えた。もし結婚した場合も美香と一緒に暮らし、美香が先に結婚した場合も付いて行くのだとか。 

■「毛皮コートは汚れたら新しいのを買えばいいじゃないですか?」と発言した。

■お腹を露出した衣装でイベントに参加したところ、翌日の新聞に「恭子のお腹が弛んでいる」と掲載され話題となった。この報道があってから、恭子は暫く自身のイベントでお腹を露出した衣装は着なくなった。だが美容関連の書籍を出版しているだけあって直ぐに体形を戻し、再びお腹を露出した衣装を着始めた。

■深夜に美香がスケジュール管理をしている時に毎晩の様にデートに行くらしく、「爆笑問題の検索ちゃん」(テレビ朝日系)で太田光に「美香さんは大変そうですけど?」と聞かれると「やるべき事をやっているだけ」と答えた。スケジュール管理は妹に任せているが、デートの誘いを勝手に断られるのは嫌らしい(実際のスケジュール管理は、妹でありマネージャーでもある晴栄がやっているので、「妹に任せている」というのは嘘ではない。)。

■本屋に行くと、昆虫図鑑を中心に10〜15万円は購入する。本屋に限らず買い物の荷物持ちは男性達である。因みに買い物はいつも衝動買いであり「最終的には買うのが遅いか早いかだけ」と語っている。 

■美野里ふるさと食品公社の「ごぜんやまゆずヨーグルト」が好物の一つで、一日5個は食べるらしい。


《叶美香》
■着用している物の殆どが、姉のお下がりだというが、無論、設定であると思われる。芸能人としての地位やおそらく収入も、叶美香の方が恭子より上と推測されるため。

■好奇心旺盛らしく「爆笑問題の検索ちゃん」に出演した際、恭子に「とにかく事細かに聞いて店員を困らせる事がある」と暴露された。 
■ゴルフが得意。芸能人ゴルフコンペに単独で出場している姿がマスコミでもよく取り上げられる。

■連夜姉の世話に追われ、なかなか彼氏が出来ない。また、男性を恭子によく奪われてしまうらしく、今まで奪われた人数は50人である。「付き合っている人やいいなと思う人は、なぜだか皆、姉に奪われるんです。いいなぁと思う人は、次回食事する時はだいたい姉とピッタリくっついているんです。そして1度奪われたメンズは決して帰ってこないんです。」と発言している。この発言に対して恭子は、「奪っているんではなく、勝手に来るんですよ〜」と発言した。ちなみに好みのタイプは「誠実な人」。


【次女・晴栄失踪に関すること】
2007年2月9日放送回の「おはよう朝日です」(ABCテレビ)で芸能レポーターの井上公造が、晴栄は恭子の3億円以上する10カラットのダイヤの指輪、ダイヤが散りばめられた時計や他のジュエリーを付けたまま姿がわからなくなり、恭子が警察署で捜索のために相談していると語った。その後、「女性セブン」誌の報道を機に晴栄の失踪は広く知られることとなった。各種報道機関によって「叶姉妹が宝石や衣装保管の為に借りた家賃60万円のマンションに住んでいた」「そのマンションに保管してあった宝石・高級家具など5億円相当を持って逃げた」「現在消息不明」「警察に被害届けが出された」ことが報道され、世間の注目を集めている。

  叶恭子の代理人の弁護士による2月22日の緊急会見で、1月26日に叶姉妹に晴栄と連絡が取れないとのことで相談を受けマンションに行ってみると鍵が付け替えられていて、同28日に心配して晴栄の部屋に行ったところ、もぬけの殻というよりも綺麗に掃除されていたとのことだった。使い古しの家具などは、残っており選別した形跡があったことから、「計画的なことが伝わってきた」として、2月6日に被害届のコピーを提出。その後、警察から連絡があり、正式な文書として被害の目録を付け14日に受理された。

晴栄は2月17日に弁護士とともに警察に出頭し事情聴取を受けた。

書籍「Love&Sex」の発売時期とほぼ重なる形で今回の騒動が話題となった為に、書籍の宣伝ではないかと疑惑を持たれたが恭子、美香共に「その様な事はありません。書籍の内容と今回の件がリンクしているとは思えません。」ときっぱり否定し、涙ながらに訴えた。

取材をした井上公造曰く、恭子は実妹である晴栄が失踪したことで相当気を病んでおり、電話口でも疲れている様子が分ったという。恭子らは持ち逃げされた宝石などの行方よりも晴栄の事が心配であると語り、今回の騒動でストレスからか4kg痩せたという。

2007年2月27日に恭子の弁護士が会見を行なったが、晴栄は「自分のもの以外は持ち出していない」「3億円相当といわれている10カラットのダイヤモンドだけども、あんなのは1000万円程度の価値しかない」などと語っているという。一方の恭子は晴栄に対して刑事告訴(業務上横領)と、民事告訴(所有権に基づく引き渡し請求)することを決めている。

2007年3月17日のカワズ君の検索生活の第2検索ワードランキングで7位と9位がこの事件に関する事で「※大人の事情」に伏せられた。

この一連の騒動で、晴栄の存在と叶姉妹が元は三姉妹であった事も広く知られる様になった。

恭子は2007年8月号「婦人公論」のインタビューで『ただ、謝ってくれさえすればいいんです。手遅れなんて事は死ぬまでありませんから。』と述べている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070806-00000003-oric-ent

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加山雄三 エピソード&プロフィール

加山 雄三(かやま ゆうぞう、1937年(昭和12年)4月11日 - )は、俳優・歌手・作曲家・俳優・タレント。神奈川県横浜市出身(育ちは茅ヶ崎市)。本名・池端 直亮(いけはた なおあき)。ニックネームは若大将。血液型A型。岩倉具視の高孫。

父親は俳優の上原謙(池端清亮)、母は女優の小桜葉子。妻は元女優の松本めぐみ、長男でコンピュータグラフィックの会社を経営する池端信宏、次男で俳優の山下徹大(てつお)、長女でタレント・料理研究家の梓真悠子、次女で女優の池端えみ。


【人物・来歴】
1960年、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学法学部卒業後、東宝に入社。同年、『男対男』で映画デビュー。渡辺プロにも一時期在籍。

加山雄三という芸名の由来は、「加賀(百万石)・(富士)山・英雄・小林一三」から一文字ずつ拝借したものと東宝のデビュー会見で報じられている。しかし若大将シリーズの時期には大学時代の成績が可が山ほどあって優が3つしかなかったので「可山優三」をもじって命名したと揶揄された。ただし、慶應義塾大学では成績の評価は「優・良・可」法ではなく「A・B・C」法なので、その説に異を唱える向きもある。

1961年、『夜の太陽』で歌手デビュー。NHK紅白歌合戦出場11回。代表曲多数。のちのフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、また日本ではじめて多重録音を手がけた歌手でもある。

ソングライターとしてのペンネームは、團伊玖磨と山田耕筰を足して2で割った弾厚作(だんこうさく)であり、同名義で作詞・作曲している (日本テレビ系24時間テレビ 「愛は地球を救う」のテーマソングである『サライ』は谷村新司が代表作詞し、加山が作曲したものである)。

1965年12月に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された『君といつまでも』は350万枚の大ヒットになり、1966年の日本レコード大賞の大本命とされていたが、結局大賞は橋幸夫の『霧氷』が受賞することになり、『君といつまでも』は特別賞に留まった。

俳優としては1960年代、東宝の看板スターとして活躍、娯楽映画の『若大将シリーズ』が大ヒットして代表作となるが、一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八といった名匠の作品にも多く出演している。ブロマイドも爆発的に売れ行きを記録した。

1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックパークホテルを建設。しかし、1970年にパシフィックパークホテルが倒産し、父の上原ともども莫大な負債を抱えてしまう。加えて、後の妻となる女優・松本めぐみとの駈け落ち同然の結婚が世間を騒がせてしまう事態となり、映画界の斜陽で『若大将シリーズ』が終了し、映画出演の減少も重なって、不遇の時代となる。キャバレー回りや1個の卵を夫婦二人で分け合って食事せねばならないほど追い込まれたが、活動をテレビに主軸を移し、『加山雄三ショー』を始めとするバラエティや『大追跡』などのテレビドラマで活躍。加えて、「理想の父親」と呼ばれるほど世間からの好感も高く、ヤマザキナビスコのクラッカー「リッツ」で家族全員でCM出演をするほど、「理想の家族」としても認知度が高い。

1993年にアメリカのMosrite(モズライト)社よりマリンブルーと『若大将シリーズ』で皆の憧れの的だった白の2色にファズを搭載した加山雄三モデルギターが発売された。

1997年4月23日には、加山の60歳の誕生日を祝って石井竜也ら加山を慕う豪華メンバーが集まり、『60キャンドル』というトリビュートアルバムが発売された。

2000年、Mosrite社よりパールブルーの加山雄三・芸能生活40周年記念モデルギターがハイパーランチャーズの「ハイパー」に語呂を合わせた818,000円で限定40本で発売され、即完売した。このモデルは前回のモデルと同様にファズが搭載されていて、ヘッドがイニシャルのKにカットされ、フィンガーボードにはLEDが組み込まれていてスイッチで光るようになっている。ジャックはボディ裏にある。とてもオリジナリティ溢れるものになっている。

2005年4月10日には新高輪プリンスホテルにて、「芸能生活45周年を祝う会」という盛大なパーティが開かれた。関連してヤマハより芸能生活45周年記念モデルギター「SG3KY」が限定45本で発売され、ハワイのセニーザ社(CENIZA)より、加山雄三・芸能生活45周年記念モデルのウクレレが、限定45本で発売された。

2006年3月3日・4日、東京文化会館の45周年と加山雄三の芸能生活45周年を祝うガラ・コンサート(祝典)が大ホールで行われた。同ホールは、クラシック音楽の殿堂・オペラの聖地として名高く、ポピュラー音楽が鳴ることはかつて無かったが、ポップス・シンガーとして初めてステージに上ったのが加山だ。 「加山雄三With大友直人 シンフォニック・ガラ・コンサート」で、千住明をはじめとする5人の編曲家によって加山サウンドをクラシックに蘇らせた。 プロデューサーで構成・演出をしたのは 加山雄三の還暦の祝いに日本初のトリビュートアルバムをプロデュースした木ア徹。彼は東京文化会館の音楽監督である大友直人の古くからの友人であった為に革命的なコンサートが実現した。 この模様はDVDになり現在リリースされている。

2006年8月26日、加山と同じく湘南というイメージや、茅ヶ崎出身の有名人として名の挙がるサザンオールスターズの桑田佳祐の呼びかけにより、『THE 夢人島 Fes.2006』に参加。桑田がバックバンドを務めた。

2007年4月29日、神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキに加山雄三の手形モニュメント(加山本人の手形及び『海・その愛』という直筆の言葉が彫られたレリーフ)が設置され、服部信明茅ヶ崎市市長を始め、茅ヶ崎市関係者及び市民が参列し、除幕式が盛大に執り行われた。

最近では、テレビタレント・コメンテーターとしても活躍している。


【エピソード】
■母方の高祖父は、500円札にもなった政治家の岩倉具視である。

■『エレキの若大将』の中で『君といつまでも』を歌うシーンについて、加山は「あり得ない展開だ」と主張し、「映画だからいいんだ」と言うスタッフと意見が分かれた。結局、加山が折れることで撮影が行われたが、こうした経緯から加山は歌詞の内容とミスマッチな仏頂面で歌っている。

■1966年6月、ビートルズ来日の際に東京ヒルトン(現在のキャピトル東急ホテル、2007年現在建て替え中)に宿泊していた4人を訪ね、会食した数少ない人物。

■2004年、ニッポン放送のラジオ番組・坂崎幸之助のオールナイトニッポンに生出演をした。彼はすこぶる機嫌の良い様子で坂崎とのセッションで持ち歌の生演奏をした。ギターだけでなくピアノの弾き語りも一流である。

■テレビ朝日系で放送されていたクイズタイムショックではパーフェクトを達成したことがある。

■中学時代にカヌーを造って以来大小10隻以上の船も設計しており、光進丸という、自ら設計した全長30メートルを超える船を所有している。自ら『光進丸』という曲も作るほど、愛着が伺える。現在の船は3代目で、建造費用は5億円と言われている。加山は大型船舶免許や5級海技士免許を所持しており、「海の若大将」では初代光進丸が劇中に登場する。

■大のゲーム好きで、少しでも時間があるとプレイステーション2でバイオハザードシリーズや鬼武者シリーズをやっている。特にバイオハザード1ではナイフ使用限定クリア、鬼武者シリーズでは1作目において57分というクリアタイムを叩き出している。この記録は世間的に見ても、相当上手でないと達成できないことから、その好きさ加減が伺える。ゲームをやりだしたきっかけとしては、老化防止になると友人から薦められたからだと語っている。2006年(平成18年)4月5日放送の『ウチくる!?』スペシャルに出演した際は『ファイナルファンタジー』について熱く語った。ハドソンのスーパーファミコン用ソフト「鮫亀」ではゲーム音楽とイメージソングの作曲を手がけている。

■鉄道マニアでもあり、「加山雄三ミュージアム」には自身の鉄道模型コレクションが多数ある。雑誌・鉄道ファンにインタビュー記事が掲載されたことがある。

■慶應義塾大学在学中にスキーで国民体育大会に出場したことがある。スキューバダイビングも楽しむ。

■JR茅ヶ崎駅南口からかつて加山邸があった場所を経て国道134号に通ずる道は「(加山)雄三通り」と名付けられている。

■1986年(昭和61年)の『紅白歌合戦』で司会者を務めたが、少年隊の『仮面舞踏会』を紹介する際、誤って「…少年隊、仮面ライダー!」と言ってしまった。

■日本のポピュラー音楽界において、数多くの「初」物を行っている。すなわち、日本初のシンガーソングライター (『君といつまでも』、1965年) であり、日本で初めてトリビュート・アルバムが製作されたアーティスト (『60 CANDLES』、1997年(平成9年)4月23日・FHCF-2376) であり、さらに東京文化会館のステージに初めて立ったポピュラー歌手(2006年)となった。

■さだまさしが毎年8月に行なっている平和を祈念したコンサート「夏・長崎から」に共鳴し、1996年から10年間連続でゲスト出演した。今後も機会があれば参加するつもりであるという。

■絵画(油絵)の腕前は玄人はだしで、個展も開いている。料理の腕も一流でまわりの人に手製料理でもてなすこともある。

■UFOに詳しいらしい。

■英語は日常会話には全く不自由しないほど達者である。

■『8時だョ!全員集合』に出演した時、台本上は笑いを取ることになっていなかったが(当時所属していた東宝が「笑いを取らせる様な事をさせない」事を条件に出演を了承していたため)、「馬鹿なことだろうと何だろうと笑いを売りにしている番組に出て笑いを取らないのは、歌番組に出て歌を歌わないのと同じ事」とスタッフの反対を押し切って本番で加藤茶の「ウンコチンチン」を披露した。

■上記以降、特に1990年代以降はバラエティー番組への出演が増えた。その際の有名なエピソードとして、全く親交が無く「たまたま近くにいた」だけで、浜田雅功に「おい雄三、コラァ」といじられ、浜田は後に謝りに行ったが、「なぜ謝る必要があるのか」と返したエピソードはあまりにも有名である。バラエティー番組において、いじられる事に対しては寛容な方で、くわやまゆうぞうとして自分の物まねをしていた南原清隆に「くわやま君とはデビュー以来親友だったんだよ」と茶目っ気たっぷりに返したりしているのだが、あまりに大御所クラスな事もあって、加山を知る一部の芸能人を除き、いじる側もやや遠慮気味である。

■2007年7月29日、東京銀座の山野楽器で自身が過去衆議院・参議院ともに出馬要請が10回以上あったと発言した。ただ「自分には向いてないね」と控えめなコメントできり交わした。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070730-00000018-spn-ent

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川島明(麒麟)エピソード&プロフィール

川島 明(かわしま あきら、1979年2月3日 - )はお笑い芸人。麒麟のボケ・ネタ作り担当。所属事務所は吉本興業。大阪NSC20期生。立ち位置は向かって右。相方は田村裕。


【概要】
■京都府宇治市出身。京都府立莵道高等学校卒業。血液型は不明。身長179cm。実家近くに住む祖母は漬物屋を運営している。現在は東京在住(相方の田村は、今も大阪在住)。

■あだ名はキラ、アキラ(自称)。しかし、家族からは「あきちゃん、ベリーちゃん」、祖母からは、幼少期に天然パーマのうえに目がクリクリだったことから「ベリーグッドマンちゃん」と呼ばれていた。また、相方から「あきちゃん、あきらちゃん」と時々呼ばれている。

■漫才やバラエティー以外に、ナレーターなどもこなす。

■視力が0.1以下で、小、中、高とビン底眼鏡を掛けていた。現在は、コンタクトを使用。


【芸風】
■漫才時は基本的に黒のスーツに黒のワイシャツを着ている。また、最近では黒のネクタイも装着し、真っ黒である。掴みに「麒麟です」とマイクに近づいて低い声で囁く。また、漫才が終わったあと床に手が付きそうなくらい深いお辞儀をする。

■漫才では、その美声を生かしてさまざまなキャラクターをこなす。レパートリーは、DJ、アナウンサー、MC、近所のオッサン、保育士、うさぎさん(うさぎっつぁん)、りすさん、くまさん、フランス人、おじいちゃんなど。また、靴音、心臓の音、ボイスチェンジャーを通した声、馬の嘶き、お箸箱のスライド音、バイクのエンジン音、風の音、iPodの音もれ、ワニワニパニック、現地人の通訳、ユニクロのCMのナレーター、たなかまきこなどさまざまな音の声帯模写も得意とする。ガッツ石松に関しては、似てないどころか真似る意志も無い。また、単独ライブ「キリン!キリン!キリン!」では川島明之丞、シニちゃんといったキャラを確立した。

■ネタ(ラジオのDJ)内で、「ア ハッピー ニュー イヤー」、「君に伝えたいこと」という歌を出したが、いずれも演奏時間はとても短く、曲調は全く同じである。

■大喜利が得意でダイナマイト関西によく出場している。

■現在は片方の目を隠すような髪型をしているため、「なにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!」では、ゲゲゲの鬼太郎のマネをしたことがある。

■トークではツッコミ役となり、毒舌が出ることもある。

■口がとても大きく、VHSのビデオテープ・ルービックキューブが入る。ダウンタウンのガキの使いやあらへんででは、輪切りにしたレンコンを入れた。また、ハンバーガーを食べていた田村に「一口くれ」と言って食べようとしたら、「一口が半分以上やねん!」と叱られたこともある。舞台では、口に入れたビデオテープをパレット替わりにして相方田村の顔の絵を1分で描いた。


【低音】
■持ちネタの低音で囁く「麒麟です」は、タモリや後輩芸人のチーモンチョーチュウの菊地に真似されている。特にタモリは、芸人のギャグを本人の前で行う事はあっても、本人無しで真似することは珍しい。また、顔の前で横に手を動かしながら、「顔の裂け目が長い」と言われたこともある。他にも、とんねるずの木梨憲武にもとんねるずのみなさんのおかげでしたでよくモノマネをされている。

■2007年4月13日放送の史上最強のメガヒットカラオケBEST100 完璧に歌って1000万円!!で寺尾聰の「ルビーの指環」を歌ったところ、女性陣に低音の歌声を絶賛された(終盤で歌詞を間違え歌い切ることは出来なかった)。

■声変わりするまでは女性のようなとても高い声で現在とは正反対だった。

■好きな人にはよりイイ声を出そうとして低音の声がさらに低音になってしまい、バーで女の子を口説いた時には『何を言っているのか分からない』と言われてしまった。

■喉がつぶれた事が一回も無い(田村談)。学祭キングの彼等ではあるが、ネタを七本とフリートークを一時間した日がある。相方の田村裕は声が出なくなったにも関わらず、川島は大丈夫だったらしい。


【相方】
■相方の田村とコンビを組んだのは「アホが好きだから」と語る一方、「相方が一番格好良い」とも語る。相方とは仲が良い。

■夢は年をとっても田村と漫才をする事。将来は旅行しながら2人で漫才をして、旅行先でお金が無くなったらそこら辺で漫才をして、お金を取っ払いで貰ってまた違う旅館に行くこと。その夢を聞いた田村には、『ムリムリ、そんな時代ちゃう今』と笑われた。


【エピソード】
■元々人見知りが激しくいつも楽屋で一人だったが、次長課長の井上に声をかけられた事から心を開き始めた。井上を先輩の中で最も尊敬し、上下関係問わず最も親密な関係にある。現在もゲーマー仲間としてよく一緒に遊んでおり、番組で共演中もよく2人で喋っている姿が見られる。次長課長が東京へ行くことを知った時は、舞台本番中にも関わらず泣き出した。

■中学時代はサッカー部所属。よくしゃべる元気な少年で女の子にもモテたらしいが、その後、女性が苦手になったこともある。今では大分マシになっているようだが、現在でも女性の付爪が嫌い。

■ファーストキスの相手は合コンの相手で、初コンパで行った王様ゲームのお題によって奪われた。女性が苦手だったためかキスの直後に吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。

■テンションが上がったり、考え事をしたりしていると周りが見えなくなる。高校時代には、急な坂道をどこまでブレーキをかけずに下れるか数人の友人と競い合い、最後まで競い合った友人がブレーキをかけたのを見て安心し、自分はそのまま電信柱に突っ込んだ。また、ストリークのbase卒業ライブ後、麒麟も含め芸人だけでカラオケ屋で打ち上げをした際、部屋の扉のガラスを拳で割った上、「俺めっちゃ力ある!」とテンションが上がり膝蹴りまでお見舞いした(その後すぐに弁償した)。

■昔男性から痴漢を受けたことがある。(その時は持っていた漫画雑誌を相手にぶつけて逃走した)

■メールで絵文字は使わない。昔同じような物だろうと「卍」をつけてみたところドン引きされたのもひとつの原因らしい。

■NSC20期生時代、服屋に行った時に『何かお探しですか』といわれるのが嫌だったため、身だしなみに一切気を使っていなかった。

■人にいじられるのが嫌いだが、自称M(だが番組などではドSとしか思えないような言動が非常に多い)。

■動物が好きで、中でも犬が大好き。

■口癖は、「今週のファミ通読むとこないなぁ」。


【家族】
■幼い頃は祖母の家に住んでおり、実家は相方(田村)ほどではないが貧乏で、父親が2万円の給料を持って帰ってきたことがある。おばあちゃんっ子。

■「M-1グランプリ2004」でやったネタで「いかがでしたか僕らの漫才」という歌詞に対して、母が真似して「楽しかったよ麒麟の漫才」とメールを送ってきた。しかも、後で電話をかけて、同じ内容を歌ったらしい。

■ある日おばあちゃんが暗い顔をしていたので話を聞いたら実は漬物が嫌いと言う事が判明して(貧乏臭そうで嫌だかららしい)驚いた事がある。(アメトーークにて)


【その他】
■昔、アルバイトでハンバーグ屋に勤めていた。そこで1日3食分のハンバーグを貰ってずっと食べていたのでハンバーグ臭くなった。臭いを気にして銭湯に行き、体を拭いたタオルの臭いを嗅いだら、ハンバーグの臭いがした。

■27歳の時まで、「喪主(もしゅ)」をもぬしと読んでいた。ちなみにこれを漫才中に発言し、田村に突っ込まれたことがある。

■高校生の頃は存在感が全くなく、体育の授業を抜け出したりしても気づかれなかった。

■高校時代、ヒトラーの「我が闘争」を読み、性格が180度変わる。

■2007年6月11日、眞鍋かをりと熱愛中であると週刊誌に報道された。(きっかけは元々眞鍋が川島のファンであり、あるバラエティー番組で田村の貧乏エピソードの3択問題に見事答え川島と話せる権利をゲットする事が出来、アドレスも交換した。)そのため翌日にゲスト出演したラジオ番組東貴博のヤンピースやくりぃむしちゅーのオールナイトニッポンでは、その件で電話やメールなどでリスナーからかなりイジられていた。2007年6月26日の『踊る!さんま御殿!!』のオープニングで明石家さんまに同件を突っ込まれたが『彼女のメイクさんやスタイリストさんなどスタッフも交えて2回ほど食事を共にしただけ』と自ら釈明した。

■雑誌は毎回3冊程買っており、「趣味・ゲーム・女」雑誌。ちなみにファミ通は「ゲーム」のジャンルに入り、とても愛読している雑誌の1つである。(麒麟の部屋 より)


【ランキング】
■2003年、吉本男前ランキング7位
■2004年、吉本男前ランキング7位
■2005年、吉本男前ランキング4位
■2006年、吉本男前ランキング2位
■2007年、吉本男前ランキング2位

ブラックマヨネーズの吉田敬は川島がランキングされることに納得していない。吉田曰く、「若いころの鹿賀丈史」に似ている(余談ではあるが、川島の祖母もTVに出た鹿賀を孫と間違えて録画していた)。

2006年、baseよしもと
■男前ランキング1位
■キスしたいと思う人ランキング1位
■ブサイクランキング13位
■キスされたくない人ランキング15位

「Qさま!!」の10M高飛び込みで2分05秒という好成績を残す(絶叫系の乗り物やバンジージャンプなどは大の苦手にもかかわらずである)。柴田英嗣、KABA.ちゃん、西川晃啓、松本康太に次いで5位。


【特技・趣味】
■習字

■書道五段。

■イラスト

■ダーツ

■ギター(麒麟の部屋でギターを披露)。

■洗濯機が回るのを見ているのが好きらしい。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070717-00000005-oric-ent

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柏原収史 エピソード&プロフィール

柏原収史(かしわばら しゅうじ、1978年12月23日 - )は、日本の俳優、ミュージシャン。山梨県甲府市出身。血液型はA型。メリーゴーランド所属。


【略歴】
1993年、実兄である柏原崇の「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」の最終オーディションを見に来ていた所をスカウトされ、芸能界入り。当時の事務所は「トライストーン・エンタティメント」。翌年、TVドラマ「人間・失格」で役者デビュー。その後、「凍りつく夏」において、幼児期に親より虐待を受けたために、成長してからもそのトラウマから脱却できない少年の役を演じ、高い評価を得る。

2000年に公開された映画「スリ」(黒木和雄監督)で日本映画評論家大賞・新人賞を受賞。

兄の崇とはファミリーマートのCMで共演したり、ロックバンド「No'where」を結成(現在、活動休止中)したりしている。

「No'where」の活動休止後、2001年にネスミスと「STEEL」を結成したが、こちらのほうも現在、活動休止中である

2003年、兄と同じ現在の事務所「メリーゴーランド」に移籍。(2005年8月、兄は別事務所に移籍)

2006年に公開された主演映画「カミュなんて知らない」(柳町光男監督)では、カンヌ国際映画祭、ニューヨーク映画祭、台北金馬映画祭などに出品され、東京国際映画祭では「日本映画・ある視点部門」にて作品賞を受賞。全米7都市でも上映され、国際的に注目される作品となった。(2006年度キネマ旬報ベストテン10位にも入賞)

2006年秋、アンナさんのおまめに出演。それまで、多く演じていた神経質で繊細といった役柄とは大きく異なる、様々なコスプレをするなどのぶっ飛んだコメディ演技を披露し、主演のベッキー同様、視聴者から高い評価を得た。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070708-00000002-sanspo-ent

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川村ゆきえ エピソード&プロフィール

川村ゆきえ(かわむら ゆきえ、1986年1月23日 - )は北海道出身のグラビアアイドル、タレント、女優。血液型O型。本名は川村雪絵。ジャパンアート所属(タレント・モデル事務所のケイポイントとマネージメント提携)。


【プロフィール】
愛称: ゆっきー
生年月日: 1986年1月23日
現年齢: 21歳
出身地: 日本・北海道
公称サイズ(2006年時点)
身長 / 体重: 158 cm / 48 kg
BMI: 19.2(普通体重)
スリーサイズ: 87 - 59 - 87 cm
ブラのサイズ: E
靴のサイズ: 24 cm


【来歴】
北海道小樽市生まれで、神奈川県横浜市を経て、千葉県で育つ。[1]2003年に芸能界デビューし、週刊ヤングジャンプ・制コレ2003で準グランプリを受賞。清純さをイメージさせる顔立ちとグラマーな体型により人気を博し、雑誌のグラビア、写真集、DVDなどに多数出演。

グラビアアイドルのトップを走っていた[2]2005年、ラグスタープロモーションから10-POINTへ所属事務所を移籍するが、その後、芸能活動を1年余りにわたって停止した。理由については具体的に公表されていないが、移籍をめぐる両事務所間の法的なトラブルを指摘する報道もあった。

2006年7月に株式会社ジャパン・アート内プロダクションJへと所属事務所を移籍し、活動を再開。同年12月には映画『気球クラブ、その後』で女優デビューし、2007年4月より放映が開始された連続テレビ小説『どんど晴れ』(NHK)で初の連続ドラマ出演を果たした。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070623-00000136-sph-ent

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川島なお美 エピソード&プロフィール

川島 なお美(かわしま なおみ、1960年11月10日 - )は、日本の女優、タレント。 愛知県守山市(現・名古屋市守山区)出身。身長158cm。血液型AB型。 愛知県立中村高等学校卒業、青山学院大学文学部第二部英米文学科卒。


【来歴・人物】
■夜間大生時代に芸能界にデビュー。当時カンニング事件で週刊誌ネタとなる。そのうえ「カンニングなんてみんなしている」とラジオ出演時に開き直り顰蹙を買う。

■文化放送がセイ!ヤングの後番組として、1981年10月からスタートさせたミスDJリクエストパレードの初代DJに抜擢される。これにより、深夜の顔となるが彼女の人気により裏番組であるTBSラジオのパックインミュージックが1982年7月限りで打ち切りに追いやられる。そのため直前頃には永六輔から彼女の真裏の時間に出演されるという形で嫌がらせを受けてしまった。その影響から今でも永の名前を出すのを憚るほど苦手としている。(※ 永は前番組時代にも(裏番組の)レギュラーを持つか、聴取率低迷期に出演して嫌がらせをしている。)

■1982年に『お笑いマンガ道場』のレギュラーを獲得し、「だん吉・なお美のおまけコーナー」で大ブレークするが、本人は一時この出演歴に触れられるのを嫌がっていた。その理由として、お見合いのときに高飛車な態度を取ったため、相手から「『お笑いマンガ道場』に出ていたくせに」と言われたことがトラウマになっていたという説があるが、真相は定かではない。インタビューは、『お笑いマンガ道場』の話をしないことを条件に引き受けていたという。近年では心境の変化があったのか、『ろみひー』に出演した際、同番組がマンガ道場と同じスタジオで収録されていたことから、懐かしいという話を自分からする等、出演当時の話題にも徐々に触れるようになった。

■キャンパス・クィーンのイメージがいつまでも抜けず、同世代の人間からは人気者だが出る番組は限られた感じで(実際休息期間もある)不遇な時代が長く、現在の様に広い世代で知名度が上がるまでにかなりの時間を要するが、1997年『失楽園』(TV版)主演で、現在の地位を確立した。

■30代にしてヘアヌード写真集『WOMAN』で復活。裸体も辞さないセクシーな女優として知られるようになった。ヘアヌード黎明期に出版され大ヒットを記録した当作品は、後発のヌード写真集にも大きな影響を与えたと言っても過言ではない。

■『おしゃれカンケイ』にゲスト出演した際、通常スタジオの観客は番組スポンサーの方針で女性と決められているが、川島が出演する回に限り、観客は男性に限られた。

■ワインと犬(ダックスフント)と葉巻をこよなく愛する。ワインブーム時には、ワインタレントとしても活躍した。川島が飼っている犬の名前は「シナモン」と「ココナッツ」。

■ワインタレントとして活躍中、エスカレーターで転倒し足に縫うほどの怪我を負った事がある。

■1989年、京都府内で『水戸黄門』の撮影中にロケバスが川底に転落。第七頚椎の骨折という全治三ヶ月の重傷を負った。

■なお、カラオケのバック映像に、川島なお美と思われる女性が出演している作品が多数存在するが、真偽は不明。カラオケ好きでよくよく話題になる。

■本人曰く、女優の松嶋菜々子、酒井法子と友達だと言う。

■プロ野球で好きな球団は中日ドラゴンズ。

■実家は地元では有名な病院という噂もあったが、実父は元簡易裁判所判事である。

■料理は非常に得意で、テレビ朝日系『愛のエプロン』では出演の度に高評価を得ている。

■自身のHPで、腹違いの14歳年上の姉がいたことを公表した。生後すぐに生き別れており、2006年に46年ぶりの再会を果たした、とのこと。


●発言
■私の体はワインで出来ている。

■私の血はワインが流れている。

■私の出発点はお笑いマンガ道場である。


【略歴】
■1979年 - 歌手デビュー。

■1981年 - 『ミスDJリクエストパレード』に、DJとして出演。

■1982年 - 『お笑いマンガ道場』にレギュラー出演(長期間レギュラーであったにもかかわらず、公式サイトには出演歴として記載がない)。

■1999年 - 日本ソムリエ協会ワインエキスパート資格取得。

■2001年 - 日本ソムリエ協会名誉ソムリエ)

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070618-00000902-san-soci

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上岡龍太郎 エピソード&プロフィール

上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、本名:小林 龍太郎、1942年3月20日 - )は日本の元漫才師・タレントである。旧芸名は横山パンチ、伊井パンチ。京都市出身、血液型はAB型。現在は芸能界を引退し、一般人。長男は映画監督の小林聖太郎。


【人物】
芸風としては、立て板に水を流したような流暢な口調と、理路整然とした語り、その一方で切れ味鋭い毒舌を吐きつつ、芸人としてバカを演じてオチをつける、というスタイルである。また、司会業に優れ、出演者のボケや主張に対してうまくツッコみつつ、ひとつの作品(仕事)を仕上げていくということができた。西条凡児以来の「知性で笑わせられる芸人」との評がある。

本人による自身の芸評

■「僕は知的だといわれますが、適当なことばっかり言ってるんです。もっと知識のある人が僕を見て、『愛い(うい)やつじゃ』と嗤ってくれればいいんです」
■「僕はしょうもないことはよく覚えてて、大事なところの知識がない。これを僕は『知識のドーナツ化現象』と名付けてます」
「インテリ」「知性的」「理論派」の芸風で人気があり、いわゆる上方お笑いの「コテコテ芸」からは逸脱していた。偏屈で、屁理屈をこねては鋭い毒舌を吐く印象がある一方で、言動に一貫性の無い部分もあり、それを洒落と受け止められない人もいたため、関西でも好き嫌いは分かれていた。

番組で自己紹介をする際、「『私が』上岡龍太郎です」と、常に私がを付け、更に強調していたのが特徴であった(ちなみに探偵!ナイトスクープの現局長の西田敏行もこれを踏襲して「私が局長の西田敏行です」と自己紹介している)。それ以前には、「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流。恵まれない天才、上岡龍太郎です」と自己紹介をしていた時期もあった。この変遷は、後の東京進出によりギャラが一流になってしまったため、もう「ギャラが三流」とはいえないと本人が判断したことによる(EXテレビ内での発言)。

横山ノックは上岡より10歳年長であり、上岡の師匠だと思われがちだが、実際は師弟関係ではなく、漫画トリオ(1959年〜68年)結成時からの仲間である。ただし、漫才や演芸については知識はあっても素人だったため、特にツッコミの入れ方でノックから厳しく指導された。ネタの構成等で上岡のセンスが必要でノックから声をかけられた。ノックのわがまま(参院選出馬)で解散となり、吉本にも戻れず干された時期があっただけに、ノックに対しては愛憎ともにあるといったところである。上岡曰く、ノックは自分の一番弟子(二番弟子が板東英二。もちろん、師弟関係ではない。正式な弟子は後述)。

売れ初めのころは自分のことの出た新聞・雑誌の記事をスクラップしていたが、たまたま見つけたノックが「そういうのはちゃんと残してくれる人が出てくるよ」と注意されたことに感動し、「残してもらえる芸人になろう」と発起したという。

夫人はパンチ時代のファンである。上岡に集まってきたファンの中から感ずるところがあり、「君は将来、ぼくと結婚する」と口説き続けていたと言う。当時、夫人はまだ中学生(上岡とは7歳年下)であり、それを知った笑福亭鶴瓶からは、「あんた犯罪者や」と突っ込まれた(上岡夫人に関しては、テレビ番組で一度だけ、自宅で後姿が写った写真が公開された事や横山ノックのお通夜へ上岡と一緒に参列した時に報道陣から車で去っていく写真を撮られたことがある)。

女性にはよくもてた。「囁けばみんな落ちる」と言われていた。これは、女性を左耳から囁けば右脳が反応し恋に落ちやすくなるという話を聞き、実践していたからだと言われている。黒柳徹子が徹子の部屋でやってほしい、と振ったことがあるが、これは理屈を並べて断った。

落語立川流の門下(Bコース)でもある。立川流での芸名は上岡自身が大ファンでもある市川右太衛門にちなみ立川右太衛門。また、上方お笑い大賞の大賞を受賞したときの授賞式のプレゼンターとして市川右太衛門が登場し、大感激の授賞式となった(市川右太衛門がプレゼンターでなければ断っていた、とは本人の話。もともとが賞嫌い)。

様式美を好むところがあり、前述の市川右太衛門のように、様式美の中で心躍らされるチャンバラ映画を深く愛している。そのため、リアルさを出していった黒澤明を非難し、黒澤以降の近年の映画のほとんどには否定的である。また、松竹新喜劇にも強い敬意を払い、「変化座」構想を練り上げ、気の合う仲間たちと引退前の数年、新喜劇興行を行った(藤山寛美自身の賛同も得、寛美本人の演出も予定されていたが《演目は「愚兄愚弟」》、これは寛美の急逝のため、実現しなかった)。

九州王朝説=邪馬台国とは九州の邪馬'壱'国《小国》説の熱心な支持者としても知られる。

仕事以外では非常におとなしく、紳士然とし、後輩には優しいらしい。そのために芸人仲間や後輩の人望を集めているのだが、一方で、芸にはかなり厳しく、気に入らないことや人物に対しては本人の前だろうが、公衆の面前であろうが、カメラの前であろうが、本番中であろうが、容赦なくいじり倒した。これが「毒舌」と呼ばれ、人気も出たのだが、反面、敵が多かったのも事実である。

「某県は盗人が多い」「某県はほら吹きが多い」「(京都市の区のうち)某区は京都と認めない」など、一定の地域をステレオタイプ的に揶揄したりすることがあり(しゃれ、芸風だが)、真に受けた県議や知事らに抗議されたこともある(マスコミが煽ったきらいやこの件が引退のきっかけになったのではないのかとの説もある)。

眼鏡を掛けていないときの顔がミッキーマウスに似ており、また、眼鏡を掛けたときの風貌が横山やすしに似ていた為、「理性ある横山やすし」と比喩されたこともある。


●東京進出
関西では長い間人気芸人であったが、東京を含め全国的には知名度は低かった。1990年代以前にもラジオや、テレビ番組「ラブアタック!」などの全国ネット番組に出演していたが、お笑い芸人としての人気は皆無に等しいほどであった。その時期に、ノックからの紹介で「笑っていいとも!」に出演したことがあるが、キャラをつけなければと思ったのか、テンガロンハットをかぶりカントリー&ウエスタンを歌う姿にタモリも観客も戸惑うばかりだった。上岡もずっと「東京が嫌い。東京では仕事をしません」「全国ネットでやってる笑いは程度が低い。僕がアホに合わせる必要はない」と公言していた。1987年に朝の連続ドラマ「見上げればいつも青空」に出演、甲斐智枝美扮する主人公が若いころに勤めていた美容室の店長の役柄で、おかま口調の関西弁を使って好演したことをきっかけに、東京だけではなく全国での知名度が徐々に上がっていく。関西で人気深夜番組だった「鶴瓶上岡パペポTV」が1988年から東京で放送されるようになると、「鶴瓶の横にいるあの芸人はだれだ」と関心を集めるようになり、一気にブレイクした。

東京で仕事をするようになると、これまで「東京は嫌い」と言っていたことからその一貫性のない言動に反感を覚える人もいた。上岡が東京でのギャラについて、「びっくりしました。東京と大阪じゃギャランティの明細の額がゼロ3つ違うんですわ」と当時吉本興業取締役だった林裕章(後に社長・会長、故人)に言ったのは有名な話である。ギャグとして「(全国ネットの視聴者も)やっと僕の笑いが分かるようになった」とうそぶいていた。


●マラソン
かつては、テレビで堂々と「僕はゴルフはやりません」と公言しながら現在ゴルフを楽しんだり、「マラソンなんかしません」と言いながらマウイマラソンに参加している(95年の25回大会から冠スポンサーに。2006年10月現在でも、上岡の功績は大会HPで讃えられている)。ゴルフは番組で「番組でホールインワンをしたので、プロゴルファーになる」と発言、芸能界引退後にアメリカへ単身ゴルフ留学した。1995年には豪州のゴールドコーストにも挑戦しており、この時には一般ランナーの壁とも言える、4時間以内のタイムを大幅に上回り、3時間48分25秒で走破した。また、マラソン熱が高じてサロマ湖100kmマラソンのようなウルトラマラソンにも挑戦し完走している。「オールスター感謝祭」の「赤坂5丁目ミニマラソン」ランナーの常連、またはハンデキャッパーでもあった。

ゴルフやマラソンを始めるなど考えが変わったことについては、やしきたかじんが「東京進出で収入に余裕が出来たのでは」と分析、実際にいずれも東京進出後に始めている。


●阪神タイガース
かつては大の阪神ファンで、自称「金は出さぬが口は出す、阪神タイガース陰のオーナー」として、長期にわたって独特の視点で応援し続けた。だが、広澤克実の阪神入団が決まった際に、球団が背番号31(元ミスタータイガース掛布雅之の付けていた番号)を与えたことに激怒し、「陰のオーナー辞めます」と宣言し阪神ファンを“廃業”した。それ以後は近鉄を応援するようになり、「大阪市長選挙に出馬して当選したら大阪市で近鉄を買い取る」と嘘とも本当とも取れる発言をたびたびしていた。


●オカルト嫌いによる騒動
短気で妥協を許さない一面があり、番組出演中に納得がいかないことがあれば番組を途中で降りたり、役割を忘れることがあった。特に心霊モノや霊媒師・超能力・オカルト現象などを採り上げると、この傾向は顕著に出た。

その背景には、上岡の実体験が大きく影響している。上岡の実母が乳ガンにかかった際、霊媒師・占い師などが詰め掛けて食い物にしようとしたことを目の当たりにしたため、上岡は心霊モノを嫌うようになった。

(占い師銀座ジプシーの著書では、「ある占い師が夫人に『あなたのご主人は浮気しています』と吹き込んだから」とも書かれている)

■朝日放送「探偵!ナイトスクープ」で心霊モノが取り上げられたとき、激怒して収録を途中で放棄して帰宅する。その際「テレビという科学的なものが霊媒師や霊を証明もしないのにさもあるかのように表現してはいけない。霊媒師も証明しないのだから、『「自称」霊媒師』と表現するべきだ」と語っている。

■「上岡龍太郎にはダマされないぞ」では司会の役割を半ば忘れ、同じ心霊モノ否定派の大槻義彦、大竹まことと共に、織田無道と乱闘寸前になった。そのため、ゲストコメンテーターだったデーモン小暮閣下が各々の意見を冷静に取りまとめつつ番組進行としての調整を行ったほどであった。

■ユリ・ゲラーの超能力にも懐疑的であった。ゲラーと共演していた際、初めは興奮を抑えつつ応対をしていたが、ゲラーが超能力について語りだすと上岡は次第に興奮し、矢継ぎ早に「今すぐこのカメラを壊してください、今すぐに!」とゲラーに激昂した。その激昂ぶりに驚いたゲラーは「こんな否定的なことに能力を使いたくない」とコメント、収録を途中で放棄した。その模様もカットされずにそのまま放送された。その番組の後半でゲラーが帰ったのは自分(上岡)が興奮したからと自らオチをつけた。

■Mr.マリックがなかば超能力者的に売り出されたころ、過去のマリックの姿勢を引き合いに出して、強烈な批判を加えた。後にマリック自身が「超能力的に見えるマジックである」という姿勢に戻ったため、和気あいあいと共演するようになった。

■泉アツノが白蛇占いでブレイクしたときには、「この間までお茶子やってた奴が、なぜ突然霊が見えるようになったんや」と非難した。

■ラジオ番組で、共演した占い師の顔に「×」の文字を書いた。占い師なら×を書かれるのは予見できるはず、という考えからそういった行動を起こした。(後にEXテレビでも同様のことをし、このときは視聴者に顔を向ける形で謝罪をした)

■ほかにもEXテレビでは「超能力選手権」という企画を語る際、「厚さ1メートルのコンクリートの壁で取り囲まれたものが何か透視で当ててもらう」という企画を出した。また、上岡に占いを信じさせるためプロの占い師にその仕組みを説明する企画が実施されたが、上岡は科学的・論理的な根拠をとことん求める姿勢に徹した。結局その占い師は「昔の人がそう決めた」という回答しかできず、最後には「あなたにではなく視聴者に説明しているんです」と激昂してしまうことになった。


●政治姿勢
「政治家でない以上、青臭いくらいの立場でいい」とのことで、「左派的」かつ「判官びいき的」姿勢である。90年代前半までは平和:市民を支持していた(ただし、立川談志を深く尊敬するように右傾姿勢の者に対しても議論さえしなければ許容している)。

普段の発言と異なり、翼賛的な風潮があると判断した場合は批判的になる。横山ノックに対しても例外ではなく、ノック2期目出馬の際、ノックではなく日本共産党推薦の対立候補で哲学者の鯵坂真を支持した。その後のセクハラ事件の際も、疑惑発覚当初から現職大阪府知事でもあったノックを正面から批判した(「あれはやっとる」と発言し、府議会でもノックへの質問に取り上げられた。しゃれであった可能性もあるが、明確にはされていない)。

また横山ノックが大阪府知事時代、「大阪市の市長選挙に出馬するのでは?」という噂が流れたように、政界進出の噂もあったが、現在のところ、本人はヤル気ナシのようである(当選してから『勉強します』と言う議員が多く、見苦しいと感じていたため、『勉強してから出馬する』と言っていた時期もあったが、立川談志から『勉強したほうがだめだよ』と言われ、やる気をなくしたようだ)。


●アナウンサー批判
上岡が舌鋒をアナウンサーに向けた時期がある。逸見政孝、徳光和夫などがフリーになり、自分たちのテリトリーであるバラエティ番組の司会をレギュラーとして多く持ち始めた1980年代後半である。「正確な日本語、事実やニュースを伝えるべきアナウンサーが言葉を崩して、芸人たちに向かって口を利くこと」「(司会業はプロでも)突っ込みの素人がバラエティで下手な突っ込みをやる」などについてあからさまな嫌悪を示していた。また逸見に関しては「大阪出身なのに大阪弁を捨てた」と非難した。とはいえ、若手時代に出演していた「底ぬけ脱線ゲーム」の金原二郎などには敬意を持っていたようで、矛盾があり、結局、前述のように議論さえしなければ、和気あいあいと共演した。徳光とは敬称で呼び合い、パペポTVでも徳光に関するエピソードを披露している。逸見に至っては両名の冠で番組も持った。

一方で、讀賣テレビ放送報道局局次長の辛坊治郎には嫌う素振りを見せていた。これはもともと好意が無かったのに加え、讀賣テレビの感謝祭と位置づけた特別番組の1コーナー(元番組はときめきタイムリー)でアナウンサーへの批判を加えた際、辛坊の名を挙げたところ(シャレの要素が強かったようだが)、スタッフに促されて辛坊が登場し、激論に至ってしまったことがある。このとき、辛坊が「会社の命令だから」と言ってしまい、それについて「言論のファッショ」と断じている。また、一説では辛坊がメディアで「正しい日本語」に関する話をした際、「大阪弁は正しい日本語ではない」と発言し、それが日本語の起源などに深いこだわりを持っていた上岡の耳に入ったことが原因と言われている。

これらのエピソードでも見られるように、時折、上岡はタレントという立場を離れて、マスコミへの批判を強烈に加えることが少なくなかった。特に阪神大震災の際にはマスコミの無能、低能を鋭く指摘、「テレビは最早、『道』を失い、『報道』機能を失った」とまで断じた。


●引退
上岡自身は「ボクの芸は21世紀には通用しない」との言葉を残し、2000年3月をもって芸能界を引退する。

引退前は『シニアプロゴルファーになって、戸張捷よりも良い解説をする(選手や解説者であって、タレントではないから)』『ジョギングで桜前線とともに北上し、紅葉前線とともに南下する』『みんなが止めようとしないからやめざるを得ない』と発言していたため、それまでの転向癖もあって、周辺の中には「翻意するのでは」とする向きもあった。だが、現在のところ、一部の著述や発言を除いて、芸能の表舞台に現れてはいない。

また、引退を前にほとんどのレギュラー番組は終了したが、唯一継続した「探偵!ナイトスクープ」(上岡が局長<司会>役)のメインプロデューサー松本修は翻意したときを想定して約8カ月、局長役を空席にしていた(その後、2代目として西田敏行を迎える。まったく異なるカラーへの転換だった)。

ごくまれに横山ノックなど知人の芸能人のパーティーやゴルフ大会などに顔を出すこともある。特に現在でも親交のあるオール巨人のブログには、芸人仲間との宴会・イベントの写真に見切れ出演することがあり、ファンにとって上岡の近況が確認できる貴重な情報源となっている。またやしきたかじんとゴルフを打ちに行っていることも、たかじんが自身の番組などで明かしている。

2002年2月9日に行われた出版記念サイン会では、「今の関西のテレビは上沼恵美子ばかり出ているから、出る気がしない」とテレビ復帰を否定していた。

島田紳助から心の師として尊敬されており、紳助が2004年に暴力事件を起こして謹慎中だったとき真っ先に相談したのが上岡だった。紳助の「僕はこれからどうすればいいのでしょう」との言葉に、「悪いと反省しているなら誠心誠意相手の女性に謝れ。でも自分から『引退する』などとは絶対に言うな。周りのスタッフのことを考えろ」と、引退を決めようとしていた紳助を諭した(後日紳助が会見を開いた際、告白)。

そして、2007年5月3日に亡くなった横山ノックの通夜に参列するため、約7年2カ月ぶりにテレビカメラの前に姿を現わした(青芝フックや月亭八方ら現役芸人と共に会場入り、そしてマイカーで夫人とともに会場を後にするところ)。だがマスコミの質問には終始無言のまま会場を去ったが、会場で大号泣していた。同年6月7日に大阪市内のホテルで開かれた「横山ノックさんを天国に送る会」では、「横山パンチ」の名前で追悼のあいさつを行い、涙ぐみながら感謝の言葉を述べた。その時、記者からのインタビューで、「抗がん剤使ってんの?」「使ってない」「でもハゲてるやん」「もとからやがな」などと見舞いに行った際の会話の内容を吐露した。

2007年6月17日に行われた桂雀々芸能生活30周年記念『雀々十八番』(会場:シアターBRAVA!)最終日のパネルトークに、シークレットゲストで出演した。


●その他
■20歳頃に三代目桂米朝の弟子になろうとしたが、米朝宅で十代目桂小米(のちの二代目枝雀)を見かけ、かなわないと思い、あきらめた。(上岡は枝雀を「幻の兄弟子」として尊敬し続ける。自身が司会の「EXテレビ」にて笑いの理論「緊張の緩和」についてのインタビューを行ったこともある。)

■引退後も米朝一門とは縁が深く、自身のコメントなどの管理窓口を米朝事務所に委託しているほどである。

■ラブアタックで一緒に司会をしていた和田アキ子とは和田の素人時代からの知り合いである。


【経歴】
■父親は、京都で活動を行っていた庶民派弁護士・小林(旧姓・上岡)為太郎。日本共産党公認で衆議院総選挙に出馬したこともある(落選)。母親は厳しく、上岡が10歳の頃に早世したこともあり、あまり記憶にないという。しかし、巨乳であったことだけは覚えている。父への尊敬の念が強いようで、「上岡」を芸名として名乗る。姉が一人、義妹が一人いる。

■小学校時代によく映画(特に時代劇)に触れ、友達とはよく相撲をとっていた。また、この頃から鴨川から春画集(いわゆるエロ本)を拾って、四十八手などについて解説していたらしい。

■他に、美空ひばりのエピソードに倣って、百人一首を覚えたり、露天商の口上を覚えたりと、この時期に吸収したものが彼の芸に存分に発揮されている。

■私立京都西高校(現:京都外大西高等学校)第一期生として卒業。入学時にOTV(現:ABCテレビ)のニュース映像に写っており、「探偵!ナイトスクープ」でも放送された。現在もABCに報道資料映像として保存されている。しかし、立命館大学の受験には失敗している。

■京都でバンドボーイ、ジャズバンドの司会などを経験。

■1959年 ロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」加入。

■1959年 横山ノックの誘いにより「横山パンチ」の名前で横山フック(初代。後に現在の青芝フックが2代目として加入)と共に漫画トリオを結成。

■1968年 横山ノックの参議院議員選挙出馬により漫画トリオ活動停止。以後、「上岡龍太郎」に改名しピンで活動(同時期に香川登枝緒によって命名された「伊井パンチ」としても活動していた)。当初はほとんど仕事が無く「ホサれていた」時期として有名。(食いつなぐため、作詞などの仕事も請けている)

■70年代、「ノックは無用」「ラブアタック」「花の新婚・カンピューター作戦」などで上岡は関西の司会者として認知される。

■1987年 「鶴瓶上岡パペポTV」開始。翌年から東京圏でも放送。全国的にも注目を受け始める。88年、「探偵!ナイトスクープ」開始。

■90年代には、上岡演劇祭なる小劇場系の演劇賞を主宰していた。九十九一などを見出したとのことだが、小劇団の限界を感じて、手を引いていく。

■2000年4月 惜しまれつつ芸能界を引退。

(出典:Wikipedia)

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香取慎吾 エピソード&プロフィール

香取 慎吾(かとり しんご、1977年1月31日 - )は、日本の男性アイドルグループSMAPのメンバー。神奈川県横浜市鶴見区獅子ヶ谷出身。ジャニーズ事務所に所属。

血液型はA型。愛称は慎吾くんまたは慎吾ちゃん。また、香取慎吾の特上!天声慎吾の影響から、王子と呼ばれることもある。元光GENJIの諸星和己からは「グレムリン」と呼ばれていた。 その親しみやすさは、慎吾ママ、NIN×NIN忍者ハットリくん(忍者ハットリくん実写版)でのハットリくん役、西遊記での孫悟空役等でジャニーズ随一とされている。身長180cm。イメージカラーは緑。


【来歴・人物】
■ジャニーズ入りのきっかけは母親が事務所に履歴書を送ったこと。ちなみに母親はジャニーズかボーイスカウトか中学受験で迷った。

■ジャニーズ事務所に入所したのは、偶然にもその後同じグループになる木村拓哉、稲垣吾郎と同じ日であり、後々にもこの「出会った頃の印象」はこの3人の中で良く交わされている。尚、木村から見た当時の印象は「子供」、稲垣から見た印象は「中性的で女の子みたい」。

■幼少時から、最年長(リーダー)で同郷の中居正広になつき、よく面倒を見てもらっており、いつも中居の後をくっついていた。1993年頃からのSMAP売り出し時期には、中居とペアで仕事をすることが非常に多く、自らを「バラエティ班」と呼び、アイドルながら数多くのバラエティ番組に出演。同年4月には、中居・香取にとってもSMAPにとってもターニングポイントとなった仕事の1つである笑っていいとも!のレギュラーにジャニーズ事務所のタレントとして初めて抜擢された。レギュラーとなった2人は、その後も何度となく特番でコンビを組み、1998年〜2003年まではフジテレビ系列のサタスマ、サタ☆スマ、デリスマ!、スマ夫とレギュラー番組を持った。

■また、2人で「ナカチャンカトチャン」というコンビを組んだり、「ナカトリ」と自分たちのことを呼んでたりもしたが、サタ☆スマが始まってからは、中居が「これが俺らのコンビ名だから」と言ったことから、サタ☆スマコンビと呼ばれる事が多い。また身長差からデコボココンビと言われることも。

■憎めないキャラクターが売りで、メンバーの中居正広はある雑誌で『慎吾のことを嫌いな人はいないと思う。』と語っていた。

■忙しい芸能活動の一方で、創作活動も盛んに行っており、過去にイラスト集を出すなどしている。絵はかなり巧い。ぷっすまにゲスト出演した時は、画廊の人から高値で買値が付く程実力も兼ね備えている。おしゃれイズムでは、心の黒いウサギを書いている。津軽鉄道の車輌をペイントした模様は「SMAP×SMAP特別編 香取慎吾ガンバります!」で放映された。

■又、大の映画好きであり、10代後半からプライベートで映画を撮っている(2004年には「ある人」に、スポンサーになるので映画を撮らないかとも言われた)。

■料理・グルメに関しては、大好物がマヨネーズというのは非常に有名であり、小さい頃は雑草などにマヨネーズをかけて食べていたという逸話も。話が有名になり、味の素がCM出演を打診し、現在までおよそ10年以上出演し続けている。

■一方作る方においては、SMAP×SMAP放送開始当初、料理はキャベツの千切りすら危うかったものの、番組が回数を重ねるごとに技術も向上しSMAP×SMAP内のコーナー、ビストロSMAPでは、デザート職人と称されている。ただ現在も、鮮魚を扱うことは全くの不得手のままである。他のバラエティ番組で腕前を披露したところ、個人指導を受けても扱いきれなかったことがある。このことからビストロコーナーでは、少なくとも香取が担当する食材の下ごしらえに関しては、江上料理学院のサポートが大きな比重を占めていることが判る。また、ビストロSMAPでは出演者が試食の際「おいしい」と言うと、中居正広がそれを叫び、彼がゲストにちなんだ仮装をする等の大げさなリアクションをする点も名物の一つとなっている。

■織田裕二の長年の大ファンだった。ずっと憧れていたので初共演の際は感激で打ち震えてたとか。台本が真っ白だったため、織田裕二に「赤ペンを買え」と言われた話はその後ネタにするほど有名。

■笑っていいとも!では毎回、衣装が変わる。衣装は、その週に起きる時事や当日から始まる月9ドラマ、SMAPの活動にいいとものコーナー等、最新の話題にちなんだものが殆どである。最初に着た衣装は、1993年に初めていいともレギュラーに抜擢された際に着た金色を基調とした派手なものであった。なお2007年上半期現在、メンバーの中では最年少ながら(同学年にほしのあき、劇団ひとりがいる)最古参である。

■2003年は15kgのダイエットに成功し、ダイエット記を綴った本「DIET SHINGO」はベストセラーとなり、この年の年間ベスト6位となった[ちなみに現在はリバウンドしている。生来の食いしん坊のうえ面倒臭がり屋である性格と、多忙なスケジュールが重なった結果(そうではあるが、多忙を極めるスケジュールにあっても体型を維持している人物は数多くいる。「同僚」がその好例であろう)。西遊記のロケでオーストラリアの砂漠に赴いた。過密日程と猛暑の上に、アクションシーンの連続という過酷な撮影環境となった。が、香取のみ2キロの体重増で帰国している。また、同書に記されている「過度」のダイエット方法にもリバウンドの原因があると考えれられる。

■2005年からはテレビ朝日のサッカー日本代表応援団長としても活躍。香取がスタジアムへ行けば日本は負けないというマスコミに作られた「不敗神話」がある。神話の実態として、アジア予選はほとんどが日本よりも世界ランクの低い格下が相手であり、勝つことは当然の試合がほとんどであった。また、イランのような強豪国の試合を観戦していなかったことも要因である。サッカーにおいては、負けに等しい引き分け、という試合が制度上多くなる傾向がある。不敗といえば聞こえはいいが、不敗=常勝ではなく、勝ちきれない、消化不良の試合を重ねている証拠でもある。

■史上最年少で大河ドラマ「新選組!」の主演に抜擢された。脚本家の三谷幸喜氏の強い要請を受け、何度も説得された後に出演を快諾したという。初回視聴率は26.3%と近年にない好スタートを切る。平均視聴率は17.4%で、歴代41位。ワースト4位となる。最高視聴率と最低視聴率の差も過去最大であった。

■2005年8月に放送された24時間テレビでは、メインパーソナリティーに草?g剛と共に選ばれた。同24時間テレビオリジナルTシャツもプロデュース上最高の売り上げとなった。この年の平均視聴率も歴代1位となった。

■身長については諸説があるが、テレビ朝日のニュースステーションにゲスト出演した際、久米宏に対して、「180cmです」と本人が自ら答えている。

■2007年1月31日、ついに三十路になり、SMAP全員30代になった。

■2007年7月28日〜29日に放送予定の「FNS27時間テレビ みんな“なまか”だっ!ウッキー!ハッピー!西遊記!」の総合司会を務めるが決まっている。


【参加ユニット】
・スケートボーイズ
・SMAP


【エピソード】
■SMAP結成当初、まだマネージャーがついてなかった頃、小学生の香取がSMAPのメンバーからの「明日のスケジュール」の連絡係をしていた(※半分ネタ、半分真実)

■幼少のころ、ザリガニを釣って食べたことがある、しかしおなかの紫色の筋をとらなかったため、おなかを壊したと本人がテレビで発言している。また、「アリはなぜ行列を作って歩くのか」を調べ、アリのお尻から甘い汁が出ていることを知り、本当に食べてみたら甘かったということも話している。

■家族でグアム旅行した際、帰りの税関で「ピストルが入ってるよ」と何度もいい、香取ファミリーを真っ青にさせる。(5歳の慎吾少年が言ってたのは「水鉄砲」のことだった)。

■尚、この旅行話は中居正広が「お前は金持ちで5歳からグアム行って…」と金持ちネタでよく話題にする。

■ファーストコンサートのリハ中にバク宙を練習していて着地に失敗し右足を複雑骨折、コンサートに不参加、結局松葉杖姿で1曲(ビートルズの「LET IT BE」の日本語版)だけ泣きながら歌っただけに留まり、彼にとって苦いファーストコンサートとなった。

■10代の頃はよく寝坊遅刻をしていた。最大の遅刻は97年笑っていいとも!の50分遅れ。チーフマネージャーは中居に電話をし、彼と一緒じゃないと確認すると、次に木村に電話をし「あんた、慎吾どこに連れてったの!」といきなり木村を怒鳴りつけたらしい。マネージャー女史はとにかく「かつてないほど動転」していたという(遅刻の理由は本人が全く起きなかった+担当マネージャーの寝坊だったとか)。

■「ドラゴンボール」(特に孫悟空)、大友克洋とその著作「AKIRA」(特に鉄雄)の大ファンである。

■スタジオジブリ作品が大好き。DVD「風の谷のナウシカ」の販促タレントに選ばれたが、その会見で実はジブリ作品では「天空の城ラピュタ」がもっとも好きだと漏らす。2003年スタジオジブリから「日本一のジブリファン」に認定される。木村拓哉がハウルの動く城の声優に選出された時には「正直言って悔しい」と語った。

■声優としてのデビュー作は赤ずきんチャチャのリーヤ役。アニメ声優らしい演技ではなかったが、素朴な狼少年という役どころにはぴたりとはまっていた。後に監督インタビュー内で「彼の代役はどの声優にもできない」とまで言わしめている。

■2002年春、サッカー好きに目覚めた。しかし現在に到るまで、Jリーグの試合を観戦したことはない。あくまで日本代表のみの関心となっている。代表選手の顔と名前もほとんど一致しない状態であった。W杯以降サッカーの話題をすることはほとんどなくなっていが、自宅内でサッカーボールで戯れることはあるという。

■中田英寿のファンになったきっかけは、フランスワールドカップで世の中がヒデ一色だった時に、同い年であることで興味を持ったことから。また、プロ意識の高さなども好きな理由だという。(香取自身にプロ意識があるというわけではない)あまりに好きすぎて、会うことを拒否していたが、2004年プライベートで訪れたミラノで偶然出会う。中田に「一緒に食事しませんか」と誘われたが「緊張しちゃうのであなたと食事するのは絶対無理です」と断るも、ホテルに中田が現れたため、朝までホテルのバーで2人きりで色んな話をした。本人はその思い出を宝物と語る(※後日この話はテレビで語られた)。

■海外旅行が大好き。年に1度、生放送の笑っていいとも!を休み、丸1週間休暇をもらい旅行をする。毎年、タモリが本日休みであることを伝えるが、なぜか旅行の為に休むという理由を公表することは無い。また、レギュラー陣もこの話題に触れようとしない。ちなみに笑福亭鶴瓶が旅行で休む際は、タモリはきちんと「夏休みでお休みです」と説明している。尚、10代の頃はハワイ専門だったが、20代半ばからはヨーロッパびいきに。

■世界遺産、美術館が大好き。これが彼が年に1度海外旅行をする理由の1つ。2006年に出版された写真集の中に自身で撮ったとされる海外旅行の写真も掲載されたが、その中に、自分自身では撮れない角度から撮られた香取の写真が掲載されていた。また、旅の土産話や同行者の話を全くしようとしないことから、交際女性と旅行に行っていることが判明している。

■とても口が大きい。握りこぶしが口に入る(このことで同じ逸話を持つ「新選組!」の近藤勇役に指名されたという噂がある)。また、ハーモニカを口の中に入れて音を出してみたり、CDを入れてみたり、太巻きなどを無理やり口にすべて入れたり、ハンバーガー1個、ナゲット4個を口に詰め込んだりすることもでき、この芸を生かしたSMAP×SMAPのコントも、「オギャリン」等、数々登場した。

■マジックが大好き。ドラマ「ドク」の撮影でベトナムに行った際には、現地の子供たちにマジックを披露した。最近はスマスマなどの撮影の合間にも見せているらしい。Mr.マリックにも数度教えてもらっている、お墨付き。しかし彼の現在の憧れはクロースアップマジックの奇才前田知洋(2006年現在未対面)。

■めざましテレビは「僕のゴールデンタイム」らしい。

■ドラマの台本を、ドライリハ前までに現地で覚える(これには賛否両論あるが、この癖がついた理由は幼い頃から芸能界にいて、コント台本を当日その場で覚えることからついてしまったと言われている)。

■極度のめんどくさがり屋で携帯番号などを人に教えない。香取曰く「最初は意味が無かったけど、最近それが楽しくなってきた(2000年発言)」らしい。ちなみにメンバー以外で携帯番号を自ら教えたのは俳優の織田裕二のみというのは有名。

■だが「新選組!」で共演した山本耕史には最初に携帯の電話番号を、後に携帯のメールアドレスを「盗まれた」。なお、メールアドレスに関しては「盗めるものなら盗んでみろ」という意識だったらしい。

■上記にあるように、何事も面倒がる側面があり、アイドルとして俳優業もこなしているが、他人の作品や舞台を見て研究したりすることはない。黒澤明やチャップリンの作品も未見のままとなっている。しかし映画そのものは好きなようで、北野武作品等はかなり好きらしい。番組で北野本人と対談を行った時にもその事を強調していた。

■一度寝たら起きない、また、起きたらなかなか寝ない。かつてはよく父に蹴り起こされていたという。

■SMAP×SMAPの総集編内のクイズにて、中居正広がマツケンサンバの一部歌詞を「テロテアリーナ」と間違えた事をからかい、クイズで優勝した香取が、最下位だった中居への罰ゲームとして、自身が監督をするコントで中居を「テロテアリーナ」という架空の化け物に扮装させた。

■藤村俊二氏のニックネーム「オヒョイさん」をいたく気に入り、御本人の目の前で「僕もオヒョイさんと呼ばれたいです、2代目オヒョイさんを名乗っていいですか?」と真顔でもちかけた。絶句したものの、快く「い、いいですよ。どうぞどうぞ」承諾を得たことある。

■香取とチェ・ジウが対談した際に、チェ・ジウが好きな日本語を聞かれ、香取を見つめながら「愛してる」と即答すると、香取は珍しく照れまくった。そして「ラブストーリーじゃなくて、僕がサル(孫悟空)の役でもいいから共演したい」と猛烈アピールした事がある。

■昔HEY!HEY!HEY!にSMAPで出演したときに松本人志にあだ名「ヒバゴン」とつけらてしまった。


【慎吾ママ】
慎吾ママ(しんごまま)は香取慎吾がテレビ番組で演じたキャラクター。

フジテレビ系列「サタ☆スマ」での女装した香取が慎吾ママとなり、一般公募で選ばれた視聴者の母親と一日交替し、家事や子育てをするというコーナー。コーナー冒頭で、慎吾ママが眠たげな表情でする「おっはー」という挨拶が2000年流行語大賞に選ばれた。因みにこのパロディーキャラとして、元お笑いコンビ・極楽とんぼの加藤浩次が演じた加藤ママがいる。

その後、慎吾ママは、歌手デビューなどをし、歌番組にも多数出演している。番組では、香取慎吾と慎吾ママは別人であると言っている。

●「おっはー」
2000年の流行語大賞を受賞した語。元々は、テレビ東京系列の朝の子供番組「おはスタ」でMCの山寺宏一らが行う挨拶の「OHA!」から来ている(当時は「おーはー」「おっはー」の明確な区別はなかったがこの騒動の後「おはスタ」では「おーはー」と明記するようになる)。慎吾ママのロケの最中に子供が「おはスタ」を見ていたため香取はこれを気に入り使うようになった。オリジナルの手の動きまでそのまま使用しながら独自の考案物であるような振舞いが見られたため、「おはスタ」ファンを中心に物議を醸した。香取が「おはスタ」に生放送出演し、山寺から事後承諾の形で使用許可を取り付けることで問題は表向き収束した。その年に出したシングル『慎吾ママのおはロック』は130万枚を売り上げる大ヒットとなった。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070601-00000061-sph-ent

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世にも奇妙な物語 SMAPの特別編

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梶原雄太 エピソード&プロフィール

梶原 雄太(かじわら ゆうた、1980年8月7日 - )は、吉本興業所属のお笑い芸人。漫才コンビキングコングのボケ担当。


【プロフィール】
大阪府大阪市都島区出身。太成高等学校(現太成学院大学高等学校)卒業。身長は163cm。体重は54kg。血液型B型。主なアルバイト経験はマクドナルド、シェーキーズ。視力が悪く、コンタクトレンズを使用している。


【特技】
体を張った笑いを得意とし、漫才でも小柄な体を活かして動き回る。これは、梶原自身が「動いてないと面白くない」と言う程。運動神経抜群でサッカーやボクシングなどの経験がある。瞬発力には特に自信があり、本人曰く「5m走なら誰にも負けない」らしい。ダーツにハマっていた時期があり、芸能人ダーツ大会という企画で優勝するほどの腕前である。しかし、『関口宏の東京フレンドパークII』に出演した時、運動神経を求められるコーナーはクリア出来たにも拘わらず、ダーツコーナーで3発投げた矢が全て的に当たらなかった。

高校時代にビジュアル系ロックバンドのボーカル兼ドラマーをしていたことがあり、バンド名は「BELIEVE」(ビリーブ)主にGLAYやL’Arc~en~cielのコピーバンド(テレビ大阪 吉本超合金F「抜き打ち家庭訪問3」より)をしていた。ドラムの腕をテレビ番組や映画『ガキンチョ★ROCK』で披露している。またダンスやラップも得意とし、WEST SIDEでラップを担当した。「難波兄弟」というユニットでCDデビューを果たしたり、『音楽戦士 MUSIC FIGHTER』の企画で彼の母親を題材にしたラップ「おかん」でCDもリリースした。漫才でもラップを題材にしたネタがある。


【出来事】
家族は母と2人の兄で、両親は小学校1年生の時に離婚した。苦労した母を見ていたためかとても母親思いで、反抗期など一切無かったという。『はねるのトびら』では梶原が母を演じたコントもあった。関西ローカルのある番組の企画で2000万のマンションを購入して母にプレゼント、母を喜ばせた。しかし、それが原因で、当時弱冠21歳にして35年ローンを組むハメになり、払い終えるのは55歳だという。

2003年2月〜5月、ストレスによる病気で仕事を休養した。当時かなり精神的に参っており、電車にも乗れず、先輩であるFUJIWARAの藤本敏史が家に招いた(そのときはタクシーで移動)際、「本当に誰もいないですか?」と何度も訪ね、突然堰を切ったように号泣したかと思えば、おもむろに立ち上がりすべての部屋の戸を開け、人がいるのではないか、盗聴器が仕掛けられているのではないかと探し回った程。当時の口癖は、「死にたい、死にたい」。休業中、100回は自殺を考えたと、復帰後に本人が明かしている。復帰後、自殺願望はなくなったものの、マイナス思考は今も変わらず。当時は復帰する気は殆ど無く、相方が待っていると知った時も、「何で俺なんか待ってんねん?」と思ったという。そして、謝罪する為に西野の家へ入るや否や、泣きながら土下座し、謝り倒した。休業がきっかけで、その間彼を支えていた女性と交際しその後結婚。しかし、復帰の翌年(2004年4月)に離婚した。原因は彼の浮気である。これで母ともども“ばついち”となり、今でもことあるごとにイジられている。

2006年3月下旬、蜂窩織炎で入院。足がルーズソックスのようになり、右手首がボクシンググローブ並に腫れ上がっているのだとか。おはスタのレギュラー最終日に退院が間に合わず、電話で生出演した。本人が担当しているラジオ番組でも電話出演し、生放送中にも拘らず「ずぅーっとびっこ引いてますねん」と放送禁止用語を言ってしまい西野が番組中に謝罪した。入院中西野が見舞いに来た時に梶原も使った事のない溲瓶に西野が尿をした。梶原はそれに気付かず、数時間経って臭った為、部屋中を探したらその溲瓶が出てきた。

蜂窩織炎に加え血管浮腫という奇病にもかかっていた。症例が少なく、梶原が日本で38人目だという。でもまだ完全には治っていないのに、禁止されていた酒を飲んでしまい、ぶり返してしまった。

デビュー当時の体重は48kgだったが、2006年には10kg程度増加した。それ以降ジム通いなどでダイエットしている。

2007年4月12日発売の女性週刊誌「女性セブン」にて、2006年春から交際中の21歳の元読者モデルの女性と6月にもできちゃった結婚する見通しとスクープ報道される。相方の西野亮廣は同日に自身のブログで認めた。翌日の「笑っていいとも!」ではタモリにいじられたが、本人は否定も肯定もしなかった。さらに同月21日交際中の女性と6月23日に東京・港区白金のレストランで挙式・披露宴を行うことが分かった。テレビ局関係者、フジテレビ系のレギュラー番組「はねるのトびら」の共演者や友人など招待客を絞って行う予定だ。婚姻届は出産までに出す予定だ。


【天然伝説】
天然ボケなところがあり、相方の西野とネタ作りで揉めた時に、西野が「それで何のメリットがあるのか」と返すと、「メリット」という意味が分からず「メリットって何や〜!」と逆ギレ。西野がネタのことよりも「メリット」の意味を一から説明したというくらいである。また、飛行機で西野の前に座った梶原が座席のシートを倒し、もたれて寝るのかと思いきや、倒したシートを戻さず前のテーブルに突っ伏して寝ていた。その時西野が梶原の頭に水を少しずつかけてみたら、起きた梶原が何を勘違いしたのか、「やってもーた」と発言した、というエピソードも。他にも現在レギュラー出演している『メレンゲの気持ち(NTV)』に『はねるのトびら』で共演中のロバートがゲストとして出演し、山本博の秘密を暴露していたが、最後に山本の特技である「オカリナ」のことを「カナリヤ」と言ってしまい恥をかいた。


【人物・性格】
■いじられキャラでもあり、『笑っていいとも』でタモリによく「ピスタチオ」「茶碗蒸しに付いてる木のスプーン」「ムール貝」などの変なあだ名をつけられる。うたばんに出演したときに司会の中居正広の無茶振りで1人でネタをやらされ、恥をかいてしまうこともある。

■顔がDEPAPEPEの徳岡慶也に似ていると言われる。相方と青木さやかで司会を務める『音楽戦士 MUSIC FIGHTER(NTV)』で、散々言われた

■ラルクのファンでもあり、ライブに行った事もある。西野はその時ライブのスタッフをしていた。

■あまり知られていないが、喘息持ちである。最近それが酷くなり、激しい運動をしたりすると発作が出てしまうらしい。

■にんじん、トマト、グリーンピースが嫌い。

■高いところが苦手ではねるのトびらでヒロミとP−1で戦って走行中に転倒。負けてしまい、スカイダイビングをすることとなり周りの草をむしりながら逃げたことがある。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070422-00000015-nks-ent

KAT-TUN エピソード&プロフィール

KAT-TUN(カトゥーン)は、ジャニーズ事務所に所属する日本の6人組男性アイドルグループ。レコード会社はJ Storm内のKAT-TUNのCDデビューに合わせKAT-TUNの為に作ったレーベルJ-One Recordsに所属。2001年4月7日結成。

【メンバー】
K:亀梨和也(かめなし かずや、1986年2月23日 - )B型
A:赤西仁(あかにし じん、1984年7月4日 - )O型
T:田口淳之介(たぐち じゅんのすけ、1985年11月29日 - )AB型
T:田中聖(たなか こうき、1985年11月5日 - )B型
U:上田竜也(うえだ たつや、1983年10月4日 - )B型
N:中丸雄一(なかまる ゆういち、1983年9月4日 - )O型


【グループ名】
グループ名は彼らの名字の頭文字「K(亀梨)・A(赤西)・T(田口)・T(田中)・U(上田)・N(中丸)」をつなげたものだが、他にも『勝つ運』という意味が込められている。また、「KAT」と「TUN」の間にある「-」(ハイフン)は「ファンの皆様」を表すとも言われている。ファンの間では、「勝運」ともよばれている。

「カトゥーン」が正式な読みだが、この綴りでは本来の読みは「カッツン」である。


【来歴】
●2001年-2004年
■2001年3月16日、NHK『ポップジャム』の司会を当時務めていた堂本光一の専属バックユニットとして社長ジャニー喜多川の鶴の一声で結成された。そのため正式な結成日はあいまいである。だが4月7日という説が濃厚である。

■2002年8月10日〜11日、「お客様は神サマー Concert 55万人愛のリクエストに応えて!!」と題し、東京国際フォーラムにて初の単独コンサートを開催。タイトルの通り、当初4公演2万人で行なわれるコンサートに、55万人の人からチケットの申し込みがあった。それに伴い2公演を追加、2日間計6公演行われた。また8月26日-28日、大阪松竹座にてコンサートを開催。3日間で20公演行われ2日目には1日11回の公演を行い、同事務所の先輩であるTOKIOとV6が持っていた1日10回の日本記録を塗り替えた。

■2003年2月26日にはファーストコンサート(お客様は神サマー Concert 55万人愛のリクエストに応えて!!)の模様を収めたDVDが発売され、CDデビュー前のアーティストとしては初の、オリコンDVD・VHS・総合チャート1位の三冠を獲得。

■2003年8月8日〜28日、コンサートツアー「Ko年モ Ah Taiヘン Thank U Natsu」を、東京・名古屋・大阪にて開催。

■2003年8月12日〜20日、フジテレビジョン開局45周年記念イベント「お台場冒険王」企画の一環で「KAT-TUNの大冒険de SHOW」と題したイベントを、お台場にあるホテル・グランパシフィックメリディアン パレロワイヤルにて開催。

■2004年1月、帝国劇場で行われた滝沢秀明(タッキー&翼)主演の舞台『Dream Boy』に出演。又、同公演中に亀梨和也が主役として出演した「KAT-TUN&関ジャニ∞編」が開催。

■2004年8月にジャニーズ事務所の歴史を紐解くエンターテイメントショー『SUMMARY of Johnnys World』が原宿ビックトップで開催され、グループのNEWSと対決するという演出で共演した。

■2004年12月28日-2005年1月5日、コンサートツアー「KAT-TUN Live 海賊帆(かいぞくばん)」を、東名阪にて開催。1月5日2部、横浜公演ラストの回に、KAT-TUNとして100公演目を達成。観客動員数は延べ55万人を達成した。

●2005年
■2005年1月、メンバーの亀梨和也、赤西仁が生徒(小田切竜・矢吹隼人)役で出演したドラマ『ごくせん』(日本テレビ系)が、30%近くの高視聴率を記録した。続けて同年4月、赤西仁がドラマ『anego』(同)に新入社員(黒沢明彦)役で出演し若年層以外の層でも人気が急上昇した。

■2005年3月、横浜アリーナで2日間のスペシャルコンサート「Looking KAT-TUN 2005」を開催。

■2005年5月、先に出演した「Dream Boy」(共演:関ジャニ∞)を、『Hey! Say! Dream Boy』として梅田芸術劇場にて開催(主役は亀梨和也)。

■2005年5月3日、2枚組DVD『KAT-TUN Live 海賊帆(かいぞくばん)』を発売。初動売上枚数12.9万枚でオリコン音楽DVD初動売上枚数歴代3位。2度目のDVD総合チャート1位を記録。

■2005年6月、3月に行なわれたコンサートの追加公演として、初の全国ツアー(全5ヶ所)を開催。さらに8月には再追加公演として横浜アリーナで6公演行なわれ、異例のロングラン公演となった。

■2005年11月、『バレーボール・ワールドグランドチャンピオンズカップ2005』(日本テレビ系)のスペシャルサポーターに抜擢。バレーボールのサポーターとして参加した。

■2005年11月2日、亀梨和也がNEWSの山下智久と期間限定ユニット「修二と彰」として、ドラマ『野ブタ。をプロデュース』の主題歌『青春アミーゴ』でCDデビュー。哀愁を漂わせる楽曲として、中高年サラリーマンにも支持を受け発売してから4週間でミリオンセールスを達成。シングルのミリオン達成は2005年初であり、森山直太朗の『さくら(独唱)』以来1年7か月ぶりの快挙となった。

●2006年
■2006年1月3日-29日、2004年4月と2005年5月に行なわれたミュージカルを、改めて「Dream Boys」(共演:関ジャニ∞)として帝国劇場にて開催。この公演は2007年秋に再演が予定されている。

■2006年1月29日、東京プリンスホテル パークタワーで3月22日にシングル『Real Face』(作詞:スガシカオ 作曲:B'zの松本孝弘)でCDデビューすることを発表。

■同日にアルバム『Best of KAT-TUN』とDVD『Real Face Film』を発売することも決定。 これに伴い所属レコード会社は“すべてにおいてトップを目指す”という意味を立ち上げた“J-One Records”に決定した。

■『Real Face』は75.4万枚、『Best of KAT-TUN』は55.7万枚、『Real Face Film』は37.4万枚の初動売上を記録し、3冠を達成。

■3部門同時首位は、2000年10月9日の浜崎あゆみ以来、5年半ぶり史上2組目で、デビュー新人としては史上初である。また、USEN(有線)総合チャート・着うたダウンロードランキングをも合わせると5冠制覇した。 

■シングルは4/3付の初登場から3週連続となる首位を獲得。3週連続首位は、KinKi Kids『Anniversary』以来、1年3か月ぶり。デビューシングルによる達成はKinKi Kids『硝子の少年』以来8年8か月ぶりで、2000年以降デビューのアーティストとしては初である。

■DVDチャートでは、メンバーの亀梨和也と山下智久(特別出演)によるTVドラマ『野ブタ。をプロデュースDVD-BOX』が2.2万枚を売上げ、2位に初登場。これも国内の連続ドラマ作品では史上最高位。

■2006年3月17日、デビューをファンに報告する意味も込めて、東京ドームにてコンサートを開催した。

■尚、CDデビュー前に東京ドームにてコンサートをおこなった単体のグループとしては、ソロアーティストも含めて史上初である。また、3月28日からは全国ツアーを行い、追加公演を東京ドームにて2公演開催した。

■2006年4月3日、「You&J」というKAT-TUN、NEWS、関ジャニ∞の合同ファンクラブを発足。

■2006年5月23日、デビュー曲「Real Face」がミリオン達成。発売9週目にしての100万枚突破。

■また、年度内(前年12月初週日付-当年11月最終週付)での達成は、2003/3/24付のSMAP「世界に一つだけの花(シングル・ヴァージョン)」以来、3年2ヵ月ぶり、デビューシングルとしては2001/6/25付(登場15週目)のCHEMISTRY「PIECES OF A DREAM」以来約5年ぶりの快挙である。

■2006年7月19日、2ndシングル『SIGNAL』を発売。デイリー初登場1位に輝き、デビュー曲と同様に驚異の人気を誇る。初動売上が40万枚を超えた。

■2006年8月26日・27日、日本テレビの国民的番組『24時間テレビ「愛は地球を救う」』のメインパーソナリティに選ばれ、亀梨和也はスペシャルドラマ『ユウキ』で主演を務めた。定番のチャリTシャツの原案は、中丸がデザインしている。番組終盤では赤西がメンバー全員への手紙を読み、視聴者、出演者他、たくさんの人を感動させた。

■10月14日スタート 亀梨和也主演のドラマたったひとつの恋の主題歌『僕らの街で』(作詞・作曲は小田和正)を歌うことが決定した。

■10月12日、赤西仁が芸能活動を休止することが一部スポーツ紙で報道され、同日中にジャニーズ公式HP(Johnny's net及びJohnny's web)で、赤西仁が半年間語学留学し、暫くは5人で活動することが正式に発表された。そこには「本人が前々から留学を希望していたが、デビューしたばかりということもあって延期され、やっとのことで実現した」と書かれていた。

■12月7日、3rdシングル『僕らの街で』(作詞・作曲:小田和正)を発売。5人になってからの初のシングル曲発売。

■初動売上は41.0万枚で、初登場1位を獲得。同時に、デビューから3作連続での初動40万枚突破、及びアルバム・DVDも含めたデビュー年内5作目の首位獲得を達成し、双方は共に史上初の快挙である。また2006年シングル初動売上記録は、自身の持つ前2作品と併せてTOP3を独占した。

■12月21日、『第39回オリコン年間ランキング2006』が発表され、デビューシングル『Real Face』がシングル部門1位を獲得。
デビュー年の1位獲得とミリオンセラーの同時達成は、24年ぶりの快挙であった。また亀梨和也にとって去年修二と彰として出した『青春アミーゴ』に続いて2年連続で年間シングル売上ランキング1位を獲得した。2ndシングル『SIGNAL』は5位、3rdシングル『僕らの街で』も13位にランクインして発売した3枚すべてがTOP20にランクインした。

●2007年
■4月11日、ライブDVD『Live of KAT-TUN "Real Face"』を発売。初動売上17.5万枚でDVD総合チャート初登場首位を獲得。

■4月18日、2ndアルバム『cartoon KAT-TUN II You』を発売。

■4月19日、活動を休止していた赤西仁が帰国。20日に6人で会見を行った。

■4月10日〜、田口がドラマ『花嫁とパパ』(フジテレビ)に出演

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070422-00000031-dal-ent

金子昇 エピソード&プロフィール

金子 昇(かねこ のぼる、1974年10月18日 - )は、長崎県長崎市出身の俳優、タレント。ZONE(芸能事務所)→オスカープロモーション所属。長崎総合科学大学工学部建築学科卒業。血液型O型。178cm、60kg。

【来歴・人物】
大学卒業後、一度はサラリーマン生活を送るが、役者を目指し各種オーディションに挑戦し、1999年ドラマ「女医」でテレビデビュー。2001年、スーパー戦隊シリーズ『百獣戦隊ガオレンジャー』の主役ガオレッドこと獅子走役に大抜擢され、一躍脚光を浴びた。放送開始当時26歳ということで最近の特撮作品に出演した俳優と出演当時の年齢を比べると年長である。

彼はガオレンジャーに出演したことを誇りにしている。特撮ものに出演した縁からか、その後東宝の「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」でも主演を務めた。ただ、2007年正月のある番組で久々にガオアクセスを披露したときは、結構照れていた。また、「ぷっ」すまの「ザ・ギリギリマスター」に出演したとき、ビビっていたのを「元戦隊ヒーローとは思えないビビりっぷりです」と表現されていた。

テレビドラマ、バラエティー、映画、舞台などでマルチに活躍する俳優。妻子あり(ガオレンジャー放送中に結婚)。

(出典:Wikipedia)
タグ:金子昇 俳優

菅野美穂 エピソード&プロフィール

菅野 美穂(かんの みほ、1977年8月22日 - )は日本の女優。芸能人の間では「菅ちゃん」、ファンの間での愛称は「カンノちゃん」。埼玉県坂戸市出身。坂戸市立南小学校、坂戸市立千代田中学校、淑徳与野高等学校卒業。身長160cm、体重42kg、スリーサイズはB81 W58 H82、血液型はAB型。研音所属。


【来歴】
■1992年、テレビ朝日系バラエティ『桜っ子クラブ』の番組内ユニット「桜っ子クラブさくら組」のオーディションに合格しデビュー。「さくら組」としての活動は2ndシングル『DO-して』から参加している。尚、この曲は同局のアニメ『クレヨンしんちゃん』のエンディング曲でもあった。同ユニットは番組を高校のホームルーム的に位置づけ、メンバーそれぞれが独自の芸能活動を展開しつつ週末の番組放送時にはホームに全員が揃って出演するというコンセプトであったので、菅野もレギュラー出演を維持しながらCMやドラマ等徐々に番組の外での活動を増やしていった。

■1993年、テレビ朝日系『ツインズ教師』の生徒役でドラマデビュー。以降はほとんど途切れることなくドラマの仕事が続き、1996年テレビ朝日系『イグアナの娘』で主人公・青島リカ役を好演したことで演技力も大きく評価されスターダムに昇る。引き続き女優として数々のドラマや映画、舞台にも出演しているが、中でも97年末のテレビ朝日系『君の手がささやいている』は菅野の代表作と言える。聴覚障害者が困難を乗り越えて家庭を築いていく様を演じたこのドラマは大変好評を博し、2001年末にかけて全5編の続編が毎年制作されるに至った。更に番組は第15回 ATP賞1998年のグランプリに輝き、菅野も1998年エランドール賞新人賞の第3回大賞を受賞することとなった。

■女優としての活動が主だが、一方で「さくら組」時代より引き続きソロでの歌手活動も行う。「さくら組」終了後の1995年3月1stシングルCD『恋をしよう!』2ndシングル『太陽が好き!』3rdシングル『負けないあなたが好き』をリリース、同年8月には1st Album「HAPPY ICECREAM」(ビクターエンタテインメント)もリリースした。

■その他、Vシネマや写真集といった活動にも取り組み1997年8月22日、20歳の誕生日にヘアヌード写真集『NUDITY』を発売、記者発表の席で泣いた事もあって話題となった。「好きな人以外に肌を見せるのは嫌」と当時語っていた菅野だが、このヌード写真集製作のきっかけは、「女優として限界を感じていた。今までやりたいことばかりしていたから、今度は一番やりたくないことをやってみようと思った」と語っている。そうして一皮剥けた菅野は女優として更に飛躍し、現在の地位を固める。

■さらに、個性的なボケキャラが受け、バラエティなどでも活躍。デビュー当時から「カレシがいる」と番組内で公言するなどの奔放さも人気の要因である。バラエティ番組への出演は準レギュラーだったフジテレビ系『サタ☆スマ』が2002年3月終了後はゲスト出演のみとなっていたが、2005年4月より同局『ブログタイプ』で久々のバラエティ番組レギュラーとなり、再現VTRでミニドラマを演じた。

■裸眼視力は0.04と極度の近眼で、コンタクトレンズを常用している。元・陸上のハードル選手(中学生時代陸上部に所属)であり、100mを13.8秒という自己記録を持っている。中学時代、県大会に出場したこともある。

■第40回(2002年度)ゴールデン・アロー賞 映画賞受賞。

■2006年4月よりタニ・プロモーションから研音に移籍。
  2007年4月開始のドラマ「わたしたちの教科書」の役作りのために、初めてタバコを吸うことになったと明かした。最初はせきこんで天井がまわってみえたそうだが、今では3年位吸っているようにまで見えるという。ドラマ撮影期間のみ吸うそうだ。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070403-00000001-sanspo-ent

梶原真弓 プロフィール&エピソード

梶原 真弓(かじわら まゆみ、1967年2月12日 - )は日本の女性タレント。埼玉県戸田市出身。私立浦和実業学園高等学校卒。


【来歴】
1987年、テレビ朝日の『胸キュン刑事』で主演デビュー。1994年結成のシェイプUPガールズのメンバーとしても活躍している。ゴルフへの造詣も深く、芸能人ゴルフ大会の常連メンバーでもある。

幼稚園から中学1年まで水泳を習っていて、ジュニアオリンピック強化指定選手で、ジュニアオリンピック出場。

1994年の某番組で、水泳芸能界No.1とも言える井上晴美を下す大金星を挙げた。

最近は、同メンバーの中島史恵と活動することが多い。

また、2004年10月にゴルフショップを経営する青年実業家と結婚。シェイプUPガールズでは、今井恵理に続いて2人目の既婚者となる。 また川村ひかるに陰毛をドライヤーで乾かすと気持ちいいことを教えたことでも有名。

2006年10月、オスカープロを通してコメントを発表し、双子を妊娠したことを明らかにした。2007年4月3日午後2時46分と同47分に、都内の病院で、双子の男児を出産。帝王切開だったが、母子ともに健康。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070404-00000021-spn-ent

加護亜依 プロフィール&エピソード

加護 亜依(かご あい、1988年2月7日 - )は、日本の歌手、女優、タレント。元ハロー!プロジェクト所属の女性デュオW(ダブルユー)のサブリーダーで、元モーニング娘。のメンバー。奈良県大和高田市出身。血液型はAB型。愛称は、あいぼん、加護ちゃん。

【特徴】
■趣味は料理。特技は「梨を切ること」とフラフープ。

■父親はつんくと同い年で、横浜ベイスターズ三浦大輔投手と親交がある。

■両親が17歳のときに生まれたので、本人が1歳になるまで入籍できず、それまでは事実婚だった。

■ものまねをする事が大好きで常にものまねの研究をする事に夢中。その他にも、パントマイムが得意であることなど、ハロプロでも有数の芸達者として知られていた。

■スポーツは苦手であり、ハロープロジェクト・スポーツフェスティバルでは小学生のキッズにも60メートル走で負けたほどでめちゃイケの特番でクソ女(じょ)に選ばれた。ただしフラフープに関しては相方の辻希美と一緒にギネス記録を達成した。

【略歴】
■ 2000年3月:テレビ番組『ASAYAN』(テレビ東京系)内で行われた「モーニング娘。第3回追加オーディション」にて石川梨華、吉澤ひとみ、辻希美と共に合格。加護に指導した「教育係」は後藤真希。

■2000年7月:石川梨華と共にグループ内ユニットタンポポに加入。

■2000年〜2004年:モーニング娘。W時代と連続してNHK紅白歌合戦に出場。

■2000年7月:矢口真里、辻希美と共に身長150cm以下のユニット、ミニモニ。を結成。(同年10月にミニモニ。はミカ・トッドを迎え4人ユニットとなる。2002年9月まで、タンポポとユニット掛け持ちとなる。)

■2001年1月:ミニモニ。正式デビュー。

■2002年9月23日:タンポポを卒業。

■2004年1月:Hello! Project 2004 Winter 〜C'MON! ダンスワールド〜の中野サンプラザでの公演で辻希美と共に「モーニング娘。」からの卒業を発表。

■2004年5月:辻希美と共に新ユニットW(ダブルユー)を結成。

■2004年8月:辻希美と共にモーニング娘。を卒業。

■2006年2月:2月10日(金)発売の写真週刊誌「FRIDAY」誌面に、「加護亜依がレストランでたばこを吸っていた」と報道された。所属事務所が事実関係を確認したところ、ほぼ報道されている通りであったため、謹慎処分となった。

■2007年1月:謹慎中であるが、Hello! Project 2007 Winter 〜集結! 10th Anniversary〜の最終日に客席から観覧していたという一部報道があった。

■2007年2月23日発売の写真週刊誌「FRIDAY」誌面に、加護本人を取材した記事が掲載された。所属事務所で庶務やライブの裏方などを行なっており、喫煙スキャンダルについて「自分のしたことが本当に多くの人に迷惑をかけた」と反省し、「許されるなら歌いたい」と復帰したい意向を表した。この時点は所属事務所では、復帰の時期は依然未定としていた。

■2007年3月26日:週刊誌「週刊現代」にて、再度喫煙していた疑惑が掲載された[1]。事務所が加護本人に事実関係を確認したところ「事実」と述べたため、「2回目という事態を重く受け止める」ということで、事務所から契約解除の発表が行なわれ、事実上、芸能界引退となった。同時にハロー!プロジェクトからも除名された。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070405-00000214-yom-soci

「ガッツ石松」プロフィール&エピソード

ガッツ石松(ガッツ いしまつ、英:Guts Ishimatsu、本名:鈴木有二(すずき ゆうじ)、1949年6月5日 - )は、日本の俳優・タレント、元プロボクシング世界チャンピオンである。

栃木県鹿沼市(旧粟野町)出身、血液型はO型。


【概要】
ガッツ石松はヨネクラジム所属で、WBC世界ライト級チャンピオンであった。ボクシング引退後はタレント、俳優として活躍している。

当初は、鈴木石松というリングネームだったが、試合で少しでも形勢が悪くなると、試合放棄に近い行動を取ることがしばしばだったので、ガッツのあるボクサーになってくれるようにとの思いを込めて今の名前に改めた。因みに「石松」の由来は「死んでも直らないほどのおっちょこちょい」という森の石松から。三度笠の潮来スタイルでのリングへの登場にも迫力があった。

ボクシングの試合後、握りこぶしを握った状態で上へ向けて万歳をしたような独特の勝利のポーズをしたことから、そのポーズが「ガッツポーズ」と名づけられたといわれている。ガッツポーズは、右手が自分のための喜びを示しており、左手が観客に対する喜びという意味があるらしい。

1996年、森喜朗の勧めで第41回衆院選に東京9区から自民党公認で出馬したが落選、多額の借金を抱える。最近では、テレビのバラエティー番組に出演するなどタレント活動を主とする。バナナが大好物である。

一般にはかなりの天然ボケキャラとして広く認識されているが、これはテレビ出演(主にバラエティー番組)向けに作られたキャラである。事実、ボクシング解説や講演活動などでは論理的かつ正確な分析を行なうなど人生経験で培った聡明さを持っている。


【ボクシング活動】
■1966年プロデビュー。当初は喧嘩自慢そのままのスタイルで粗さも目立つボクサーだったが、名伯楽エディ・タウンゼントの教えを受け、飛躍的に技術が向上。日本人として初めてライト級の世界王者となる。

■1969年、全日本ライト級新人王。同期の新人王にウェルター級の輪島功一がいた。

■1970年1月25日、世界王座挑戦がほぼ決まっていた、東洋ライト級王者・ジャガー柿沢(中村)の前哨戦の相手に選ばれるが、番狂わせの一方的な判定勝ちを収め、柿沢に代わって世界挑戦権を得る。

■1970年6月6日、パナマでWBA世界ライト級王座挑戦。イスマエル・ラグナ(パナマ)に13回TKO負け。

■1972年1月16日、5ヶ月前にKO負けしている門田新一(三迫)の東洋ライト級タイトルに挑戦。今度は判定勝ちで王座奪取する。試合後「今の目標は、生意気ですが、ブキャナン(当時WBA王者)です」と語ったが、3年後には王者としてこのブキャナンの挑戦を受けることになる。

■1973年9月6日、WBA世界ライト級王座挑戦。石の拳ロベルト・デュラン(パナマ)の持つ世界ライト級王座に敵地で挑戦し、一時健闘するが10回KO負け。試合の勝敗以前に石松の「こりゃ勝てない」という諦めの早さに米倉会長は怒ったという。石松も後に全盛期のデュランの余りの強さに「もうだめだ、いつ頃倒れようか。余り早く倒れると敵地なので何が起こるかわからない。結局は自分から倒れちゃったみたいなもの」という主旨の事を後に語っている。

■1974年4月11日、東京・日大講堂で、WBC世界ライト級王座挑戦。ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)に8回KO勝ちで王座奪取。戦績59勝50KO5敗、しかもその前5年間の敗北は一階級上の名王者アントニオ・セルバンテス(コロンビア)に喫した1敗のみという王者に対し、石松の戦績は26勝14KO11敗6分であったため、下馬評は石松の圧倒的不利の予想であった。だが、試合が始まってみると、石松は絶好調で、毎回ほぼ互角の打ち合いが続いた。8回、石松のパンチを吸収し、動きがやや重くなった王者に対し、石松は強烈な左フックをヒット、すかさず右をフォローし王者からダウンを奪った。ややレフェリーのカウントはロング気味で、何とか立ち上がったゴンザレスから、すかさず石松は2度目のダウンを奪う。ところが、レフェリーはこれを「スリップ」と判断し、なおかつキャンバスに倒れた王者を助け起すルール違反。だが、石松は構わず王者に再び襲いかかり、コーナーでゴンザレスを乱打して、今度こそマットに完全に沈めた。最初のダウンを奪ったパンチは、本人曰く「ワンツーパンチ」だが、左・右のスピードが速く相手に右パンチが見えないことから、幻の右と評された。トレーナーのエディ・タウンゼントも「今日のイシマツ、新しい力入ったのよ。」と驚いたほどの会心のデキだった。この試合は本来3ヶ月前に行われるはずであったが、ゴンザレスがクモに噛まれたために延期になった。後に、ガッツは「この3ヶ月の延期によってスタミナを付けることができた。私には運があった。」と述べている。この対戦から32年後に番組の企画で再開した際、ゴンザレスも貧しい家に生まれたこと、ボクシングの世界チャンピオンになったこと、そして、引退後に俳優になったことなど、あらゆる点で共通していたことを知る。

■1974年9月12日、愛知県体育館でチュリー・ピネダ(メキシコ)を相手に初防衛戦、風邪をひいて最悪の体調のため、苦戦するが、辛くも引き分けで初防衛に成功。

■1974年11月28日、大阪府立体育会館で、ロドルフォ・ゴンザレスとのリターンマッチに12回KO勝ち。2度目の防衛。

■1975年2月27日、東京体育館で、前WBA王者であり、世界1位の指名挑戦者ケン・ブキャナン(イギリス)相手の防衛戦を行う。この試合まで56勝25KO2敗の戦績を誇るブキャナンは、超一流のテクニシャン、ややローブロー気味のボディブローでデュランにKO負けし、WBA王座を奪われたものの、その後3年間は負けなし、石松自身を始め、日本の一流どころがいずれも勝てなかった李昌吉(韓国)にもKO勝ちしていた。序盤は石松がブキャナンの左に合わせて、威力ある右を再三ヒット、ブキャナンは左目が腫れてふさがったが、中盤はブキャナンが全盛期を思わせるスピードで石松の廻りを動きながら、左ジャブを再三ヒットし、ポイントをリードした。これに対し、石松は12回、左右を風車のように振り回す「ケンカ殺法」でブキャナンのペースを乱し、最後の3Rはほぼ一方的に打ちまくって3者一致で判定勝ち、WBCは、この月の月間MVPに石松を選出した。最強の挑戦者ブキャナンを下した事で、石松の評価は揺るぎないものになった。

■1975年6月5日、大阪の近大記念体育館で、前回引き分けているチュリー・ピネダと再戦、今回もやや手こずったが、終盤はアウトボクシングするなど、ピネダの攻勢をかわし、3者一致の判定勝ちで4度目の防衛に成功。このあたりから、ライト級の体重維持がだんだん苦しくなる。

■1975年12月4日、東京・日大講堂で、アルバロ・ロハス(コスタリカ)を苦戦の末、14回に右アッパーで倒し5度目の防衛。「13kg減量」が話題となったが、実際には19kg減量、しかも試合前1ヶ月間で10kg落としたと言われている。

■1976年5月8日、エステバン・デ・ヘスス(プエルトリコ)に15回判定で敗れ王座陥落。この試合、経済的に後進国だったプエルトリコが、当時としては異例の20万ドルを石松のファイトマネーに用意したことから、ヘススへの期待と石松の人気が窺える。

■1977年4月2日、WBC世界Jウェルター級(現・Sライト級)王座に挑戦するが、センサク・ムアンスリン(タイ)に6回KO負け。この試合、石松にとって1年ぶりの試合であり、約15キロの減量を余儀なくされていたため勝算の少ない挑戦であった。一方で、王者のムアンスリンは、親しい友人に「彼の「右」がいつ来るかと神経を使った。早くKOできて助かった」と話していたという。

■1978年、後の日本Jミドル級王者・新井容日(大星)に判定負けし、引退。
生涯戦績は、51戦31勝(17 KO)14敗6分。


【俳優活動】
主な映画出演作品に、『太陽の帝国』(スティーヴン・スピルバーグ監督)、『ブラックレイン』(リドリー・スコット監督)、『ミンボーの女』(伊丹十三監督)、『野ゆき山ゆき海べゆき』(大林宣彦監督)、『スペーストラベラーズ』(本広克行監督)等。

自ら監督・企画・脚本・製作・製作総指揮を務めた作品に『カンバック』がある(『カムバック』は誤記)。マニアからは『シベリア超特急』に並ぶカルト映画の逸品と評価されている。しかし多額の借金はこの時の映画製作費を回収できなかったことにあるとも言われている。

最近では主演映画『ガッツ伝説 愛しのピット・ブル』が2006年1月に公開された。また『カンバック』に続く映画製作第2弾となる『罪と罰』(仮題)も構想中とのことである。

テレビドラマでは、『おしん』(原作・脚本:橋田壽賀子)、『北の国から』(原作・脚本:倉本聰)、『太陽にほえろ!』(ゲスト出演)をはじめとして多数出演。また、テレビ朝日『TRICK』シリーズでは、甘い物好きの人面虫「ガッツ石まっ虫」を演じた。

プロボクサーから俳優に転向したときは、「ボクシングで有名になったからといって、俳優などできるはず無い」と反対されたというが、彼はただ少年時代から憧れだった俳優高倉健と共演したかっただけらしい。そもそも東京に来てボクサーになった動機が有名になって健さんと共演したかったからだと、後に語っている。俳優転向後、ハリウッド映画『ブラックレイン』のヤクザ役でその夢を見事果たした。今では、そうそうたる面々と仕事をしており、個性派俳優として地位を不動のものとしている。現役時代、顔を打たれることを極端に嫌っていたのも引退後の俳優活動が念頭にあったからなのかも知れない。


【タレント活動】
現在数多く存在する元ボクサー出身タレントの草分け的存在である。

1974年4月11日(木曜日)の夜に国鉄(現JR)のストライキの中、ほぼ超満員に集まってくれたファンと、職場を早退せざるを得ず、テレビの前に座ることのできた多くのサラリーマンボクシングファンの前で堂々と世界新王者になった翌日、12日(金曜日)が芸能界デビューの日と考えられる。金曜夜22時からの日本テレビ系『うわさのチャンネル』に出演したガッツは「僕さぁ、ボクサーなの」という、今でこそ有名だが当時は相当寒いギャグを3発繰り出しただけだった。

その後は、クイズ番組の解答者などにおける珍解答、何を聞いても「OK牧場」と答えるあっけらかんとしたところがバラエティで受け、ゲストとして重宝される存在となっている。但し「クイズダービー」では、番組開始当初の1976年に、かつて5枠レギュラー解答者として約半年間出演し、5割0分8厘(平均5勝5敗ペース)という高い正答率を残している。しかし、1990年3月の大橋巨泉勇退時と1992年12月のクイズダービー最終回では、久々にギャンブラーとして出演したものの、賭け方が下手でいずれも賞金額は0円の結果となっている。

バナナ好きで有名であり、家のそこら中にはバナナが置いてありいつでもバナナが食べられるようになっている。某番組の寝起き早食い選手権でもすぐにバナナを食べる驚異的な記録を持つ。但し、番組内で目隠しをして何を食べたか当てるコーナーに出演し、バナナで問題を出されたが「コロッケ」と答えてしまい当てることが出来なかった。ちなみに、初めてバナナを食べたのは、ボクシングでファイトマネーを手に入れてからだという。

2004年には、はなわのネタから生まれたCDシングル『伝説の男〜ビバ・ガッツ〜』にてブレイク。ガッツ自身の存在感を見せつけたほか、天然ボケを武器とする、一流ボクサー出身タレント(輪島功一、具志堅用高、平仲明信ら)の再認知に寄与している。

また、テレビ朝日系放送の「タイムショック21」に出演し、モザイクがかかっている画像を答える問題でなかなかボタンを押さなかった。彼曰く「モザイクが全部消えてから答えるかと思った」と話す。また同番組ではセットの豆球を勝手に外したりしていた。

ガッツがときおり繰り出すギャグは、天然ボケ半分、計算半分の絶妙なブレンドによって生まれるものであり、彼が愛される理由ともなっているのである。


【OK牧場】
以前からガッツ本人が多用していたが、はなわの唄う『伝説の男~ビバ・ガッツ~』のヒットやガッツ本人のいわゆる“伝説”をまとめた本のベストセラー化等によって、2004年の流行語の一つとなった。

自身のホームページに記載されている由来(※)によれば、自身の監督映画『カンバック』を制作するにあたり、映画『ララミー牧場』で知られ、自身の憧れの俳優でもあるロバート・フラーに出演してもらうこととなり、撮影で(監督であるガッツにとって)フラーが最高の演技をしてくれたのに感激して、思わず口をついて出たのが、この言葉であったという。これ以降、何か良いことがあると、「OK牧場」と言うようになったそうである(一部要約)。
なお、「OK牧場」と言う言葉自体はガッツが使う以前から、心理学用語や映画『OK牧場の決斗』などで存在しているが、これらの語句の読みは“「おーけー」牧場”であるのに対し、ガッツは“「おっけー」牧場”と発音しており、厳密に言えば違う語句であると言えなくも無い。

(※) 自身のホームページ開設前、モーニング娘。がMC(司会進行)を担当する番組において「OK牧場の決斗」に由来すると語った事もある。


【OK農場】
なかなかお目にかかれぬ言葉に、OK農場というものがある。これは、OK牧場よりも格が下に位置づけられていて、芳しくない場合に使用するらしい。一方、グーグルなどで調べてみると、農場の「農」は、英語で言う「NO」とかけている、という話もある。例えば、8月2日に行われた、TBS中継による、亀田興毅のWBA世界ライトフライ級王座決定戦の試合結果について、「よくがんばったが、OK牧場とは言えない。OK農場だな」(要約)などとコメントしている。


【代表的ギャグ】
■OK牧場!(NO牧場、単に「牧場」など変動あり)
■サムタイムときどき
■僕さぁ、ボクサーなの
■チョウチョとパピヨンがいっしょに飛んでた


【エピソード】
■現役時代、池袋の路上で弟にからんだヤクザ8人を相手に喧嘩をし、たった一人で全員KOしたという伝説的な事件を起こした。但し、現行犯逮捕されたのち、正当防衛を認められ、釈放された。その時の事情聴取でガッツはチャンピオンは「いついかなる時でも誰の挑戦でも受けなければならない」と賞状に書いてあると言い訳したため、これ以降チャンピオンに渡される賞状からその文言が削除されている。ちなみにさすがのガッツ石松氏でも8人と同時に喧嘩をしても勝ち目はないと判断したのか、細い路地に誘い込み8人に対して常に「1対1」で勝負して勝ちを収めた。戦術的には正しい判断であり、格闘センスの高さを窺わせる。

■1973年3月、元プロボクシング世界フェザー級王者西城正三が、キックボクサー藤原敏男とキックルールで対戦。有名な異種格闘技戦の一つだが、藤原の回し蹴り、ハイキックを浴び西城の3RTKO負け。これにガッツは「キックボクシングはシャモのケンカだ」と発言。藤原が挑戦を表明し挑発したが、対戦が実現する事は無かった。

■1974年4月11日、東京・日大講堂でWBC世界ライト級王座獲得直後、有名なガッツポーズを披露している時に、祝福のためにリング上まで駆けつけたガッツさんの奥さんの美しさとまだ子供だった娘さんのかわいらしさにテレビを見ていた多くの青少年達は驚愕すると共に勇気付けられたものだった。

■ライブドアの株も買ったことがあるが中々上がらず売った矢先にいきなり高額で取引された。

■ダウンタウンの浜田雅功にすれ違ったとき「よう!やっちゃん!」と挨拶したが浜田は誰のことを言ってるかわからなかった。それでもガッツは「何で無視するんだよう。おーい!やっちゃん!」と叫び続けていたらしい。

■番組の収録中に話をほとんど聞かなかったため陣内智則にツッコミとして頭を叩かれ、『痛ぇなこの野郎』と激怒し、番組収録中に帰ってしまった。本気で殴ったり蹴ったりしたこともある。現在は和解している。同番組に出演していたラサール石井は『ガッツさんは確かに話を聞いていなかった。陣内は悪くない。』と陣内を庇った。

■スティーヴン・スピルバーグ監督の映画に出演したとき、珍しい格闘家の出演に監督から「なぜオーディションを受けたんだ?」と聞かれて、「事務所が行けというから…」と答えた。

■娘の鈴木佑季とともに、日本バナナ輸入組合主催の「第一回勝手にバナナ大賞」を受賞。その授賞式とトークショーは、8月7日のバナナの日に、無事執り行われた。ちなみに、副賞としてバナナ1年分が進呈され、テレビメディア等芸能ニュースによると、非常に上機嫌だったそうだ。

■TBSが2006年8月2日に中継したWBA世界ライトフライ級王座決定戦における亀田興毅勝利の判定について、各メディアは業界関係者のインタビュー映像を連日放映していた。ガッツ石松もその一人である。インタビュー映像や、同件に関してコメンテーターとしてワイドショーに出演した際など、あまりにもまともに、淡々と意見を述べるため、一部視聴者に衝撃を与えた。

■その後、テレビ東京が9月18日に中継したWBC世界スーパーフライ級暫定王座決定戦の川嶋勝重(川嶋の師匠である大橋秀行はヨネクラの後輩)戦にゲストで招かれる。ダウンを奪った川嶋がスプリット・デシジョンで敗れ、亀田戦同様「疑惑の判定」と言われかねない試合だった。しかし、贔屓目なしの独自採点を中継中に公表し、これが功を奏してか高視聴率を獲得し、局には感謝の電話が鳴り止まなかった。ちなみに採点はジャッジ2名と同じ114-113で川嶋の負け。これによりJBCが採点公開を始めるなど影響を与えた。

■ボクシング評論家として活躍してた1989年4月のテレビ朝日系木曜プレステージで特集された「ボクシングを救う座談会」の主要ゲストで呼ばれた時に、中村浩美キャスターから「ボクシングをやって良かったことは?」と聞かれた時に、「世界中至るところに行くことが増えたが、その時によく『お前は誰だ?』と聞かれるが、『俺はロベルト・デュランと戦った男だ』と言えば、どこの国でも認めてくれるのが良かったことだ」と答えたところは非常に素直で彼らしい言葉であると言える。

■粟野町役場庁舎内(現在、鹿沼市役所粟野支所庁舎)に、「粟野町出身の名誉人」として、額入りの顔写真を掲げられている。

■探偵!ナイトスクープの小ネタ集にて、トラックがバックするときに言う「バックします」のアナウンスが、「ガッツ石松」に聞こえるというネタがあった(実際にそう聞こえる)。

■衆議院選挙に出馬する際、中野区で駅前演説を実施。聴衆の手を握るも、演説後は駅のトイレに手を洗う女性の列が出来ていたとも言われている。

(出典:Wikiprdia)

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