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佐藤藍子 エピソード&プロフィール

佐藤 藍子(さとう あいこ、1977年9月26日 - )は日本の女優、タレント。神奈川県川崎市幸区出身で血液型はAB型。身長164cm。極度の近眼である。また、巨大な耳の持ち主である。日出女子学園高校卒業。所属事務所はオスカープロモーション。ハードロック・ヘヴィメタル好き(ガンマ・レイ、ハロウィンなど)でも知られていた。


【来歴・人物】
1992年、第6回全日本国民的美少女コンテストでグランプリ受賞(同期に米倉涼子)。デビュー後しばらくは低迷し、企画ユニット「ICEBOX」(森永製菓の氷菓のCMキャラクター。岡田理江、中森友香と共演)のメンバーとして一時期活動していたが、1996年にドラマ「変[HEN]」で中性的キャラクターの男子高校生役を演じ、話題になる。その後「国民的美少女」のイメージを覆すボーイッシュなキャラクターが人気を博し、一時はCMに引っ張りだことなり「CM女王」の異名を取った。

フジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」司会や、NHK連続テレビ小説『ちゅらさん』でヒロイン・恵里の看護師としての上司(後に義姉となる)役を演じるなど、幅広い活動を展開し、第6回国民的美少女コンテスト入賞者の中では米倉涼子同様に知名度が高く、歴代コンテスト受賞者の中でも知名度の高さはトップクラスである。

「奇跡体験!アンビリバボー」の番組内での退行催眠により、その前世はエジプトの貴族の娘「エイン」だということが判明。ちなみに「エイン」とはアラビア語で「目」の意。現在でもエジプトでは、古風な名前として存在する。

また、馬と競馬にも造詣を持ち、「メントレG」でゲスト出演した時に、競馬場へ行く等の逸話が紹介された。

横浜ベイスターズのファンである。所謂にわかファンと思われがちだが、大洋時代からファンだと、ベイスターズが1998年に優勝する以前から番組等で公言していた。

また、勝気な性格である。

なお、30歳の誕生日である2007年9月26日、趣味である乗馬クラブで知り合った男性と電撃入籍を発表した。結婚後も「佐藤藍子」として芸能活動を続けている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070926-00000921-san-ent

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佐藤隆太 エピソード&プロフィール

佐藤 隆太(さとう りゅうた、1980年2月27日 - )は、日本の俳優である。東京都目黒区出身。日本大学櫻丘高等学校、日本大学芸術学部映画学科卒業。血液型A型。ケイファクトリー所属。
身長:179cm。体重:62kg


【略歴・人物】
■1999年に舞台『BOYS TIME』で俳優デビュー。2000年TBSテレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』に出演し、注目を集める。その後もテレビドラマや映画、舞台、CMで活躍する若手人気俳優。劇中においては主人公のけんかっ早い弟分もしくは善良なキャラクターの暑苦しい脇役を演じることが多い。

■2003年、陣内孝則監督の映画『ROCKERS』内で結成された同名のバンドの一員として音楽活動を行い、『ミュージックステーション』等の音楽番組に出演した。その後の音楽活動としては、2004年にPUFFYの吉村由美と「ザ・テンパーズ」というユニットを結成していたことがある。

■アフロのような髪型は天然パーマ。昔グレていたのか剃りこみのあとがある。

■趣味は野球。阪神タイガースのファンである。

■第一回日芸賞受賞者。三谷幸喜と共に授賞式に臨み、本人はこれが始めての賞だと大変喜んでいた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070921-00000005-sanspo-ent

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坂井泉水 エピソード&プロフィール

坂井 泉水(さかい いずみ、本名:蒲池 幸子(かまち さちこ)、1967年2月6日 - 2007年5月27日)は、日本の歌手、作詞家。音楽グループZARDのボーカリスト。 ビーイングの関連会社「泉水」に所属し、同社の副社長を務めた。レコード会社はビーインググループの「B-Gram RECORDS」に所属。


【人物】
両親・弟妹の5人家族。20代前半まではモデルとして活動していたが、歌手になりたいという強い希望を捨てず、1991年2月、ロックバンド「ZARD」のボーカルとして歌手デビューを果たす。数多くのヒット曲を生み出し、世代を超えて高い支持を集め、人気、実績とも1990年代を代表する女性シンガーとなった。

その一方で、初期のころに数回テレビ・ラジオに出演した他はほとんどマスメディアに登場せず、ライブも殆どしていない。「負けないで」で大ブレイクして以降は全盛期にメディア露出やライブを全くしなくなった。そのように表舞台に登場せず音楽制作に専念するスタンスを徹底したことに加え、あえて私生活や経歴を公開して来なかったたため、謎の多いミステリアスなアーティストと見られてきた。

2007年5月、再起に向けて、癌克服のための闘病生活中に、階段からの転落によると見られる脳挫傷が原因で死去(後述)。


【経歴】
《デビュー前》
福岡県久留米市生まれ、神奈川県平塚市、神奈川県秦野市育ち(小学校4年より)。秦野市立西小学校、秦野市立西中学校、神奈川県立伊志田高等学校卒業。中学時代は陸上部、高校時代は硬式テニス部に所属していた。松蔭女子短期大学を卒業後、不動産会社にOLとして約2年間勤務した。


《モデル時代》
■街頭でスカウトされ、スターダストプロモーションに所属し、本名「蒲池幸子」でモデル活動を行う。

●1989年
■1月2日、テレビドラマ『春燈』(ANB系の新春3時間スペシャルドラマ、原作:宮尾登美子)に、東北地方から売られてきた少女役で出演。

■1990年にかけて、山下直美とともに「東映カラオケクイーン」となる。カラオケビデオ(Winkの「ONE NIGHT IN HEAVEN 〜真夜中のエンジェル〜」、中森明菜の「CARIBBEAN」、永井真理子の「23才」、薬師丸ひろ子の「手をつないでいて」、やしきたかじんの「未練〜STILL〜」)に出演。カラオケ機器の販売促進用のパンフレットにも写真が掲載される。東映カラオケのPR活動などで地方のカラオケ店を巡業する。この企画はZARDでの歌手デビュー後の1991年3月まで続いた。

■6月7日、クイズ番組「クイズ!年の差なんて」の「見返り美人」のコーナーで、『カラオケクイーンに選ばれたのは誰』という設問として取り上げられる。

■バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系)の「仮面ノリダー」でマリナ(渡辺満里奈)の知人役で出演(第40話「恐怖シャワー男」と第49話「恐怖ゴルフ男」)。

■日本エアシステムのフルロードキャンペーンのキャンペーンガール。

■1990年にかけて、日本エアシステム系のJAS CARGOのキャンペーンガール。

●1990年
■日清カップヌードルレーシングチーム(2輪)のレースクイーン(岡本夏生と並び、ハイレグのコスチューム姿の写真が残っている)。

■2月17日 TBS系ドラマのドラマチック22「渋谷・青春坂・ラブホテル」で端役で出演。

■6月、写真集『Body Works』(大陸書房、トップモデルシリーズ)出版。

■6月21日、ビデオ『SEXY SHOOTING』(サザンクロスビデオアーツ)発売(森村咲、大林美可と共演)。

■7月24日、写真集『NOCTURNE』(撮影:清水清太郎、白泉社)出版。

■冬にフジテレビ系番組『オールナイトフジ』のグラビア美少女のコーナーに出演。

■その他、雑誌グラビアなどに多数掲載される。


《歌手デビュー》
■1990年8月にビーイングのオーディションを受ける。ビーイング社長の長戸大幸に才能を認められ、坂井泉水を中心とした音楽ユニット「ZARD」結成の準備に入る。

■1991年(24歳)
2月10日、シングル『Good-bye My Loneliness』でデビュー。


《闘病生活》
●2006年-2007年(39、40歳)
■6月から子宮頸癌の治療のために入退院を繰り返す(2007年5月28日の所属事務所の発表による)[3]。病巣の摘出手術を受けて一時退院したが、肺への転移が見つかり、2007年4月慶應義塾大学病院に再入院。抗がん剤による治療は良好で、秋発売予定のアルバム製作と3年ぶりのコンサートツアーに向けて作詞を行うなど、始動していたとされる。


《入院中の転落死以降》
●2007年(40歳)
■5月26日朝、病院の敷地内で仰向けに倒れているのを通行人に発見される。同病院の集中治療室で緊急に処置を受けたが、翌5月27日午後3時10分、スロープから転落した際の後頭部強打による脳挫傷で死去した。享年41(40歳没)。

■5月28日、所属事務所が「坂井泉水が数々のヒット曲とともに、いつまでも皆様の心の中に生き続けることを願ってやまない」とのコメントを出す。

■ZARDのヒット曲の多くを作曲した織田哲郎、詞の提供を受けた森進一、同じビーイングに所属していた大黒摩季らが坂井の死を悼むコメントを出した。

■5月30日、東京都町田市の斎場において、近親者のみの密葬として 葬儀・告別式が行われた。

■また、東京と大阪に設置した献花台には合計約10000人が献花や記帳に訪れたほか、昨年10月発売のベストアルバム『Golden Best 〜15th Anniversary〜』が、オリコン史上初の300位圏外から3位に急上昇し、さらにその翌週からは2位に浮上した。

■海外でも、大韓民国、台湾などのメディアで一斉に報道された。

■6月1日、テレビ朝日の『ミュージックステーション』で、追悼の意を込めて、1992年の初登場時と1993年の最後の出演時を中心とした映像が流された。その後、視聴者からの反響を受け、6月29日の2時間スペシャルで再放送された。

■6月18日、NHKの『クローズアップ現代』で、『時代を励ました歌 〜ZARD 坂井泉水さんが遺したもの〜』が放送された。その結果、この番組の視聴率は11.5%を獲得した。

■6月26日、東京・青山葬儀所で「ZARD/坂井泉水さんを偲ぶ会」の関係者向けの音楽葬が開かれ、大黒摩季や織田哲郎、池森秀一、森友嵐士、浅岡雄也ら著名人が出席。また、これと同じくして、B'zの松本孝弘・稲葉浩志、倉木麻衣、読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄が追悼コメントを寄せた。

■6月27日、一般者向けの音楽葬が開かれ、40,100人が来場した。この人数は美空ひばり(42,000人)・吉田茂(40,000人)・尾崎豊(37,000人)に匹敵する規模である。

■8月19日、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の20時台冒頭で追悼コーナーが設けられ、『マイ フレンド』・『揺れる想い』・『負けないで』がスペシャルメドレーとして出演者に歌われた。また20時30分頃に、「負けないで」が例年通りフルコーラスで歌われた。さらにこの年のマラソンランナーである萩本欽一が24時間テレビの放送時間内にゴールできなかったため、その後の『行列のできる法律相談所』の生放送で「負けないで」がもう一度歌われた。結局「負けないで」は3回歌われるという異例の事態となった。


【エピソード・その他】
■“蒲池”という本名の苗字と“福岡県久留米市”という出身地が同じである歌手の松田聖子(蒲池法子)とは従姉妹であると噂された。松田聖子は柳川の蒲池氏の子孫であり、先祖が同じであるとも言われたが、坂井泉水の場合、正確なことは不明であり、二人は従姉妹でも親戚でもない。但し、当人の意思か事務所の方針かを問わず、モデルデビュー当時よりグラビア等で、“蒲池”“福岡県久留米市出身”を強調していたのは事実である。※蒲池氏#子孫たちも参照されたい。

■モデル時代の公式プロフィールでは1969年生まれとなっていた。

■ミリオンセラー歌手となってからも、レコーディング等に行く際は電車で移動していたという。

■モデル時代の関連品は、お宝モノとして高額で取引されている。特に写真集「NOCTURNE」は定価1800円であったが、坂井が歌手として大ブレイクしてからは中古市場で10万円を下回ることがないほど高額品となっている。これらの関連品は坂井の死後は中古市場でより高騰した。

■音楽葬の際に無料で配られた配布物までもが高額で取引されるという事態に至っている。

■死後ZARDのCDが急激に売れ、「Golden Best 〜15th Anniversary〜」の初回盤が中古市場で高額がつく現象が起こり、初回盤を再生産するという異例の措置になった。

■嫌煙家であり、アルコール類も好まず、健康管理には気を使っていた。但し、「新しいドア〜冬のひまわり〜」がサッポロビール、「もっと近くで君の横顔見ていたい」「今日はゆっくり話そう」が、月桂冠のCMソングとして、起用された事があった。

■歌手デビュー以前の経歴は、公式に発表されて来なかった。生前から一部の雑誌メディアでしか報じられていなかったが、死後、新聞・テレビのニュース番組でも報道された。

■ファンクラブ会報に記されていた「皆さんお元気ですか? 味わい深い日々を送ってくださいね」が、ファンに向けて発せられた最後のメッセージとなった。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070915-00000046-spn-ent

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坂田亘 エピソード&プロフィール

坂田 亘(さかた わたる、1973年3月11日 - )は、日本の男子プロレスラー、総合格闘家。愛知県中島郡祖父江町(現在の稲沢市)出身。妻はタレントの小池栄子。


【経歴】
高校時代に極真空手を経験、卒業後にアニマル浜口道場に入門。

1993年にリングスに入団。1994年11月19日に鶴巻伸洋相手にデビュー戦を行った。デビューからしばらくは同期の高阪剛の陰に隠れて目立たない存在であり、1995年の鹿児島大会のバックステージで「不甲斐ない試合をした」と前田日明から制裁を受けたエピソードがある。

1996年にUWFインターナショナルより移籍してきた田村潔司に師事してからは見違えたように技術の向上を見せ、以前は苦杯を舐めたウイリー・ピータースを問題にせず一蹴するなど成長の跡を見せた。リングスとパンクラスのトラブル時には「俺が前田さんを守る」と発言。1999年にはバーリトゥードにチャレンジ(ジアン・アルバレスに敗退)。

リングスには2001年6月10日まで所属。同団体に在籍中はネットワーク所属選手以外にヘンゾ・グレイシー、ブランドン・リー・ヒンクル、デイブ・メネーらと対戦経験がある。

同年7月に坂田道場設立とともにEVOLUTIONを結成。総合格闘技へ本格的に進出を開始し、DEEP、LEGEND、U-STYLE、PRIDEへ登場した。DEEP初参戦時にはパンクラス所属の窪田幸生をTKOで下し、リングス-パンクラス間のトラブルを招いた鈴木みのるを挑発。この時期にはマリオ・スペーヒー、ダニエル・グレイシーなどとの対戦経験がある。

プロレスラーとしての活動は、ZERO-ONE、ZERO1-MAXを経てハッスルを活動の中心としている。ハッスルでは当初「ハッスル王子(プリンス)」のニックネームでハッスル軍に属していたが、ハッスル・ハウス4を直前に控えた2005年1月末にハッスル軍を離脱しヒールターンを果たす。それと同時に高田モンスター軍への入団を企てるが、ハッスル7(2005年2月11日 愛知県体育館)での入団査定試合に敗れ失敗。

その後ハッスル・ハウス6(2005年3月19日 グランシップ静岡)でハッスル軍、モンスター軍のどちらにも属さずにやっていくと宣言、結果独自行動の坂田軍として活動することとなった。

まずハッスル9(2005年5月10日 新潟市体育館)で村浜武洋と兄弟の杯を交わし、続いてモンスター軍を追放されていたマーク・コールマンと合流。ハッスル・ハウス クリスマスSP(2005年12月24日 後楽園ホール)からは、同じくハッスル軍を離脱した崔領二も傘下に加え、一勢力としての地位を築きつつある。

またハッスル・ハウス11では鈴木浩子GM(当時)に叱責された青木裕子を救出、坂田軍のマネージャーに登用。ハッスル15(2006年3月12日 愛知県体育館)ではシングルマッチの激闘の末に互いを認め合った天龍源一郎に対し、坂田軍の叔父貴(おじき)となる事を要請。天龍も「そんな話は大きなオッパイのおねえちゃんのいる酒の席で話せ」とまんざらでもない様子であった。しかし、ハッスルハウスvol.17で開かれたハッスル・キングメモリアル6人タッグトーナメントでの敗戦後、急速にその関係は悪化、ハッスルハウスvol.19で天龍がモンスター軍に付いた事で完全に絶縁することになった。 その後ハッスルハウスvol.20において行われたGM総選挙において、RGを破り当選し、新しいGMとなった。ちなみにこの後RGも坂田軍に加入している。

ハッスルマニア2006を機に坂田軍は「世界一性格の悪い男」で有名な鈴木みのるとNOSAWA論外、MAZADAの東京愚連隊という鈴木軍との新たな因縁関係が勃発した。 2007年には小川や大谷などの主力を欠いた新生ハッスル軍に助太刀する形で再び加入、現在はHGと共に新生ハッスル軍の中心人物として活躍している。

2007年8月29日にタレントの小池栄子と入籍した。小池栄子との出会いのきっかけは今は亡き橋本真也の紹介だといわれている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070830-00000002-ykf-ent

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サエコ エピソード&プロフィール

サエコ(1986年11月16日 - )は、平成期の女優・女性タレント。 宮崎県宮崎市出身。トップコート所属。 血液型O。身長157cm、体重43kg。2003年、日本テレビ主催の女性アイドル応援企画「日テレジェニック」に最年少で選ばれる。同期生は井上和香、山本彩乃ら。特技は陸上、バレエ、ジャズダンス。趣味はネイルアート、詩を書くこと。左利きである。本名は公式サイトに表示されていない。「道休サエコ」名義での活動歴がある。


【人物】
■特技は陸上、バレエ、ジャズダンス。

■趣味はネイルアート、詩を書くこと。

■中学時代は、宮崎県の日向学院に通っていた。日テレジェニックに選ばれる前、「道休サエコ」(どうきゅうさえこ)の名で活動していた時期がある。高校は、堀越高等学校卒である。

■2006年4月、早稲田大学人間科学部人間情報科学科通信教育課程に入学している。ソニンや松浦亜弥・大沢あかねなどと親しい間柄。

■家族とも仲が良く、母の作ってくれる料理が大好物(ただし料理は大の苦手であり、ガスコンロの使い方さえわからない程である)。愛犬Dollを溺愛しており、毎日一緒に寝ているらしい。

■個人ブログ「サエコ栽培」では、近況などを自身撮影の画像と共に載せている。本人はブログで「人前で歌うことは嫌い」と述べており、事実メディアで歌声を披露した数少ない機会がフジテレビ「新堂本兄弟」に平山あや・ソニン・hiroと出演した回であるが、4人で安室奈美恵の「TRY ME」を歌ったものの、それは『お世辞にも上手い』とは言いがたい音程であった。しかし、それを堂々と歌いきった事から、ネット上では「サエコ師匠(由来はサッカー元日本代表の鈴木隆行から)』などと呼ばれ、大きな話題となった。

■毎日様々な服装をその日の気分でテーマを決めてコーディネートしている。

■特有のアニメ声は有名。たまにヘリウム声と言われる事も。

■単身赴任していた堂本光一の父の家が近いため、ピンポンダッシュしたことがある。

■子供のころダンゴムシを食べたことがあると衝撃発言をしている。また、蟻もよく食べていたとの噂もある。

■映画「バックダンサーズ」にてソニンから殴られたとき、一瞬あごが外れたらしい。

■のだめカンタービレの役(佐久桜)を演じるために、茶髪から黒髪にした。

■2005年に「クイズ!ヘキサゴンII」に1度出演した際、事前のペーパーテストで何と最下位を記録した。本人は「誰かの陰謀ですよ!」と反論したが、この後は全く活躍を見せられなかった(最後のクイズリレーも出番が回る前に終了し、1時間で全く出番が無かったと言っても過言では無かった)。それ以降、彼女の出演は一切無い。

■2007年8月、ダルビッシュ有との交際が発覚。同時に妊娠していることも発覚した。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070808-00000000-spn-spo

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佐藤江梨子 エピソード&プロフィール

佐藤江梨子(さとう えりこ、本名: 佐藤榮利子、1981年12月19日 - )は、女優、タレント。元グラビアアイドル。所属事務所はイエローキャブ。血液型はAB型。愛称「サトエリ」。


【プロフィール】
愛称: サトエリ
生年月日: 1981年12月19日
現年齢: 25歳
出身地: 日本・東京都江東区
公称サイズ(2006年時点)
身長 / 体重: 173 cm / ― kg
スリーサイズ: 88 - 58 - 88 cm
股下 / 身長比: 83 cm / 48 %
靴のサイズ: 25 cm


【人物】
■東京都江東区出身(本籍は札幌市)。父親の転勤で、神戸・大阪・千葉などで育つ。堀越高等学校卒業(同級生には安達祐実など)。内藤陽子とは、高校時代からの親友。

■姉は舞台女優で劇団ふるさときゃらばん所属の水香。弟もおり、佐藤本人によれば、ネプチューンの名倉潤にそっくりだという。

■バレエをやっていたため身体が柔らかく、210度まで開脚出来ることが特技。

■高校時代に、毎日新聞主催の学展に「線の構成」という作品(鉄屑と木材と針金を使用、それらを黒い箱に突き刺したオブジェ)を出展し、入賞したことがある。

■映画に関しての造詣が非常に深く、単なる映画好きには留まらないシネ・フィルであることは有名。2003年時点で2000本を超える作品を観ており、作品を観る基準は監督とのこと。好きな監督の代表は小津安二郎とフランソワ・トリュフォー。

■趣味の一つは詩や小説を書くことで、著書『気遣い喫茶』(扶桑社)としてまとめられた。また、「週刊プレイボーイ」誌で書評の連載を持っていたことがあり「世界一美しい書評家」と呼ばれた。また、一時期ゴーストライターを使っていた時期があった事を公表し、波紋を呼んだ。

■かなりの美巨乳の持ち主である。

■天然ボケである。

■「MSN」のインタビュー記事で、「豆柴を飼ったが、大きくなったので人に上げた。」「チワワを飼ったが、気が強かったので人に上げた。」「フレンチブルドッグを飼ったが、部屋が臭くなったので人に上げた。」「ティーカッププードルを飼ったが、生後2か月で考えていたサイズより大きくなったので人に上げたら、2週間後に死んだ。」など発言。このような発言、言動で動物愛護者などから、かなりの反発をされている。

■野田義治は佐藤と折り合いが悪かったと発言しており、分裂後は佐藤の性格を批判している。


【来歴】
■神戸市東灘区に住んでいた中学1年生の時、阪神・淡路大震災で被災。その際、聴いていたKiss-FM KOBEのラジオ番組のパーソナリティにあこがれて芸能界入りを目指す。

■高校在学時の1999年、大磯ロングビーチキャンペーンガールに合格(なお、大磯ロングビーチのキャンペーンガールには2001年も選ばれており、2回選ばれたのは日本人キャンペーンガールとしては唯一)。その後、イエローキャブからスカウトされる。

■映画『プレイガール』、『キューティーハニー』に主演。

■雑誌『Frau』2003年6月24日号とその年の「たかの友梨ビューティクリニック」のCMではセミヌード写真を披露したが、実際にはCGで作られた物である。本人はヌードになることには拒否しており「脱ぐ位なら芸能界は辞める」などと発言している。

■2003年度のJRA(中央競馬)CMモデルとして明石家さんまと共演。

■2004年夏、月曜9時ドラマ『東京湾景』(フジテレビ)レギュラー出演するなど、女優としても活動している。

■2005年1月、読売テレビの阪神・淡路大震災10周年記念の特集「震災10年・10Days」のメインキャスターを務めた。

■2005年の兵庫県知事選挙の啓発広告に起用された時には、投票日の7月3日にちなんで髪を七三分けにしたことで話題となり、啓発ポスターがインターネットオークションに出品されたという報道もされた。しかし、県選管の追跡調査によると、啓発広告を見て投票に行こうと思った有権者は3割に留まったという。

■「サトエリのホムピー」という自身の公式サイト・ブログを持っていたが、2005年末に終了。その後ブログは「SATOERI TIMES」と名を変えて復活した。

■フジテレビの情報プレゼンター とくダネ!ではコメンテーターを務めていたが、政治の話題についていくことができずにほとんどコメントすることが出来なかった。現在は降板している。

■2006年12月、市川海老蔵と正式に交際宣言。

■2007年3月9日、市川海老蔵との交際破局がブログから明らかになる。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070613-00000012-oric-ent

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沢尻エリカ エピソード&プロフィール

沢尻エリカ(さわじり えりか、1986年4月8日 - )は、日本の女優。

東京都出身の女優。スターダストプロモーション所属。

血液型はA型。身長160cm。日出女子高等学校中退。名前の由来は花の名前(ツツジ科のエリカ)から。


【来歴】
■フジテレビビジュアルクイーンオブ・ザ・イヤー2002。

■2003年、TBS系『ホットマン』で連続ドラマ初出演。翌2004年には、映画『問題のない私たち』で準主演を務め、映画初出演を果たし、以後話題作への出演が続いた。

■2005年に公開の映画『パッチギ!』で演じたリ・キョンジャ役が高く評価され、
第18回 日刊スポーツ映画大賞・新人賞
第30回 報知映画賞・新人賞
第27回 ヨコハマ映画祭・最優秀新人賞
第15回 東京スポーツ映画大賞・新人賞
第79回 キネマ旬報・新人女優賞
第29回 日本アカデミー賞・優秀新人女優賞・さらに話題賞も受賞。

■2005年、フジテレビ系で放送の初主演ドラマ『1リットルの涙』での演技が評価され、
2006年 エランドール賞・新人賞
第43回 ゴールデン・アロー賞・新人賞を受賞。

■2006年、TBS系で放送の主演ドラマ『タイヨウのうた』で演じている“Kaoru Amane”名義で歌手デビュー。オリコンチャートで2週に渡って第1位を獲得する大ヒットを記録した。オリコンにて塗り替えた記録は以下の通り。
女性アーティストのデビュー作、最高初動売上記録(初動15万枚)
女優の歌手デビュー作、9年5ヵ月ぶりのTOP3入り
女優のデビュー作、11年11ヵ月ぶりの首位獲得
女優のデビュー作、16年11ヵ月ぶりの初登場から5週連続でのTOP3入り
女性アーティストのデビューシングルとして、史上初の初登場から5週連続TOP3入り

■2006年には『シュガー&スパイス〜風味絶佳〜』『オトシモノ』『天使の卵』『手紙』など、主演を含む5つの出演映画が公開された。


【人物】
●家族
アルジェリア系フランス人の母をもつハーフで、3人兄妹の末っ子である。父親はエドノコバン他16頭の競走馬を所有していた馬主だったが、中学3年の時に癌で死去。母親は現在、地中海レストランを経営しており、店には沢尻のポスターが貼ってある。次兄は高校1年の時に交通事故で死去。長兄も俳優。

●芸能活動
安室奈美恵に憧れて小学校6年生の時に芸能界デビュー。(安室とは、2006年11月に初めて会うことができた。)事務所に履歴書を送る際に、写真欄にプリクラを貼って提出したという。初めての仕事は、りぼんの懸賞ページのモデル。その後『ニコラ』のモデルとなる。

●人となり
■元々は天然パーマ。『ニコラ』のモデル時代の初期の写真はクルクルヘアーだった。そのころ掲載されたプロフィール紹介において、自分の好きなところと嫌いなところは何かという質問に、嫌いなとこも好きなとこも天然パーマなところと発言した。

■少女らしい外見とは対照的に、さばさばとした性格。本人も自らを男っぽい性格と言っている。映画『パッチギ!』のオーディションの時、沢尻は井筒和幸監督に微笑みながら「日本の映画はつまらないですよね。」「日本の映画を変えたい」と言い放った。その度胸のよさは撮影中にも遺憾なく発揮され、辛口で知られる井筒も賛辞を惜しまない。ちなみに、嫌いな言葉は「がんばれ」だという。

■『パッチギ!』について彼女は「映画だけど映画じゃない。そういう事実を伝える最高の教科書みたいなもの」と語った。この映画を通して女優として得たものも多く、結果がどうであれ物事にぶつかっていくことに意味があるとも言っている。

■映画『手紙』で演じた由美子役での演技について、原作者の東野圭吾は「沢尻さんは相当頑張っていた。非常に良かったと思います」と絶賛した。

●趣味・生活
■家族ととても仲が良く、沢尻は「“大切”という言葉では表現しきれないほど強い力で結ばれている」と語っている。ドラマや映画の撮影後は家族旅行に出ることが多く、「タイヨウのうた」撮影後は家族で沖縄旅行へ行った。

■父親の影響もあり、小さいころから馬に親しみ、乗馬が得意である。

■音楽は昔から好きで、ダンスも習っていた。好きな音楽のジャンルはエレクトロのハウス。

■犬を飼っている。パピヨン種、名前はポチ。

■母の店を沢尻本人も時々手伝っていたが、広く顔が知れた現在でもそうなのかは不明。

■マンション住まいで、明るい部屋が苦手。ハンモックが部屋の中にある。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070709-00000019-oric-ent

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坂口憲二 エピソード&プロフィール

坂口 憲二(さかぐち けんじ、1975年11月8日 - )は、東京都出身の俳優。血液型はA型。ケイダッシュ所属。


【人物】
明治大学付属中野高校卒業。しかし高卒時、相次ぎ大学受験に不合格となり進路に困っていたところ、実父・坂口征二と交流があった人物の勧めで東海大学ハワイ校を受験・合格、同校へ進学したことがこの後の憲二の人生を大きく変えた。

東海大ハワイ校に在籍していた間に習得した英会話やサーフィンが特技。彫の深い端正な顔立ちが人気を呼び、「MEN'S CLUB」でモデルデビューした後、人気モデルとして広く活躍した。後に俳優としての可能性にも興味を持ち、テレビドラマや映画に出演するようになった。2000年10月放送のMBS「世界ウルルン滞在記」〜バヌアツ共和国〜においては衝撃のヌードも披露し、ファンにはたまらない強烈な印象を残した伝説の番組として現在も言い伝えられている。

テレビ番組に出演時、子供の頃のエピソードとして自分が万引きした後に、父親に思いっきり張り倒されて怒られたことを披露した。父親は未だに力強くて”多分、未だに親父越えはできない”という趣旨の感想をもらした(『とんねるずのみなさんのおかげでした』2002年1月31日放送分)。

2002年、ドラマ『天体観測』で共演した女優小雪との交際が報じられ、ワイドショーを度々賑わせた。人気絶頂の俳優同士によるその交際は仲むつまじい海外旅行までに進展しており、業界筋では「結婚秒読みか」とまで囁かれてはいたものの、「30歳までに結婚したい」と口にしていた坂口に反し、結婚願望が薄く仕事の可能性にもっとかけてみたかった小雪との間に結婚に対する価値観の相違が生じ2005年の10月に交際の終焉が双方の所属事務所により明らかになった。

2004年7月公開の映画『機関車先生』では主演を任されるまでに成長し、2006年4月からのフジテレビ系列ドラマ『医龍-Team Medical Dragon-』においては、これまでにない渋い演技が高く評価されて、以前と比べて演技力に格段の成長が見られる。とはいえ、まだまだ完成の域には程遠く、成長が望まれている。2005年11月8日に30歳の誕生日を迎えた彼は、俳優としての更なる深い道を歩もうという真剣な態度が見けられており、日本が世界に誇るイケメン俳優として今後も期待が熱い。

2006年、医龍で共演をした稲森いずみと交際との噂が一部で出されている。この噂は、上沼恵美子司の週刊えみぃSHOWの中にある地雷ル−レットというコ−ナ−で井上公造が発言したのが噂のきっかけである。相手が分からなかった時に「男性はプロレスラ−の息子さんで、イニシャルはS・Kさん。女性の方は、去年の大河ドラマ「義経」で常盤御前役を演じたI・Iさん」と発言。稲森いずみのHPでも「本当に交際しているのか?」との質問も出されている。交際に関して稲森いずみ所属事務所は、「仲良くしてもらっている」と発言している。しかし今のところは何も明かされていない。

「世界の荒鷲」ことプロレスラーの坂口征二(せいじ)を父を持つことで格闘技に精通しており、その観戦を趣味とする以外にも、番組の企画で挑戦した柔道は初段(2006年7月11日に二段に昇段)の腕前である(テレビのインタビューで「お父さんのようにプロレスラーにはならないのですか?」と質問された際に、「(父親に比べて)背が低いから無理です」と答えている)。兄・征夫(ゆきお)たちと共に父親が2005年9月に立ち上げたスポーツ・ジム「坂口道場」にも関わっており、子供用の柔道コースでは子供と戯れる憲二の姿が見られ、子供好きな未来のパパとしての一面を覗かせている。

TBSで放送中の『スポーツマンNo.1決定戦』に第7回と第8回芸能人サバイバルバトルに出場した事があり、第7回は、第1種目のビーチフラッグスの準決勝であのケイン・コスギを破って見事第2位に輝き(優勝は照英)、モンスターボックスでは17段を記録するも、惜しくも総合順位は7位でファイナリストにはなれなかった。続く第8回は、ビーチフラッグスでは準々決勝で脱落するも、ケインは3回戦で脱落した為、結果的にケインを2大会連続で破った事になった。モンスターボックスでは18段を飛んで自己記録更新となり、見事ファイナリストになった。最終種目のショットガンタッチでは11m50cmを記録して、総合順位は5位。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070517-00000143-sph-ent



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沢田研二 エピソード&プロフィール

沢田 研二(さわだ けんじ、本名:澤田 研二、1948年6月25日 - )は、日本の歌手、俳優、作曲家。元ザ・タイガース、PYGのリード・ヴォーカル。ニックネームはジュリー。


【来歴】
●生い立ち
1948年6月25日、母親の実家である鳥取県岩美郡津ノ井村(1963年に鳥取市へ編入:現鳥取市津ノ井)で、澤田松雄、智恵子(ちえ)夫妻の次男として誕生。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。5歳の時に、京都府京都市左京区浄土寺東田町にある(親族の)澤田家に移り、そこで育つ。京都市立第三錦林小学校、同岡崎中学校卒業後、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学。中学では野球部に所属したが、高校では空手部に所属。

●ファニーズ〜ザ・タイガースの一員として
京都市下京区四条河原町にあったダンス喫茶「田園」でアルバイトをしている時、出演していたサンダースに声をかけられ、沢田はローディー兼ヴォーカリストとして加入する。その後、同じく田園に出演していたサリーとプレイボーイズのメンバーからリード・ヴォーカルとして誘われた彼は、1965年12月に鴨沂高等学校を中退し、翌年の元日に正式にメンバーとして加入した。

彼の参加を機に名前を"ファニーズ"に改めたバンドは早速、大阪府道頓堀にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションを受けて合格する。そして、その翌月から専属バンドとしてローリング・ストーンズなどの洋楽コピーを演奏するようになった。田邊昭知や内田裕也などに芸能界入りを勧められた彼らは、同年の10月にこの喫茶店で行われたオーディションを受けて合格し、翌月に新幹線で上京する。初出演となったCX系列のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」の収録の日にすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられたあと、彼らは1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビューを果たした。この頃メンバーのニックネームが決まり、沢田はジュリー・アンドリュースのファンだったことから「ジュリー」と呼ばれるようになった。セカンド・シングル「シーサイドバウンド」と続く「モナリザの微笑」でブレイクしたザ・タイガースは、折りからのグループ・サウンズブームも相まって瞬く間にトップ・アイドルとなる。とりわけ、大きな瞳が特徴的な端正な風貌の沢田は10代の少女を中心に熱狂的な人気を博し、一躍芸能界をも代表する国民的アイドルになった。

急速に音楽シーンが多様化し、爆発的なブームにも退潮の兆しが見え始めた中で、沢田は1969年12月1日に初のソロ作品「JULIE」を発売し、それ以降は他のメンバーのソロ活動も多くなった。そして、1970年12月7日にザ・タイガースは解散を表明。翌年の1月24日に日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を最後に、その活動に幕を下ろした。

●PYG
ザ・タイガースの解散後もバンドとしての活動に固執した沢田は、ソロシンガーとしての活動を目論む所属事務所の意に反して、1971年の1月11日に新たなバンド・PYGを結成する。欧米で流行していたスーパーバンドを模した形で、ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、ザ・スパイダースの井上堯之と大野克夫、それにザ・タイガースの岸部おさみと沢田によって構成されたこのバンドは、井上をリーダーとして本格的なロック・バンドとしての活動を目指した。しかし、日本ではまだ反体制のジャンルという見解が根付いていたロックを、当時芸能業界最大手の事務所だった渡辺プロダクション所属のミュージシャンが演奏することに対して非難する向きもあり、従来のファンも彼らが結成した新たなバンドの動向に違和感を示した。

1971年11月1日、萩原健一との連名によるPYGのサード・シングル「戻らない日々」と時を同じくして、沢田は初のソロ・シングル「君をのせて〜 MY BOAT FOR YOU」をリリースした。さらに12月には2枚目のソロ・アルバム「JULIE II IN LONDON」を発表し、この頃から沢田と萩原はそれぞれの活動を展開するようになる。しかし、沢田のセカンド・シングル「許されない愛」がヒットし、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、その活動も形骸化していく。1972年のシングル「初めての涙」を最後に自然消滅に至ったPYGであるが、その後も70年代の中盤まで沢田はこのバンドの一員であるという意識をにじませる発言をたびたび残した。彼はインタビュー記事などで時折、井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」などと表現していたり、「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っている。活動当時こそ肯定的な評価を受けることはなかったPYGだったが、彼らの作品に対しては後年になってから再評価の機運が高まった。

●井上堯之バンド
PYGは萩原が参加できるときだけその名を名乗り、参加できないときには沢田のバックバンドとして活動した。これがのちの井上堯之グループの前身である。彼らはその後井上堯之バンドと名乗り、バンド独自の活動もするが、基本的に沢田の専属のバックバンドとなる。これにより、国内の音楽シーンにおいて、歌手が専属バンドを率いた最初の例[要出典]となった。

1972年9月20日発売の沢田のシングル「死んでもいい」から、それまでバッキングを務めたケニー・ウッドオーケストラに代わって井上グループの名がクレジットされるようになった。PYGとしての活動を含め、専属のバンドに拘りを持っていた彼は、当時「ヒット曲を出せば好きなことがいえる。バックバンドも好きなようにさせてもらえる」と発言しており、この曲のヒットによってその希望を実現した。彼は初出場となった1972年の「第23回NHK紅白歌合戦」でも井上堯之バンドと共に出演している。当時からのファンの中には、沢田と井上堯之バンドを一つのロック・グループとして捉える者も多い。「沢田研二=井上堯之バンドのリード・ヴォーカル」という見方もできるほど、彼らの結束力は精神面、サウンド面共に強いものであり、1980年に沢田と井上の音楽性の相違からバンドが解散するまでその密接な関係は維持された。

●ソロ・キャリア
実質的なソロ活動元年となった1973年には、「危険なふたり」で第4回日本歌謡大賞を受賞した。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降斬新なファッションが確立された。1975年5月発売のシングル「巴里にひとり」の仏語版「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」がフランスのヒットチャートでトップ10にランクインするなど、海外での活動も評価を得る。沢田が主役を演じたTBS系ドラマ「悪魔のようなあいつ」の主題歌として同年の8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は、90万枚を超えるレコード・セールスを記録し、彼にとっての最大級のヒット曲となった。

同時期の伊藤エミとの結婚後も沢田は順調にスターダムを駆け上るものと思われたが、その矢先に新幹線暴行事件が起きる。1975年12月、帰京する彼を待ち受け東京駅のホームに殺到したファンを整理していた国鉄職員の発言からトラブルとなり、相手を頭突いて軽傷を負わせ、さらに翌1976年5月、今度は新幹線車内で男性乗客に「いもジュリー」(「いもにいちゃん」という説もある)とからかわれたことからトラブルとなり、相手の口を殴って怪我を負わせた。一連の騒動によって彼は6月15日から1カ月間に渡って謹慎。同年の「紅白歌合戦」や音楽賞からも姿を現すことはなかった。

しかし、謹慎から復帰した沢田は謝罪会見を経て精力的に活動を再開。復帰後に発表された2曲のトップ10ヒット「コバルトの季節の中で」と「さよならをいう気もない」を経て、1977年5月21日に発売されたシングル「勝手にしやがれ」は約90万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末の主要な賞レースを独占した。1978年には「LOVE(抱きしめたい)」でその年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞。同年の「紅白歌合戦」では、それまで演歌歌手が独占していた大トリを初めてポップスの歌手として務めた。

これらの一連のヒット曲の成功によって歌謡界を代表するスターとして頂点を極めた彼は、歌番組のみならず、バラエティーやドラマ、映画、CMなどでも広く活躍した。代表的なものとしては、当時同じ事務所に所属していたザ・ドリフターズの志村けんとの「ドリフ大爆笑」や「8時だョ!全員集合」での共演コントがある。志村のギャグなどについて、沢田は現在でも高く評価をしている。

1979年11月からは日産自動車から発売されたブルーバード910型のCMキャラクターを務めた。歴代ブルーバードの伝統である高い走行性能や先進性と、人気絶頂にあった沢田が登場するCMの相乗効果で、この新型は自動車評論家や自動車ファンからも好評を博し、日本国内のミドルカークラスの販売台数で長期に渡ってNO.1を記録する大ヒット車種となった。その後、1983年10月にフルモデルチェンジされた新型のU11型(前期型まで)のCMキャラクターも引続き沢田が務め好評を博していた。

70年代の後半に彼は「テレビでジュリーをみない日はない」と言われるほどの過密スケジュールをこなした。当時高視聴率を得ていたランキング形式の歌番組でも常に上位を賑わし、本人曰く「いつもピカピカ一等賞」を目指した。当時の歌謡界において人気のバロメーター的な存在だったTBS系列の「ザ・ベストテン」では、1978年11月から1982年12月までの4年間に250週中54.4%を占める136週(138回分)に渡ってランクインを果たしている。

スーパースターとしての最前線を走る沢田にとって、ヒットチャートのランキングやレコード・セールスは重要な指標となっていた。1979年9月21日発売の「ロンリーウルフ」が、音楽的評価と裏腹にさほどヒットしなかったとき、彼はこの年の末の賞レースを早くから諦め、『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』の大ヒットで年初から突っ走っていた西城秀樹に「今年は西城クンの年や。オレの分まで頑張りや」などと激励したという。

今日では一般的なステージを動きまわるアグレッシブなライブ・パフォーマンス、全国を縦断する大規模なコンサート・ツアーなど、彼は当時の日本の音楽業界においてはまだ主流ではなかった活動を次々と取り入れた。また、さまざまなジャンルの著名なアーティストを作曲家に起用しただけでなく、自らクリエイターとしてソングライティングやプロデュースなどの分野にも活動の幅を拡げた。他の歌手にも多くの楽曲を提供し、なかでも1982年にアン・ルイスが歌った三浦百恵との共作曲「ラ・セゾン」はトップ10にランクインするヒットとなった。

●過渡期
沢田がアーティストとしてとりわけ強く拘りを見せたのが、ヴィジュアル面であった。ザ・タイガースが、まだファッションに対して保守的だった1960年代の日本における初の長髪のアイドルとして物議を醸したように、ソロ活動を始めてからも彼は"ヴィジュアル系の元祖"とも形容すべき奇抜なファッションや派手な振付で聴衆を驚かせた。「カサブランカ・ダンディ」でのウィスキーの霧吹き、「Oh! ギャル」での女性用のメイク、「TOKIO」における電飾衣装にパラシュートを背負った姿や「恋のバッド・チューニング」で着用したカラー・コンタクトなど、シングルを発表するごとに沢田が披露した衣装や装飾は大きな話題を呼び、それは次第に過激なものになっていった。ただし、サウンド面よりもセールスやランキング、話題性を過度に意識したパフォーマンスにウエイトを置く彼のスタンスに対して、長年活動を共にしたバックバンドのリーダーである井上堯之は違和感を覚え、「もう、これ以上ついていけない」としてバンドを解散させてしまう。

井上バンドとの訣別は少なからぬ衝撃を沢田に与えたが、彼はその後も吉田建を中心に"ALWAYS"、"渚のラブレターバンド"、"EXOTICS"といったバックバンドを相次いで編成し、あくまでも専属のバンドに固執した。1981年9月21日発売のシングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」でも派手な衣装で注目を集め、これは自身が作曲したオリジナル曲としては最高のセールスを記録した。1982年には「同窓会」と銘打った企画でザ・タイガースが11年ぶりに再結成する。瞳みのるを除くラインナップで復活した彼らはシングル「色つきの女でいてくれよ」をヒットチャート上位にランクインさせ、武道館を含む全国ツアーも成功させた。

しかし、のちに夫人となる女優の田中裕子との不倫が週刊誌で報道され、大きく非難された1983年ごろからレコード・セールスも下降線を辿り、デビュー以来常にヒット・チャートの上位に名を連ね、歌謡界の最前線で活躍してきた彼にとって大きな転換期が訪れる。

●独立
1985年1月からの半年間の休養を経て、沢田はザ・タイガースの一員としてのデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立し、傘下に"株式会社ココロ"を設立。さらにレコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。また、自叙伝「我が名はジュリー」(玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。音楽面では、チト河内を中心に新バンドCO-CoLOを結成して活動を再開し、これまでと異なるアプローチで臨むなど、この年は彼自身が語るようにターニング・ポイントとなる一年となった。

1987年には離婚や恩師である渡辺晋の死、3月の京都公演中のステージからの転落事故とそれに伴う左肘骨折による1カ月の入院など、多くのアクシデントに見舞われた。この年の9月には、ファンクラブも解散している。その翌年には3年間活動を共にしたCO-CoLOを解散し、新たにKris Kringlを結成。また、同年の5月20日には、酒気帯び運転でタクシーに追突する交通事故を起こして書類送検され、1カ月の謹慎処分を受けた。なお、沢田自身が「太りやすい体質」と述べるように、この頃から彼の体型の変化は顕著なものになる。

1989年10月11日発売のアルバム「彼は眠れない」では、サウンド面における方向性を再転換し、村上'ポンタ'秀一を迎えて結成した新バンドJAZZ MASTERと共に精力的にライブ活動を展開した。この年から、10年間に渡って継続する音楽劇 ACTシリーズもスタートした。年末の「紅白歌合戦」ではソロでの他、ザ・タイガースとしても出場し、同番組の出場者としては初めて同一回ので2度出場したことで話題になった。

1992年頃からは、変貌する芸能界を嫌って彼のメディアへの露出は極端に減少し、往年のヒット曲や過去の栄光、メディアを通じて作られた自身の虚像に拘束されることを拒否するスタンスを示す。その一方で、1991年の25周年記念武道館公演や1996年の30周年記念アルバム「愛まで待てない」など、長いキャリアをふりかえる記念行事もたびたび行った。「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」として、1995年以降のアルバムではすべて沢田がセルフ・プロデュースを手がけている。いわゆる団塊の世代に属する沢田は、「同年代の人たちが元気になるような音楽を作っていきたい」と述べている。

●近年
1997年には岸部一徳、森本太郎とともにユニット"TEA FOR THREE"を結成。2001年からは頑ななまでのメディアに対する姿勢を緩め、頻繁にテレビ番組などにも登場するようになったことで、久々に話題を提供した。その翌年には自主レコードレーベルとなるJULIE LABELを設立。以降、このレーベルからリリースされた彼のオリジナル・アルバムはいずれも独特のパッケージ・デザインを施されている。2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤「Royal Straight Flush」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインして話題となった。また、同年には、地方公演ドタキャン事件も起きている。原因は、主催者側との契約にある、規定動員数に達しない場合、コンサートを行わないということから起きている。2006年には加瀬邦彦とワイルドワンズの40周年記念公演に参加し、ゲスト出演ながら久々に日本武道館で熱唱した。

歌手活動以外では、パチンコ台として沢田本人をモチーフにした「CRフィーバー ジュリー・ザ・ピンボール」(SANKYO)が3月から登場した。2007年にはデビュー40周年、2008年には自身の還暦を迎えるにあたり、節目ごとに行われてきたような何らかのアニバーサリーイベントの実施が期待されている。現在も、毎年新曲とアルバムをリリースしてコンサート・ツアーを展開。年齢を感じさせないステージングでファンを魅了している。ここ数年はシングルとアルバムの制作、正月とアルバムリリース後のコンサート・ツアー、それに年1〜2回の舞台出演がワーキング・パターンとなっている。

【影響と功績】
沢田は日本の歌謡史において避けて通ることのできない大スターの一人である。本人は必ずしも好ましく思っていないが、多くのアーティストが沢田の楽曲をカヴァーしており、その先鋭的なスタイルに影響を受けたアーティストは少なくない。また、音楽面だけでなく、類い希なエンターティナーとしても数多くの足跡を残し、多方面に影響を与えてきた。分けても様々な「パイオニア」としての功績は他に類を見ないほど大きなものがある。

●影響
今日の音楽界に沢田が齎した影響としては、やはりそのファッションが特記される。1970年代前半まで、歌謡界の男性歌手はタキシードやそれに準ずる衣装、直立不動のスタイルでの歌唱がほとんどだったが、そこに独特のファッションを持ち込んだのが沢田である。分けても早川タケジのデザインによる、化粧を取り入れたスタイル(時には女装すらすることがあった)は1990年代以降持て囃された「ビジュアル系」の元祖をなすものである。実際に同類にカテゴライズされるミュージシャンが沢田からの影響を語る例は少なくなく、清春やBUCK-TICKの櫻井敦司、河村隆一などは沢田の楽曲をカヴァーしている。沢田のファッションは現在の目から見ても先鋭的なものが多く、近年になっても早川の作品集(ほとんどが沢田の写真)が出版されたり、テレビなどで映像が流されることも(沢田が解禁した2001年以降)少なくない。他にも石井竜也は米米CLUB時代の書籍で「カサブランカ・ダンディ」の衣装を纏っていたことがあり、及川光博は「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」をカヴァーした他に早川にデザインを発注したこともあり、両者は「ビジュアル系」以外でファッション面での影響が顕著な一例である。

また音楽面での影響としては、「バンドサウンド」を広く人口に膾炙させた功績が大きい。「日本人による、日本語のオリジナルロックミュージック」は1970年代前半以降、はっぴいえんどや四人囃子らに端を発しつつ現在に至っているが、それをテレビなどを通して日常生活に送り込んだのが沢田である。その証拠に、1980年代後半以降巻き起こった第二次バンドブームにおいては、沢田からの音楽的な影響を語るものが少なくない。たとえば氷室京介は沢田のバックバンドエキゾティクスのメンバーだった吉田建と西平彰をソロ活動初期のアレンジャーに迎えている。氷室が参加していたBOØWYはビジュアル系の源流としての功績も語られており、その面でも沢田からの影響を感じさせる。またプリンセス・プリンセスの奥居香(現岸谷香)はアマチュア時代に沢田の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」をカヴァーしており、後に沢田へ楽曲提供も行っている(1989年の「彼は眠れない」収録「ポラロイドGIRL」)。

さらに沢田は時代時代の最先端を取り入れる才能にも長けており、その当時に気鋭のミュージシャンである若手の作品を取り上げることが多かった。佐野元春や大沢誉志幸、作詞家の覚和歌子らはそうした一例で、彼らは「世に広く知られる前に沢田に見出されている」点が重要である(例えば大沢は自身のデビュー前に沢田他に楽曲を提供し、「デビュー前に100万枚売った男」と言われた。覚が沢田へ詞を提供したのも、「千と千尋の神隠し」主題歌などで話題になるずっと以前である)。そのため音楽業界では「沢田と組めばビッグになれる」と言われたことすらあった。

●功績
沢田が音楽界に齎した功績は、上述の「影響」としての側面も多々あるが、現在では当たり前とされている多くのことを初めて成し遂げた「パイオニア」としての功績にも目を見張るものがある。

■「影響」の項目と重複するが、音楽に「ファッション」を取り込んだ第一人者が沢田である。1973年の第24回NHK紅白歌合戦で沢田は純白の衣装に赤のファー、更に足元はロンドンブーツと紅白史上初めて「正装」以外の絢爛豪華なオリジナルスタイルで登場し、アグレッシブに動き回るパフォーマンスを披露した姿は「テレビ歌唱」の概念を塗り替えるものであった(なお初出場となった前年の第23回NHK紅白歌合戦では正装で歌っている)。紅白においてこの系譜は後に小柳ルミ子を経て美川憲一や小林幸子へと受け継がれている。付言すれば、「独特のファッションでアグレッシブに歌う」というパフォーマンスは、紅白以外の音楽番組や実際のライヴステージにおいて、現今の特にロック系歌手のほとんどに見られるもので、そうした意味では以降のほぼ全ての歌手に先んじているといえる。

■ザ・タイガースは日本で初めての長髪の男性アイドルである。当時は「長髪=不良」の偏見が根強く残っており、保護者らによってタイガースの公演会場から中高生が締め出されたり、人気のピーク時にもNHK紅白歌合戦への出場が叶わないという事態が発生した状況であった。

■1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は日本で初めてのスタジアムライブである。

■1971年1月24日のザ・タイガース「ビューティフル・コンサート」(解散コンサート)は日本人として初めての日本武道館単独公演であった。

■PYG時代、初めてロンドンブーツを衣装に取り入れた。

■1974年には「Rock'n Julie」と題された公演が行われているが、これは日本で初めての全国ツアーである(16都市34公演)。

■さらに沢田はソロ活動初期において、PYGから派生した井上堯之バンドと活動を共にしていたが、これは日本で初めてのバックバンドである。

■「MON AMOUR JE VIENS DUBOUT DU MONDE」(邦題:「巴里にひとり」)は日本人として初めてフランスのヒットチャートにBEST10入りした楽曲である。

■1978年の第29回NHK紅白歌合戦で紅白史上初めて演歌歌手以外で大トリを勤めた。

■1980年の「恋のバッド・チューニング」で初めてカラーコンタクトをファッションに取り入れた。なお当時のものは品質が悪く、30分程度しか着用できず視界もかなり暗かったという。

■1989年の第40回NHK紅白歌合戦で紅白史上初めて1回の紅白で2度出演を果たした(ソロとザ・タイガースとして)。

また、デビュー以来約40年間、毎年必ず新作アルバムを発表し、
1974年以降毎年全国ツアーを開催しているという実績は、パイオニアというよりは世界的に見ても唯一無二の記録である。


【俳優業】
歌手として多忙な生活を送り続ける傍らで、沢田は舞台や映画にも積極的に出演した。主にタイガース時代に出演した典型的なアイドル映画にとどまらず、「炎の肖像」における過激なベッドシーンや「魔界転生」での真田広之との男性同士のキスシーンなど、彼は奇抜な場面を含む役柄や前衛的な作品への出演にも数多く臨んだ。人気絶頂に公開されたこれらの作品以降も、彼は「ときめきに死す」や「ヒルコ 妖怪ハンター」、「幸福のスイッチ」などをはじめとする実験的な作品、若手監督の作品への出演を続けている。

舞台においてもその実験精神は発揮されており、とりわけ1989年から1998年まで続いた舞台「ACT」シリーズでは、1人芝居や哲学的な内容を演じている。なお同シリーズから現在の久世光彦やマキノノゾミが演出している音楽劇など、沢田の舞台音楽はcobaが担当しているが、アコーディオン奏者として高い知名度を誇る前から沢田は彼を起用していた。なお、近年の作品では南流石が振り付けを担当していることが多い。また、近年ではそうした音楽劇と並行して、藤山直美との人情芝居にも出演している。

(出典:Wikipedia)

桜塚やっくん エピソード&プロフィール

桜塚やっくん(さくらづかやっくん、1976年9月24日 - 男性)はお笑いタレント、声優。通称「やっくん」。以前は本名の斎藤 恭央(さいとう やすお)で活動していたが、改名した。神奈川県出身。日本大学高等学校、日本大学芸術学部映画学科演技コース卒。トップコート所属。血液型B型。2006年に歌手としてもデビューした。


【活動履歴】
■お笑いコンビあばれヌンチャクのツッコミ(場合によってはボケ)&絵描き&ネタ作成を行っていたが、コンビは解散。芸を模索していたところ、オフィス★怪人社のIKKANにスケバンのネタをやろうと進言され、「スケバン恐子」というキャラクターが作られた。現在はこの桜塚やっくん(さくらづかやっくん)と改名し、「エンタの神様」(日本テレビ系列)を中心に活躍中である。

■あばれヌンチャクとして活動していたことを知られたくなかったらしく、うたばん出演時も石橋貴明らにしつこく問われたが自分では言わなかった。しかし、ゲストで呼ばれていたコージー富田にあっけなくばらされた。

■2002年にアニメ「満月をさがして」のオーディションを受け合格、これをきっかけに声優としての活動をはじめる。同作品では主役級のタクト・キラ役を演じ、その甘い声と繊細な役柄から若い女性のアニメファンを中心に支持を得た。同番組の企画CDではタクト・キラ役で歌「ETERNAL SNOW」も披露している。これが初めての歌の仕事であったことを、同時収録の声優対談で明かしている。
その後「やっくん」としてのブレイクもあり声優としては開店休業状態、公式サイトにおいても全く触れられていないが、本人はいくつかのインタビューで「人を喜ばせるのが好きだから、お笑いだけじゃなくドラマでも映画でもいい」旨の発言をしており、「声優・斎藤恭央」の復活も視野に入れているようである。

■2006年7月19日、歌手として(自ら作詞を手がけ)「ゲキマジムカツク」でCDデビュー。(作曲:Anchang(SEX MACHINEGUNS))。

■2006年10月18日には2ndシングル「1000%SOざくね?」を発売。タイトルはシブがき隊の「100%…SOかもね!」と、若者言葉の「うざくね?」をあわせたもの。

■2006年のNHKの紅白歌合戦に、個人男性としては前年のゴリエに次いで史上2人目となる紅組としての出場が報道されていたが出場者としては選ばれなかった。


【人物】
■昔ジャニーズJr.に所属していたこともあり、整った顔立ちをしている。

■漫画収集が趣味で5000冊以上所持している。

■エンタの神様で、女性客から「やっちゃ〜ん」という声援が聞こえ「何でアタイの小学生時代の愛称を知ってるんだよ!」っと突っ込み、自分で小学生時代の愛称を暴露した。

■自身のブログでバンドをしていたことを語った。その際には作詞などもしていたが、あまり真剣なものではなかったと記述している。


【スケバン恐子】
■スカート丈の長いセーラー服(06年10月からスカーフが水色になった)、竹刀、ロングのパーマかつらを装備した女装キャラクター。一人称は「アタイ」。コージー冨田に「あゆに似てるな」といわれたのをきっかけとして誕生。関東スケバン連合の初代総長という設定。舞台上から観客を指名しツッコミ役をさせるという芸風が評判となりブレイク。2006年9月3日の「東京ガールズコレクション2006 A/winter」出演や、映画「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」特命宣伝刑事にと、幅広いジャンルで活躍している。

■ネタの内容は、スケバン恐子のボケに対して指定された言葉(例:「早いよっ!」「ダジャレかよ!」など)をツッコむというもの。

■指名する観客の数は当初は3人だったが今は2人である。観客を指名する際には、変わった呼び名を付けることがある。

■女装キャラとしては異例の美形なため、女性ファンが多い。観客に「カワイイ!」と言われると逆ギレする。

■芸の内容上、ネタ時間の調整が比較的容易にできるため、生放送の帳尻合わせにも使われる。大晦日のエンタの神様拡張版とも言える番組「輝け!今夜決定2005年お笑いネタのグランプリ」では審査員が大賞を選考している間にネタを行っていた。


【紙芝居「スケバン恋愛塾」】
エンタの神様2006年8月19日放送分より始まったオリジナル作品。その際は冒頭で「実はアタイ、カズオって人が好きになっちゃってさぁ」で始まり、「天使」「悪魔」という札を出して観客に手助けをしてもらうというシミュレーション。

このタイトルの紙芝居を披露してからは、紙芝居の題材がバラエティ番組であるときに、台詞の配役名が「カズオ」「キョウコ」となっていることが多くなっている。「カズオ」はこのスケバン恋愛塾に登場する、スケバン恐子が好きになった男の人の名、「キョウコ」は勿論スケバン恐子が由来である。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070406-00000023-dal-ent

「佐津川 愛美」プロフィール&エピソード

佐津川 愛美(さつかわ あいみ、1988年8月20日 - )は、日本の女優、女性アイドル。

静岡県静岡市葵区出身。ホリプロ所属。

静岡市立城内中学校−日出高等学校卒業。

身長150cm。B82・W56・H85。血液型はO型。


【来歴・人物】
■151cmの小柄な身体とは対照的な大きな瞳が魅力。

■14歳の時に、母と上京して買い物をしていた際、優香をスカウトした人物として知られる津嶋敬介にスカウトされる。中学卒業後に上京し、芸能界活動を始める。

■映画初出演となった『蝉しぐれ』では、第48回ブルーリボン賞助演女優賞にノミネートされた。新人俳優が同部門にノミネートされるのは異例のことである。

■近年は女優業で活動の幅を広げる。なお、ドラマ『ギャルサー』や『トゥルーラブ』で共演した新垣結衣とは、同じ学校(日出高校)に在学しており、『トゥルーラブ』撮影当時は同じクラスだった。

■ジュニアオリンピック新体操全国大会出場経験あり。(東海大会個人総合3位/全国大会ジュニアオリンピック個人総合24位)

■人間全体として好きな人がいないが、やさしい性格の人で、顔はWaTの小池徹平が好きと言及している。

■黒はんぺんとディズニーのミニーマウスが好き。

■2005年、フジテレビ系『がんばっていきまっしょい』でボート部員の中崎敦子役として出演。一躍、注目される。

(出典:Wikipedia)

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