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渡辺謙 エピソード&プロフィール

渡辺 謙(わたなべ けん、1959年10月21日 - )は、日本の俳優。

新潟県北魚沼郡小出町(現、魚沼市)出身。演劇集団 円を経て2002年よりケイダッシュ所属。ハリウッドでの代理はエンデバー・エージェンシーが担当。身長184cm、体重80kg。血液型はA型。「謙」の名は出身県である越後の戦国武将、上杉謙信に因む。日本国内・海外双方において映画を中心にテレビドラマ、舞台、テレビコマーシャルと幅広く活躍。2007年現在、生存している日本人で世界的に最も知名度の高い俳優の一人。


【来歴・人物】
《上京からデビューまで》
共に教師をしていた両親の元に生まれ、幼少期を新潟県高田市(現上越市)で過ごす。その後、親の転勤に伴い新潟県北魚沼郡(現魚沼市)に移る。新潟県立小出高等学校在学時には吹奏楽部に所属し幼少のころから親しんできたトランペットを担当。高校卒業後の1978年、音楽大学進学を目指し上京。しかし正規の音楽教育は受けておらず、また渡辺が中学生の時、実父が病に倒れ仕事が出来なくなったこともあり学費捻出の困難などの問題から断念。劇団ひまわりに入団するも、カリキュラムの問題から退団(同劇団の広告に「出身者」として渡辺の名が挙げられているが実際に在籍したのは3ヶ月ほどである)。

劇団ひまわり退団後の1978年、芥川比呂志演出による演劇集団 円公演『夜叉ヶ池』を観劇して感銘を受け、翌年に同劇団附属の研究所に入所。研究生ながら蜷川幸雄演出の『下谷万年町物語』で主人公の青年役オーディションに合格したことは大きな話題となった。後年、多くの演劇・テレビ・映画関係者達が、かなり早い段階から渡辺の才能に目を付けていたと語っている。

1982年、演劇集団 円の劇団員に昇格し、『未知なる反乱』でテレビデビューを果たすと、1984年には『瀬戸内少年野球団』でスクリーンデビュー。その後も『タンポポ』、『海と毒薬』などの映画に相次いで準主役級で出演。1986年のNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』でお茶の間にもその名が知られるようになった。


《『独眼竜政宗』と闘病》
1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で主役の伊達政宗を演じ、39.7%という大河ドラマ史上最高の平均視聴率を獲得。卓越した演技力と存在感に加え、容姿と日本人離れした体躯にも恵まれた彼は一躍全国的な人気を獲得、一気にスターダムにのし上がる。

以降、舞台・テレビドラマなどで次々と大役を演じ、前途洋々に見えた1989年、映画初主演となるはずであった『天と地と』の撮影中に急性骨髄性白血病を発症し降板。再起はおろか生命も危ぶまれたが、約1年の闘病の後、治療を続けながらも俳優業に復帰。定期的に入院治療を続けながら、単発TVドラマ作品を中心に活動するが、大きな仕事は出来なかった。経過は良好に見え、一応治療が終了した1993年、NHK大河ドラマ『炎立つ』に再び主演、完全復活をアピール。しかし発病から5年経過し完治したとみなして良いと思われた矢先の1994年に再発。だが再治療の経過は良好で、翌年無事復帰を果たす。


《方向性の模索》
病気再発を経て再復帰した時期と前後して、初の本格的娯楽時代劇シリーズドラマ『御家人斬九郎』、2時間ドラマでは『わが町』『鍵師』などが当たり役となりシリーズ化されたが、渡辺はあまりにも強烈な「政宗」のイメージと、俳優としての評価以前にまず病気のことを持ち出されることなどに悩んでいたという。三十代の終わりを機にこれらの人気シリーズを全て終了させるとともに、従来彼のイメージにはなかった悪役・ダメ男役・格好悪い役柄などを積極的に演じるようになる。2000年には、『池袋ウエストゲートパーク』に出演。体当たりな役柄であったが若年層からの支持を得ることが出来た。2001年、久々に「演劇集団 円」の公演『永遠 Part2』で舞台に立つが、これが結局「円」での最後の舞台となった。2002年元日をもって演劇集団 円を退団、所属をケイダッシュに移す。


《海外進出と映画初主演》
海外映画初出演となった2003年公開の映画『ラストサムライ』での演技が各方面から多大な評価を受け同年度の第76回アカデミー助演男優賞ならびにゴールデングローブ助演男優賞にノミネート。これを機に現在はロサンゼルスに居を構え、『バットマン ビギンズ』や『SAYURI』など海外映画に立て続けに出演。当初通訳を要していた英会話に関しても猛勉強の末現在では殆どの会話を自らこなしている(現地での生活ぶりや英語学習の様子は「AERA English」に掲載中)。2005年には米国のTIME誌の表紙にグラビアが掲載されたりピープル誌が企画する「最もセクシーな外国人男性」に選出されたりするなど、現在米国における知名度が最も高い日本人俳優の一人である。

日本映画では2006年に荻原浩の小説『明日の記憶』映画化作品で映画初主演を果たす。同作品の映画化に当たっては各映画会社の駆け引きがあり、渡辺を含む複数の日本を代表する大物俳優達が候補に挙がったが、自らも闘病経験があり原作に人一倍の共感を持てた渡辺が荻原に映画化を熱望する旨の手紙を直接送付したことで(荻原は最初誰かの悪戯だと思ったが、紛れもなく渡辺本人からのものだと知り仰天したという)、渡辺の主演で映画化された。白血病の発症以降、患者役や医療関係者役、難病を扱った作品は避けてきたが、若年性のアルツハイマー病に冒されていく主人公を好演。また、映画公開と同じ時期に発表した自らの著書『誰?―WHO AM I?』で、かつて白血病の治療中頻繁に受けた輸血(主に血小板輸血)が原因でC型肝炎ウィルスに感染し、『明日の記憶』の撮影はその治療の副作用に悩まされながら敢行していた事を告白。幸いにも、現在は急性骨髄性白血病・C型肝炎ウィルス感染ともに問題のない良好な状態を保っているという。さらにこの作品で初めてエグゼクティブ・プロデューサーを兼任。映画の普及とアルツハイマー病への理解を促進するため全国各地を奔走した。(ただし渡辺本人は「自分はプロデューサーというよりも『イントロデューサー(紹介者)』である」と述べている)

2006年にはクリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に栗林忠道役で海外映画初主演。他の主要日本人キャストはオーディションの末選出されたが、渡辺のみ監督から直接出演要請があった。外国語映画賞を受賞したゴールデングローブ賞の授賞式において壇上のクリント・イーストウッド監督は「偉大なるケン・ワタナベに敬意を表したい」と渡辺に言葉を贈った。

かつては早川雪洲、上山草人、マコ岩松、ナンシー梅木、高美以子、谷洋子、岡田英次、丹波哲郎、高倉健、三橋達也、山村聡、若山富三郎、浜美枝といった日本人俳優が海外の映画を彩ってきたが、松田優作の夭折や三船敏郎の逝去により長らくハリウッド俳優と呼べる日本人の存在が途絶えてきた。近年、渡辺の他にも真田広之・役所広司といった日本を代表する俳優も海外作品に相次いで出演しており、新たな日本製ハリウッドスターの誕生が期待されているが、渡辺が海外において独自の地位を確立しつつあることがその大きな契機となっているとの見方も多い。

次回作として、ジョン・ウー監督の『三国志「Battle of Red Clif」』の曹操役(渡辺の出演は現段階では不確定)、ヒュー・ジャックマン主演『Wolverine』で、シルバーサムライ役などが予定されている。

2007年2月25日(日本時間26日)、第79回アカデミー賞授賞式に出席し、世界的に有名なフランスの大女優カトリーヌ・ドヌーヴと2人で非英語圏俳優代表として舞台に立ち、賞が設定されて50周年を迎えた外国語映画賞の歴史を紹介した。


《私生活その他小知識》
1983年に結婚した前夫人とは2年に及ぶ調停の末、2005年の3月に離婚。時を同じくしてサスペンスドラマの共演を機に知り合った女優の南果歩と本格的に交際を開始し同年12月3日に再婚。二人の交際に関しては日本の芸能マスコミもノーマークで、AP通信配信の写真で渡辺が映画『SAYURI』のニューヨークプレミアに同伴した「未確認ゲスト」の女性が南と判明すると同時に二人の結婚が公表され、世間を驚かせた。前妻との間に儲けた第1子(長男)の渡辺大は俳優として、第2子(長女)の杏はファッションモデルとして活躍している。また、南が前夫の辻仁成との間に儲けた1子(男子)とも養子縁組している。

趣味は乗馬や料理など多岐にわたる。無類の蕎麦好きでテレビ番組に出演した際、十割蕎麦を「ケレン」と評するほどのこだわりを持つ。スポーツではラグビーの神戸製鋼、プロ野球の阪神タイガースのファンとして知られる。特に阪神タイガースに関しては熱狂的なファンであり、阪神の試合結果はハリウッドに活動拠点を移した現在でもインターネットなどで随時情報収集しており、渡辺自身も多忙な中、2005年9月19日と9月20日には阪神甲子園球場に駆けつけ、阪神×中日戦を観戦。20日には関西ローカルの独立UHF局のナイター中継『サンテレビボックス席』に5回までゲスト出演した。

かつて京都などで多くの仕事をしていた経験上、関西弁が堪能である。関西ローカルのテレビ番組に出演すると、常に関西弁を話すわけではないが、言葉の端々で流暢な関西弁が出てくる。特に東日本出身者によく見られる、言い回しだけは関西弁でアクセントは全く違うといった聞き苦しさを感じさせることはほとんどない。

上記のアカデミー賞のプレゼンターを一緒に務めたカトリーヌ・ドヌーヴが、約2週間後の3月13日に「フランス映画祭2007」の代表団長として来日。東京・港区のフランス大使館での記者会見の時に渡辺の印象について聞かれ、「彼の英語は素晴らしいと思った。非常に才能があって、すてきな方ですね。」と語った。

高校卒業後に上京した際、飲食店でアルバイトを始めたが、そこで初めて「サワークリーム」というものに出会った。「生クリームが傷んでいる!」と思ったそうである。

(出典:Wikipedia)

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渡辺満里奈 エピソード&プロフィール

渡辺 満里奈(わたなべ まりな、1970年11月18日 - )は、日本の女性タレント、司会者。本名、名倉 満里奈(なぐら まりな、旧姓:渡辺)。


【人物像】
東京都大田区出身。エイプリル・ミュージック→SMAエンタテインメント所属。

血液型はB型。中延学園女子高等学校卒業。

「満里奈」という名は、父親がヨット好きだったため、マリーナに因んで命名されたといわれている。

『夕やけニャンニャン』の「ザ・スカウト アイドルを探せ」では、月曜日の登場から圧倒的な存在感を示し、金曜日には高得点で合格を果たした。その際、とんねるずに「おニャン子は君のものだ!」とまで言わしめた。それほどまでの逸材であったが、後に本人曰く、この合格以前にいくつものオーディションで落選していた、とのことである。

翌週の1986年3月27日におニャン子クラブ会員番号36番としてデビュー。とんねるずの予言を具現化するように、所属早々より人気を博し、後期おニャン子クラブの主力メンバーとなった。また、とんねるず(と秋元康)にかわいがられ、妹分的な位置づけとなった。おニャン子クラブ時代は同じ渡辺姓の渡辺美奈代とともにW渡辺、ワタナベズと呼ばれた。(ただし、二人は不仲であるというのが定説で、満里奈自身はほぼそれを認めている)

おニャン子クラブ在籍中のソロデビュー曲『深呼吸して』は、当時のオリコン初登場1位最年少記録(15歳11ヶ月)であり、2001年(平成13年)3月27日、当時モーニング娘。だった後藤真希のデビュー曲『愛のバカやろう』(15歳6ヶ月)が登場するまで、約15年間この記録は破られなかった。

ただ、歌唱力の不安定さは否めず(同じ年の工藤静香と比べても大きな差がある)自曲のほかアルバム曲『避暑地の森の天使達』をテレビで歌った際には、他の2人のメンバーに苦笑いを入れられながら歌いきった。

おニャン子クラブ解散後も歌手としてアイドル番組やバラエティーなどに出演。当初はアイドルとして、事務所の意向に沿った形で当時のアイドルらしい衣装や楽曲で出演していたが、途中から満里奈自身のセンスが事務所に買われ、独自の路線で曲や衣装なども変わっていき、他のアイドルとはまったく別の方向性で同性からも人気を得た。

その後、とんねるずと秋元康の縁から『とんねるずのみなさんのおかげです』にレギュラー出演、お笑いの資質も見出され芸歴に幅が拡がり、後の司会業をはじめとする様々な番組の出演への道が開けた。

また、その頃から本人の意向により、おニャン子メンバーであったことを表に出したがらないようにもなる(コンサートでもファンに対し、おニャン子時代の応援グッズは持ってこないように通達が出ていた)。そのため、他のメンバーとも積極的に関わろうとはしなくなったが、フジテレビがお台場に移転した際の特番で、一度だけ『セーラー服を脱がさないで』を元メンバー達と一緒に歌っている。

1990年代前半はアンテナ系タレントとしてサブカル系人脈と交流を深めるが、サブカル好きの女子には嫌われていた。またナンシー関や町山広美、山田美保子などのコラムニストから「なぜあんなに売れているんだ?」とバッシングを受ける。

現在では、彼女のファッション、旅行、健康などの本人の趣味による本が同性に好評で、その方面での人気が強まってきている。特に台湾通として知られている。

訪台が高じて(よく食べ、飲んでいたのであろう)一時的に体格が豊かになっていた時期があったが、現在はピラティス・メソッド(これに関しても著書「ピラティス道」を上梓)の実践でシャープな体型を維持している。

バラエティ番組においてタモリ、ビートたけし、みのもんた、とんねるず、古舘伊知郎といった強烈な個性の持ち主たちと堂々と渡り合う姿から「猛獣使い」の異名を持つ。

メントレGのメントレレストランの時に、城島茂に「30越えても恋人おれへん奴に負けられへんねん!」と言われたことがある。(その当時はまだ独身で、名倉潤と付き合っていたのかも不明。しかも城島とは同じ年で、渡辺が後に結婚したが、城島は現在も独身、彼女すらいない。)

夫はお笑いトリオ・ネプチューンの名倉潤。2005年4月5日、テレビ朝日の番組『銭形金太郎』で、共演している名倉との結婚を発表した。2005年5月5日に婚姻届を提出し、10月23日に東京プリンスホテルにて披露宴を行った。なお、自身の公式HPでの日記に度々書かれている「彼」「だんなはん」とは、たいてい名倉のことである。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070601-00000155-sph-ent

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和田アキ子 エピソード&プロフィール

和田アキ子(わだ あきこ、1950年4月10日 - )は大阪市東成区生まれの日本の歌手。本名は飯塚現子(いいづか あきこ)、旧姓和田。大手芸能プロダクションのホリプロ所属。血液型はO型。身長174cm(173cm説もある)。愛称は「アッコ」もしくは「アコ」。在日韓国人二世で、旧名は「金福子」(旧通名、金海福子)。


【プロフィール】
■1950年、大阪府大阪市生野区鶴橋出身。

■15歳の頃から、ジャズ喫茶などで歌い始める。174cmの長身から発せられるパワフルな歌声は評判を呼び、ホリプロ(当時はホリプロダクション)の社長、堀威夫直々にスカウトされる。当時、和田はバンドを組んでいて、バンドのメンバーと一緒にデビューできるものと思っていたが、実際にデビュー出来たのはヴォーカルの和田一人だけであった。また、学生時代は大阪の不良の番長として有名で、700人以上の舎弟を持つ女番長でもあったと言われる。通称・ミナミのアコ。

■3日で高校中退。(本人は自主退学と言っている。実際はバー・クラブなどでの歌手活動の為)

■デビュー前のアマチュア歌手時代には、大阪ミナミの繁華街で恐喝をされ殴られていた地方からの「お上りさん」を助ける。無一文の彼らに同情し泊れる宿を手配、宿代を肩代わりした。その上、帰路の汽車賃も工面し国鉄の大阪駅まで見送る等、親身になって面倒を見る人情家の面もある。(探偵!ナイトスクープからの情報)

■1968年10月25日、『星空の孤独』でレコードデビュー。キャッチ・コピーは「和製リズム・アンド・ブルースの女王」。このデビュー曲は話題にならなかったが、2曲目の『どしゃぶりの雨の中で』がヒットし、人気歌手の仲間入りをした。

■1970年、NHK紅白歌合戦(この記事では以降、紅白と略す)に初出場。歌った曲は『笑って許して』。

■1972年、『あの鐘を鳴らすのはあなた』で、日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。この曲は自他共に認める和田の代表曲であり、名曲。2001年にWhat's Love?によって、2005年にはサンボマスターによってカヴァーされた。しかし、この曲の歌詞にはベトナム戦争への反戦メッセージが込められているといわれ、大ヒット曲にもかかわらず、当時のNHKに配慮し1972年の紅白では和田はこの曲を歌っていない(後年、紅白で4回歌った)。

■1973年から日本テレビ系のバラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」に出演。番組中で「ゴッド姉ちゃん」と呼ばれ、せんだみつおや湯原昌幸、ザ・デストロイヤーらとドタバタギャグを繰り広げた事で、デカくて・コワい・強いというイメージが全国的に広まった。姐御肌のキャラクターや、女性としては身長が高く(174cm)、靴のサイズが大きい(27cm)ことなどによる。

■1976年にプロモーション会社社長と結婚したが、8ヶ月で離婚。

■1979年、「ゴッド姉ちゃん」のイメージが定着してしまったのを嫌い、「うわさのチャンネル」など、テレビのバラエティ番組のレギュラーを降り、歌手一本で仕事をすると宣言。その思惑の違いから日本テレビと折り合いが悪くなる(現在は和解)。その後、人気は一時低迷。

■1981年、現在の夫であるカメラマンの飯塚浩司と再婚。この頃から、萩本欽一の番組に出演するようになる。

■1985年から後に長寿番組となる「アッコにおまかせ!」(TBS系、毎週日曜日 11:45〜12:55、JST)の司会を担当。現在まで続く高視聴率番組である。この番組で、一時低迷していた和田は復活。紅白にも歌手として返り咲く。

■1987年、紅白の紅組司会者を務める(その後1988年、1997年にも司会)。

■1998年、『今、あなたにうたいたい』を歌い、紅白の大トリを務める。抜群の声量を生かし、曲の途中ではハンドマイクを使わず歌うなど、パフォーマンスを見せた。

■2005年7月13日付のオリコンチャートでm-floとのコラボレート作品『Hey!』がオリコン初登場9位を記録し、自身33年ぶりとなるオリコンTop10入りを果たした。また、同曲では自身のキャリアにおいて初となる白組での紅白出場を果たす。

■2005年、週刊文春8月11/18日夏の特大号において自らが在日コリアン2世であることをカミングアウトした。

■同年10月7日、母の和田森子が死去。その為、8日の「アッコのいいかげん」と9日の「おまかせ!」を欠席した(8日は通夜、9日は告別式となっていた)。


【エピソード】
■芸名の「アキ子」も「アキ」がカタカナであるのは、本名の「現子」が普通に読めないので、当時のホリプロの社長に付けられた。ちなみに本名も当て字である(戸籍#ワンポイント参照)。

■くすぐりが大の苦手であり、耳に息を吹きかけるだけで過剰な反応を見せる。本人曰く「耳に息を吹きかけられると女になる。」とのこと。

■強面イメージとは裏腹にあらゆる動物が苦手である。特に蛇が大嫌い。

■そんな動物嫌いで有名な和田だが、中央競馬・地方競馬の馬主として知られている。4頭の馬主で、最近では自分の曲(2003年発売)から名づけた「ルンバデブンブン」とアルバムのタイトルから名づけた「ダイナマイトソウル」いう名前の競走馬の馬主となっているが、実質的な管理等は実弟に任せている。(本名の飯塚現子名義)また、2004年に日本中央競馬会創立50周年記念としてジャパンカップジャパンカップダートの両GIを同日に東京競馬場で開催したゴールデンジュビリーデイでは日本の国歌「君が代」を独唱した。(在日朝鮮人であっても、必ずしも君が代に不快を示すとは限らないのである。) 更にジャパンカップで優勝プレゼンターを務めた。

■大のヘビースモーカーで、特に麻雀をやっていた時は1カートン(200本)は吸っていたという。これが原因で、肺炎になってしまったことを2006年2月11日放送の『アッコのいいかげんに1000回』でカミングアウトした。

■デビュー当初は大柄な体格が元で先輩歌手から「態度がでかい!」と苛められていた。

■若手の頃に不在の楽屋を狙った窃盗犯を取り押さえ、警察から表彰された事がある。これは当時の大手新聞各紙に大いに報じられたが、新聞紙面で年齢が公表され、事務所がデビュー時に決めたプロフィールとズレが生じてしまった。それ以後、事務所は訂正した。

■極度の上がり症である。

■歌う前には精神集中を高める為に、前日には極力バラエティ番組の収録予定をいれず、また1時間前から楽屋には誰も入れない。

■ステージに立つ前は、必ず敬愛するレイ・チャールズの写真にキスをしている。

■そのレイ・チャールズの使用していたサングラスを所有しているが、何故かトイレに飾っている。そのサングラスをふざけてかけた柳葉敏郎を「しばきたかった」と語っている。

■芸能界のボス的存在(ご意見番)と言われる事もある。しかし、本人はこれを否定。「芸能界のご意見番と言われるようだがそんな風に言った事はない、言われているのなら返上する」とコメントした逸話がある。

■先輩歌手には礼儀が正しく、同事務所の先輩でスカウト部長でもある守屋浩等には丁寧に接している。

■いくつかのヒット曲を持つ和田だが、オリコン最高位はシングル8位、アルバム25位止まりである。2003年発売のシングル「トゥモロー〜ジョージアで行きましょう編〜」はオリコン77位(サウンドスキャンでは90位)を記録し、1992年発売の「愛・とどきませんか」以来11年ぶりのオリコン100位以内ランクインシングルとなった。2006年発売のアルバム「今日までそして明日から」はオリコン76位を記録し、1972年発売の「オリジナル・ゴールデン・ヒット集」以来34年ぶりのオリコン100位以内ランクインアルバムとなった。

■オリコン調べによる1990年代(1989年12月1日〜1999年11月30日)のレコード・CDのトータル売上金額は2億220万円で総合993位である(「オリコンウィーク・ザ・一番」2000年1月3日・10日合併号より)。

■リップサービスのつもりで悪者キャラクターを演じることもあるが、その行為が誤解されて週刊誌・ワイドショー等で叩かれることも多い。

■笑福亭鶴瓶が和田アキ子に酒の席に付き合わされ、一晩で胃炎で倒れた。

■作家の伊集院静と一緒に飲みに行った時「人の事を呼び捨てにするのは良くない」と説教され、その時は反省したらしいが、すぐ元へ戻った。

■タレント好感度アンケートでは常に上位にランクされる。幅広い層に人気がありに高い視聴率を稼げることから新番組では第1回のゲストに呼ばれることも多い。

■和田が初回に出演した番組は、人気番組になるというジンクスがあるとされ、大型番組・主力番組のゲストとして出演することも多い。

■『森田一義アワー笑っていいとも!』(フジテレビ系)の中のコーナー、「テレフォンショッキング」の最多出場ゲストとしても知られている(2006年10月30日放送分をもって18回目)。コーナー内では毎回のように司会のタモリにくすぐる真似などをされ、からかわれている。

■毎年紅白終了後に、マネージャーと共に新年の干支の被り物をして通路を通る。

■2003年に、久本雅美とユニット・ババロア@を結成して曲を出した。

■「歌のトップテン」の司会を務めていたが、台本通りに司会をしなければならず、アイドル歌手に毎週のように媚を売るような司会をすることは相当なストレスになった、と後年に当時の心境を吐露している。

■2004年8月25日、『愚かな女たち』(作詞:秋元康、作曲:大田黒裕司)が発売され、ミュージックフェアなどテレビ番組などに出演し全国放送で同曲を歌唱しアピールするものの、同曲のセールスはオリコン調べで470枚(最高順位196位)だった。

■また、和田はプライベートで肉体改造を行っており、プロ野球の清原和博が通っているジムに通っている。

■TBS系報道番組『筑紫哲也 NEWS23』の人気コーナーだった「ちくしてつやの真夜中トーク」に和田アキ子が登場した際、和田がほろ酔いし、暴れたことからこのコーナーは終了してしまった。

■R&B歌手なので初期に会社が洋モノの名前がいいということで芸名が『マーガレット和田』になりかけたことがあるが、その案が出たときに皆が引いてしまいこの案は結局中止になった。そのことをタモリに後年話した所「イメージというものがあるでしょう!」と言われたことがある。

■2005年7月13日、m-flo loves EMYLI & YOSHIKAの「Loop In My Heart」と両A面シングル「HEY!」が発売された。(「m-flo loves Akiko Wada」名義)同シングルはオリコンで9位を記録し、和田にとっては33年6か月ぶりのオリコンTOP10シングルとなった。

■2005年、週刊誌からバッシングを受ける。アッコにおまかせでレギュラーだったよゐこの有野晋哉が結婚する際、その発表を優先的にめちゃイケを通して行った。それをきっかけに「和田アキ子は嫌われている」と一時期マスコミに叩かれた。現在は沈静化。

■真冬に出川哲朗と同じホテルの別の部屋に宿泊し、和田が酔った勢いで「人間が寒さにどこまで耐えられるか見たいんや。」とパンツ一枚でバルコニーで一晩過ごすよう強要。出川は携帯で連絡を取るも、和田のマネージャーが和田の部屋の鍵を開ける事を拒否し、凍死寸前まで追い込んだ。これ以外に酔った勢いで車のドアを破壊したなどのエピソードが同席した芸能人らにより伝えられている。

■ホリプロでは在籍期間が女性タレントでは最長で、全体でも守屋浩に次いで長い。

■CDケースの開け方がわからず、殴り割ってCDを出していた為、友人宅でCDがケースに入っているのを見て驚いた。

■松本人志に電話をした際、その声色から見知らぬ男性と間違われて「誰じゃおっさんボケ!」と怒鳴られたことが二回ある。

■東国原英夫が気を使って『あの、知事なんて堅苦しい言い方なさらなくて結構ですから』と言うと、即座に『お前』と呼んだ。

■番組にゲスト出演した博多華丸の児玉清の物マネを『これ本当に似てんの?』と批判した。


【間違ったエピソード】
和田アキ子自身がネタとして言った事、または他の者がネタとして言った事が事実となってしまっている事が多い。間違ったエピソードは主に、ニッポン放送「ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回」で否定・訂正している。

■歌手・小林幸子との喧嘩、実際には喧嘩などしておらず、会うのも年末の紅白出演時のみでその時しか会えないので喧嘩しようがないとの事。

■松田聖子とは犬猿の仲と言われているが、一時期不仲ではあったことはあったが、現在は時々電話をしあうくらいの仲との事。

■キン肉マンのテーマソング「キン肉マン Go Fight!」や「富士サファリパーク」のCMソングを歌っているのは和田であると言われる事があるが、歌っているのは二文字違いの串田アキラである。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070408-00000052-sph-ent

若槻千夏 プロフィール&エピソード

若槻 千夏(わかつき ちなつ、1984年5月28日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。本名、栗原 千春(くりはら ちはる)。プラチナムプロダクション所属。


【プロフィール】
愛称: ちぃ
ちぃちゃん
ちっち
ちなっちゃん
チナッティー
生年月日: 1984年5月28日
現年齢: 22歳
出身地: 日本・埼玉県比企郡吉見町
血液型: A
公称サイズ(2006年時点)
身長: 159 cm / 5′ 4″
体重: 48 kg / 106 lb
BMI: 19(普通体重)
スリーサイズ: 83 - 62 - 87 cm
ブラのサイズ: C
靴のサイズ: 24.5 cm


【来歴】
■2001年、17歳の時、友人と渋谷109に遊びに来ていたところを現所属事務所からスカウト。同年、成人雑誌の水着グラビアでデビュー。(デビュー当初は本名で活動)雑誌グラビアやテレビ朝日内のサイト『WEBアイドル図鑑』を中心に活躍。その頃に現在の芸名に改名。同年11月よりTBS『キャイーン式(スタイル)』の番組内企画「ヒデキ(ウド鈴木)の妹オーディション」にセクシー部門代表として地上波初出演。オーディション合格者で結成された期間限定ユニット「いもこん」のメンバー(五女)として活躍。

■2002年、ミスマガジン2002にエントリーしセミファイナルまで進出。ファン投票4位になりファイナリスト選出が確実視されていたが、同じ事務所の伊織・星野加奈・高杉さとみとともにJGTCイメージガール「wi☆th」のメンバーに抜擢されたことや、講談社『週刊ヤングマガジン』のライバル誌である集英社『週刊ヤングジャンプ』とのグラビア専属契約が締結された為、これを断念。同年9月「wi☆th」名義でavex traxからCDデビューを飾っている。

■2003年、年頭から本格的にグラビアからテレビ、ラジオ業界への進出を開始。当時はまだ深夜枠放送だったフジテレビ『トリビアの泉』、『クイズ!ヘキサゴン』、テレビ朝日『銭形金太郎』などバラエティ系番組を中心に出演。同年10月日本テレビ系『踊る!さんま御殿!!』に出演。明石家さんまと初共演するも殆ど喋れず悔しい思いをしたことが後にバラエティタレントとしての稀有な才能を開花させることになる。同年11月よりフジテレビ『LIVE2003すぽると!&ニュース』のレギュラーリポーターとして仲根かすみとともに抜擢、翌年9月末まで出演。

■2004年、3月公開の映画『呪霊 THE MOVIE 〜黒呪霊〜』にて初出演・初主演でスクリーンデビュー。同年4月、テレビ東京『中山道』の出演をきっかけに中山秀征に気に入られ、以後共演番組が増える(「チナッティー」の愛称はこの当時につけられたもの)。同年5月、フジテレビ『ディヴィジョン1 STAGE2・ランナーズハイ』にて民放ドラマ初出演。同年9月、熱中症と急性胃腸炎を併発し緊急入院し1週間後に退院。同年10月、主演映画2作目『想色〜オモイ・ノ・イロ〜』公開。公開初日にテレビ放送されたフジテレビ系『めちゃ×2イケてるッ!』の特番「国立め茶の水女子大学付属高等学校第1回抜き打ち中間テスト」における発言により、バラエティタレントとして一般知名度を一気に上げた(放送内容は抜き打ちテスト (めちゃ×2イケてるッ!)を参照)。

■2005年、年初よりフジテレビ系『うまッチ!』にて民放地上波番組の初メイン司会に抜擢。同年4月よりフジテレビ系『スーパー競馬』メインキャスター。他にも日本テレビ系『メレンゲの気持ち』などレギュラー番組が一気に増える。同年、ヘアーカラーリング・アワード2005タレント部門、第1回Best Jerseist女性部門受賞。

■2006年11月6日、「神経性胃炎 および 潰瘍性大腸炎」で体調を崩した事から、全てのレギュラー番組出演と年末年始の番組収録をキャンセルしたが、2006年12月23日深夜放送の『うまッチ!』より復帰した。同年年12月、『うまッチ!』『スーパー競馬』などのレギュラー番組を降板。

■2007年1月18日にブログ「マーボ豆腐は飲み物です。」を開始。タイトルはマネージャー氏の発言に由来している(同ブログ2007年1月19日投稿の記事より)。しかし「その場のノリで付けてしまったので、後から考えたらもっといいタイトルを付ければよかった」と少々後悔しているようだ(2007年3月、アメブロスペシャルavex松浦社長との対談より)。


【人物】
■芸名である若槻千夏の由来は、満州事変の時の総理大臣である若槻禮次郎から取っている。特に深い意味は無く千夏自身は若槻が何をした人か深くは知らない模様。千夏は、若槻にあう字画からつけた。(本人のブログ2月5日分より)
■家族構成は、父、母、兄、ネコ2匹(レモン&トマト)、イヌ1匹(ハチ)。デビュー後、埼玉の実家から出て東京で一人暮らし。

 ・デビュー当時の夢が「自分の稼いだお金で家族旅行をすること」と言っていたぐらい家族思いである。

 ・小動物が好きで、子供の頃はよく捨て猫を拾ってきて親を困らせたらしい。現在実家で飼われているネコ達も若槻自身が拾ってきたもの。しかし体の大きい動物は苦手のようで、競馬の仕事を始めてから競走馬に直接携わることも多くなったが、怖がっておっかなびっくり。だが初めて鼻面に触ることができたディープインパクトだけは大好き。

■好きな食べ物は、焼肉、シュークリーム、納豆巻き、お子様ランチ、ファーストフードなどのジャンクフード、ケンタッキーフライドチキンの皮。嫌いな食べ物はバナナ。小さい時にバナナを食べて気持ちが悪くなったことがトラウマになって食べられなくなった。芸能界入りしてからバナナジュースは飲めるようになった。またクレープやパフェも苦手である。

■好きな歌手は中島美嘉、徳永英明、福山雅治、EXILE。
 
 ・中島美嘉が今までリリースしたCDを全て持っているほどの大ファンである。『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』に中島美嘉が出演した際、「芸能界一中島美嘉好きなタレント」としてゲスト出演。電話番号を教え「電話を待っています」と真剣さを見せた。

 ・母親が徳永英明ファンであり、その影響から本人もファンになった。『堂本剛の正直しんどい』では『壊れかけのradio』のサビ部分を熱唱していた(本人いわく「ライブバージョン」)。

■特技は、デビュー時が掃除、ピアノ、携帯メールの早打ち(テンキーパッドの早押し)、キャベツの千切り(アルバイト採用のために特訓)、アイロン掛け、たこ焼き作り、古着のリメイク。


【性格を示すエピソード】
■非常にサバサバした性格で、熱し易く冷め易い。それ故、興味のあるものには何でもすぐ飛びつくが飽きっぽい。それゆえ、趣味もその時々で変わる。

 ・ダイエットのために始めたジム通いも中途半端に終わり、使用料の滞納で辞めさせられたことがある。

 ・無類の漫画好き。矢沢あい作品は全て好きで『NANA』はブレイクする前からの大ファンであり自身のバイブルだという。また音楽系雑誌「ザッピィ』の連載でファンから情報を得たことがきっかけになって男性向け漫画も読むようになり、『ONE PIECE」、『DEATH NOTE』などは特にハマった。一方、『魁!!クロマティ高校』『課長バカ一代』など野中英次作のナンセンスギャグ漫画も好む。また兄の影響からか漫画だけでなくアニメにも理解があり、特番『芸能人アニメ通が集結!徹底調査!!好きなアニメランキングベスト100』で『魔法先生ネギま!』に投票したことも。

 ・通販マニアでよく買い物をするが、飽きっぽい性格が災いし、到着した本棚を組み上げずに放置したり、商品が届く頃には興味を失っていることもしばしばある。『とんねるずのみなさんのおかげでした』に出演した際、通販で買ったまま箱も開けずに自宅に放置していたパン焼き機をオークションに出したことも。

 ・映画のDVDやフィギュア、小物、帽子の収集も趣味である。
中学生の頃はハローキティーが大好きで、実家の部屋はグッズで埋め尽くされている。

 ・『堂本剛の正直しんどい』に出演したのがきっかけで、ギターを始める。

■仕事に対しては非常に貪欲であり、努力家。興味のあることであれば、細かい作業を苦にせず黙々とこなせる。また負けず嫌いであると同時に非常に涙脆い面があり、番組中に感動して泣くことも度々ある。

 ・バラエティでの振る舞いや一般人に絡まれた際の対応等について、自ら出川哲朗に教わりに行ったほど。また、品川祐から「番組でトークをカットされないためのコツ」を教わったらしい(『爆笑問題の検索ちゃん』で品川が発言。ちなみにその際に品川が若槻に教えたのは「大御所の話にのっかること」だとか。所謂ひな壇芸人テクニックである)。

 ・自ら付けている競馬ノートと料理レシピをテレビ番組内で公開した(2006年『新堂本兄弟』)。

 ・バラエティ番組をハードディスクに録りためては自分のトークの反省や勉強を怠らない。これはかつて『踊る!さんま御殿!!』に出演した際、話の輪に入っていけず全く喋れなかった事で悔しい思いをしたのが原因、と後の雑誌インタビューで答えている。実際その研究成果をいくつかの番組で自ら発表していて(絶対に椅子に深く座らず「いつでも立てるように」前のめりに座っている、等)、他の芸人よりも素早くリアクションを取るシーン数多く見受けられる。

 ・『痛快!明石家電視台』のスペシャルで二度明石家さんまによって泣かされている。一度目はカーリング、二度目は村上ショージとの中華料理対決。またフジテレビの深夜番組において「写真集の発売イベントで昔から応援しているファンの皆さんが大勢集まってくれたことに感激して泣き出してしまい、イベントを中断して化粧直しをした」という関係者コメントが放送されている。

■頭の回転が早く、その場その場での対応力に優れている。番組で共演した細木数子、鳥越俊太郎等も一目置いた。ただし一般常識に疎く、特に漢字に関しては壊滅的に知識がない。
運転免許筆記試験に6回落ちた。実技は申し分なかったが、漢字が読めないという致命的な難関が待ち構えていた為である(詳細は後述のエピソードを参照)。

■外見からは意外に思われがちであるが、家事全般が得意。料理、洗濯、掃除、裁縫なんでもこなせる。

 ・小学4年生頃に母親が突然家事を放棄してしまったため、生きていく為に自分でなんでもやるようになった(『ウチくる!?』に出演した時、母親が登場してその証言が正しいことを自ら証明)。

 ・料理に関してのエピソードも豊富。一度だけ出演した『愛のエプロン3』で下エプ評価も、『料理の鉄人』に鉄人として出演していた陳建一が「料理が上手くなる素質はある」とコメント。2006年正月特番『堂本剛の朝までしんどい』では、出演者に振舞った特製エビチリソースが絶賛された。また同年の『明石家電視台in韓国・済州島』で村上ショージとチャーハン対決を行った際も、明石家さんまから高評価を受け対決に勝利した。またたこ焼き作りにはこだわりがあるようで『さんまのまんま』に出演した時は自前のたこ焼き作りセットを持ち込み、明石家さんまに振舞ったことがある。

 ・部屋の掃除なども欠かさない綺麗好き。デビュー当時、風呂嫌いと発言したことで汚ギャルと思われていた時期もあるが、単に「すぐのぼせるので湯船に長く浸かれない」という理由だった。

 ・裁縫が得意で、親にミシンをプレゼントされてからは古着のリメイクを好んで行なう。

■付き合いで外に出ることも多いが、基本的にインドア派。仕事の合間を使ってショッピングはよく行く。ただし周囲への気配りはとても良く、関係者の間でも評価が高く可愛がられる。友人や後輩の面倒見も良いので、頼られることもしばしば。事務所が年1回行なっている日帰り旅行の時、後輩たちの為に自腹で大量の差し入れを持って現れたりする。友人関係は浅く深く付き合うほうだと公言(2007年3月10日付公式ブログより)。お互いに友人と認識しているのは安田美沙子、ウエンツ瑛士、MEGUMI、KABA.ちゃん、東原亜希ほか数人だけだという。また自身を「姉さん」と慕う年下の大沢あかねを可愛がっている表現が多数見受けられる。

■異性に対してはシャイで引っ込み思案。自分からは好きと告白できない。二人きりになると照れてしまって何も喋れなくなる。それゆえ、グラビア出身の女性タレントとしてはスキャンダルが世間に流れることがあまり無い。男性の好みは所謂「面食い」である。ミーハーな性格で周囲のブームに乗っかって好きになってしまうことも多い。

 ・『LIVE2003 すぽると!&ニュース』のレポーター時代、当時のイケメンの代名詞であったサッカーのデビッド・ベッカム(レアル・マドリード)のファンになり、来日記者会見で目線をもらっただけで泣き出してしまう程だったが、母より借りた韓国ドラマのDVD『冬のソナタ』をきっかけにペ・ヨンジュンファンに鞍替えした。好きが昂じて2005年夏のオフには母と共にプライベートで「冬ソナツアー」にも参加した。


【エピソード】
●デビュー前
・子供の頃は背が伸びず、130cmぐらいの小さな女の子だった。オテンバで、小学校にお菓子持っていって食べてたり、他のクラスに紛れてプールで泳いでたり、通知表には「クラスで一番活発な女の子です。でも授業中まで延長しすぎ」と書かれた。

・中学時代、当時憧れていたバスケットボール部の先輩に僅かでも近付きたかった一心から、スポーツ音痴の自分にも出来る種目で、練習が同じ体育館内(部活中ずっと見ていられる)という理由で卓球部に所属。片思いは実らなかったが、デビュー後、某番組で憧れの先輩に再会、告白するも相手に彼女がいてあえなく振られた。

・高校時代はパソコン部に所属。

・高校時代、アルバイト先の採用に受かる為にキャベツの千切りを特訓。ところが先に別の人間が採用されてしまった為に無駄な努力となった(ちなみに「キャベツの千切り」はデビュー当時のプロフィールに特技として載っている)。

・芸能界に憧れていた母親の影響からか、自身も早くから芸能界に興味があったようで、モーニング娘。の、特に後藤真希のファンだった。スカウトされた時は自分よりも母親のほうが喜んだという。しかし本人は所属事務所の人間に詳しい話を聞くまで「芸能界」を「『芸能会』という名前の1つの会社」と思い込んでいたらしく、「デビューすればモーニング娘。に入れると思っていた」と後にいくつかの番組で語っている。

・スカウト後グラビアデビューしてから暫くの間は、父親に芸能界入りを知らせていなかったが、ある日電車の中吊り広告に父親が気付いてしまい発覚。「3年間頑張って芽が出なければ辞める」という約束で芸能界入りを認めてもらった。

・もし芸能界デビューしていなかったら地元の製缶工場(東洋製罐)に就職する予定だった(2006年『新堂本兄弟』より)。

●デビュー後
■キャラクター
・バラエティー番組で見せる言葉遣いが荒いキャラが特徴。言動が極めてストレートで、共演者に「それ、〜じゃん!」「意味ねー!」「すげー!!」など、いわゆるギャル言葉で応答する事が多い。これらの面については世間でも賛否両論であるが、自らは「芸能界で生き残る為に毒舌キャラを演じている」と発言している。また島田紳助、中山秀征、細木数子他、多くの番組共演者からその頭の回転や機転の良さ、気配りを評価される場面や、涙腺が脆く番組内で涙を見せる場面も多くあり、口は悪いが憎めないキャラと言うのが一般的な評価といえる。しかし口の軽いおしゃべりなキャラが災いし、男性芸能人から携帯の電話番号を教えてもらえないという笑えないエピソードも。自身が周囲の意見を統合したところ曰く「話すといろいろ外でバラされそうだから」。そんな中で芸人の原口あきまさには無理矢理、携帯の電話番号を交換してもらった(フジテレビ『うちくる!?』で原口が同席して時の発言)。

 ・ラジオ番組で雌犬のチンチンはなんていうのと聞かれ「マンマンだよ。」と放送禁止用語寸前の下ネタを言った事がある。

・グラビアアイドルとしての活動を始めてから半年ほど、小遣い稼ぎのために事務所に黙ってビル清掃の早朝アルバイトを兼務していた(「徹子の部屋」など数々のトークバラエティーで繰り返し発言)。

・2004年、フジテレビ『めちゃ×2イケてるッ!』の「オールスター夢の激突8周年感謝スペシャル バカまん決定!!め茶の水女子大附高校 抜き打ち中間テスト」の回において出演者の中で最下位の成績を収め、「バカまん」との称号を得る。本人はこれに反発し「(私は)バカまんじゃありません! ヤリマン(あくまでもやる気満々の意味)です!!」と叫んだ。この日日本列島を台風が直撃し在宅率が多かったことと番組内容の面白さが相まって、同番組の視聴率は急上昇。バラエティ番組史上7位の高視聴率を叩き出した。実質上その時の主役だった若槻は、これをきっかけにバラエティアイドルとして知名度も一気に全国区に踊り出ることになる。まさにターニングポイントであった。この番組に出演以降「おバカキャラ」が定着し、逆に珍回答を期待するクイズ番組などのオファーが増えた。ちなみにこの日は偶然にも自身の出演した映画「想色」の公開日で番組放送時は舞台挨拶中であり、これほどの大きな反響があったことを本人は後から知った。

・芸能界で目指しているポジションは優香。ただトーク中に適当に答える芸風は高田純次を髣髴とさせ、さまぁ〜ず三村からもフジテレビの深夜番組内でその事を指摘され「そういえば高田さんの「適当論(著書)」を最近読みました」と発言している。

・デビュー当初は「ギャンブルは嫌い」と発言していた(理由は「のめり込んじゃいそうだから」)が、2005年より本格的に競馬の仕事に携わるようになり、ギャンブルへの偏見は薄れつつある。ただし他のギャンブルに手を出しているわけではないので、あくまで競馬のファンである。

 ・20歳の誕生日直後に行なわれた第71回日本ダービーに番組ゲストで呼ばれた際、ビギナーズラックで馬券を当てたことが競馬にのめり込むきっかけとなった。

 ・メインの重賞レースで有り金をスッてしまい、関係者に借りてまで最終レースをするぐらいのめり込んだ(テレビ番組内で関係者証言が流されたことも)。

・2003年のテレビ進出以降、営業戦略上の理由でグラビアでの水着露出を控えていたが、当人は未だにグラビアアイドルを天職と考えている。作るなら自ら関わって最高の物をというポリシーから2006年5月、約3年ぶりにセルフ・プロデュースの写真集を発表。生尻の露出を強調した写真で注目を集める。この写真集の為に3キロ近く減量を行なったり、グラビアの為にストイックに取り組む姿は、ファンのみならず関係者からも高い評価を得た。ただし、これ以上の露出をするつもりはなく「グラビアはやれても写真集は当分は無理でしょうね」と2007年の雑誌「FLASH」グラビアでコメントしている。

・2007年の正月深夜特番『女だらけのかうんとだうん新年会』(CX)にて、若槻千夏が「抱かれたい芸人ベスト3」の1位に土肥ポン太を挙げている。ちなみに2位はサバンナ八木真澄、3位はケンドーコバヤシだった。

■事件
・AV女優の米倉夏弥が雑誌のグラビアでは”若槻千夏のそっくりさん”という触れ込みで「若槻千春」名義で活動している(この名義付記でAVを販売している店もある)。これに関連して、本名が「千春」のため、親が勘違いして慌てて連絡してきたこともあった。若槻本人もこのAVを見てビックリしたと某バラエティ番組で発言。ちなみに、プロフィールは「米倉〜」名義も「〜千春」名義も若槻本人より年上である。また、同時期には「若瀬千夏」という「若槻千春」とは別人のヌードモデルも実在した。

・ロンドンブーツ1号2号(ロンブー)は学生時代からのファン。コンビの片割れ田村淳との交際が報じられたが、フジテレビ『27時間テレビ』の「大かま騒ぎ」で、田村淳自身が破局したことを暴露。その後、写真週刊誌『フライデー』にも報じられたが、掲載されたデート現場は数ヶ月前のもので、記事が出た時点では既に破局していた。それ以降、ロンブーと若槻が共演することは無くなった。当時より所属事務所の稼ぎ頭であった若槻を守るために、事務所側が強制的に別れさせたという話もあるが、定かではない(雑誌の関係者インタビューで「男と付き合ったら事務所を辞めさせる」という所属事務所の発言あり)。若槻はお笑い芸人と付き合ったことがないと明石家さんまの目の前で発言していたために、『さんま御殿』や『さんまのスーパーからくりテレビ』・『明石家電視台』などでさんまから散々なじられた。ただそれは、さんまが若槻を可愛がってる裏返しともされ、さんま本人は「プライベートで会話するアイドルは若槻だけ」と発言している。

・『ダウンタウンDX』で、ウエンツ瑛士とえなりかずきがドラゴンボールの話題で盛り上がっていたところ、漫画好きということで若槻にもダウンタウンが話を振るが、ウエンツやえなりほど詳しくないのでと答えると、なぜかウエンツに「謝って!」と言われ、すかさず「なんでてめぇに謝らなければいけねぇんだよ!」と激怒した。

 ・ちなみにウエンツとは『恋するハニカミ!』の企画デートで知り合っていることや、バラエティ番組での共演機会が増え、さらにキャラが被っていたことから、一時期事あるごとに「ウエンツ潰す!」と挑発していた。そのことから男女関係を噂されたこともあったが、本人によると最初から恋愛には程遠いという。実際のところはモンキッキーを交えてプライベートで遊びに行くほど仲が良かった。ただし、ウエンツがWaTとしての活動が増えてからは疎遠になっているとのこと。

・2006年半ばに普通自動車運転免許を取得し、堂本剛の正直しんどい(テレビ朝日系)の中で運転技術を披露した。ただ取得までにかなり苦労したらしく、グラビアトークオーディション(フジテレビ系)の前説トークでは、現在運転免許取得を目指すというほしのあきに向かって、「学科試験に6回も落ちて、しかもそのうち2回は外国人コースだから…。」といって、全ての漢字に振り仮名が振られている問題用紙で2回受験したものの、2回とも落ちてしまった事から、受験した場所にちなんで『魔の鮫洲』という学科試験のエピソードを披露した(実際には自動車教習所には『外国人コース』というものは存在しない)。

・2006年後半に体調不良による休養を余儀なくされたが年末に復帰。年末に行なわれる毎年恒例のオールザッツ漫才では例年通り司会を務めた。2007年1月3日深夜の堂本剛の朝まで正直生しんどいの生放送の中で、共演者が気を遣って休養中の話題をしていいのかどうか戸惑っていた雰囲気の中、アンガールズ山根のネットサーフィンの話で若槻の休養中の種々の噂について触れた所、「いろいろややこしくなるから!」と噂で回りに迷惑がかかった事を配慮している様子を見せた上で、「どんどん話題にしてよ!」といつもの明るいトーンで返すだけでなく、「妊娠してないっつーの!」、「目元とかいじって(整形して)ないから!」、「子供もいないし堕ろしていないから!」などと自虐とも取られかねない内容で疑惑を否定し、スタジオを明るく笑わせるトークを披露した。

・また時期を同じくして、陣内智則と藤原紀香の熱愛報道があった際に、芸能記者が若槻の実家を訪れた。若槻と陣内は「オールザッツ漫才」の司会や「桃太郎電鉄」のCM等で何度か共演した事から、「これらの共演を通じて若槻が陣内に惚れてしまい、今回の陣内・紀香熱愛報道で若槻がショックを受け体調を崩したのではないか?」と芸能記者が深読みしすぎた為との事。取材を受けた若槻の母親は、関東出身にも関わらず思わず「なんでやねん!」と答えた。

・明石屋さんまのクリスマス深夜の恒例番組で不幸自慢で電話出演する。内容は以前から好きだった人がいて告白しようかと思ったら、相手に彼女が出来たと言われてしまったというエピソードを披露。Apple製のパソコンが懸賞で当たるも、本人はショックな事を思い出し電話口で泣き出してしまい「誰かほかの人にあげて・・・」と発言。

・2007年2月の映画『叫』宣伝トークイベントの際に「好きな人ができました。飛行機で隣の席になった韓国人の男性です」と発言(後日放送の『グラビアトークオーディション』の中でも同様の発言をしている)。

 ・チョナンカンの著書『チョンマルブック』を持ち歩き、韓国語を勉強中。国際電話は週に1〜2度、英語の喋れる友達と一緒の時にかけたりする。(2007年3月『メレンゲの気持ち』楽屋訪問での話から)

 ・相手が韓国在住のため、はっきりとした好意を持たれているかどうかはまだ確認できていない。(2007年3月の「待ちデコ」テレビ向け記者会見での発言)

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070406-00000102-sph-ent

渡辺真理 プロフィール&エピソード

渡辺 真理(わたなべ まり、本名:渡邉 真理、1967年6月27日 - )は、オフィス・トゥー・ワン所属のフリーアナウンサー。神奈川県横浜市中区出身。血液型O型。

【来歴】
●TBSアナウンサー時代
国際基督教大学教養学部人文科学科卒業後、1990年にTBSにアナウンサーとして入社。1991年4月に朝のワイドショー『モーニングEye』のキャスターに抜擢される。番組での歯に衣着せぬ発言が女性中心の視聴者にある程度の好感を持たれる一方で、着実にアンチファンを増やしてゆく。このほか、最後の出題アシスタントとなった『クイズダービー』をはじめ『そこが知りたい』『スーパーサッカー』など多方面で活躍し、TBSを代表するアナウンサーとなる。

しかし1996年秋、坂本弁護士一家殺害事件に関連して以前『3時にあいましょう』のスタッフが起こした「坂本弁護士のインタビューテープ問題」の影響で『モーニングEye』は打ち切られる。その直後『筑紫哲也ニュース23』第2部のキャスターとなるが、先述のようないきさつにより本人の印象を悪くしていた上、歯に衣着せぬ発言が視聴者のみならず社内の反感までも買い、1997年秋、放送時間短縮を含む抜本的なリニューアルを実施するのを機に、責任を取る形で降板した。

1998年3月に退社するまでの半年間は、唯一のレギュラー番組・ラジオ『MELODY MARKET』のほかは世界フィギュアスケート選手権中継のナビゲーターを務める程度だった。なお、『TBS50年史・資料編』では「1998年2月退社」となっている。

●フリー転向後
その後、フリーアナウンサーに転身し、TBSの先輩である久米宏にそのキャラクターを買われオフィス・トゥー・ワンに所属。小宮悦子の後任でテレビ朝日『ニュースステーション』のサブキャスターに抜擢され、2004年3月の番組終了までコンビを組んだ。

現在、朝日放送制作・テレビ朝日系のビートたけし司会の『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』でアシスタントを務めているほか、各ラジオ番組にも出演している。2006年秋からはラジオ番組『BATTLE TALK RADIO アクセス』にてTBS退社後、約8年半ぶりに古巣での仕事を行う。

2006年9月7日23時40分頃、目黒区中央町の都道で、車を止め運転席のドアを開けたところ、後方から来た自転車に接触、自転車の男性(29)は路上に転倒し左肩打撲の軽傷を負った。渡辺は「買い物をしようとして、後方確認が不十分なままドアを開けてしまった」と説明。男性のけがが軽かったことなどから、警視庁目黒署は物損事故扱いとした。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070403-00000004-sanspo-ent

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