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久保恵子 エピソード&プロフィール

久保 恵子(くぼ けいこ、本名:北 恵子 旧姓:久保 1972年3月19日 - )は日本のタレント・女優(通称:クボケイ)。所属事務所はサンミュージックプロダクション。神奈川県出身、上智大学理工学部化学科および明治薬科大学薬学部卒業。薬剤師免許所持。

1992年、上智大学のミス・ソフィア(ミス学園祭)に選ばれ(この際ミス発表前の段階で久保は自分がグランプリである事を知らされていたという。)、その後フジテレビ系列の情報番組「おはようサンライズ」のお天気キャスターとしてテレビデビュー。

上記の通り大学を二度卒業し、薬剤師免許も持つ才媛であるが、なぜか気象予報士資格は取っていない。

その後も情報番組のレポーター等で活躍し、近年は女優としての活動も展開。ドラマ、写真集、舞台と幅広く活躍している。

2006年4月17日、バスケットボール・JBLスーパーリーグの東芝ブレイブサンダースに所属する北卓也選手との結婚が明らかになり、2006年5月13日に入籍した。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070927-00000064-sph-ent

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栗山英樹 エピソード&プロフィール

栗山 英樹(くりやま ひでき 1961年4月26日 - )は東京都小平市出身のプロ野球選手、スポーツキャスター。現白鴎大学准教授。


【来歴・人物】
東京学芸大学時代に小・中・高の教員免許を取得している。東京学芸大学の同級生にはフジテレビアナウンサーの吉崎典子がいる。

1984年、東京学芸大学からヤクルトスワローズにドラフト外で入団。シュアなバッティングと俊足そして体を張った守備でチームに貢献する。1988年には一時は首位打者争いに絡む活躍をしてレギュラーを獲得。1989年にはゴールデングラブ賞を受賞。しかし1986年に発病したメニエール症候群に悩まされ、1990年に29歳の若さで引退。打率.279の成績を残す。若くして引退したためか、現役時代の映像が流されることが少ない。

1991年からスポーツキャスターとして活動するかたわら、母校東京学芸大学の講師、また少年野球の普及育成に努める。

2004年から白鴎大学准教授。

TBSラジオ解説時のコピーは熱中先生国際派。2002年まであったテレビ朝日でのコピーは熱血先生(TBSラジオでのコピーを参考にしていると思われる)。

現役時、プレーぶりは渋い選手であったが、その端整な顔立ちで女性の人気は高く球界のプレイボーイの代表格とされた。「(何故結婚しないかを女性から聞かれて)それは君に会うためだ」などと口説いていたことを広澤克実にネタにされていた。若き日の池山隆寛も、彼を参考にしたという。

なお、一部週刊誌に創価学会員であると報道されたが、本人が以前に出版した著書によれば、これは誤報である。実家から近かった創価高校に通っていた為に、この様な誤解が生じたようである。


【略歴】
■身長・体重:176cm 74kg
■投打:右投両打
■出身地:東京都小平市
■血液型:O型
■球歴・入団経緯:創価高 - 東京学芸大 - ヤクルト(1984年 - 1990年)- 野球解説
■プロ入り年度・ドラフト順位:1983年(ドラフト外)
■英語表記:KURIYAMA
■背番号:46→4
■守備位置:外野

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070912-00000053-nks-base

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草野博紀 エピソード&プロフィール

草野 博紀(くさの ひろのり、1988年2月15日 - )は、日本の男性アイドルグループNEWSの元メンバー。ジャニーズ事務所所属。2007年1月からは、同事務所の研修生となる。血液型B型。神奈川県横浜市栄区出身。身長170cm。体重55kg。法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科在学中。

2007年7月から上演されている少年隊主演舞台「少年隊 PLAYZONE 2007」で内博貴とともに復帰。


【来歴】
2001年
■2月4日、ジャニーズ事務所に入所。ジャニーズJr.時代はJ-support(のちのK.K.Kity)に所属。

2003年
■9月15日、 NEWSのメンバーに選ばれる。
■11月7日、『NEWSニッポン』(バレーボールワールドカップ2003イメージソング)でNEWSとしてCDデビュー。

2004年
■5月12日、『希望〜Yell〜』(「アテネオリンピックバレーボール世界最終予選」イメージソング)でNEWSとしてメジャーデビュー。

2006年
■2月、芸能活動を自粛(経緯等はノートを参照)。
■12月30日、研修生となり同時にNEWSから脱退することが所属事務所から発表された。

2007年
■5月16日、同年夏上演の少年隊主演舞台「PLAYZONE2007」で現場復帰することが発表された。


【人物】
■愛犬の名前は「リッキー」。

■スポーツは全般的に得意。幼少時代には野球をやっており、入っていた野球団の名前は「オール栄」。

■絶叫マシンが大の苦手。

■憧れの先輩は亀梨和也(KAT-TUN)。

■昔、まるこめ君のオーディションを受けた事がある。

■『ドラゴンボール』が好き。特に好きなキャラはミスター・サタン。

■洋楽が好きで、アッシャー、ジャスティン・ティンバーレイクに憧れている。

■『NEWS Kick and Spin Muzik』で、Amerieに名前を呼ばれたことに感動した。


【参加ユニット】
■J-support
■K.K.Kity
■J2000
■ジャニーズ草野球チーム
■NEWS


【ソロ曲】
■She`s all mine

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070716-00000052-sph-ent

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クリスタル・ケイ エピソード&プロフィール

クリスタル・ケイ(Crystal Kay 本名:Crystal Kay Williams 1986年2月26日 - )は、日本の女性歌手。ソニー・ミュージックエンタテインメント(エピックレコードジャパン)所属。身長172cm。横浜市出身。


【プロフィール】
確かな歌唱力を持ち、日本で生まれ育ったがアメリカンスクール出身のため英語も堪能である。

誰とでも友だちになれるのが特技で、PVで共演した成宮寛貴、BoAや、アメリカの女性歌手エイメリー(Amerie)とも交友がある。

愛称は「クリ」。「ケイ」はミドルネームなので、本来ならば「クリスタル」か「ウィリアムズ」で呼ばれるべきだが、付き合いの浅い人からは日本語と語感の近い「ケイちゃん」と呼ばれることもある。

愛車はフォルクスワーゲン・トゥアレグ。


【来歴】
《誕生〜2000年》
ニューヨーク出身のベーシストであるアフリカ系アメリカ人の父と、在日コリアンシンガー、shunkay(シュンケイ)との間に1986年2月26日に生まれる。

初めての仕事は4歳のころで、PCエンジンDuoのCMソングである。1999年、13歳の時に『Eternal Memories』(作曲・編曲:菅野よう子)でシングルデビュー。菅野美穂出演のサントリー「ビタミンウォーター」CMソングとして起用された。

その後、2000年頃は歌手としての目立った活動を控えていたが、2001年に映画「サトラレ」主題歌『LOST CHILD』を歌ったことで、知名度を上げた。また同じ頃にm-floと知り合いFMフェスティバル'01のファイナルライブでは、TAKU(m-flo) meets Crystal Kay meets YOU THE ROCK☆として、m-floの「come again」をセッションして出場を果たした。


《2002年〜2003年》
2002年8月にリリースした、m-floの☆Takuプロデュースのシングル『Hard to say』がロングヒットとなった。同年10月に、T.Kuraなどを制作陣に加えた3rdアルバム『almost seventeen』がオリコン最高2位を記録。最も成長が期待される、若手女性アーティストの1人として注目された。

2003年、LISAの脱退によってボーカル不在となった、m-floのゲストボーカリストとして、シングル『I LIKE IT』(Crystal Kay loves M-FLO 名義) と、その客演返しとしてシングル『REEEWIND!』(M-FLO loves Crystal Kay 名義) を同時にリリース。2枚共にオリコン10位以内に入るヒットとなった。

2003年の4thアルバム『4 REAL』以降、R&B路線からポップスにシフトしていった。

元々、全米進出を希望していたクリスタル・ケイだが、同年、世界進出を視野に入れた全英語詞曲収録の『NATURAL -World Premiere Album-』を発表し、アジア市場への進出を試みた。


《2004年〜2005年》
デビュー5周年を迎えた2004年、シングルでは初のバラード『Motherland』を発売。人気アニメのエンディングだった効果もあり、シングルチャートでトップ10入りを果たす。 そして6月には、デビュー5周年を記念し、ファン投票によって収録楽曲を決定した企画アルバム『CK5』を発売。

学業においては、アメリカン・スクールで就学後、2004年10月からは上智大学国際教養学部(旧比較文化学部)に進学。安良城紅とはアメリカン・スクールからの同級生で親友でもある。

『CK5』リリース後はボイストレーニングとダンスレッスンを受けるためニューヨークへ渡る。帰国後、同年11月にシングル『Bye My Darling! 』、2005年1月には『Kiss』をリリース。そして3月に、プロデューサーに、Des’reeやCHARAを手がけたAshley Ingramを迎えた5thアルバム『Crystal Style』を発表し、4作連続でオリコンWEEKLYチャート初登場2位を記録。

5月には同タイトルのドラマ主題歌となった16thシングル『恋におちたら』を発表。それまでのクリスタル・ケイの楽曲に無かった、キャッチーで誰にも歌いやすい、いわゆる歌謡曲調の楽曲は、彼女の歌に今まで触れたことの無かった広い層にも知られ、最大のヒットとなった。同年、CHEMISTRYとのコラボレーション曲『Two As One』が発売された。


《2006年〜現在》
トリノオリンピックで沸く2006年、2月8日に17枚目の両A面シングル『Kirakuni / Together』を発表。大人のチルアウト(だらだらした)・チューンと銘打たれたジャム&ルイスプロデュースのダンスナンバー『Kirakuni』。PVでは、和をモチーフにした世界観に和服姿で登場し、久々にダンスも披露した。カップリングの『Together』は テレビ東京系「トリノ2006」テーマソング。このシングルリリースから2週間後には、『恋におちたら』や『Kirakuni』を収録した6thアルバム『Call me Miss...』をリリースし、5作連続でオリコン初登場2位を記録した。アルバムリリース後は新曲リリースがなかったため目立った活動がなかった。

2007年、1月17日に約1年ぶりとなるシングル『きっと永遠に』をリリースした。話題の映画「僕は妹に恋をする」主題歌のバラード曲となっている。 また、2007年2月28日には2ヶ月連続リリースとなる新曲『こんなに近くで...』が発売された。この曲はコミックス、ドラマともに大きな話題を呼んだ「のだめカンタービレ」のアニメ版のエンディングテーマであり、ベートーベンの交響曲第七番第一楽章を曲全体にフィーチャーした楽曲となっている。

(出典:Wikipedia)

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黒木瞳 エピソード&プロフィール

黒木 瞳(くろき ひとみ、本名:伊知地 昭子、旧姓:江上、1960年10月5日 - )は、日本の女優。福岡県八女郡黒木町(くろぎまち)出身。

■宝塚歌劇団の元月組トップ娘役。

■芸名は出身地の黒木町に因んで同郷の五木寛之(福岡県八女市出身)が命名した。宝塚歌劇団在団時の愛称はショーコちゃん。

■身長163 cm。血液型はA型。オフィス稲垣所属。


【略歴】
福岡県立八女高等学校在学時映演部長として九州大会進出。音楽大学への進学が決まっていたが記念受験で受けた宝塚歌劇団に合格。高校卒業後の1979年4月に、宝塚音楽学校に入学。1981年に宝塚歌劇団に入団し『宝塚春の踊り』で初舞台。宝塚時代の同期には、北原遥子、真矢みき、涼風真世、毬藻えりらがいる。

下級生時代、1982年1月より朝日放送の情報ワイド番組『おはよう朝日です・土曜日です』に北原とともにレギュラー出演、レポーターなどをこなした。

入団2年目(研2)の時に史上最速出世記録で、大地真央の相手役として月組トップ娘役に就任。
黒木のトップ就任については技量の未熟さや時期尚早ではとの異論もあったが、顔が小さく男役としては細身だった大地が、同じく顔が小さく華奢、さらに「おはよう〜」で度胸ある番組進行をこなしていた黒木に着目、相手役にしたいと申し出て就任が実現したという。

『あしびきの山の雫に』『シプーレット』『ガイズ&ドールズ』などに出演。

1985年、『二都物語/ヒート・ウェーブ』の東京公演で大地と同時退団、女優に転進した。


【退団後の活躍】
退団後は女優に転身。映画デビュー作「化身」が評価され、妖艶な、それでいて清楚な美人女優として、ドラマの時代劇やサスペンスなどを中心に活動を続けていたが、1997年に映画「失楽園」に出演し、不倫の恋を大胆に演じて大きな話題となった。原作とともに社会現象となったこの作品をきっかけに知名度が一気に広がり、活躍の場が広がった。なお、この作品で日本アカデミー賞、最優秀主演女優賞を獲得している。現在も時代の最先端を行く女優として、第一線で活躍を続けている。

またこれ以降、各種の好感度調査などで上位の常連となり、「理想の上司」「働くママのファッションリーダー」「主婦のおしゃれのお手本(大垣共立銀行付属総合研究所の調査結果)」といった評価がなされている。

KIRINの付属研究所が実施した「会社(職場)の人とのお酒の飲み方に関する意識調査」では「一緒にお酒を飲みたい女性上司」の第一位に選ばれた(同期の真矢みきも10位に選ばれている)。また、産業能率大学が2007年度新入社員に対し、「こんな女性上司の下につきたい、と思う人」のベスト5に同期の真矢と共にランクイン。

1991年に電通勤務の伊知地俊夫と結婚。1998年に長女を出産(38歳での比較的高齢出産)。詩集やエッセーの出版もしている。

平成18年11月19日、大相撲九州場所にゲスト解説者として出演し、毎年初場所を観戦し、座布団を投げる逸話を紹介。夫と相撲をとるとも。1999年1月場所の初優勝以来、千代大海の大ファン(千代大海のエピソード項参照)。

2007年8月18日8月19日放送予定日本テレビの24時間テレビで元プロ野球選手新庄剛志と共にチャリティーパーソナリティーを務めることになった。

自身のホームページではファンからの質問や感想に目を通し、多くのファンに返事を書き、それをホームページに載せている。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070609-00000000-sanspo-ent

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工藤里紗 エピソード&プロフィール

工藤 里紗(くどう りさ、1983年10月4日 - )は、日本のグラビアアイドル、女優、女性タレント。エキサイティング・トリガー所属。視力は左右2.0。英検3級を所持。


【プロフィール】
愛称: りさっち、クドリサ
生年月日: 1983年10月4日
現年齢: 23歳
出身地: 日本・神奈川県
血液型: A型
公称サイズ(2006年時点)
身長: 162 cm / 5′ 5″
体重: 45 kg / 99 lb
BMI: 17.1(低体重)
スリーサイズ: 85 - 58 - 84 cm
ブラのサイズ: D
靴のサイズ: 24.0 cm


【来歴】
■2004年
・10月8日 - 「音楽戦士 MUSIC FIGHTER」でタレントデビュー、テレビバラエティ初登場。
・12月10日 - 「フライデー」でグラビアデビュー。

■2005年
・1月8日 - 「うまッチ!」のお天気キャスターを2年間担当、初レギュラー。
・5月24日 - 「夜な夜なニュースいぢり X-radio バツラジ」でラジオ初登場。
・9月10日 - 日本橋三越で行われたイベント「LIVE!JRA」展のトークライブ「須田鷹雄の競馬な仲間たち」に参加。
・10月29日 - 「スリーピングフラワー」で女優デビュー、映画初主演。
・11月28日 - 「ジャパン・ミュージックエンターテインメント」のホームページリニューアルに伴い、公式プロフィールが新設。

■2006年
・4月2日 - 横浜BLITZで行われたライブ「Girl's BOX 〜Spring Special Live〜2006」の進行アシスタントを務める。
・6月1日 - 初の公式ブログ「四輪工藤」が新設。
・6月26日 - 「週刊プレイボーイ」主催の第11回 日本アイドルトレカ大賞 最優秀新人賞を受賞。
・7月6日 - 「花嫁は厄年ッ!」で連続ドラマ初レギュラー。
・7月15日 - 「ラブ★コン」で全国ロードショー初登場。
・10月24日 - グランドハイアット東京で行われたパチスロの発表展示会「爆裂王2」に参加。
・12月3日 - 第5回 中山競馬開催イベント「2006 GRAND FINALE in NAKAYAMA」のキャンペーンガールを務める。
・12月23日 - フジテレビ社屋で行われたコンテスト「Miss of Miss Campus Queen Contest 2006」の審査員を務める。


【エピソード】
8歳上と1歳上の兄がいる三人兄妹の末っ子(長女)として、体重3200gで生まれる。両親は当初、名前を「紅」(べに)と付けようとしていたが、長男の一声で何個かある候補のうち「里紗」と命名した。漢字について、「里」は優しい子に育つように、字体を柔らかい感じにしたかったこと、「紗」は同文字がサテンのイメージと合うことに由来する。幼少の頃は「りっちゃん」と呼ばれていた。

小学生の時は跳び箱でクラスの手本になったり、6年間の欠席が3日程だったことから皆勤賞をもらっていた。中学生の時は陸上部に所属しており、県大会にも出場した。50mを7秒台で走り、幼稚園児の頃からリレーのアンカーを務めていた。高校生の時は女子校に通い、1年の夏休みに神宮球場内スタンドでコカ・コーラの売り子をしたのを機に、甘太郎でもアルバイトをしていた。

卒業後は東京で一人暮らしをするとともに、フリーターとしての生活を送っていた。18歳の頃から何回かスカウトされていたが、デビューするとしたら20代になってからと決めていたことに加え、街頭での誘いをあまり信用していなかったため、あえて断っていた。21歳のとき、現在の芸能事務所に所属していた友人の兄から専務を紹介されたことをキッカケに芸能界入りする。

その後はアパレル工場の仕分けアルバイトもしながらグラビアを中心に活動をはじめ、実年齢より幼い顔立ち(いわゆる童顔)に自然体かつ癒し系のスマイルで、近年は小悪魔やエロカワなどと形容される。写真集やイメージビデオなどではショーツの股上が浅い(いわゆるローライズの)ビキニを着用してクビレと腰骨を際立たせるスレンダーボディーを持ち味としている。

また、フリーターの時は水川聖子 名義で2005年12月9日発売のムック本「Be GIRLS photobook」に掲載されている「Smiling!」というグラビア企画に登場しており、キャッチコピーは「噂のトーキョー美少女、初のオキナワロケで全開!タレ目スマイル!!」。同誌の計2029人が選ぶグラビア部門で140票(6.9%)を獲得し8位にランクインしている。当時のプロフィールと現在では趣味、特技、スリーサイズは同じだが、誕生日と血液型は1983年10月24日、AB型とそれぞれ異なっている。

2005年11月29日発売の「フライデー・スペシャル 05'総集編」計1000人が選ぶ「05' 萌え大賞」 総合・女性有名人部門で167票(16.7%)を獲得し1位に、2006年3月14日発売の「月刊デ・ビュー」計1000人が選ぶ「06' ブレイク期待のグラビアアイドルランキング」で3位に、同誌の「06' 好きなグラビアアイドルランキング」で16位に、それぞれランクインしている。

特技は暗記。とりわけ、短時間で集中して覚えることを得意とする。インフォシークの特集「タレントヒルズ」では、特技がホンモノかどうか抜き打ちテストを行った。内容は、当時 お天気キャスターを担当していたことに関連して事前に与えられた天気記号15種類(右下にカタカナが付いた6種類を除いたもの)を覚えるというもの。試験はその中から10種類出題され、全問正解を果たす。

「うまッチ!」のコーナー「メインレースのピンポイント天気予報」では、「里紗の注目馬」として1着馬の予想を行っていた。通算成績は2005年:50戦5勝、2006年:40戦13勝。また、「フライデー」で同誌と競馬に関するコスプレの罰ゲームを賭けた予想対決をしていた。対戦成績は10戦1勝。唯一的中したのは、第66回 菊花賞の「ディープインパクト」 → 「アドマイヤジャパン」の馬単(二連勝単式)。

(出典:Wikipedia)

桑田佳祐 プロフィール&エピソード

桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年2月26日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の日本のロックミュージシャン、シンガーソングライター。サザンオールスターズのリーダーであり、ボーカル・ギターと作詞・作曲を担当。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメントタイシタレーベル所属。嘉門 雄三(かもん ゆうぞう)、桑竹居助(くわたけ いすけ)、夷撫悶汰(いヴ もんた)、古賀紅太(こが こうた)などの変名を用いたこともある。

鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部第二部(夜間部)除籍。身長169.5cm。A型の右利き。通称:「ケイちゃん」「桑っちょ」。妻は同じサザンのメンバーである原由子。1982年に結婚し、これまでに2男をもうける。


【人物】
サザンオールスターズのリード・オフ・マンとして知られている。『いとしのエリー』、『真夏の果実』、『TSUNAMI』などヒット曲を数多く作り、歌う。その独特なハスキーボイスは稀有で、一度聞いたら忘れられない不思議な魅力を持つ。灰汁の強い嗄れ声も、泣かせる美声もどちらも出せる稀代のボーカリストである。作詞では愛、セックス、世相を風刺的に表現し、時にエロティックであり、時にユーモラス・ナンセンスであり、時に切なく泣かせ、時にシリアス。楽曲それぞれで様々なタイプの歌詞を書く。ソロでの音楽活動も精力的で、メジャーデビュー以来一貫して邦楽 (J-POP)の第一線を爆走し続ける。音楽雑誌『ロッキング・オン』からは、ポップスの神なる称号を授与されている。自ら名乗る事はないが、ミュージシャンとしてだけでなく、日本が誇るエンターテイナーの1人としても挙げられる。


夜間大学在学中よりバンド活動を盛んに行い、「温泉あんまももひきバンド」「脳卒中」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青学ドミノス」など多くのバンドを結成しては潰しを繰り返し、最後に結成したサザンオールスターズが現在まで続く。「サザンオールスターズ」というバンド名は友人がつけたもの。

プロレスファンでアントニオ猪木を敬愛している。猪木とは幾度か共演も果たしている。ライブの煽りではスタン・ハンセンの決め台詞「ウィー!」や、猪木の決め台詞「1、2、3、ダー!」を叫ぶのが定番。

サザンが実力派バンドとして認知されてからも、本人は一貫して下ネタ好きの三枚目なキャラクターを通しており、ある意味ミュージシャンらしくない気取らない性格がファンから愛されている。特にライブでの客席に向けての「乳首見せろ!」「パンツ脱げ!」などのセクハラ発言や、マイクを股間にはさむなどのパフォーマンスは、日本を代表するミュージシャンという自らの名声を笑い飛ばすかのような痛快さに満ちている。特に自身のラジオ番組桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド〜やさしい夜遊び〜では毎週のごとく下ネタを連発している。

ライブや音楽番組では、高い頻度で歌詞を間違える事がファンの間では知られる。ライブで歌詞や段取りをよく間違えることは本人も自覚しているらしく、「間違えた時はスタッフを睨みつけてスタッフのせいにする」と自らコメントしていたが、視聴者向けのネタなのか本音なのかは不明。

レコーディングなどではギターを担当することが殆どだが、時にベース、ドラムス、キーボードなども演奏するマルチプレイヤーでもあり、特にソロ名義の『素敵な未来を見て欲しい』や『MUSIC TIGER』などは桑田1人ですべての楽器が演奏されている。

ギタリストとしてクローズアップされる事は比較的少ないが、ボトルネックによるスライドギターの名プレイヤーとしても知られ、サザンのライブでも曲の間奏で度々その姿を確認する事が出来る。

1980年代〜1990年代前期まで、ライブや音楽番組などでは時にステージに寝転がったり飛び跳ねたりの不可解で激しい、過剰とも言えるパフォーマンスが特徴であった。MCや曲中の煽りなども所謂「縦ノリ」の男臭いロックミュージシャンらしい姿が見られていたが、1993年〜1995年辺り(実母が闘病ののち亡くなった時期と重なるとも言われる)を境に、「おどけた中年オヤジ」としてのキャラクターを前面に出すようになり、ライブやラジオ番組でも下ネタやオヤジギャグを連発する事も多くなった。どちらの桑田のキャラクターを好むかはファンの意見が分かれる所である。近年は激しい動きは少なくなった反面、ギターのソロプレイを魅せる割合が多くなり、加齢と共に味わい深いギターを聴かせている。かつてはライブ終盤での客席への紙コップの水撒きも定番であったが、やはり最近は行っていない。

曲作りは殆どが曲先であり、デタラメ英語等での仮歌段階のまま編曲までほぼ全てを終わらせたのち、仮歌の語感を崩さない言葉を選び、そこから歌詞全体のテーマ・世界感を決める。その為、日本語・英語ともに文法的には間違っている歌詞も多々あり、間違いを指摘されたり「意味が分からない」等と批判される事もあるが、文章の正確さよりも語呂の良さ・符割などを優先させるが故の結果である。古文・方言・都都逸も用い、メロディに合う言葉がないのなら造語で自分で作ってしまう等の離れ業もやってのける。韻を踏んだ歌詞作りは、現在のJ-POPやラップなどが隆盛を誇る遥か以前から行われている、桑田の十八番芸である。 また、英語と日本語とのダブル・ミーイングも取り入れており、楽曲は歌詞カードも含めての作品なので、歌詞カードもじっくり読んで欲しいとの思いも込められている。

作詞の際には作品中やタイトルに人名を登場させることも多い。特定の人物を讃えた曲もあるが、名前のみを身近な人物または縁の人物の中などから、歌詞全体とメロディーに合う語感として引用し、特定の人物は指していない場合が多い。前者は『吉田拓郎の唄』『星空のビリー・ホリデイ』『Dear John』『唐人物語』など。後者は『いとしのエリー』『チャコの海岸物語』『そんなヒロシに騙されて』『MARIKO』『シュラバ★ラ★バンバ』『可愛いミーナ』他多数曲で使われている。

サザンとソロそれぞれの活動を数年毎のローテーションで行い、どちらともセールス・ビジネス的にも成功を維持し続ける事が出来る稀有なミュージシャンだが、それゆえ、コアなファン以外にはサザンとソロとの活動の違いが分かり難い場合も多い。この質問疑問に対し桑田は、サザンのメンバーやサザンとしての活動は家族・家庭であり、ソロ時のサポートメンバー及びソロとしての活動は愛人と逢っているようなものと例え、サザンの楽曲やソロの楽曲はそれぞれの間で生まれた子供達だという、男女の愛と性をリアルに唄う桑田ならではの表現をしている。また、プロレスラーの武藤敬司にも例え、サザンの時は素顔の武藤として戦い、ソロの時は覆面を被ってグレート・ムタとして戦うとも表現している。

また、ソロ名義で出演するライブやフェスティバル、単独名義で行っている自身のラジオ番組のライブなどではサザン名義の楽曲も演奏されることがある。この点に関しファンからは「ソロのライブでサザンの曲を唄わないで欲しい」との意見もあったが、その意見に対し桑田は「ファンの気持ちも分かるんですけど、『唄ったっていいじゃん、どっちでもいいじゃん』て思う時も実はあるんですよね」とインタビューで応えている。ソロ名義で行うワンマンライブやツアーでは、基本的にサザン名義の楽曲が歌われることは少ない。


【概要】
バンド活動と平行したり休業しつつソロ活動を行っているが、活動期によりテーマやコンセプトを大きく異なることでサザンオールスターズとの活動とは特に一線を画している。

1986年のKUWATA BAND結成時には、桑田が「ロックを唄うのは英語しかない」と考えが行き着いた頃で、英語詞の洋楽テイストに拘っていたこともある。その結果、KUWATA BAND唯一のスタジオアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』は、日本語詞中心に構成されたシングル曲は一切未収録とし、全曲新曲の全英語詞アルバムになった。しかし、発売後暫くは自身黒歴史と扱うほど完成度に満足していない旨の発言が目立っていた。その後考え方に変化が見られたのか、現在ではソロ名義のコンサートでKUWATA BANDの楽曲が演奏されることも多くなっている。

1987年〜88年の第1期ソロ活動では、ミュージックシーケンサープログラミングや打ち込み中心のポップス路線を展開。1993年〜94年の第2期ソロ活動は、内省的な歌詞を用いたアコースティック(アンプラグド)・フォーク路線など、サザンとの差別化を図る。

2001年からも第3期のソロ活動が始まるが、特に前半の2001年は逆に差別化には拘らなくなった。この時はサザンでのメンバー脱退による移行があったため、もともとサザン名義で発表する予定だった楽曲をソロ名義で発売したものもある。また、逆にソロワークとして製作していた楽曲を、サザンとしてカラーやアレンジを加えて発表した曲も生まれている(恋するレスポール等)。後半の2002年は、バンド形態の本格派ロックをコンセプトにしており、特にサザンでの活動との差が色濃く出ている。CMタイアップとの関係で思い切りポップ寄りな曲に挑戦した2001年に対し、2002年に発売された作品はシングル・アルバム共に歴然とテーマの違いが出ている。2001年に発表された楽曲はアルバムに収録されることなく、ソロ活動の集大成として発表されたベストアルバムに収録された。これ以降ソロ活動は基本的に休止中であり(ライブなど除く)、現在はサザンでのバンド活動が続いている。


【略歴】
ここでは桑田佳祐のソロ活動に重点を置いて説明する。

■1956年
 ・2月26日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。

■1977年
 ・サザンオールスターズとして、アマチュアバンドのコンテスト「ヤマハEastWest'77」に出場。ベストボーカル賞を受賞。この時に決勝で対戦したのは、シャネルズの鈴木雅之だった。

■1978年
 ・6月25日、ビクター音楽産業よりサザンオールスターズとして『勝手にシンドバッド』でメジャーデビュー。

■1979年
 ・「オールナイトニッポン」(ニッポン放送などNRN全国ネット)木曜1部を担当。

■1980年
 ・スペクトラムのギタリスト・西慎司のソロアルバム『NISHI』をプロデュース。

■1981年
 ・生理用品アンネナプキンのCMに出演。
 ・タモリのシングル曲『狂い咲きフライデイ・ナイト』を楽曲提供。
 ・3月、渋谷eggmanにて、嘉門雄三の変名で『嘉門雄三&Victor Wheels』としてライブを行い、洋楽のカバーを歌う。メンバーは桑田・関口和之・斎藤誠・国本佳宏・宮田茂男・今野多久郎。原由子も1曲参加した。
 ・自身がプロデュースした原由子初のソロシングル『I LOVE YOUはひとりごと』が卑猥な歌詞のため放送禁止曲に。ビクタービル屋上にて抗議のゲリラライブを行うが、警察が出動するなどの騒ぎとなる。

■1982年
 ・2月26日、原由子と入籍。28日には結婚披露宴も行う。会場にはファンを招待し、タモリ、ラッツ&スターなどの芸能人も出席した。
 ・小林克也率いる「ザ・ナンバーワン・バンド」の1stアルバム『もも』にて曲を提供。また『六本木のベンちゃん』ではボーカルも担当。
 ・中村雅俊に『恋人も濡れる街角』を提供。
 ・12月31日、NHK紅白歌合戦での三波春夫パフォーマンスが物議を醸す。『チャコの海岸物語』でサザンとして2度目の紅白出場を果たした際のものであり、当時の「紅白=厳粛な雰囲気」という等式を打ち破るきっかけとなった。この時の間奏での桑田の発言は以下のとおり。
「国民の皆様、ありがとうございます。私たち放送禁止もたくさんございますが、こうしていけしゃあしゃあとNHKに出演させて頂いております。とにかく、受信料は払いましょう! 裏番組はビデオで見ましょう!!」

■1983年
 ・親交ある明石家さんまが「オレたちひょうきん族」で演ずるアミダばばあのために、『アミダばばあの唄』を提供する。
 ・高田みづえがカバーした『そんなヒロシに騙されて』が第25回日本レコード大賞・金賞を受賞し、この他サザンの楽曲も含め作曲賞を受賞。

■1984年
 ・「オールナイトニッポン」に復帰。火曜1部を担当する。

■1985年
 ・ラッツ&スターのメンバー全員の合同結婚式において媒酌人を務める。このときリーダー・鈴木雅之の父との会話が、後1996年のアルバム(サザン名義)『Young Love』に収録される『心を込めて花束を』を生むきっかけとなる。
 ・6月15日、佐野元春のライブに飛び入り出演。段取り無視のパフォーマンスに佐野はあっけに取られたが、怒ってはいなかったという。
 ・10月、サザンのツアー「KAMAKURA TO SENEGAL」で共演したトゥレ・クンダへのお礼の為、アフリカ・セネガルへ渡りトゥレ一家の元へ訪れる。この模様はドキュメント番組としてテレビでも放映された。

■1986年
 ・原の産休に伴いサザンは最初の休業期間に入り、各メンバーのソロ活動がはじまる。
 ・4月、1年限定のソロプロジェクト「KUWATA BAND」結成、『BAN BAN BAN』でデビュー。桑田は音楽番組やライブで度々「新人です!」と強調していた。
 ・12月24日、クリスマス・イヴの夜の生放送番組「メリー・クリスマス・ショー」 (日本テレビ系)をプロデュース。同番組で松任谷由実との共作『Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)』を出演者一同で唄う。

■1987年
 ・10月6日、ソロデビューシングル『悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)』発売。以降ソロでの活動が続く。
 ・ダリル・ホール&ジョン・オーツと「SHE'S A BIG TEASER」(シングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』収録)・『REALOVE』(ホール&オーツのアルバム『Ooh Yeah!』収録)を共同レコーディング。
 ・12月24日、前年に続き「メリー・クリスマス・ショー」プロデュース・出演。

■1988年
 ・3月16日、2ndシングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』発売。
 ・4月21日、河内淳一のアルバム『One Heart』に収録されている『Day After』と『恋に落ちた日 〜ANYDAY YOU LOVE ME〜』にコーラスで参加。
 ・6月25日、『みんなのうた』で、サザンでの活動を再開させる。
 ・7月9日、1stソロアルバム『Keisuke Kuwata』発売。
 ・8月、RCサクセションの問題作アルバム『COVERS』に参加。この時には桑竹居助なる変名でクレジットされている。この名義は1984年にサザンのファンクラブ会報『代官山通信』の署名でも使用されていた。
 ・10月、山下達郎のアルバム『僕の中の少年』収録の『蒼氓』に原由子と共にコーラスで参加。
 ・10月14日、ダリル・ホール&ジョン・オーツの東京ドームでのライブに飛び入り出演。
 ・12月31日、『Keisuke Kuwata』で第30回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞。

■1989年
 ・映画監督に初挑戦。『稲村ジェーン』クランク・イン。

■1990年
 ・4月、NHK-FMにてラジオ番組『ミュージック・スクエア』スタート。火曜日のDJを担当。民放での番組とは違い下ネタなどの過激な発言は無かったものの、ゲストミュージシャンとのトークや、リスナーからのの投稿ハガキを読む『日本四方山話のコーナー』『句会のコーナー』、洋楽を1曲ピックアップし和訳を読み上げる『訳詞のコーナー』、テーマに添ってベスト3の楽曲を紹介する『My Count Down』などのコーナーが人気であった。毎年年始には原由子も出演。1993年4月で担当を終了。
 ・7月、『稲村ジェーン』クランク・アップ。映画公開までに、宣伝を兼ねて歌番組の他、ワイドショー・ニュース・トーク番組などに積極的に出演。また、試写会を藤沢市の海岸で行い、桑田も会場に登場し『恋はお熱く』を唄う。
 ・9月7日、『稲村ジェーン』公開。内容はファンのみならず賛否両論を呼んだ。

■1991年
 ・第32回日本レコード大賞のポップス・ロック部門において、ロック・ゴールド・ディスク賞、最優秀ロック・ボーカル賞、作曲賞を受賞する。
 ・3月24日〜26日、新宿のライブハウス「日清パワーステーション」で、洋楽ロックのスタンダードナンバーをアンプラグドで演奏する「アコースティック・レボリューション」を行う。メンバーは小倉博和、小林武史、キース、など多彩な顔ぶれ。
 ・6月、小林武史・小倉博和・今野多久郎と共にゲリラライブを兼ねて中国・北京へと渡り、天安門広場にてボブ・ディランの「風に吹かれて」、SUPER CHIMPANZEEのオリジナル曲「クリといつまでも」、北京の某ライブハウスにてビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」等を演奏した。この模様は後に桑田が出演した筑紫哲也 NEWS23などで放送された。この旅行は翌年のサザンの北京ライブへと繋がる。
 ・9月26日、SUPER CHIMPANZEE名義で『クリといつまでも』発売。

■1992年
 ・6月27日、企画アルバム『フロム イエスタデイ』発売。KUWATA BAND時代のシングル4作が初CD化での収録となる。

■1993年
 ・10月6日、3rdシングル『真夜中のダンディー』を発売。サザン活動中のソロ名義でのリリース。
 ・12月1日、世界エイズデーであるこの日、多数のアーティストを集めた「AAA〜アクト・アゲインスト・エイズ」武道館公演を選曲・プロデュースし自らも出演。出演は泉谷しげる・大友康平・アン・ルイス・渡辺美里・福山雅治・原由子など、メリー・クリスマス・ショーにも匹敵する豪華な顔ぶれだった。バックバンドとして小林武史・小倉博和・根岸孝旨・小田原豊・今野多久郎が集い、昭和歌謡曲を中心に多彩なアレンジで参加者がリレー形式で唄った。また、桑田・奥田民生・宮田和弥(当時JUN SKY WALKER(S))・奥居香(当時プリンセス・プリンセス)をメインボーカルに、このライブの為に作られたチャリティーソング『光の世界』が唄われた。この後様々なアーティストが集う形式はAAAで恒例化して行くが、桑田がプロデュースしたのはこの1度きりである。昭和歌謡を多彩なアレンジで唄う形は後々の活動の原形となった。特にこのライブで初めて唄われた「ヨイトマケの唄」はその後のソロライブや自身のテレビ番組などでも度々唄われることとなる。

■1994年
 ・サザン2度目の休業期間に入る。
 ・8月24日、4thシングル『月』発売。CD店などの告知ポスターには「桑田佳祐、今年は一人で歌います」とのコピーの煽りがあった。後年香港でジャッキー・チャンによるカバー曲が発売され大ヒット。
 ・9月23日、2ndアルバム『孤独の太陽』発売。収録曲『すべての歌に懺悔しな!!』が、矢沢永吉と長渕剛を揶揄しているとされ問題となり、桑田が「あれは自分を含めた芸能ロックミュージシャンを歌ったもの」と釈明し、2人に対して謝罪。矢沢は「全く気にしてない。それより桑田君の方は大丈夫か?」と大人の対応をするが、長渕は『views』誌上にて「俺は桑田佳祐を許さない!」などとコメント。ファン、マスコミを巻き込んでの一大論争に発展。その直後、長渕が大麻の不法所持で逮捕され、なし崩し的に沈静化する。詳しくはすべての歌に懺悔しな!!による論争を参照のこと。
 ・9月〜12月、初のソロ名義全国ツアー「さのさのさ」開催。全国各都市で、サザンでは長らく行われていなかったホール・市民会館などの小規模の会場でのライブでファンを喜ばせる。ツアー期間中の10月28日には母校である青山学院大学において「帰って来た青山のダンディー」と題し、学園祭ライブも行う。この日は通常のセットリストに加え、原・関口と共に、母校の思い出を綴った『Ya Ya (あの時代を忘れない)』を唄う。
 ・10月31日、5thシングル『祭りのあと』発売。
 ・12月1日、AAA武道館公演に、出演者の1グループとしてサザンが登場しオリジナル曲5曲を演奏。ソロ活動中の同年において、久々にバンドとして、更に休養中の関口和之も復帰し、6人揃っての登場となりファンを喜ばせた。また、桑田佳祐&Mr.Childrenとしても『奇跡の地球』を初披露。
 ・12月31日、『月』で第36回日本レコード大賞・優秀賞を受賞、『孤独の太陽』でアルバム大賞・ベストアルバム賞受賞。ソロツアー「さのさのさ」最終日、横浜アリーナにおいて年越しカウントダウンライブ。

■1995年
 ・1月23日、共に編曲などで交流のあった小林武史との縁により、Mr.Childrenと桑田佳祐&Mr.Children名義で『奇跡の地球(ほし)』をチャリティーシングルとしてリリース。前年AAAで披露されていただけに、ファン待望の作品化となった。
 ・4月、「桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド〜やさしい夜遊び〜」(TOKYO FMなどJFN全国ネット)スタート。自身がパーソナリティーを務め、現在も続く長寿番組になっている。
 ・12月1日、Act Against AIDS'95をタイのバンコクにて開催。小林武史や小倉博和らと共に「真夏の果実」「悲しい気持ち (Just a man in love)」の他、ビートルズやジョン・レノンのナンバーなど計7曲を歌う。
 ・12月31日、横浜アリーナで行われた岸谷五朗主催のアミューズのイベント『THE VARIETY III 異業種共演 大晦日の宴 〜FOR AAA』に出演。サザンとしての年越しライブに替わる出演で、桑田はカウントダウンの直前に登場。爆風スランプの演奏で「勝手にシンドバッド」を唄い1996年を迎えた。また、出演者の石橋貴明・唐沢寿明・岸谷五朗と共に「ゴロー&センズリッターズ」として桑田の書き下ろしの曲『長嶋は教祖なんかと違います』を唄い、唐沢は本業とは違うコミカルな一面を見せた。カウントダウンの瞬間は残念ながら年が明けるよりも数十秒も早く曲が終わってしまい、年が明けるまで出演者がMCのみで会場を煽ったが、かなり間の悪いものになってしまった。これは年を跨ぐ瞬間に合わせて演奏・演出など全てを合わせるのが非常に難しい事を表しており、サザンでの年越しライブが時間調整などを含めていかに高いレベルでライブが作られているのか改めて分かる結果ともなった。

■1996年
 ・4月、斎藤誠のシングル『今 僕を泣かせて』にコーラスとスライドギターのソロでゲスト参加。

■1997年
 ・9月、サザンが影響を受けたバンドであるリトル・フィートのギタリスト、ローウェル・ジョージのトリビュート・アルバム『ROCK AND ROLL DOCTOR』のレコーディングのため渡米。「日本人でリトル・フィートのカバーを任せられるのはこの人だけ」と、唯一の日本人ボーカリストとして抜擢され「LONG DISTANCE LOVE」を歌った。10月には同アルバムが日本でもリリース。
 ・10月、桑田がAAAで『サルビアの花』などをカバーした事もある早川義夫に、書き下ろしの新曲『アメンボの唄』を提供。作詞曲の他、ギター・コーラスでレコーディングに参加。テレビ朝日系バラエティー番組『人気者で行こう!』エンディングテーマに起用され、早川と共に桑田も番組のエンディングに出演していた。
 ・「アクト・アゲインスト・エイズ'97 〜歌謡サスペンス劇場〜」にて長らく放送禁止曲とされてきた岡林信康の『チューリップのアップリケ』を熱唱。その模様は深夜とはいえテレビで放映された。

■2000年
 ・5月、山下久美子のデビュー20周年記念セルフカバーアルバム「THE HEARTS」に収録される『バスルームから愛を込めて』にコーラスで参加。アルバムは6月25日に発売。歌詞カードには山下と桑田が一緒に写ったポラロイド写真も載っている。
 ・8月、自身の故郷・神奈川県茅ヶ崎市でサザンとして凱旋コンサートを行い話題を呼ぶ。
 ・10月、「桑田佳祐の音楽寅さん〜MUSIC TIGER〜」(フジテレビ系)放送開始。
 ・12月31日、サザンの大ヒット曲『TSUNAMI』で第42回日本レコード大賞を受賞。「やっと、ひばりさんの背中が見えました」とコメント。

■2001年
 ・サザン三度の休業期間に入り、各メンバーソロ活動を開始。
 ・7月4日、6thソロシングル『波乗りジョニー』発売。発売に合わせ、地方都市でFMラジオ公開生放送と、ライブ『古賀紅太NoReason!ライブハウスツアー』とを同時進行の形で行う。ラジオ放送は各地で数千人もの観客を集め好評を得た。ライブはサザンとしての全国ツアーに替わる企画で、佐賀・青森・奈良など、それまでツアーで行く事が少なかった土地でも行われ地方ファンを喜ばせた。
 ・8月7日、ラジオ番組内で、大森隆志のサザン脱退を発表。「プロになる気は無かったメンバーをまとめ、プロの世界に導いたのは大森。彼がいなければ自分達は世に出る事は無かった」と語る。
 ・10月24日、7thシングル『白い恋人達』発売。桑田ソロ名義のシングル最高売上を記録。
 ・12月6日、やまだひさしのラジアンリミテッドの企画でGLAYと競演。この模様は「桑田佳祐 meets GLAY スーパーFM」としてOAされた。最後はジョン・レノンの『Happy Xmas (War Is Over)』をGLAY、番組スタッフを交えて全員でセッション。
 ・12月22・23・24日、札幌市の月寒グリーンドームでクリスマスライブ開催。当初は札幌ドームを借りるつもりでいたが計画したときには既に埋まっており、ライブのMCで月寒ドームになってしまった事をぼやいていた。ライブではサザン・ソロ・KUWATA BANDの楽曲の他、『サンタが街にやってくる』『赤鼻のトナカイ』等のクリスマスソングも唄われた。また、24日のライブ終了後にはフジテレビ系『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』のクリスマス特番の生中継も入り、会場の外で一面の雪とライブを見ていたファンに囲まれ『白い恋人達』をピアノ弾き語りで唄った。

■2002年
 ・『波乗りジョニー』『白い恋人達』の2作で、第16回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞。
 ・6月26日、8thシングル『東京』発売。ファンクラブ誌上にて「石原慎太郎に物申すみたいな気持ちで作った」とコメント。
 ・8月10日、茨城県ひたちなか市で行なわれた邦楽ロックの音楽祭・ROCK IN JAPAN FESTIVALに参戦。2日目のトリを務める。未発表の新曲『BLUE MONDAY』『東京ジプシー・ローズ』(翌月発売のアルバムに収録)他、全14曲を熱唱。
 ・HOUND DOGのSHIBUYA-AXでのライブに飛び入り出演。大友康平とサザン初期の楽曲、『熱い胸さわぎ』収録の『恋はお熱く』を歌う。
 ・9月22日、スペースシャワーTVの日比谷野外音楽堂でのライブイベント『SWEET LOVE SHOWER』にトップバッターで出演。当日までシークレット扱いで一般には一切知らされておらず、観客を驚かせた。桑田はプロレスの覆面を被って登場し、全5曲を歌唱。
 ・9月26日、3rdアルバム『ROCK AND ROLL HERO』発売。
 ・コンサートツアー「けいすけさん、色々と大変ねぇ。」スタート。ソロアーティストとして初めて全国5大ドームツアーを開催。
 ・11月27日、初のソロベストアルバム『TOP OF THE POPS』発売。ソロ名義で1980年代、1990年代、2000年代と3世代に渡ってオリコンアルバムチャート1位を達成。3世代以上での1位は男性ソロでは長渕剛(1970年代を含め4世代)、井上陽水(3世代)に次ぐ3人目の快挙。

■2003年
 ・『東京』で第17回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞、『ROCK AND ROLL HERO』と『TOP OF THE POPS』の2作がロック & ポップ・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
 ・2月、『東京』が「SPACE SHOWER Music Video Awards 03」BEST VIDEO OF THE YEARを受賞。
 ・7月23日、『涙の海で抱かれたい〜SEA OF LOVE〜』をリリースしサザンでの活動を再開。復帰後はバンドとしての活動を継続中。
 ・11月、桑田の息子が通う中学校の学園祭でシークレットライブを行い、『勝手にシンドバッド』『涙の海で抱かれたい』等を歌った。この模様は女性週刊誌で報じられた。バンドメンバーは桑田の他に原や小倉博和・三沢またろう。4人とも学校の制服を衣装としていた。

■2006年
 ・7月17日、ゆかりのある小林武史、Mr.Childrenの桜井和寿らが主催する「ap bank fes'06」にソロとして出演。最終日となるこの日は、桜井と1995年に発売された『奇跡の地球』を11年ぶりにセッションし、話題となった。ソロでの出演であったが、サザン名義での楽曲『いとしのエリー』『真夏の果実』も披露した。
 ・8月26・27日の2日間、桑田がサザンを中心としてアミューズ所属のアーティストに呼びかけ、初の自身主催となる野外フェスティバル「THE 夢人島 Fes.2006」を開催。アミューズ外からもGLAY、Mr.Children、Dragon Ash、更には加山雄三など桑田とゆかりのあるアーティストがスペシャルゲストとして出演。
 ・12月2日、Act Against AIDSに出演。テーマを「星条旗よ永遠なれ!? 〜私のアメリカン・ヒーローズ」とし、桑田が影響を受けた1960〜70年代のアメリカンミュージック37曲を熱唱した。

■2007年
 ・約5年ぶりにソロ活動を再開。
 ・5月16日、9thシングル『明日晴れるかな』発売予定。


【エピソード】
■桑田が音楽に興味を持ったのは姉・えり子の影響である。学生時代は姉が集めていたビートルズ等のレコードを聴き入っていたという(当時レコードは高価なものであったが、家にはビートルズのレコードがすべてあった)。また、学生時代は休み時間にいつも教室の隅でプロレスごっこをしていたらしい。

■姉の岩本えり子はいくつかサザン・桑田ソロの曲で英語補作詞として参加している。桑田によると、作詞に行き詰ったときに電話で相談し、参考にしているとのこと。

■中学生から高校生にかけ、今は無きパシフィックホテル茅ヶ崎のボウリング場でジュニアボウラーとして鳴らしていた。アベレージは200以上あったららしく、クイズ番組「カルトQ」でも問題として出題された、アマチュアのボウリング大会に出た時の公式記録は297(10フレーム目の3投目だけは7本倒し、それまでの11投は全てストライク)との事。昭和40年代、大ブームだったプロボウラーを目指してもいたという。当時ジュニアボウラーはあまり多くなく、パシフィックボウル茅ヶ崎で一緒にしのぎを削っていたのが同い年で友人の文化放送扇一平である。中・高校時代の友人達は後にワイドショーのインタビューに応じ「昔は桑田は歌手じゃなくてプロボウラーになりたがっていた」と語っていた。

■高校は地元の神奈川県立茅ヶ崎高等学校に行く予定だったが、試験会場の教室が桑田の出身中学の生徒だけであったことをいいことに、休み時間にプロレスごっこをやっていたのを先生に注意されてしまう。そのせいかどうかは不明だが結果は不合格。滑り止めで受験した鎌倉学園高等学校に通うことに。在学中は英語のみ成績が良く、ほとんど受験勉強をしなかったにもかかわらず、明治学院大学と青山学院大学に合格し、青山学院を選択する。ちなみに大学は一度留年した後に、学費滞納により4年在学したのち1978年に除籍になったとの事(サザンのメンバーで青学に在学していた桑田・大森・関口・原のうち、卒業できたのは関口と原の2人だけである)。

■青学時代は20代であるにも関わらず、合宿先などでステテコ・ももひき・サングラスといういでたちであったために、サークル仲間に30代だと言われていた。最も初期に付けられていたバンド名「温泉あんまももひきバンド」は、この時の桑田の風貌から来ている。

■同じく青学時代、桑田と関口が所属していた音楽サークル「BETTER DAYS」に原が参加し桑田と知り合う。当初桑田は原の友達の女の子が目当てで近づいていたため、原の事は容姿を嘆いたり散々な軽口を叩いていたが、エリック・クラプトンなどの洋楽の好みで気が付けば意気投合、デビューまでの間に完全に付き合っており、サザンのメンバーやサークル仲間の間でも公認的であったという。詳細は原の著書『娘心にブルースを』で語られている。

■デビュー当時はコミックバンド扱いされていた事もあり、桑田も本意では無いものの芸人的な立ち振る舞いで、特に長門裕之に顔が似ていることを売りにしていた。また、三遊亭圓生、稲川淳二、大橋巨泉などの物真似も披露しており、現在でも度々ネタにしている。

■生まれも育ちも湘南であり楽曲でも湘南のイメージが強いものの、桑田自身は湘南という呼称に否定的であり、映画『稲村ジェーン』に出て来る「地元の人間は湘南なんて誰も言わない」というセリフは桑田自身の言葉でもある。サーフィンも中学生時代に友人の板を借りて数回やった事がある程度で、その時は全く立てなかったという。青学時代は「バンドマンとサーファーは敵対関係」と考えており、サーフショップにはお気に入りのネルシャツを買うだけの為に通っていた。デビューしてからも長い間サーフィンには目もくれず、泉谷しげるに丘サーファーなどとネタにされる事もあったが、1993年、37歳にして一念発起しサーフィンを始め、現在も続けている。

■デビュー当時サザンは、本人達にとっては強制的な形で『8時だョ!全員集合』『元祖どっきりカメラ』などのバラエティ番組にも度々出演し、コントやモノマネなどの芸をしていた。ちょうどその頃、ザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介が、ドリフ脱退を希望していた高木ブーに代わる新しい人材を探してところで、TBSプロデューサー居作昌果を通して、桑田にドリフ加入を打診していたという。桑田はいかりやとは会うだけ会ったが、具体的なやり取りについては明かされていない。

■笑福亭鶴光のもとを破門になった元落語家、笑福亭笑光こと鳥飼達夫は1981年12月、桑田のソロ名義のライブ「嘉門雄三&Victor Wheels」のライブに前座として出演。翌1982年にはビクターの営業マンとしてビクター社員達と共に「チャコの海岸物語」の宣伝活動に回りながらサザンのライブの打ち上げにも毎回顔を出し、次第に桑田に気に入られる。そして鳥飼は「『嘉門』の姓を譲ってほしい」と桑田に頼み了解を得て、嘉門達夫と名乗るようになる。その後も現在に至るまで、桑田は嘉門の替え歌を容認し続けるなどの仲である。

■振り付け師南流石の芸名の名付け親である。南は流石組を率いて、サザンの1988年のライブ「大復活祭」や、原の1991年のソロライブ「花咲く旅路」にも振付師・ダンサーとして出演し、原がライブでダンスを披露する際にも振り付けを担当した。

■オカマのことを「男と女のハーフだからニューハーフだね」と、大阪のあるラジオ番組で「ベティーのマヨネーズ」のママに名付け、『ニューハーフ』という言葉を世間に広めた。しかし本人は過去のことを忘れたのか、自分が広めた訳ではないと否定している。

■独特の歌唱法は、日本人からは高校時代より大ファンだった前川清からきており、また洋楽ではボブ・ディランの影響が特に強く、学生時代は声質をより近付ける為、ウォッカで喉をうがいし、自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続ける等の荒行も行っていたという。その結果、1982年頃までの楽曲にしゃがれ声が際立っている作品が多い。しかし、声帯への悪影響も強く、声が出なくなって出血する事もあったらしい。その後は声帯を酷使する極端な歌唱を控えるようになり、しゃがれ声が際立った曲は一部に留まっている。作品の発表時期によって歌声が異なって聴こえるのはこの為である。

■ニッポン放送の「イマジンスタジオ」完成記念ライヴで、オノ・ヨーコのサインの下に自分のサインと「クソババー」と書いたが、あとで消されたという。

■プライベートでは良きマイホームパパとしても知られており、ラジオ番組では度々「息子とサーフィンをした」「ギターを教えた」などの話題を話してしている。特に2000年春、次男の小学校の卒業式に行った際、教室で卒業生の前で当時ヒット中の『TSUNAMI』を生ギターで唄い、この時の様子が雑誌「FRIDAY」に写真入りで掲載された。桑田が唄っている最中、原は教室の後方から桑田の姿をビデオカメラで撮影していたという。

■同じアミューズの後輩である福山雅治のことを「マサジ」と呼んでいる。2000年に『TSUNAMI』と共に大ヒットした『桜坂』は、「実は自分が作ってFAXで送った」、福山が長崎市出身であることに引っ掛けて「元は『オランダ坂』だった」等と度々ネタにしていた。福山に対しては、ラジオや、共演したライブの際に極端にイジり倒す場面も見られるが、実際にはプライベートでも一緒に飲みに行ったりビリヤードをやったりする等の仲である(ラジオでは「マサジとAVを交換している」と言ったこともある)。桜坂を「あんないい曲、マサジに作れるわけがない」との発言は、逆に福山の才能を讃えての言葉とも言える。また、福山自身もラジオのトークなどでは下ネタを連発するのが福山ファンの間でも知られているが、桑田の影響が強いと見られる。

■かつてはヘビースモーカー(しかもニコチン・タール数共に高いハイライト)だったが、喉のことを考えて1999年頃から禁煙している。以来、口元が寂しくなるとチュッパチャプスを舐めるとラジオで語った。また、お酒は普段は朝まで飲むのだが、コンサートツアー中は一滴も飲まない。

■川上健一の『翼はいつまでも』にボロ泣きし、ラジオでリスナーにも勧めていたことがある。

■映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を飛行機の中で鑑賞するも、実際の「昭和30年代人間」として「あまりにも現実を美化しすぎている」と感じて5分で見るのをやめたという。

■ゆずがまだ無名の頃にラジオ出演していた桑田に対して「桑田さんと路上ライブをやってみたい」といった趣旨の手紙を送ったところ、桑田は本当にゆずの路上ライブに出向き、桑田佳祐&ゆずという夢のセッションをしたことがある。

■サザンの大ファンとして知られる平井堅は、学生時代は「NO-NAME(サザンのシングル『EMANON』の逆さ読み)」というコピーバンドを組んでおり、また、桑田の自宅の門の上に「コーラスでいいので雇ってください」とメッセージを添えたデモテープを置いて行ったという過去を持つ(ミュージックステーション出演時に発言)。このテープに関し桑田は「つめが折ってなかったから、EXILE録っちゃった」と冗談交じりに発言している。2003年の「FNS27時間テレビ〜みんなのうた」内の『桑田佳祐の音楽寅さん〜MUSIC TIGER〜サザンオールスターズスペシャル』では、桑田・原と共にサザンの『栞のテーマ』をハモり、夢の共演を果たした。さらに、2ndシングル『片方ずつのイヤフォン』の歌詞には“Southern All Stars”が登場し、アルバム『Ken's Bar』ではKUWATA BANDの『ONE DAY』をカバーしている。しかし同時に平井は、自身の声質や歌唱スタイルが桑田のそれとは全く違うことを自覚しており、桑田の模倣とはせず独自の歌唱法を身に付けた為、平井のオリジナル曲にその影響は殆ど見られない。

■ある日桑田が都内のスポーツクラブの駐車場入口に車で入ったところ、前方から、小川菜摘が運転する車がバックで接近して来た。小川は後ろのドライバーが桑田だと気づかなかったようで、「下がれよ!!」と車をバックさせるように恫喝した。道路はかなりの交通量がありバックすることもできず、道路を走る車からも罵声を浴びせられたりと大変だったと、HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP出演時に暴露し、それを聞いた夫の浜田雅功は苦笑いをしていた。ソロ曲の『或る日路上で』は、この出来事が元ネタになっているとファンの間では噂されたが、桑田は否定している。

■度々髪型を変えたり髭を伸ばす事もあり、CDのジャケット毎にイメージが異なる。特に桑田が四十路を迎え、アルバム『Young Love』リリースの1996年頃はそれまでになかった程、髪をロングヘア・茶髪にしてメディアに登場していた。本人は気に入っていたのだがファンからは概ね不評で、抗議のファンレターまで届いたほどだという。桑田は「伸ばしたっていいじゃねぇか!」とラジオやライブのMCでボヤいていたが、翌年には元の短髪に戻していた。1999年秋〜冬頃にはパーマもあてていたが、その期間も短く1999年末の年越しライブ「晴れ着DEポン」の時にはすぐに切っていた。しかし12月にジャケットとPVが撮影された『TSUNAMI』はこの髪型の桑田が写ってしまっている。このパーマに失敗したらしく、同作の大ヒットで特にメディア出演が多かった事ゆえ、この時の髪型にはかなり後悔していた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070522-00000006-sanspo-ent

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熊田曜子 エピソード&プロフィール

熊田 曜子(くまだ ようこ、1982年5月13日 - )は、岐阜県岐阜市出身の女性アイドル、タレント。アーティストハウス・ピラミッド所属。

血液型はO型。愛称は 「くまよう」「ようこちゃん」「くまちゃん」 など
  ・1998年3月 岐阜市立藍川北中学校卒業。
  ・2001年3月 関市立関商工高等学校商業科卒業。

【プロフィール】
・公称サイズ(2005年時点)
・身長: 164 cm / 5′ 6″
・体重: ― kg / ― lb
・スリーサイズ: 92 - 56 - 84 cm
・ブラのサイズ: F
・靴のサイズ: 24 cm
・備考: わきの下あたりに副乳がある

【来歴】
■関市立関商工高等学校3年のとき、週刊少年マガジンの水着コンテスト、ミスマガジンに応募。最終選考まで残ったものの、母親の猛烈な反対により辞退させられる。その後看護学校へ進学するが、芸能界入りの夢を捨てきれずに芸能事務所のオーディションに応募。この際母親が海外旅行中で、加えて荒天によって帰国が数日程度遅れたことから、この間に手続きを済ませ芸能界デビューを果たした。

■2002年下半期から2003年上半期にかけては当時同じ事務所に所属していた伊藤絵理香、相楽のり子の各氏とともにP-GIRLというグループで活動していたことがあった。

【特徴】
■郷土愛が強く、様々な番組で地元・岐阜県のアピールをしている。「いずれ岐阜県が日本の首都になる」と豪語している(首都機能移転計画のプロモーション・ビデオを観て「すごいかっこいい」と思ったからとか)。

■「いずれ時代劇の出演オファーが来るように」ということでピアスは付けないように心がけている。

■若槻千夏や、同事務所で同じ歳の安田美沙子と仲がよい。

■グラビアアイドルとしての活動が中心だが、テレビのバラエティ番組にも多数出演している。グラビアアイドル仲間の数人と「グラビアサミット」と称するミーティングを重ねており、バラエティ番組における対策を日々練っている。

■特技は一輪車。子供の頃「一輪車少女」としてテレビ出演をした経験がある。

■もっともバラエティー番組ではおっとりボケキャラというよりも毒舌と思われる発言も多い。

■脇の下のあたりにも乳首(副乳)があることをテレビで披露した。全部で4つある。ちなみに、副乳は女性では約5%、男性でも約2%の割合で出現するものであり決して珍しいものではない。

■2006年CDデビュー。アップテンポな曲で歌唱力はカバーされているが、舌足らずが影響してか、お世辞にも上手いとは言えない。だがこの為に何年もボイストレーニングをし1度レコーディングは済んだが満足いかずに、やり直したり、CDジャケットを自身でデザインする等した為、大々的に報じられ話題を呼んだ。またセカンドシングルが今秋に発売予定。

【エピソード】
■TV番組の一般アンケートで「ホストクラブに通っていそうだ」という結果が出た時、「事務所の先輩の鈴木紗理奈さんから『バラエティー番組でお金を稼ぐのは身を削って稼ぐことだ』と言われたんですよ。そうまでして頑張ってためたお金をホストクラブでは絶対に使いませんよ」と発言した。

■2005年1月6日放送の日本テレビ系列「金持ちA様×貧乏B様」の特別番組で、インドネシア・バリ島の観光親善大使に選ばれた。

■2003年6月18日、「ディスカバ!99」(TBS系)にて自分の親の教育方針で「相性があるから沢山の人とエッチしなさい」という名言を残した。後に、「エッチ」ではなく「たくさんの人と付き合いなさい」と言われていると言い換えた。

■2004年頃のグラビア誌のインタビューで記者にスタイルの良さを褒められると「知ってます」や「他の子と並ぶと私綺麗だなって思いますね」と答える等調子に乗った発言が目立っていたが、後に本人が某番組で「完全に天狗でしたし、その後すぐに鼻を折られました」と語った。今はその様な発言は無いが名残か毒舌が見られ一部の視聴者から反感を買っている。

■2006年1月27日、写真週刊誌「フライデー」にナインティナイン岡村隆史との熱愛が報じられる。このことについて2月19日の「アッコにおまかせ!」(TBS系)で語ったが、交際を否定するコメントがなかった。しかし、その後の放送では和田アキ子に相談していたことが分かり、和田アキ子に「私が保証する」「早いうちにはっきりさせたほうがいいで」「ちゃんと確認しなきゃ!(アコムのCMから引用)」など檄交じりに言われ、お昼の生放送にもかかわらず「(Hは)してません!」と叫び、性的な関係を否定した(また、相手の岡村も好意はあったが手は出してないと、自分の出演する番組でいった経緯がある)。

■2006年3月28日の「さんま御殿」(日テレ系)で明石家さんまに「さんまさんを見るとドキドキする」とアピールしていた(「緊張のせいかもしれないけど」と予防線も張っていたが)。芸能人との浮名や大物芸能人へのアプローチは、一般人から見ても単なる売名行為という批判もある。また熱愛報道が出たのはCDデビュー、写真集の発売前であったため、より反感を強めてしまった。

■2006年5月2日のロンドンハーツ(テレビ朝日系)で、CDオリコンチャート対決で青田典子に負けて、罰ゲームが決定。故郷岐阜でジーザスをすることになった。しかし、「罰ゲームは『MUSIC STATIONに出演』にしてほしかった」という声もある。

■2006年6月4日に罰ゲームを決行。この模様は6月13日のロンドンハーツ(テレビ朝日系)で放送された。高校時代の教師と同級生、中学時代の初恋の人の前でジーザスをした。お宝写真3枚とラブレターが暴露された。

■2006年6月15日のクイズ$ミリオネアで、1000万獲ったら自費出版で日記を売りたいと言う事に対し、みのもんたが「xx君とデートしたとか?」と岡村の事を言われて慌ててしまった(テロップにモザイクを入れて音声も差し替えたが、モザイクを入れても岡村という文字が判断できた)。

■2006年7月10日、熊田に似ているとブログで自称していた長野県在住の女が、自動車へ放火した容疑で逮捕される事件があった(この女は芸能界入りを目指しており、自身のブログでは「くまぇり」と名乗っていた。また、逮捕直前には雑誌「SPA!」の取材も受けていた)。この事件に関して熊田は友人から知ったといい、同月16日放送の「アッコにおまかせ!」で「めっちゃ迷惑ですよ!」とコメントした。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070412-00000168-sph-ent

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