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柴咲コウ エピソード&プロフィール

柴咲 コウ(しばさき こう、1981年8月5日 - )は、女優、歌手。東京都豊島区出身。スターダストプロモーション所属。血液型はB型、身長は約160cm。最終学歴は東京都立板橋高等学校中退。芸名は、かわかみじゅんこの漫画『GOLDEN DELICIOUS APPLE SHERBET』(短編集『少女ケニヤ』収録)の登場人物・柴崎紅が由来。


【経歴・特徴】
■デビューは1998年に放送された番宣番組『倶楽部6』(TBS)。1999年放送の日本リーバ(現ユニリーバ・ジャパン)の「ポンズ・ダブルホワイト」のCMでブレイク。以後は映画『バトル・ロワイアル』や
『GO』での演技が評価され、数々のドラマや映画に出演した。

■『GO』での演技が認められ、数々の賞を受賞し女優としての地位を確立した。

■主な出演映画代表作は、『黄泉がえり』(03年)、『世界の中心で、愛をさけぶ』(04年)、『メゾン・ド・ヒミコ』(05年)、『日本沈没』『県庁の星』(06年)など。柴咲が出演したほとんどの映画は大ヒットを記録している。
2007年には、妻夫木聡とダブル主演を努める『どろろ』、堤真一・阿部サダヲとトリプル主演を務める『舞妓Haaaan!!!』の公開が控えている。

■おもな主演ドラマ代表作は『GOOD LUCK!!』(03年)、『オレンジデイズ』(04年)、『Dr.コトー診療所』(03年,04年,06年)など。いずれも高視聴率を記録した。特に『GOOD LUCK!!』は最高視聴率37%を記録し、柴咲の影響で整備士を志願する女性が急増した。

■歌手として、ユニバーサルミュージックから2002年にシングル「Trust my feelings」でデビュー。2003年、RUI(ルイ)の名義でリリースした映画『黄泉がえり』の主題歌「月のしずく」が100万枚を超える大ヒットとなる。オリコンチャートでは最高位1位、年間チャートでも3位を記録した。翌2004年には、ドラマ『世界の中心で、愛をさけぶ』の主題歌「かたち あるもの」(最高位2位)が60万枚を超える大ヒットを記録し、年間チャートでもトップ10入りした。ほとんどの作品は柴咲自身が作詞を担当しており、2006年のドラマ『白夜行』の主題歌「影」(最高位2位)や『タイヨウのうた』主題歌「invitation」など、本人による歌詞は原作の内容をよく理解して作られており、作詞に関する評価も得ている。しかし本人は女優活動を重視しており、歌手として歌番組に出る事は滅多にない。

■髪型はかつてロングヘアーだったが、現在はショートカット。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20071001-00000031-nks-ent

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SHOGO(175R) エピソード&プロフィール

SHOGO(ショーゴ、本名:木下 将吾 (きのした しょうご) 1980年3月24日 - )は、日本のミュージシャン・歌手。175Rのボーカル。福岡県北九州市小倉北区出身。豊国学園高等学校卒業。

元妻は歌手の今井絵理子。2004年6月に結婚。同年10月に長男が誕生したが、2007年9月24日に離婚を発表した。


【概要】
2006年3月には初のソロ名義で「AM(ありがとう みんな)1242」をリリース。 他にも小久保淳平とのアコギユニット「THE無法松」、西川貴教、土屋礼央、グローバー義和とのユニット「しぐれに」、元JUDY AND MARYのTAKUYAとのユニット「Fever The Quareter」など活動範囲も幅広い。 過去にSHOGO本人役としてのドラマ出演や、探偵R571役として林海象監督の映画「探偵事務所5」にも友情出演。 2005年からは作詞・作曲のクレジット名は「shogo. k」である。 自身がレーベルプロデューサーを務めるBUG ROCK RECORDSではジェット機、ニューロティカなどをプロデュース。 尾崎豊の影響を強く受けたらしい。


【来歴】
■1998年10月、ロックバンド175R結成。インディーズで活動。絶大な人気を誇る。

■2002年10月、自身がパーソナリティをつとめるニッポン放送系『SHOGOのallnightnippon-r』がスタート。当時は火曜27:00-28:30。

■2005年~2006年3月「SHOGOのオールナイトニッポン」として、土曜25:00-27:00を担当。

■2003年
・1月6日、シングル『ハッピーライフ』でメジャーデビュー。
・12月31日、第54回NHK紅白歌合戦に初出場。

■2006年3月、シングル「AM (ありがとう みんな)」でソロデビュー。


【交友関係】
交友関係は幅広く音楽界ではGLAY、谷村新司、MCU、ORANGE RANGE、mihimaruGT、exJUDY AND MARYのTAKUYAなど その他、俳優の山崎裕太、お笑い界では、久本雅美、安田大サーカスのHIROなど。 スポーツ界では北島康介、稲本潤一、小林大悟など。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070924-00000902-san-ent

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子門真人 エピソード&プロフィール

子門 真人(しもん まさと、1944年1月4日-)は日本の歌手。本名は藤川正治(ふじかわ まさはる)。東京都目黒区出身。


【人物】
熱心な聖公会のクリスチャンであり、芸名の子門(しもん)も自身のクリスチャン・ネームに由来している。

また、「子門真人」という名前の他にも、様々な別名義を用いてレコード・CDを発売している。例えば、藤浩一、谷あきら、大安蓮、布川富美雄、司馬拳、希砂未竜、ピーター・サイモン、サタンタなど。


【来歴】
玉川大学文学部英米文学科卒。歌手になる前は広告代理店に勤務していた。

1966年、藤浩一として『黄色いレモン』(作曲は当時無名の筒美京平が師匠であるすぎやまこういちの名義を借りて発表、のちに筒美京平名義に変更された)で歌手デビューしたが、さっぱり売れず、シングル5枚を出すが、ヒットに恵まれずに1年半後に引退する。

流行歌手の道は断念した彼だが、音楽活動自体は継続して行い、GSグループへの楽曲提供を行ったり、アルバイトとしてCMソングを歌っていた。そして1971年に一曲2万5000円のアルバイトで「仮面ライダー」の主題歌『レッツゴー!!ライダーキック』を歌う[1]。だが、その後、主演の藤岡弘によって再録音され、[2]実際の番組にはこのテイクが使われる。一方何も知らない子門は、「仮面ライダー」第1話の放送を見て、自分の歌が使われていないことに酷く落ち込み、エンディングには自分の歌が使われていることを確認する前にチャンネルを変えてしまう。数週間後、未だ「仮面ライダー」という嫌な記憶が残る子門に、友人が「仮面ライダーのテーマを歌っているだろう?結構ヒットしているんだって?」という何気ない質問をし、驚いた子門は久しぶりに「仮面ライダー」を見ることになる。番組の主題歌は主演俳優が佐々木剛に交代する際に子門版に変更されていたのだ。「レッツゴー!!ライダーキック」は番組の爆発的な人気とともに当時日本のテレビドラマ主題歌としては最大の90万枚を超える大ヒットとなり、知名度があがる。これを皮切りに子門は幾多ものアニメソング・特撮ソングを歌い上げる。また、レコードは、テレビで藤岡の歌唱が使われているのに対し、子門の歌唱でリリース、後に藤岡版に差し替えられるも、今度は子門版がテレビに使用され、再び差し替えとなる。なお、ジャケットには歌唱者が書かれていないため、藤岡版放送時代に子門版を、子門版放送時代に藤岡版(の売れ残り)を運悪く買ってしまう子供が少なからずいたという。

また、1976年にやはり一曲5万円のアルバイトで歌った『およげ!たいやきくん』が日本における戦後最大のメガヒットとなり、老若男女にその存在をアピール。子門の代表ソングとなった[3]。なお、この仕事で5万円の他に白いギターをもらった。これを機に子門はテレビに頻繁に露出するようになる。続けて発売された『ホネホネロック』も大ヒット。

1980年代になるとアニメソングを歌うことは少なくなったものの、音楽プロデューサーとしての活動の傍らアルバイトで子供向けの歌を歌い、「ひらけ!ポンキッキ」などでその存在をアピールしていたが、1987年に再びフリーの歌手に。同年『ひらけ!ポンキッキ』の「動く図鑑コーナー」の挿入歌『はたらくくるま2』が話題になる。相前後して、渡辺宙明作曲の「マシンロボ クロノスの大逆襲」新主題歌「勝利のマシンロボ」で、久しぶりにロボットアニメソングを収録。往年のヒーローソングの帝王健在を示し、「久しぶりの宙明節、燃えますね」というコメントを残している。

1993年頃に「人間嫌いになった」と発言し、引退宣言を行った。その後、1998年に希砂未竜という芸名で『星獣戦隊ギンガマン』の主題歌などを歌うことがあったものの、以後マスコミの前には姿を現していない。


【豆知識】
■日本における戦後最大のメガヒットである『およげ!たいやきくん』は、当初はフォーク歌手の生田敬太郎が歌っていたが、彼が当時テイチクの専属歌手であり「ひらけ!ポンキッキ」関連のレコードを発売していたキャニオンからレコード発売ができなかったためアルバイトで子門に歌ってもらったものである。子門のバージョンでレコードが大ヒットして以後、生田は『およげ!たいやきくん』のことは一切口にしなくなったという。

■『ウルトラマンレオ』のカバー音源をキャニオン、コロムビア、ソニー、ビクターの4社で同時期に録音、発売している(カラオケは各社が独自に用意したものであり、子門はその都度歌い直している)。フリーの歌手とはいえ、同一曲の別バージョンを複数のレコード会社から同一歌手で同時期に発売するというのは極めて珍しい出来事である。

■『科学忍者隊ガッチャマン』『アイアンキング』『ジャンボーグA』『流星人間ゾーン』の主題歌は、子門がオリジナルバージョンの歌唱者でありながらカバー音源も歌っている(『アイアンキング』以外はオリジナル版とは別名義)。

■『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌は当初、子門が歌う予定だったという説があるが、真偽のほどは定かではない。CD「松本零士音楽大全」に収録されている没テイクは子門とはかけ離れた声で、レコード会社にも歌手に関する資料がなく「歌唱者不詳」とされている。ただし、主題歌オーディションに子門が参加した可能性はあり、子門の歌った未発表音源がまだ存在するかもしれない。とりあえず、実際に歌ったさ
さきいさおは「元々は子門さんがやるはずだったんだけど、歌ってみたら軍歌っぽくてイメージと違うということで、私が呼ばれて歌ってみたらこっちの方が良いじゃないかということになった。」と「快進撃TVうたえモン」の中で述べ、他に2005年11月9〜11日放送の「ライオンのごきげんよう」でも『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌はすでに子門真人や他に何人かがすでに録音していたが、作曲家の宮川泰が低音のさ
さきいさおがイメージに一番合っていたということで決定したエピソードを披露している。それらNG版の音源化も望まれるところである。

■ささきは、自身のアニメソングデビュー作となった『新造人間キャシャーン』の主題歌「たたかえ!キャシャーン」について、自身が出演していた『科学忍者隊ガッチャマン』の主題歌での子門の歌い方を研究して臨んだと語っている。

■1978年に映画『スター・ウォーズ』のテーマに有川正沙子による日本語の歌詞を付けた曲『スターウォーズのテーマ〜カンテナバンド〜』を発売したが(厳密には『スター・ウォーズ』のテーマをミーコがディスコアレンジでカバーした曲の再カバー)、ジョージ・ルーカスサイドからのクレームがつき、レコードが回収された。しかし、同曲は1999年に発売された『テクノ歌謡ポリドール編 ハートブレイク太陽族』でCD化されている。

■2006年5月21日にNHK-BS2で放送の「BS永遠の音楽・アニメ主題歌大全集」では、ともに彼の持ち歌である「レッツゴー!!ライダーキック」をささきいさおと水木一郎が、「勇者ライディーン」を串田アキラと影山ヒロノブが代わりに歌った。

■『元祖どっきりカメラ』で子門がニセCMソング「ミルキーライトの歌」を歌わされたことがある。このどっきりは「ツルリン・ピカリン・ツルリン・ピカリン・ハァー、ゲーンキな子供は・ミルキーライト」という歌詞を、ハゲ頭の重役の前で歌い激怒させてしまうというもの。仕掛人の「あなたをこの世界から消すこと出来ると言ってますよ」という旨の言葉の前に、子門は「構わない、ならば辞めて会社員として生きていく」と毅然とした態度でスジの通らない難癖に本気の怒りを見せた。

■コナミが1993年に発売したアーケード格闘ゲーム『究極戦隊ダダンダーン』にて彼が主題歌を歌っている。ゲーム内容やキャラクターなどが戦隊シリーズやタイムボカンシリーズを意識したものであることに関連して起用されたものと思われる。ゲーム中ではメモリの関係で1番のみを聞くことが出来る(同ゲームサントラにてフルサイズを収録)。ちなみに彼の起用にかかった費用は200万円といわれる(うち半分以上が仲介料)。

■一部のファンからは、引退後まったくマスコミに姿を現さなくなったことから、アニソン界の榎本喜八とも呼ばれている。

(出典:Wikipedia)

島田珠代 エピソード&プロフィール

島田 珠代(しまだ たまよ、本名同じ、1970年5月10日 - )は、日本の喜劇女優でありお笑い芸人である。大阪府吹田市出身。吉本興業所属。

吉本新喜劇の代表的女優として1990年代初め頃から頭角を現した。吉本興業の東京進出攻勢に乗り、山田花子と共に全国的に名前を知られるようになった。

1998年4月、当時東京支社所属の吉本興業社員と結婚し上京。2001年、ルミネtheよしもとのオープンとともに東京に完全に拠点を移し、同劇場の新喜劇に山田花子と並ぶ看板女優として現在も出演。

しかし、2005年8月に夫と離婚した。「さんまのまんま」でゲスト出演した際、珠代曰く「明石家さんまから一時的に別居してみたら」と提案されたため、別居したところ、夫がそのまま帰ってこなかったらしい。

2006年10月3日から1週間の公演をきっかけに、なんばグランド花月本家の吉本新喜劇にも復帰した。ただし、現時点では正式に座員に戻ってはおらず、客演扱いの模様。「なにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!」(朝日放送)にも度々出演し、番組レギュラーの岩尾望(フットボールアワー)・山田花子とともに『ブサイクピラミッド』としていじられる。またGAORAにて放送された「新喜劇フー!!」に呼ばれたこともあった。


2005年4月に名古屋の中部日本放送(CBC)が制作したTBS系ドラマ「湯けむりウォーズ」で知り合い、島田が離婚した後の同年12月から交際を始めた名古屋在住のテレビマンと約1年8カ月間の愛を実らせ、2007年8月31日に名古屋市内の区役所に婚姻届を提出。新居も名古屋市内に構えた。


【主なギャグ】
■ワァーオ…チ〜ン
男性俳優に対してまとわり付いた後に、股間を指で弾く。
弾かれた男優が島田と「チ〜ン」と弾き返し、互いに弾き合いだすこともある。そのときは「チ〜ンチ〜ンチ〜ンチ〜ンチンチンチンチン、UFO!」といつの間にかピンクレディーの「UFO」になる。

■壁当たり
「チ〜ン」等の後に、ツッコミのような形で、男性共演者に勢いをつけて壁にぶつけられる。ぶつけられる際は、大体「片」の字のようなポーズ(特に足)でぶつかる。そして倒れこんだ後に、「(あなたって)優しいのね。」もしくは「男なんてシャボン玉。」と強がりを言う。前フリとして準備運動をするパターンもある。
因みに2007年1月3日放送の「お正月だよ全員集合SP」では、この「男なんて〜」の部分で「明けましておめでとう。」と言った。
モーニング娘。 19th シングル「シャボン玉」は、珠代の「男なんてシャボン玉。」へのトリビュート的意味合いもあると考えられる(珠代はハロー!モーニング。に数回ゲスト出演)。
この上記のネタに対して、「お正月だよ全員集合SP」で内場勝則が「お前は教育に悪い」と言った。またアメリカ公演の際にも「壁あたり」を披露しているが、お国柄ゆえ「女性虐待」とストレートに受け止められたせいか、冷ややかな反応しか返ってこなかったらしい。

■股間から顔出し
「結婚して〜」「付き合って〜」などと男性俳優にまとわりつき、その流れでさりげなくしゃがみこみ、股間から顔を出すギャグ。股間に挟まれたまま頭をシェイクされ、「気持ちいい感覚〜」などと言うパターンもあった。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070905-00000045-spn-ent

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島谷ひとみ エピソード&プロフィール

島谷ひとみ(しまたに ひとみ、本名:島谷 瞳、1980年9月4日 - )は、日本の女性歌手、女優。広島県呉市(旧安芸郡音戸町)出身。所属レコード会社はエイベックス。所属事務所はバーニングプロダクション。


【人物】
■清水ヶ丘高等学校卒業。血液型O型。身長161cm。

■基本的には、左利きだが、字を書くときと、箸は、右である。

■歌唱力と透明度の高い歌声、表現力とリズム感のあるシンガー。

■幅広い楽曲を歌いこなすことができる器用さが彼女の持味であるため、リリースされた曲は、激しいアッパーチューン、切ないバラード、異国情緒な雰囲気を醸し出しているもの、ロック、ミドルナンバー、アップテンポナンバー等幅広い。彼女のヴォーカルによる新しい楽曲を提案した、2005年2月23日リリースの「スペシャルコンセプト・アルバム」『crossover(クロスオーバー)』から、島谷ひとみの持ち味を最大限活かす為に現在この「crossover路線」をメインに活動している。

■ロングヘアーがトレードマークで、美髪の持ち主。ORICON STYLEが2006年5月18日に発表した『髪の毛がキレイな女性タレントランキング』にもランクインしている。

■歌手の中でもドラマや映画などへの出演が比較的多く、女優業にも力を入れている。

■ファンからの主な愛称は「ひとぴょん」また『僕だけのマドンナ』出演時には共演していた長谷川京子や小西真奈美らから「亜麻色ちゃん」と呼ばれて親しまれていたという。

■実家は親族一同で牡蠣の養殖産業を営んでいる。家族構成は父、母、4つ年上の姉、犬2匹。

■初めて買った音楽ソフトは、Winkのカセット。

■オーディションではDREAMS COME TRUEの『未来予想図II』をアカペラで歌う。また吉田美和を尊敬するとの発言もたびたびしている。『堂本兄弟』出演時にこの曲を歌ったこともある。

■中学時代はソフトテニス部に所属。地元の大会では優勝の経験もある。

■好きな男性ができても告白できない等の話を度々テレビで語っている。その反面、AMラジオ番組「島谷ひとみのkeep up spirits!(文化放送他)においては番組あてに寄せられる恋愛にまつわる相談の指南役をやっていたりする(主にティーンエイジャー向け)

■ケツメイシのファンであり彼らのライブを一般席から見ることもあるという。

■トイプードルの「モア」という名の愛犬は、現在は広島の実家に預けてあり、”娘”(メス)の顔を見に実家に戻るらしい。

■以前ミュージック・フェア(フジテレビ)で、共演した川嶋あいが自叙伝「最後の言葉」を上梓したという事で、川嶋から貰ったその本に一読三嘆し、島谷ひとみのkeep up spirits!(文化放送他)でも島谷がリスナーにもその本を読んで欲しいと紹介した。その後同番組でも川嶋がゲストで登場した(4月9日放送)。また同日の笑っていいとも(フジテレビ)のテレフォンショッキングでは島谷が紹介した川嶋が出演した。(ちなみに島谷の同コーナーの出演(4月6日)は新山千春からの紹介であった。)

■シングル「亜麻色の髪の乙女」のヒットにより島谷=亜麻色というイメージが出来上がってしまい、島谷本人の髪の色が「亜麻色」というイメージが浸透してしまっているが、本人の髪の色が亜麻色だった事はない。(亜麻色は灰がかったかなり薄い黄土色で、島谷の髪の色はシングルのヒットから今日まで常に「深い栗色」に近いといえる)


【来歴】
■1997年に『第1回ザ・ジャパン・オーディション』で歌手部門に応募総数約20万人の中から合格。それから高校卒業までの間は、週末にレッスンに通いに東京へ足を運び、広島と東京を往復する生活を送っていた。

■1999年に関西テレビ放送(KTV)の『紳助の人間マンダラ』の企画で、島田紳助プロデュース、紳助、高原兄(元アラジン)楽曲提供の演歌『大阪の女』でエイベックスからデビュー。同曲はオリコンの演歌チャートで初登場1位を記録(同チャートでのデビュー曲初登場1位は城之内早苗、中澤裕子に続き3人目。但し2人共それ以前にアイドルグループでデビューしており、純粋な新人としては史上初)。読売テレビ放送(YTV)の全日本有線放送大賞で新人賞を獲得。

■2000年9月27日に発売された『解放区』からJ-POPに転向。

■2001年2月7日に『パピヨン〜papillon〜』をリリース。週間オリコンチャートの最高順位は14位でありながらも、50位内に20週以上ランクインするロングセラーとなり20万枚以上を売り上げた。

■2002年1月30日にTBSのドラマ『プリティガール』の主題歌『シャンティ』を発売し、週間オリコンチャート初登場7位を記録。自身初のオリコンTOP10入りの作品となった。

■2002年に、ヴィレッジシンガーズの『亜麻色の髪の乙女』をカバー(自らがモデルとして出演した、花王エッセンシャルダメージケアシャンプーのCMのイメージソング)して大ヒットし、オリコンのカラオケチャートで新記録となる18週連続1位を記録。オリコン年間カラオケチャート1位、週間オリコンチャート最高位4位、売り上げ枚数37万枚、年間オリコンチャート22位となった。

■2002年6月12日に発売された2ndアルバム『シャンティ』では週間オリコンチャート初登場1位を記録し、シングルアルバム通じて初の1位取得作品となった。

■2002年の『第53回NHK紅白歌合戦』に初出場し『亜麻色の髪の乙女』を披露。紅組後半(第二部)のトップバッターを務めた。以後4年連続で出場している。

■2003年には『僕だけのマドンナ』で初の月9ドラマへの出演となり、映画『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』では初の声優に挑戦した。

■2004年春に仲間由紀恵、今井絵理子らとミュージカル『スター誕生』でトリプル主演を務める。ちなみに舞台の公演初日である2004年3月17日は島谷の14枚目のシングル『Viola』の発売日でもある。

■2004年10月23日に起きた新潟県中越地震の当日は同県の震源地に近い巻町(合併後の現・新潟市)でのコンサートの為、新潟県内に滞在していた(公演は延期。後日無事開催された)その時の模様を取材しようと島谷ひとみに、TVワイドショーのレポーターが殺到し、島谷は「道端にいるどの犬も異常な程よく鳴いていた」、と地震が起きる直前の奇妙な光景を伝えた。また後日、日本音楽事業者協会の、震災に対する義援金1000万円の寄付の代表を北島三郎と共に務めた。

■2005年からポップスとクラシックとの融合を目指したcrossover路線へと移行し現在に至る。

■鈴木雅之から突然デュエットのオファーがあり2007年1月24日に『ふたりでいいじゃない』をリリース。「彼女(島谷)の声に以前から興味を持っていて、いつか一緒に歌いたかった。」と鈴木はコメントしている。

■2007年8月にミュージカル『赤毛のアン』に3代目のアン役で主演することが決定した。


【交友関係】
■国仲涼子
デビュー前の東京でのレッスンの時、宿泊部屋が国仲涼子と相部屋だったことで知り合う。お互いに親友と呼べる仲であり、東京に出てきて一番初めに出来た友人である。東京に出てきて初めて住んだマンションが国仲と同じマンションだった。現在は島谷が引っ越したため、お互い違うマンションで生活している。国仲とはドラマ『探偵家族』(2002年、日本テレビ系)の第8話で初の共演を果たす。その後、『さんまのまんま2005新春編』に二人揃って振袖で登場。

■仲間由紀恵
ミュージカル『スター誕生』(2004年)の共演がきっかけで仲良くなり、今では二人だけで食事に行ったり、海外旅行に行くほどの仲である。AMラジオ番組「島谷ひとみのkeep up spirits!(文化放送他)では、仲間由紀恵との意外なエピソードを島谷が暴露することもある。2006年3月17日放送の『ミュージックステーション』では『春待人/Camellia-カメリア-』と『恋のダウンロード』の発売日が同じこともあって、テレビで初の共演となった。

その他、島谷ひとみのkeep up spirits!(文化放送)にもゲスト出演し、笑っていいとも(フジテレビ)のテレフォンショッキングに島谷が出演時に花を贈った上原多香子など。偶然?にも国仲、仲間、上原と共通して沖縄出身者。また年齢は離れるものの森公美子と仲が良いらしく、前述の「テレフォン・・・」の出演時に森から花束が届き、2人揃って「うたばん」(TBS)出演し「森食堂」と称される森の家で、芸能人が集うパーティーに仲間由紀恵と共に(共演のミュージカルの打上げとの事)現われるらしい。と話していた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070623-00000002-sanspo-ent

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篠原涼子 エピソード&プロフィール

篠原 涼子(しのはら りょうこ(本名:市村 涼子)、1973年8月13日 - )は、日本の女優、タレント、歌手。

群馬県桐生市広沢町出身、群馬県伊勢崎市生まれ。桐生第一高等学校中退。ジャパン・ミュージックエンターテインメント所属。夫は俳優の市村正親。身長162cm。体重45kg。血液型B型。


【略歴】
■1989年「高速戦隊ターボレンジャー」(テレビ朝日系)第33話「奪え! 洋平の顔」にて、武蔵野学園の生徒役でゲスト出演した。

■1990年4月、アイドルグループ「東京パフォーマンスドール」(TPD)の初代メンバーとして参加し、5月21日『ジャスト・ライク・マジック』をグループ内の3人組ユニット「ゴルビーズ」名義で発売し歌手として芸能界デビュー。初ステージは6月。

■1991年12月より、フジテレビのバラエティ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演し、様々なコントに挑戦する。ダウンタウンの二人にシバかれる、ほんこんに唇に吸い付かれるなどアイドルでありながら汚れ役も嫌がらない姿勢が人気を博し、タレントとして知名度を得る。

■1994年7月、小室哲哉プロデュースによる篠原涼子 with t.komuro名義で『恋しさとせつなさと心強さと』(長編アニメーション『ストリートファイターII MOVIE』主題歌)を発表、2年越しのロングヒットで売上200万枚を超えるメガヒットとなり、その年の『紅白歌合戦』に出場。

■その後、タレントとしては低迷の時期を過ごしたが、2001年から本格的に女優に移行し、徐々に人気が回復。2004年に初主演したドラマ『光とともに…〜自閉症児を抱えて〜』(日本テレビ)で自閉症児の母親役を演じその演技力が高く評価された。その後は演技派女優として、anegoブームを巻き起こした『anego』(日本テレビ)や、新境地開拓と話題になった『アンフェア』(関西テレビ)などに主演。

■2005年、市村正親と結婚。

■2006年、TBS系列初主演作のテレビドラマ『花嫁は厄年ッ!』(2006年7月-9月)ではかつてフジテレビのドラマ『マザー&ラヴァー』で共演する予定だった大物女優・岩下志麻と共演。同年の『24時間テレビ』(日本テレビ)でチャリティパーソナリティーを務めた。

■2007年、日本テレビ系ドラマ『ハケンの品格』に主演。3月公開の『アンフェア the movie』で初の映画主演を務める。


【人物】
■生家の家族は父親と兄・姉。母親は篠原が2歳の頃に交通事故で亡くなっている。以来、父親の男手ひとつで兄姉とともに育てられる。篠原の得意とする料理も父親から伝授されたもの。そんな環境からか、篠原にはファザコンの一面も見られる。

■デビュー(16歳)してからブレイクするまでは、ときどき寿司屋でアルバイトをしていた。これはTPDのプロデュースの一環として事務所から「やらされていた」面もある。

■歌手中森明菜を厚く信奉する後輩タレントの一人としても知られ、デビューのきっかけとなったオーディションではその憧れの中森明菜の「スローモーション」を歌って合格した。

■天然ボケでもあり、バラエティ番組で共演中の中居正広が中指を複雑骨折した時、「それ、突き指?」と言うほど。他にも『空飛ぶグータン』で、井上和香と大阪は暖かかったと話した際に「(大阪は)南の方だから(暖かかった)かな?」と言って、「西じゃないんですか?」と訂正されたり、尾崎豊の楽曲『15の夜』のサビを「すさんだバイクで走り出す〜」と思いっきり間違えて歌ったりしている(本当は「すさんだ」ではなく「盗んだ」)。『ごっつええ感じ』で九九が判らないことや、やきゅう(野球)、はな(鼻)の漢字を知らないことも判明した。「アンコウさばくの見たことある?」と浜田雅功に聞かれたときは、「あんこはちょっと…」と返していた。

■下ネタ好きである。レギュラーを務めていた『空飛ぶグータン』では、三船美佳、仲根かすみと何の恥じらいもなく「アソコってかなり敏感じゃない?」と言ったり、城之内早苗が寮の一人部屋に何故か布団が二つ敷いてあったと語ると「誰か呼び込んで『どうぞ』みたいな?」と発言している(後に城之内は河合その子と相部屋だったと語っている)。また、叶恭子が「早い時はすぐに終わる」と、男と会う時間の話をしていたら何を勘違いしたのか「早いって何が!?」と一人で大騒ぎしだしたりもした。しかし、『ごっつええ感じ』のコントの中で松本人志が連発する下ネタには若干引いていた。篠原が「夏になるとものを口に含むのもおっくうになりますよね」と言うと、松本が「自分は含んでるくせにねェ」などといっていた。

■自然体で気取らないキャラクターや、ドラマ『anego』の影響のためか、女性からの人気が極めて高い。

■演技力に定評があり、演じる役の幅が広い事が大きな特徴。その演技力が評価され、ザテレビジョンドラマアカデミー賞の助演女優賞を2度、主演女優賞を3度受賞。

■ナチュラルメイクで、太目の眉、ボリュームのある唇が特徴。

■タモリは篠原を「しのりょう」と呼んでいる。TPD時代にも「しのりょう」と呼んでいたファンが多かったが、タモリの影響というよりは、TPDには他にも篠原姓のメンバーがおり(篠原リエ、篠原礼(あや))、区別のために呼び始めたと思われる。

■小室ファミリー・日本の女性歌手のシングルCDで初めてダブルミリオン(200万枚)を記録した歌手でもある(1994年発売の『恋しさと せつなさと 心強さと』)。

■『anego』や『ハケンの品格』など数々のヒットドラマに出演し、女優としての活躍が目立つが、とんねるずのみなさんのおかげでしたに出演した際、木梨憲武に「篠原さんの本業は何ですか?」と聞かれると、「本業は歌手です」と答えている。

■「ハケンの品格」での演技が認められ、2007年に産業能率大学が新入社員に対して行った「あなたがこんな女性上司の下につきたい、と思う人を著名人で言うと誰?」の第一位に選ばれた。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070601-00000000-sanspo-ent

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ジョニー・デップ エピソード&プロフィール

ジョニー・デップ(Johnny Depp、本名:John Christopher Depp II(ジョン・クリストファー・デップ・二世)、1963年6月9日 - )はアメリカ合衆国ケンタッキー州オーウェンズボロ出身の俳優、ミュージシャン。身長178cm、体重70kg。


【来歴】
■生い立ち
土木技師のジョン・クリストファー・デップと、ウェイトレスのベティ・スー・パーマーとの間に生まれる。4人兄妹の末っ子で9歳上の兄ダン、7つ違いの姉デビーと2つ違いの姉クリスティーがいる。

両親の離婚後、ミュージシャンを志し高校を退学、各地を放浪する。この頃、バンド「The Kids」をリードギタリストとして率い、イギー・ポップの前座を務めたこともある(近年では、オアシスの曲やローリング・ストーンズのアルバムにもギターで参加している)。尚、1995年にはバットホール・サーファーズのギビー・ヘインズと共に「P」というバンドを結成しCDも発売している。

■キャリア
一時期デップと婚姻関係にあったロリ・アン・アリソンの元恋人だったニコラス・ケイジと出会い、彼の勧めで俳優に転身する。友人のオーデションについていった際にその監督から「君も出ないか?」と言われて、映画『エルム街の悪夢』でデビューし、数本の端役を経てTVシリーズ、『21ジャンプ・ストリート』に主演、一躍ティーンズのアイドルとなる。実はこの作品の出演にはあまり乗り気ではなかったという。一度断ったがプロデューサーに説得され結局出演したが、元々テレビに出たくなかったため、やる気のない演技をしたり小細工をしたという。デップ自身は、商品として自分が扱われることを好まず、その後『クライ・ベイビー』や『シザーハンズ』を初め、次々と個性的な作品に主演しアウトローな役柄を好んで演じた。独特の作品選び・徹底した役作り・優れた演技力・容姿の美しさ等、デップを認める人間は少なからずいたが、1990年代半ば以降の出演作品は商業的にはさほど結果が出なかった。

1994年の『エド・ウッド』からティム・バートン作品によく出演している。

そんなデップが2003年、彼にとって異例とも言えるディズニーの娯楽超大作『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』に出演。商業的にも大成功を収めたこの作品で、デップは独創的なキャラクター造形で海賊ジャック・スパロウを演じ、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。俳優としての爆発的な人気を得た上に、翌年の『ネバーランド』で同賞にノミネートされ、実力派として認められた。『パイレーツ〜』に出演したのは、自身の子供に勧められたからという。デップは子供を持った事で父親のイメージが出来て人気が上り、子供に勧められた作品で爆発的人気を得たことになる。

俳優業の傍ら1997年には『ブレイブ』で初めて監督を務めている。母方の出自からインディアンの問題に関心を持ち、(母方の曾祖母ミニーは純血のチェロキー族であり、父親もチェロキー族の血を引いている)この映画では、居留地で希望も無く暮らすインディアンの現実を、同じくインディアンと縁の深いマーロン・ブランドの共演で描いている。

■私生活
先に挙げたアリソンの他、女優ジェニファー・グレイ、シェリリン・フェン、ウィノナ・ライダーや、スーパーモデルケイト・モスとも交際していた。ちなみにウィノナ・ライダーと交際中、腕に「ウィノナ・フォーエヴァー」と刺青を施したが、破局後「ワィノ・フォーエヴァー(アル中よ永遠に)」に修正。その後は恋人の名を刺青にしていない。

現在、パートナー(入籍はしていないが事実婚)であるヴァネッサ・パラディと、二人の子供リリー=ローズ・メロディ・デップ(1999年5月27日生)とジャック・ジョン・クリストファー・デップ・3世(2002年4月9日生)とともにフランスに住み、アメリカと南フランスの両方で生活をしている。


【人物】
■ローリング・ストーンズのキース・リチャーズのファン。インタビューでも彼を「僕の生涯において、最高にすばらしい人」と絶賛していた。『パイレーツ・オブ・カリビアン3』でキースが出演するのはジョニーの強いリクエストに応えてのものであるが、そもそもジョニー自身がインタビューなどで、同シリーズのジャック・スパロウの役作りの際に「気ままに見えるジャックには、自らの美意識に忠実な現代のロックスターに通ずるものがあるのではないかと考えた」と述べ、資料から得た海賊の知識に加えてキースのイメージもダブらせていることを明らかにしている。

■癖のあるキャラクターを好んだり、自分が演ずる人物に対する役作りのアプローチが独特なこと(例えば上記のジャック・スパロウ)がよく語られるが、『ネバーランド』で作家ジェームス・マシュー・バリーでの正統派の演技が評価されるなど、手がかりとなりそうな資料は全て目を通し、その人物をよく把握した上で説得力のある演技を見せることができるうまさを持つ。

■母親の名と、二人の子供の名、数字の3、またアルファベットの刺青を施している。なおアルファベットについては、単純に好きな文字だからと話している。

■ホテルで暴れて備品を壊すなどの事件も起こし、逮捕されたことがある。

■アウトロー的な自身の性格や過去についてよく語っている。14歳でドラッグを覚えたとのこと。しかし、リバー・フェニックスと共同でハリウッド・サンセット大通りに経営していたロッククラブ「バイパールーム」で、フェニックスがドラッグの過剰摂取により急死する事件にショックを受け、ドラッグとの縁を絶ったと言う。

■両親の離婚歴などのためか大変な家族思いで、「家族は世界で一番大切なもの」と語る。「僕の人生は1999年5月27日(=長女誕生)を機に180度変わった。それまでの人生は霧の中にいるようなものだった」と新しい家族を得た幸福感を語り、先の刺青の他、長女が作った黄色や水色やピンクなどのカラフルなビーズで出来ているブレスレットをよく身に付けている。

■米某有名雑誌で「世界で最もセクシーな男性」に選ばれたことがある。また、別の雑誌では「どん底から這い上がった男優」第2位に選ばれている(第1位はエミネム)。両親の離婚や生活苦から少年時代に放浪生活を強いられたため、「荷造りを見ただけでノイローゼになる」と告白している。

■ホテルに滞在する時の偽名は、「サンタ・デル・バッチォ」もしくは「オプラ・ヌートルマントラ」。※現在も使用しているかは不明。

■子供の頃から切り裂きジャックに興味を持ち、関連本を25冊以上持っているという(切り裂きジャックを題材にした映画『フロム・ヘル』にも出演している。)。

■本人曰く、ピエロ恐怖症らしい。しかし、なぜか連続殺人鬼ジョン・ゲイシーの描いたピエロの絵を気に入り、作品を数点所有している。

(出典:Wikipedia)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070524-00000005-flix-movi

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次長課長 エピソード&プロフィール

次長課長(じちょうかちょう)は、東京吉本興業所属のお笑いコンビである。略称次課長(じかちょう)。2人とも大阪NSC(吉本総合芸能学院)13期生。1994年4月結成。当初はトリオだったため、グループ名は「次長課長社長」であった。コンビ名の由来は2人がバイトしていた居酒屋で、社員だった次長さんと課長さんにお金をもらい、励まされたから。

【メンバー】
■河本準一(こうもと じゅんいち 1975年4月7日 - )
ボケ(トーク、一部のネタではツッコミ担当)。岡山県岡山市奉還町出身(生まれは愛知県名古屋市緑区有松町)。 市立京山中学校、県立東岡山工業高校卒業。身長162cm、血液型AB型。

■井上聡(いのうえ さとし 1976年2月2日 - )
ツッコミ(トーク、一部のネタではボケ担当)。岡山県岡山市奉還町出身(生まれは熊本県玉名市)。市立京山中学校、森教育学園岡山学芸館高校卒業。身長175cm、血液型B型。


【略歴・概要】
●中学・高校時代
・岡山市立京山中学時代に、野球部で知り合う。遅れて入部した河本が初めて練習に参加した日に、1人だけバットを持ってフルスイングしていた井上に話しかけ、一緒にキャッチボールをしたのが2人の出会いである。それからは毎日のように一緒に遊ぶ仲になる。
 ・2人はこの中学1年のときに出会って以来、今まで一回もケンカをしたことがない。
 ・幼馴染ということもあり、徹子の部屋では「二人は仲がいい」と好評された。

・中学1年生の時に2人は同じクラスで、2人そろって担任の先生によくイタズラをして揉み上げを引っ張られていた。

・2人は同じ塾に通っていたことがある。しかしそこの塾は、お菓子を食べて遊んでいるだけだったので、逆に成績が落ちてしまったらしい。

・2人とも勉強が苦手で、中学時代に岡山県の中学生約8000人が受けたテストでは河本が7980位、井上が7982位だった。そのため、井上が先生に高校に行きたいと進路を話しても「夢を見るな」と言われた。(当時の偏差値は河本23、井上21。)
 ・結局井上は一般受験はせず、野球のスポーツ推薦で岡山学芸館高等学校へ入学した。

・高校はそれぞれ違う高校に進学したため一時期疎遠となったが、高校2年生の時に河本が井上宅に遊びに行き再会。再び交流が深まる。

・河本は小学校から9年間サッカーをやっており、高校時代はチームのキャプテンを務め、国体の岡山県選抜メンバーにも選ばれた。夢はJリーガーだったが、高校2年秋に素人名人会という番組で敢闘賞を貰い吉本興業入りを決意。選抜に選ばれるほどの実力の持ち主だったが、Jリーグからのオファーは全く無かった。

・高校卒業後、井上は親戚が営んでいたガラスサッシの枠を作る会社に就職が決まりかけていた。しかし河本から「吉本に入ろう!ジャッキー・チェンに会えるで!!」と誘われ、そのまま現在に至る。井上を誘った理由は「友達の中で、井上が1番おもしろかったから」。

●大阪時代
・2人はNSCに入学するため、18歳で地元岡山から大阪へ。
 ・NSCの面接試験の際に、河本は笑いに対する想いを熱く語って合格したが、井上は指されずに何も発言しなかったにもかかわらず受かってしまった。(NSCは黙って話を聞いていれば合格できるらしい。〈陣内智則〉談)

・1994年4月結成。NSC在学中は河本準一・井上聡・山下正人のトリオで「次長課長社長」だったが、わずか1年程で社長の山下が「岡山に帰ります」という置き手紙を残して居なくなってしまい、脱退してコンビとなった。
 ・社長(山下)は現在、東京の新宿で美容師をしている(実際に「カミングダウト」2005年3月22日放送分の中で判明)。そのため、2人は山下に髪を切ってもらいたいのだが、料金はきちんと取ると言われているので頼んでいない。しかし今でも交流は続いており、テレフォンショッキングに初登場したときには電報を送ってくれたり、時々ルミネtheよしもとにネタを見に来るなど、誰よりも次長課長を応援している。

・NSCの同期には同事務所の野性爆弾、ブラックマヨネーズ、徳井義実(チュートリアル)、増田裕之(ルート33)、現在は俳優の三浦誠巳がいる。また吉本外に移籍した者では藤井宏和(飛石連休)、くわばたりえ(クワバタオハラ)、超新塾、諸岡立身、チャンス大城らがいる。この世代は「花の13期生」とも呼ばれる。

・ほぼ同期にはシャンプーハット、タカアンドトシなどがいる。また、半年後輩にはガレッジセール、フットボールアワー、1年先輩にはロンドンブーツ1号2号、DonDokoDon、ペナルティなどがいる。年齢が上である品川庄司(品川は3歳上で庄司は同学年)は1年後輩にあたる。

・河本は大阪に出てきた当時、何度も岡山に帰ることも考えたが、相方井上の存在が踏みとどまらせた。「自分がこの世界に引きずり込んで、あいつの人生を狂わしたのに、俺が帰ったらあいつはどうなる」と男気を語る。

・河本は19歳の時、ホストの経験をした事がある。度々披露しているタンバリン芸は、このホスト時代に覚えたものである。また、働いていたホストクラブでNO.3だったと言い張っているが、実はその店にはホストが4人しかいなかった。

・1995年、心斎橋筋2丁目劇場よりデビュー。2丁目劇場閉鎖後は、1999年オープンしたbaseよしもとの主力メンバーとして活躍。単独ライブのタイトルに東京23区の区名をつけ、全23回開催。2002年9月23日の「中央次課長」をもって、本人達の意向によりbaseよしもとを卒業。
 ・卒業ライブでは407人というbaseよしもと観客動員記録を作る。(この記録は未だに破られていない。)

・東京23区ライブシリーズには、フットボールアワー、ストリーク、レギュラー(7区目〜)らが毎回出演していた。
 ・レギュラーの「気絶」ネタは次長課長が考えたものであり、松本康太は井上の家に半年間、河本の家に1年間居候していたことがある。

・河本が椎間板ヘルニアで入院した際、井上は師弟関係にあるケンドーコバヤシと乙女丼というコンビを組む。一緒に学園祭などの仕事を行っていた。ツッコミなしで、ボケにボケを重ねる形のネタを披露し、非常にうけて好評だったらしい。
 ・しかし、河本が退院した直後に行われた次長課長単独の復帰ライブはだだすべり。劇場の三階にある本屋のレジの「チーン」という音が聞こえるほどのスベりようで、劇場の伝説になっている。

・大阪時代の作家は前期が柳しゅうへい、後期が柳からバトンタッチした倉敷ユウ作(くらやん)。

・当初は井上がボケ・河本がツッコミだったが入れ替わった。舞台やネタ番組ではコントが主だが漫才をやることもある。さらに極一部のネタでは今も井上がボケを行うネタがある。(井上がボケて河本にモノマネを振り、河本がモノマネを披露してからノリツッコミするもの)

・チャイルドマシーン(解散)が東京に行く際、カラオケで号泣しながら(シャ乱Qの上京物語)歌って彼らを送った。

●東京進出後
・2002年10月、東京進出。ルミネtheよしもとの舞台などに出演。

・東京ではしばらく芽が出なかったが、2004年頃からマニアックなものまねが注目され始めた。舞台やネタ番組ではロングコントも披露するが、その際も河本がマニアックなものまねや特異なキャラを使ってボケることが多い。

・2003年秋から、TBSの深夜番組「U-CDTV」でネタ見せのコーナー「お笑いCDTV」ライブが始まり、次長課長だけが毎月必ず出演。東京では珍しく、いくつかの代表的なネタが完全放送された。この番組をきっかけとして、次長課長が、東京のテレビ関係者に認知されはじめたらしい。(この時、マニアックモノマネの「Vシネマ」(当時のタイトルは「ヤクザのセックス」)なども完全に放送された。)TBSに関しては、「お笑いCDTV」終了後、「Goro's Bar」での東京初レギュラー出演につながり、さらに、「うたばん」出演や単独冠番組「次長課長のヨイショ!」などへとつながった

・マニアックなモノマネは、大阪時代、楽屋で中川家と一緒だったとき「こんな人おるな」という細かいモノマネを競い合ったことから生まれたもので、いわば中川家と共同開発したネタである。今でも中川家と同じ楽屋のときは、楽屋内4人で即興コントをすることが多い。
 ・中川家に礼儀から芸事まですべて教え込んでもらったため、「身近だけど神様みたいな存在」だと2人は語る。

・他事務所の先輩ではくりぃむしちゅーと仲が良く、番組でも頻繁に共演している。

・河本のキャラで特に代表的なのは「とんねるずのみなさんのおかげでした」に出た際にジャッキー・チェンの映画に出てくる脇役の真似で「お前(オメェ)に食わせるタンメンはねぇ!」がよく知られている(初めて出た時は「お前に“食べさす”タンメンはねぇ!」であったが)。ちなみにこのフレーズは河本がアドリブで考えたもので、本当は「そうは酢豚の天津丼だ!」だった。

・あくまでコンビ名なのでどちらが次長でどちらが課長というわけではない。だが、ごくまれにバラエティ番組で「次長 河本」「課長 井上」という設定になることもある(タモリ倶楽部に出演した際には「吉本工業 Yoshimoto Industry」という名刺を出したことがある)。
 ・「めちゃイケ」内のコーナー『恋のかま騒ぎ』では次長子の彼が河本、課長子の彼が井上という設定である。

・ズバリ言うわよ!(2005年3月8日放送)で細木数子に「このコンビ名だと井上が貧乏になる」と指摘され、本気で改名をするか迷ったがとりあえず改名は拒否した。その後、逆に大ブレークが続いている。

・コントのネタ作り以外は、相方である井上をこの世界に誘ったのは河本。東京行きを決めたのも河本。ゆえに2005年10月31日放送の『めざましテレビ』の広人苑IIでは「ネタ作りの主導権は井上、人生の主導権は河本」と語る。

・2005年以前、TBS系列『さんまのSUPERからくりTV』の前説を担当していた。2005年12月18日、同番組にゲストとして初出演。長年続いている長寿番組だが、前説を行っていた芸人がゲストとして出演するのは初めてであった。

・井上は「マンスリーよしもと」が毎年恒例に行っている吉本男前ランキングで2006年度、2位に倍以上の得票差をつけてダントツの1位に輝いた(ルミネtheよしもとのお客さんに聞いた「抱かれたい芸人ランキング」でも初の1位を獲得。また「子供にしたい芸人」では7位)。河本は「吉本ブサイクランキング」の8位、「お父さんになってほしい芸人」3位にランクイン。
 ・2007年度も井上は大差で吉本男前ランキング1位。河本は吉本ブサイクランキングの10位。

・品川庄司・品川曰く、(芸人の中で)日本一格好悪い人(河本)と日本一格好いい人(井上)のコンビ。

・2006年3月28日に放送された「祝!ズバリ言うわよ!細木数子誕生祭!2週連続2時間スペシャル第1夜!!」にて、井上が芸能界に入るきっかけとなった人物であり、河本も大ファンのジャッキー・チェンとの共演を果たした。井上は『プロジェクトA』のワンシーン「テーブルの上で歌う人のまね」、河本は「オメェに食わせるタンメンはねぇ!」をそれぞれジャッキー本人の前で披露した。

・「晴れる道 〜宇宙人(オメェら)に合わせる顔がねぇ!〜」でCDデビュー(2006年5月31日発売、R and C)。JK名義で出しており、テレビ東京系アニメ『ケロロ軍曹』の4代目オープニングテーマとして2006年4月〜9月に放送された。作詞も手がけており、プロデュースは小室哲哉である。

・大阪時代は必死で覚えた岡山訛りの関西弁で話していたが、東京進出後は標準語を使う事が多い。

・数々の大物特番で大役を任せられるようになる。2006年8月26日に放送された24時間テレビでは「日本列島ダーツの旅的全国1億人インタビュー」のゲストダーツの旅人として出演。
 ・同番組の企画の一つである「24時間開催中!絆写真で作る巨大フォトモザイクアート展」の企画MCを務め、中継を担当した。
 ・また、本部(ステージ)でもサブ司会のくりぃむしちゅーやメインゲストのKAT-TUNらと共に翼をくださいなどを熱唱した。
 ・2007年元日に放送された爆笑ヒットパレードでは毎年恒例の中継を担当した。

・2006年8月28日放送の徹子の部屋に出演のさい、テレビ朝日が調査した若い男女の好感度第1位だと知らされた。また、全ての年齢層での好感度アンケート結果では総合で10位との事。

・井上は注射が大嫌いである。2007年3月9日に放送されたぐるぐるナインティナインの「人間ドッグで不健康対決」で井上は『血液検査をするなら死ぬ!』と言い切った。ちなみにこの企画で河本はメタボリックシンドロームである事が判明し優勝する羽目になった。

・2007年2月21日放送の世界バリバリバリューの次長課長の香港のスーパーマダムを捜せ!で、井上は日本語を勉強している中国人セレブ女性に、「ひらがな、書けますか?」と聞くと、「少しだけ」と答えたため、「漢字は、書けますか?」と聞いてしまった。

(出典:Wikipedia)

陣内智則 エピソード&プロフィール

陣内 智則(じんない とものり、本名同じ、1974年2月22日-)は、日本のお笑い芸人であり、ピン芸人である。兵庫県加古川市出身。兵庫県立高砂南高等学校卒。身長168 cm。血液型A型。 1人コント形式で音声や映像に対してツッコミを入れるという独特なスタイルに定評がある。あだ名は「ジンくん」「ジンさん」、一時期はヨン様にあやかって「ジン様」と呼ばれて(呼ばせて?)いたこともあった。「とものり」の由来は「丸美屋」の「のりたま」から「のりとも」、「とものり」となったということをコントのネタにしていた。妻は女優の藤原紀香。義弟がいる。


【人物】
吉本興業大阪本社所属。大阪NSC11期生。同期には中川家、たむらけんじ、ケンドーコバヤシ、ハリガネロック、ルート33堂土、吉本新喜劇の烏川耕一などがいる。

尚、ココリコ・藤井隆らはデビュー年は一緒ながら、こちらがわずかに先であるため陣内側が後輩扱いとなる(学年的にも陣内の方が2つ下)。

クリエイターの原田専門家(彼も同じくNSC11期生)と共に作った映像や音声を駆使したネタにツッコミを入れるという、ピン芸人として今までに無いスタイルを確立。

3人兄弟の末っ子(兄と姉がいる)。

視力が悪く(両眼共に0.05であった)、以前はコンタクトレンズ・メガネを使用していたが、2007年4月にレーシックの施術により視力が両眼とも1.5にまでなった。


●タイガースファン? (角淳一との舌戦)
『ちちんぷいぷい』の司会者である角淳一とはいつも舌戦を繰り広げていた。プロ野球阪神応援番組『週刊トラトラタイガース』(読売テレビ)の司会に抜擢されるも、実は巨人ファンとの噂もある。本人は阪神ファンだと主張しているが、阪神に関する知識に曖昧な点も多く、松村邦洋やダンカンは陣内は本当は巨人ファンだと主張している。もっとも、この主張に関しては自分達の阪神キャラとしての地位を陣内に奪われるのではないかという危機感によるものとの声もある。私生活で赤星憲広、浅井良や阪神タイガースの若手選手との交流があり、元関西テレビアナウンサーの梅田淳の話によれば、陣内の結婚話が噂になった当日、梅田が阪神の赤星憲広に知らせたところ、赤星は「私、相当前から知ってましたよ」との返事が返ってきた。


●苗字について
名前の良く似た俳優の陣内孝則や、元バドミントン選手の陣内貴美子らとの血縁関係はないが、彼自身の実兄が"たかのり"という名前で、漢字では陣内孝則と一文字違いである(関西のラジオ番組では定番ネタで、日本テレビのバラエティ番組『カミングダウト』などで全国的に明らかに)。また、智則・孝則・貴美子の三人で、関西テレビの『陣内家』という単発番組で共演を果たしている。また、陣内の祖母が死に際に「うちの親戚には役者がいる」と陣内孝則との血縁関係がある主旨の発言をしたという噂があるが、陣内の祖母は生きている。


【経歴】
●NSC入学から「リミテッド」時代
地元の同級生と一緒にNSC大阪校の11期生として入学。同期は、中川家・ケンドーコバヤシ・たむらけんじ・ハリガネロック等。卒業後、その同級生と2人で「リミテッド」と言うコンビを結成(このコンビ名は陣内が「限界」という意味の「リミット」と間違って名付けたものである。「リミテッド」は「制限された」「わずかな」という意味の言葉であるが、本人は指摘されるまでこの勘違いに気付かなかったという)。心斎橋筋2丁目劇場を中心に活動をスタートさせる。しかし当時の「リミテッド」は「2丁目劇場で一番おもんないコンビ」と言われ、余りのつまらなさに一時期はファンの間で「リミテッドを見ると不幸になる」とまで言われた。(しかし、そうは言われながらもファンの間では愛されていたという)結果コンビは、結成3年後の1995年9月に解散。相方は芸能界自体をも引退してしまった為、陣内自身はピン芸人への転向を余儀なくされる。


●ピン芸人としての再出発
リミテッド解散時、年末の若手ネタ番組「オールザッツ漫才」出演。若手芸人のトーナメント戦で欠員が出た為(相方の突然の不参加による)、陣内が急遽、進行役のオール巨人との協議の結果、1人でネタを披露するという場面があった。センターマイク前に1人で立ち、一発ネタを1人でただしゃべるだけだったが、なぜかウケにウケまくり、3回戦まで進出してしまった。しかし「リミテッド」解散のショックからなかなか立ち直れないでいたなか、ある日吉本側から「次のイベントでスベったら芸人を辞めろ」と、ついに“最期通告”を受ける。プレッシャーからネタ作りもままならず、開演数分前にようやく完成。そのイベントで今までに無いぐらい評判が良かったため、会社の彼に対する評価も一変。次々と仕事が舞い込むようになる。しかし「ネタは面白いのにしゃべりは絶望的」など批判も多かった。1999年10月スタートの情報番組「ちちんぷいぷい」(毎日放送)の月曜レギュラーに抜擢され、同曜日のかつての人気企画「クイズ私鉄沿線」で関西のおばちゃん層への知名度も徐々にアップ。深夜のバラエティ番組「クヮンガクッ」(同)での"レシートすごろく"(梅田をスタート、難波の高島屋をゴールに設定し(その距離はわずか数キロ)、道行く人にレシートを見せてもらい、そのレシートのお店へ行かなければならない。すぐ終わると思いきや日本のあちこちに飛ばされた。ロケ期間約5カ月、その距離15000km以上。東京から北九州を経て沖縄へ飛ばされ、ようやく大阪に帰ってきたと思いきや、次の人に北海道・千歳空港内の店のレシートを渡されたり、カナダの店のチケットを渡されるなど(これはプロデューサー会議の末、予算の都合で無効となった)、予測不能のハプニングが相次いだが、そのおかげで番組の人気コーナーとなる。ゴールは大歓声をもって迎えられた)は、その後「ノブナガ」(中部日本放送)で人気となったコーナー「地名しりとり」をはじめ、各局で類似の番組が多く制作されている伝説的企画となった。


●baseよしもと時代
1999年にbaseよしもとがオープン。FUJIWARA、シャンプーハットらとともに後輩らをまとめる役を買って出ることに。また、この頃から番組やイベントなどでの司会を任されるようになるが、そのなかでも圧倒的に毎日放送での仕事が多い時期があった。そのため、彼は「MBSの若獅子」「MBSと言えば陣内智則」と言われ、ケンドーコバヤシには「(当時同局アナウンサーの角淳一に媚びているのではないかという冷やかしで)角智則に改名しろ」と言わしめたほどであった。

また、2ちゃんねらーから「陣内志ね!(「死ね」ではない。「志」は、「氏」など"し"の読みをする他の漢字に変わることもある)」という"称号"を頂くようになった。これは、過去にオールザッツ漫才やbaseよしもとのイベントなどで、たむらけんじやケンドーコバヤシらが自分に比べて"売れている"陣内のことを「陣内死ね」と揶揄したことを半ば悪ふざけで使っているものであり、決して忌み嫌われているわけではなく、寧ろ陣内に対し好意的なイメージを持っている場合に使われる。


●base卒業後
現在はbaseよしもとを卒業し、うめだ花月やルミネtheよしもとなどで活動。また、2003年に「エンタの神様」(日本テレビ)に出演して以来、東京での仕事も増えているが、現在の彼の活動は平日は大阪で仕事をし、木曜日に「なるトモ!」の生放送と同番組の金曜分の収録が終わるやいなや、午後から新幹線や飛行機で移動し東京で番組収録(「エンタの神様」など多数)や、ルミネtheよしもとの公演をこなしている。また、朝日放送の日曜正午枠の「日曜笑劇場」には、『開運コメディ 今日も大吉!パンパンパン』からフットボールアワーらとともにレギュラー出演(主演)するようになり、『なにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!』にも、引き続きフットボールアワーらとともにレギュラー出演(主演)している。

2004年からは、声優など他の仕事も舞い込むようになった。 映画「犬夜叉 紅蓮の蓬莱島」(2004年12月23日公開)では声優デビューを果たす。が、本人は原作を「読んだことがない」「犬が戦うマンガ?」とラジオで発言してしまう。また、実写では2005年に公開された映画「ビートキッズ」(HUNGRY DAYS、相武紗季ほか出演)に、半ば無理やり"大学生D"というエキストラで出演。テレビコマーシャルでは、兼ねてから好きだと公言していたゲームソフト「桃太郎電鉄」(ハドソン)の新シリーズ、「桃太郎電鉄USA」のコマーシャルに出演(若槻千夏、Psycho le Cemuと共演)。これが自身初のCMとなった。2005年4月4日、5年2ヵ月レギュラー出演していた関西ローカルの情報番組、「ちちんぷいぷい」を卒業した。 その後すぐ、日本テレビ系列の番組「ミンナのテレビ」・「世界!超マネー研究所」でレギュラー出演が決定。 両番組は2005年4月から9月まで放送されたが、それ以来、陣内は司会の立場で、全国区や関西ローカルのテレビに出演することが多くなってきている。また、関西ローカルで放送されている「なるトモ!」が2005年10月3日から日本テレビ、中京テレビ、広島テレビ、熊本県民テレビでもネットされるようになった。 2005年12月、映画「ブラック・ジャック ふたりの黒い医者」の声優も務めた。 爆笑オンエアバトルでは初出場にして、元番組最高記録537KB(満点で545KB)をたたきだした。(後にますだおかだが満点で記録更新。)その後16戦16勝という高記録でゴールドバトラーにのぼりつめた。

また、2005年12月31日開催の「輝け!ネタのグランプリ」で優勝し賞金1000万円を獲得した。このことから関西番組を中心に1000万取ったことでイジられることが増えている。

2006年1月19日放送の「なるトモ!」で番組開始から約1時間の遅刻をしてしまう。「陣内智則のひとり番長」生放送終了後、東京から大阪へ向かう新幹線で熟睡、下車する新大阪駅を乗り過ごしたことが直接の原因。この一件は大阪版スポーツ紙などでも報道された。


●藤原紀香との出会い・結婚
2006年4月に、日本テレビ系DRAMA COMPLEX「59番目のプロポーズ」にて陣内は、藤原紀香と出会うことになる。 ドラマ収録後の打ち上げの席で、陣内は藤原に手紙を渡し、そこから二人のお付き合いが始まる。

7月14日のヨシモト∞で、急性扁桃炎にかかっていると告白。声が出なかったためエンタの神様のスタッフに病院に連れて行かれ、ステロイド注射を打ったという。しかし、結局声は出ず「2年間ずっと眠い」という注射の副作用だけが残ることになった。なおこの日に藤原が渋谷∞ホールまで自分の料理したサムゲタンを届け扁桃炎で弱った陣内を元気付けた。(「恋のかま騒ぎ」より)

2006年末になって藤原との結婚の話でメディアに注目され、12月10日神戸市内の生田神社で結納を交わし、2007年2月17日に同神社で挙式(結婚式には、同期のケンドーコバヤシ・たむらけんじやなるトモ!で共演するなるみ・海原やすよ・ともこ・シャンプーハット小出水らが出席した)。この挙式の模様は、同日16:20-16:55によみうりテレビが放送(他には熊本県民テレビ(KKT)がネット)し、関西で18.2%という高視聴率を挙げた。交際をするにあたり、なるトモ!に出演している芸能リポーター駒井千佳子に相談していた。翌日に出演した「ルミネtheよしもと」では、生田神社の様な規制(但しコント出演中の写真撮影禁止)もなく、素でコントをしている所が見れたり、「ルミネtheよしもと」と「映画の試写会」では、「おめでとう」を言う人が多かった。また、結婚により藤原紀香の本名が「陣内紀香」となったが、藤原の方が全国的な知名度が高いため、テレビ等のネタで「藤原智則さん」と呼ばれたり、「いつ藤原姓になるの?」などと言われている。また、結婚を機に東京の藤原の部屋に引っ越し、「なるトモ!」の放送及び収録がある毎週月曜〜木曜は片道3時間にもわたる新幹線通勤を試行している。

2007年4月10日、陣内智則と藤原紀香は加古川市役所にて婚姻届を提出し正式に夫婦となった。


【出来事】
■2005年6月13日放送の行列の出来る法律相談所で、女優・田丸麻紀と交際宣言をしメールアドレスの交換も済ませニュースでも話題になったが、田丸からの返事はいつもそっけない返事ばかりだった。ある日ワイドショーに出演していた田丸に報道陣が「陣内さんと恋なんてことは?」と聞くと「それはないですね」と発言し、それをテレビで見ていた陣内は同法律番組で自身が相談者となって慰謝料を請求した。(これは陣内が田丸と交際するために、その頃交際していた彼女をテレビであっさり振ったところ、ファンやめますというファンレターが大量に届いたり、ライブを開いても空席だらけであったため。)※詳細は外部リンク

■生来の「天然」のせいで、2丁目時代には同事務所の千原兄弟、サバンナなど先輩・後輩問わずいじられまくっていた。特に親友のケンドーコバヤシは、陣内の家に泊まりに行って、「朝起きたらメガネを台所で炒める(それを見た陣内はメガネが炒められていることではなく、「お前かってに火を使うな!」と、かってにコンロを使っていることに怒った)」「メガネをマジックで真っ黒に塗る(その眼鏡をかけて陣内が最初に言った言葉は「世界終わった!!」)」「真夏に暖房をつけて寝ている陣内が出られないように外から玄関を封鎖する」などいじられっぷりは類を見ない。

■尾崎豊の大ファンだが、歌唱力はシャンプーハットのてつじや山田花子と同様、ひどいものである。

■営業などにおいては、一時期、コンビでもないのに同期のケンドーコバヤシとのセットが多く、周りもコンビと見紛うほどであった。彼とはプライベートでも息がピッタリ合っている。

■ある特番の収録中にツッコミのつもりでガッツ石松の頭をたたいたところ、ガッツは怒ってしまった。その後ガッツに謝罪して和解が成立したが、今でもガッツには頭が上がらないようである。

■ネタ番組「すんげー!Best10」で千原ジュニア、山下しげのりとともに披露した、「メガネ部」は、吉本興業の事務所スタッフ内でも伝説となっている。

■「すんげー!Best10」の中でしましまんずの池山心が、当時ピン芸人として瀬戸際に立たされていた陣内をネタに歌を作り、これが大うけしたことがある。歌詞は以下の通り。
♪ 陣内、君は支配人に「辞めろ」って言われたね。
だけど君は、その後こう言っていた。「支配人の方が辞めればいいのに」って。
負けるな陣内 君なら絶対できる 絶対できるよ、サラリーマン
負けるな陣内 君なら絶対売れる 絶対売れるよ ジャリズムが
ABCDEFじんな〜い

■東京に引っ越すまでは、よくチュートリアル徳井の自宅(同じマンション)に勝手に入って「桃太郎電鉄」をやっていたらしい。

■ロンドンハーツで陣内は携帯電話の電話帳で藤原紀香の事を「姫」と登録している事が分かった。

■2006年9月17日放送の「陣内智則のイケメン5in豪州」という番組で、後輩芸人のチュートリアル徳井がゲームに負けて、高さ50mからのバンジージャンプを飛ぶことになったが、徳井は恐怖で飛ぶことができず、番組成立のため自ら名乗り出て代わりにバンジーを飛んだ。また同日行われた、仲の良い後輩芸人ビッキーズ須知のために彼の結婚式の披露宴の司会を行った。

■2006年11月26日にはレイザーラモンHGの結婚式の披露宴の司会を行った。

(出典:Wikipedia)

篠原ともえ エピソード&プロフィール

篠原 ともえ(しのはら ともえ、1979年3月29日 - )は日本の歌手、タレント。

東京都青梅市出身。血液型はAB型。文化女子大学短期大学部服装学科を卒業。
電気グルーヴの石野卓球プロデュースで1995年デビュー。ファッションデザイナーとしても活躍。


【人物】
■歌手、楽器演奏、作詞作曲もする、マルチタレント。実家はお寿司屋さん。

■音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」のコーナー、プリプリプリティで人気になる。

■バラエティ番組など番組の盛り上げ役として活躍。番組を明るくする。

■彼女とからむと、共演者が普段と違った表情やリアクションをするのも魅力。

■舞台の演技力に定評があり、演技を評価する演劇ファンも少なくない。舞台を楽しみにするファンも多い。

■「ピッピ」で主演を務める。ピッピは2006年全国5ヵ所で公演した。(東京、神奈川、愛知、大阪、福岡)

■子供番組「モンすたージオ」、ミュージカル「ピッピ」などにより、子供にも人気。

■そのまま篠原ともえ役でドラマなどに出演することもしばしば。

■ナレーションは、優しくやわらかい印象のナレーション、ドキュメンタリー、ニュースと幅広い。

■Macが得意で、Mac系の雑誌に連載をしていた。

■ファッションデザインもし、六本木にあった店「ピナサーカス」で篠原ともえのデザインした服が買えた。

■自作の服や手作りのアクセサリーなどをとり入れたスタイリングでテレビなどに出演することもある。


【シノラー】
1996年から1999年ごろ彼女のファッションが流行し広まった際、その服装やアクセサリー、彼女自身を真似た者を「シノラー」と呼ぶ。10代の女性に多く支持され流行する。篠原ともえ自身の愛称にもなる。

シノラーファッションの特徴は極端にカラフルな色彩、ハーフパンツを基本にしたスタイリングで両腕に多く着けられたアクセサリーなどである。Tシャツ、ハーフパンツともにカラフルな色、手首に複数のプラスチック素材のアクセサリー、肩からポシェット、スニーカー、厚底の靴、ランドセルなどを採り入れる。髪型は、まっすぐに切りそろえた前髪に後髪を上げたお団子ヘアスタイル。

当時、彼女のようにハチャメチャで明るくハイテンションな女の子は珍しく、そのカラフルで派手な着こなしとともに、同世代の女性に与えた影響は大きい。

本人はシノラーファッションを卒業。現在はシノラーファッションの時には見られなかった白や黒、ピンクなどの色をとり入れたファッションなどが特徴。その独特の感性は以降のファッションスタイルにも形を変えて発展し、引き継がれている。


【音楽活動】
「篠原ともえ+石野卓球」名義でシングル「チャイム」でデビュー。「HEY!HEY!HEY!」「LOVELOVEあいしてる」などがきっかけで多く知られることになる。

「LOVE LOVEあいしてる」などをきっかけに数多くのミュージシャンと親交。元ユニコーンの手島いさむ、EBIらをバックバンドに迎えた。スペインの人気歌手フリオ・イグレシアスとデュエットしCDが出る。ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻の息子ショーン・レノンとも親交があり、ショーンのライブに飛び入り参加した。

フジテレビ夏のイベント「お台場冒険王」で1997年から毎年8月8日に「ともえちゃんまつり」を開催し、ライブを行っている。このライブでは、友達の安倍なつみと一緒に歌ったりと他では見れない組合わせが見れる。

彼女のアルバムには、山本精一、JITTERIN'JINN、少年ナイフ、Buffalo Daughterといった腕利きミュージシャンがアレンジや楽曲提供で参加している。電気グルーヴのアルバムにも参加したことがある。

歌唱力もあり歌もうまい。セルフプロデュースになり、作詞作曲も多く行うようになる。同時に歌の実力も大きく成長した。特に、アルバム「ドリーム&マシーン」やシングル「アン アーディオ」などでは、デビュー当時に比べ格段に成長した篠原ともえの歌を聴くことが出来る。ユニットのZuTTOやPANIKARAQSなどでもいい歌、音楽を聞かせてくれる。

ウルトラリラックスがフランスで人気を呼び2005年11月、2006年3月、6月、とパリでライブをおこなっている。

国内企画盤トリビュートアルバム V.A「トリビュート トゥ シェリルクロウ」に参加。1曲提供。シェリルクロウの曲を英語で歌い、カバーしている。(2006年12月20日発売)


【音楽ユニット】
■ZuTTO(ズット)
2004年に松本英子とZuTTOを結成。シングル『明日に続く空』をリリース。CDが300円で発売になり話題をよんだ。この値段はCDを買いづらい若年層でも買えるように制作費をおさえてつくられ実現。卒業に合わせて小学生がクラス単位で購入するなどのちょっといい話も。曲は2人のハーモニーが魅力のコーラスが特長的なミディアムテンポの明るめのポップな歌。新曲も2曲つくられたがダウンロード販売、ライブ会場限定販売(2006年)と一般に広く流通してなくメジャーの流通での販売を望む声も多い。新曲は2曲ともいい曲。2007年夏にZuTTOの歌が主題歌の映画「コーラスたい」の公開が決定している。

■PANIKARAQS(パニカラックス)
2005年、cibo mattoの本田ゆか(海外のレーベルから多くのCDを発表)、ダンサーのchikage、重金属打楽器奏者のスティーヴエトウとPANIKARAQSを結成。(略称「パニカラ」)篠原ともえはボーカルと打ち込みの楽器を演奏。この年、3回のライブをする。PANIKARAQSはバレエから影響をうけたとみられるダンスを多くとり入れたライブを行った。また、壁に絵を書きながらもライブをする。曲はソロの「an audio」を発展させアップテンポにしたような聞かせる音楽性の高い曲が演奏された。しかし現在CD化にはいたってない。メンバーが海外に住んでいるため活動は断続的になっている。

■Tokyo Flash!!
2007年、テクノクリエイターのKAGAMIと組まれたユニット。myspace内にて試聴が可能。

■しのランドPUNK 
1997年 (with NOISE FACTORY)

■カロゴンズ 
1998年 (with ユースケ・サンタマリア)

■篠龍 
2001年 (with 宇崎竜童 ) シングル「キャラだもん」

■MOLMOTT+S 
2004年 (with MOLMOTT ) シングル「月灯り」

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070415-00000027-sph-ent

島田洋七 エピソード&プロフィール

島田洋七(しまだ ようひち、1950年2月10日 - )は、広島県広島市東区牛田出身の漫才師、タレント、作家。漫才コンビB&Bのひとり。本名は徳永 昭廣(とくなが あきひろ)。

1980年代、漫才ブームのパイオニアとなり、月給1億円の時代から、人気急降下、そして現在ベストセラー作家と、激動の人生を歩むお笑い芸人である。ビートたけしの親友としても知られる。吉本興業所属。なお、表記は「ようしち」が多いが本人によると「ようひち」が正しいとのことである。


【芸歴】
●広島/佐賀
1950年広島市に生まれる。父親は入市被爆し洋七が生まれた頃は病床にあり、洋七の幼少期に亡くなる。母・兄・洋七の三人で極貧の生活を送る。

1957年7歳、小学校2年生の時、佐賀の祖母に預けられ中学を卒業するまでの8年間、更に極貧の生活を送る。このときの体験が「佐賀のがばいばあちゃん」として後に出版され、映画化された。

佐賀市立赤松小学校、佐賀市立城南中学校と進むが母親への思慕が募りまた野球がうまかったこともあり、高校野球の超名門、広島広陵高校に特待生として進み甲子園出場。と本人は語るものの、広陵は1967年、洋七3年の夏の選手権で準優勝しているが、メンバーに名前はない。なお当時の監督は2005年夏、京都外大西を準優勝に導いた名将・三原新二郎である。広島東洋カープの主力投手だった佐伯和司は3学年下となる。実際は怪我で野球部は途中で退部したものらしい。卒業後、系列大学でもある広島工業大学に進学。しかし山の上にあり坂が急でそれを苦に2ヶ月で中退(というのは本人の弁)。その後八百屋で働いたのち再び佐賀に戻り、当時デパートに勤めていた今の妻(りっちゃん)と知り合う。二人で東京へ駆け落ちを決意。間もなく妻の貯金も尽きて大阪に移る。

●大阪
うめだ花月で笑福亭仁鶴の落語を観たのがきっかけで、1970年漫才師になろうと決意。「笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか」と、とても簡単そうに見えたのが決意した理由という。吉本興業にうめだ花月の進行係として採用され、美人の今喜多代、一番優しそうな島田洋之介に惚れ弟子入り。しかし同様の理由で弟子入り志願者が多く、毎日師匠の元に通い1ヶ月と4日目に弟子入りを許された。現在放送作家として活動している団順一と1972年に初代B&Bを結成(BOY&BOYの略)。島田洋一名で漫才師としてデビュー。初舞台となった名古屋・大須演芸場のお客は5人だった。このときはツッコミ担当だった。洋七の漫才スタイル・原型は、団の影響を強く受けたといわれている。この初代B&Bは相方の団の失踪で消滅。1973年上方よしお(当時の芸名は上方真一)と二代目B&Bを結成。天性とも言えるスピード感溢れる喋りとセンスは、関係者の間で高い評価を受け数々の賞を受賞。この頃、当時18歳の島田紳助がTVで洋七を見て衝撃を受け、同門入りした話は今や伝説となっている。(「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と入ったものの「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と嘯くが実際は二年間、紳助は金魚のふんのように洋七について回った。)1975年洋七は東京進出を考えるが、真一(よしお)が「怖い」と尻込みし解散。18歳で駆け落ちして既に7年が経過、25歳となりショックで漫才は諦めようかと悩んだが奮起。この年、花月劇場の進行役をしていた洋八と三代目をB&Bを結成。「七転び八起き」から、それぞれ洋七・洋八に改名(「七転八倒」説もあり)。結成二年目の1977年には、関西では一歩先んじていたオール阪神・巨人が前年受賞したのに続き第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。しかし 1979年、「ヤングおー!おー!」(MBS制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事(後述)が原因で大阪の活動に限界を感じ、東京で活躍したいと言う野望が沸く。また大阪では結構売れっ子となっていたのに郷里の広島や、ばあちゃんのいる佐賀では殆ど知られていないのにショックを受けたのも理由の一つだった(つまり、いくら売れても大阪ローカルではダメであり、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がないと悟ったとされる)。吉本興業の幹部・芸人仲間からの反対を押し切って、強行で反旗を翻した為、吉本興業には解雇を言い渡されるが1979年、29歳で東京行きを決行した。(後年洋七が吉本に侘びを入れ復帰を許されている。)

●東京
東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍。浅草松竹演芸場など東京の寄席にノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに立ち見の若い男が並んだ。彼らは偵察に来た東京の若手芸人達だった。瞬く間に高い評価を得て漫才協団幹部の内海桂子が「よくもこんな(凄い)人を吉本がくれたわね。」と驚嘆した。1980年1月、澤田隆治プロデュースによる花王名人劇場(関西テレビ)に抜擢され出演。当時はやすしきよしなどの大御所は別として、若手漫才師がゴールデンに出演することなど無く、従来漫才師と言えば、例外なくスーツを着用したベテランが、年期の入った掛け合いを見せるというものであったが、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視した機関銃のような一方的な喋りで「もみじまんじゅう!」、「ひろしまー!」「おかやま」などの郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクションで連呼する姿は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので、やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こす。これらは現在もお笑いの基本となっている。続いて同年始まった「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)でもケタ違いの実力でストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク、漫才ブームを引き起こす。

●漫才ブーム
同年4月、フジテレビプロデューサー横沢彪が穴埋め企画として失敗覚悟で、ゴールデンタイム1時間半という画期的なお笑い番組を敢行。「THE MANZAI」とタイトルされたこの番組は、B&Bをはじめツービート、ザ・ぼんち、のりお・よしお、紳助・竜介、今いくよ・くるよら若手芸人のみを起用(逆に言えばベテランを切るという事)、客席にも大学生だけを入れる、派手なセット、服装は自由、ネタを編集する、CMネタを認めるという(今では普通だが当時としてはこれらは全てタブーであり)斬新なもので、若手芸人と言っても皆10年以上のキャリアを持った彼らは、大いにその実力を発揮し漫才は爆発的な人気を得て社会現象ともなる。中でもB&Bは若い女性に大人気となり、ブロマイドの売り上げがアイドルと混じって男性部門第3位となるなど、(月〜金の帯番組を5本と計算した上で)週に26本の番組に出る殺人的スケジュールとなる。同年10月、「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ)の総合MCに抜擢される。この年、時間が取れない中深夜0時、2時、3時、と3回のクリスマスディナーショーをこなす。所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務した。そのため給料は3人で分けて紙袋や段ボール箱に入れて持って帰った。女は常に八角関係、たけしと一千万で銀座のクラブを貸し切ったり、現金持参でベンツを買いに行ったりするなどの豪遊をした。

●急降下
しかし翌年1981年から始まった「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)はドリフターズの「8時だョ!全員集合」」(TBS)を打ち切りに追い込むオバケ番組だったが、この番組ではたけしと明石家さんまがメインで洋七は完全に脇にまわり1982年、「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年B&Bを解散。その後、国分健二(現在の若倉健)と新コンビ「スティング」(のち第3次B&B)を結成したり、間寛平と「洋・寛」という漫才コンビを結成するも長続きはしなかった。間寛平の絡みで萩本欽一の欽ちゃんファミリー入りしたこともある。またかねてより事業欲も旺盛で、最盛期にチェーン店となって新宿・渋谷・原宿などの一等地で6店舗展開していた広島風お好み焼き店 "モミジハウス"も全て潰し(ただし広島風お好み焼きの普及には大きく貢献した)、この頃まったく仕事が無かったのでたけしの仕事場に付いて回る。竜雷太と土地がらみの問題で裁判になったり(勝訴したが、結局借金だけ残る)、参議院選挙に出て洋八ら昔の仲間が応援してくれたが、高速道路で演説したり他県に行って演説したりで落選。芸人引退を決意し、たけしに相談するが「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、引退を思いとどまる。吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓う。

●カムバック
洋八と再びB&Bを復活させこつこつと頑張っていた。ばあちゃんとの思い出は、恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話してなかったが、たけしと寿司屋で飲んだとき、たけしの母親自慢に対抗して、ばあちゃんの話をしたら涙を流してたけしが大笑いし「絶対に本にすべき」とアドバイスを受け、出版社に持ち込むとお笑いの人にしては地味な話で請けてもらえず、仕方なくお笑い仲間や佐賀や広島の人達からカンパを募り、東京の小出版社から自費出版で単行本にし6000部出版。さほど評判になることもなく廃刊となっていたが「徹子の部屋」(テレビ朝日)で、ばあちゃんの話をしたところ大きな反響を呼ぶ。

その後徳間書店から文庫化されると口コミで評判が広がり、増刷を重ね“がばいばあちゃん”(がばい=佐賀弁で「すごい」の意ではあるが、この用法での使い方はしない、正確には「とても」のような使い方である)シリーズ三部作が現在100万部を超えるベストセラー(2006年3月末111万部)となり映画化され再び時の人となった。台湾でも中国語で翻訳され、こちらも100万部以上売れこうした海外版を含めると2006年12月末285万部(出典:読売新聞12月30日)を超えている。2007年に入って『スマステ』(テレビ朝日)などテレビで特集が組まれ更に部数を伸ばしている(女性自身2007年4月10日号では420万部)。ビジネスジャンプで漫画版(石川サブロウ「がばい−佐賀のがばいばあちゃん−」)も連載中。

映画は吉行和子、緒形拳、工藤夕貴、三宅裕司、島田紳助、浅田美代子、山本太郎らの出演で2006年6月全国公開(九州先行4月22日公開)された。2006年10月末までに拡大公開を続け170館で公開、53万人を動員し2006年単館最大のヒットとなった。続編も製作予定で、洋七自らメガホンを執り監督デビューしたいと意欲を見せている。泉ピン子主演でTVドラマ化され(2007年1月4日フジテレビ系)話題を呼んだ。また講演依頼が殺到、3000回を越え現在人気ナンバーワンらしい。演目はもちろん「佐賀のがばいばあちゃん」である。常人には決して経験することない波瀾万丈の人生を歩むお笑い芸人と言える。
なお、がばいばあちゃんは1991年に他界しており、自身は奥さんの母親の介護の為佐賀県東与賀町へ居を構え活動中であるが、2007年5月末をもって吉本興業を再度離籍する見込み。その原因としては、「がばい」関連の収益について吉本側と対立したためとされる。しかし、今後は講演等の仕事依頼が多い為、そのまま、スケジュールを消化していく。


【逸話】
■B&B、最大のギャグは言うまでも無く、代名詞とも言うべき「もみじ饅頭」であるが、それまでもみじ饅頭は広島県民にとってもあまり馴染みのあるものでは無く「宮島に行きゃぁ売っとるよ」と言う程度だったが、B&Bのギャグでメーカーが15社から一気に300社に増加するという驚愕の事態を巻き起こす。特に最大手のにしき堂は売上が10倍に跳ね上がり修学旅行生の生徒達が来ると午前中で店内の在庫が全て売り切れ、深夜に工場を稼動させていた。ブームが終われば、もみじ饅頭の売上も落ちるところだが、今では完全に広島名物(銘菓)として定着しており、現在ももみじ饅頭のメーカーは200社有る。広島のおみやげ物屋では未だに三分の一のスペースがもみじ饅頭のコーナーで有る。洋七の功績に感謝したにしき堂の大谷照三会長は、お礼に現金5000万ほどを手渡そうとしたが、洋七は「われわれももみじ饅頭のお陰で売れた」と受け取らなかった。が、洋七は今でも広島へ行くと飲食費は無料との事。店がお金を受け取らないと言う。大谷会長が感謝の気持ちを表す為、広島の飲食店に対してB&Bの飲食代は当人から受け取らず、にしき堂へ請求書を回せと指示してるそうだ。

■うめだ花月の進行係をしていた時、当時吉本新喜劇の新入りで同学年の間寛平と仲良くなり、程なく寛平が、新婚の洋七夫婦のアパートに転がり込み三人の共同生活が始まった。仕事から帰ると冷蔵庫にマヨネーズとケチャップしか無いので二人でそれを啜った。うさぎに食べさせると八百屋から野菜の芯を貰ってきたり、パン屋の食パンの耳、花月のお客様が置いていったお弁当などが貴重な食料となった。

■6年間に二度、相方に逃げられ失意の洋七に洋八を紹介したのは桂三枝とされるが、三枝は舞台の袖で進行係をしていた洋八を「あいつ、どうや?」と指さしただけである。その後洋七自身が「俺と一緒に漫才で勝負しよう」と役者志望の洋八を口説いた。但し三枝は「あいつ男前やんか。これからは漫才も男前が売れるぞ」と言ったというから、これは恐るべき先見性といえるだろう。

■1970年代の後半、「ヤングおー!おー!」(毎日放送)のプロデューサーに、「番組でウケたらコーナーを持たせてやる」と言われ、B&Bとザ・ぼんち、のりお・よしおに、明石家さんまを加えて『ビールス7』(後にチンチラチン)を結成した。コントの練習中、キャラの被る西川のりおと度々殴り合いの大ゲンカを繰り返し、当時まだ20歳そこそこだったさんまが仲裁に走った。二人の機嫌をとるため代わりに殴られ「初めて大人の汚い世界を見た」らしい。結局このグループからB&Bが外され、紳助・竜介が代わりに起用され大きな人気を得た。弟弟子にレギュラーの座を奪われた洋七の、吉本への不信は決定的となり、東京行きを決意するに至った。

■西川のりおとは犬猿の仲で有名。B&B再結成時の劇場の前座でのりお・よしおが漫才をしたが、「客を温めて」おくのでなく客を「疲れさせ」たのでB&Bが登場してもウケず、洋七が激怒。のりおの泊まっているホテルへ乗り込むも不在で、鍵を開けさせ中に入り衣装を破き・薬を捨てた逸話がある。その後のりおから「請求書」が届いたというオチもある。

■初めてのゴールデン、花王名人劇場に出た時、プロデューサーからキチッとしたスーツの着用を強要されたが、金が無い事も有り拒否。自らがデザインしたB&Bとロゴの入ったTシャツ着用で舞台に立った。このTシャツがよく売れてこれも数千万の利益が出た。

■最盛期、毎月数千万円が入った段ボールを女房に渡していた洋七だが、ある日女房が「こんなに売れてるのに、何で給料がこんなに安いのか」と真顔で言われ、顔面蒼白となり聞き返すと段ボールの中はファンレターかと思い開けず、別に封筒で渡された端数の数十万円だけが給料と勘違いしたようである。段ボールは押入れの中に保管してあり約3億円の現金は無事だった。その日は正月1月1日で銀行も休みで預ける事が出来ず、こういう時に限って普段来ないお客が多く、夫婦揃って押入れの前から微動だにしなかった。1月4日になって銀行が開き電話をかけ「金額が大きいから取りに来てくれ」と頼んでも3億と聞くと「イタズラ電話はやめて下さい」とどこも信用してくれない。仕方なく自ら銀行に出向き自宅に支店長を連れてきて、現金を見せると「どうしたんだ貴様!!、この金!!」と言われた。

■洋七を可愛がっていた"ミスター赤ヘル"山本浩二とイベントで一緒に出演。その年大活躍した山本は、王貞治を抜き年俸が球界一となった。司会が「王選手を抜いて球界一の8千〜万円になりましたね!おめでとうございます!」と言ったあと、山本が洋七に「漫才師はどれくらいもらうんだ?」と言うので、あやうく「8億です」と言いそうになったが「いや、3000万くらいです」と言うと「漫才師はもらい過ぎだな」と言われた。普通の人は漫才師がそんなに稼いでいるとは思っていなかった。あのとき8億と言っていたらバットでノックされてたろうと言う。

■ほかに洋七を可愛がっていた横山やすしと東京での仕事が一緒になったとき、東京で一番面白い若手、とやすしにたけしを紹介してもらったのがたけしとの最初の出会い。[1] また親友になったのは1986年、たけしがフライデー事件を起こした時である。その後もよく遊んではいたが、当時、謹慎中のたけしを取り巻く知人、友人は全く面会に来なかったが唯一洋七だけが会いに来た。たけしは感謝で一日中泣いた、という。

■人気が急降下し、仕事が全くなくなった時期に睡眠薬自殺を図ったことがある。しかし薬を飲もうとしたそのとき、たけしから電話があり「一緒に飲もう」と誘われ、一晩中飲み明かしているうちに自殺のことなど忘れてしまったという。

■がばいばあちゃんの話を本にしたきっかけは、たけしからのアドバイスだが、話をたけしにしたきっかけは、寿司屋でたけしのいつもの母親(北野さき)自慢を聞かされているうち、「あれ?これならウチのばあさんの話の方がおもろいんちゃうか」と、たけしに話すとたけしが腹かかえて大笑いし「メモに取っておけ」と言われたもの。

■2006年2月7日放送の「ズバリ言うわよ!」(TBS)にゲスト出演。あの細木数子が、番組始まって以来という程、洋七を大絶賛。これぞ一流の漫才、今までの生き方を全て芸にしている、素晴らしいと賞賛した。

■山本浩二らと付き合いがあり一時は広島カープファンと言っていたが、西武ライオンズのエースだった東尾修に「空気がいいから」と勧められ、西武ライオンズ球場の近くに住んでいた。
それが縁で、その後は長年にわたる西武ライオンズのファンとなっている。


【解説】
「広島」、「岡山」ネタや「モミジマンジュウ」で両県の知名度アップに貢献し、関西弁使用の先駆ともなり、今また佐賀の知名度アップを促し、いずれも住んだ土地に大きな貢献をもたらした洋七だが、実際は一つの土地には固執しない放浪者的な性格なのであろう。捨てられたという過去が有るからかも知れない、あまりにも長かった貧乏から逃れて金持ちになりたい、と言う野心が誰よりも強かったのか。あるいは地方出身者のパワーなのか。それらが「吉本」を解雇されてでも東京に行った理由だろうが、結果的に歴史に残る偉業を残す事となった。

(出典:Wikipedia)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20070414-00000064-sph-ent

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